ボロディンの歌劇<イーゴリ公>・第5回。今回は、最後の第4幕。
〔 第4幕 〕
戦によって荒れ果ててしまったプチヴリの町。ヤロスラヴナが一人佇(たたず)んで、悲しい思いを歌にする。「私はカッコウ鳥になって飛んで行き、カヤラ川に袖を浸そう。そして、我が夫の傷口を拭いてあげたい・・」。
(※このヤロスラヴナの歌の中で、夫のイーゴリ公がアリアの中で歌ったものと同じメロディが繰り返して聴かれるのが注目ポイント。これはひょっとしたら、遠く離れていても心が通い合っている夫婦の姿を表現しているのかも知れない。)
(※先にご紹介した森安達也氏の『イーゴリ遠征物語』によると、ここに出て来るカッコウ鳥というのは、実際にはカモメと解釈するのが妥当なようである。原語の「ゼグジツァ」は確かにカッコウと訳せる単語ではあるらしいのだが、ウクライナ地方の鳥類に関する研究成果から、実体はカモメであろうと推測出来るのだそうだ。ヤロスラヴナの言葉にある「カヤラ川に袖を浸す」という行動も、カモメの習性にこそ一致するものらしい。ちなみに同書によると、在原業平が歌に詠んだと伝えられる都鳥(みやこどり)も、その正体はユリカモメだそうである。)
(※森安氏の著作から得られる知識を、もう一つ。ヤロスラヴナというのは、「ヤロスラフの娘」という意味の言葉で、彼女本来のファースト・ネームはエフロシニヤというのだそうだ。イーゴリ公の後妻として嫁いだ時には、わずか16歳だったという。また、悪役である彼女の兄ガリツキー公も、本当の名前はウラジーミル・ヤロスラヴィチである。これは、「ヤロスラフの息子ウラジーミル」という意味だ。たまたま、主人公であるイーゴリ公の息子もウラジーミルという名前なので、混乱を避けるため当ブログではずっと、「ヤロスラヴナの兄ガリツキー」で通したのだった。ちなみに、イーゴリの息子ウラジーミルをロシア語流に言えば、ウラジーミル・イーゴレヴィチということになる。なお、このウラジーミルはヤロスラヴナの子ではなく、イーゴリ公と先妻の間に生まれた息子である。)
「こんな姿になってしまったのは、グザーク汗にやられたからだ」と、プチヴリの人々がうなだれて行進していった後、ヤロスラヴナは遠くから2人の男が馬に乗って近づいてくるのを目にする。やがて、そのうちの一人が夫のイーゴリ公であると分かり、彼女は大喜び。そしてついに、夫婦は感激の再会を果たす。
敵に囚われたイーゴリ公のことをそれまでさんざんからかっていたスクラとエロシュカの2人も、イーゴリの帰還を知るや、態度をコロッと変える。「おーい、みんな喜べー!我らの公がお戻りだぞー」。お調子者2人にあきれる人々も、「まあ、うれしい出来事だから、こいつらも許してやろう」と寛容な言葉を送る。そして、イーゴリ公の帰還を喜ぶ人々の大合唱による華々しい終曲。
(※という訳で、イーゴリ公は無事に帰国し、愛する妻と再会することが出来た。めでたし、めでたし。ところで、一旦は断ったオヴルールの脱出計画を、その後どんないきさつでイーゴリが受け入れて実行することになったか、あるいは、彼らの脱出行にどんな“神と自然の御加護”があったか、そのあたりの説明はオペラにはないが、原典の『イーゴリ公遠征譚』の中ではしっかりと語られている。興味の向きは、ご一読を。)
―以上で、歌劇<イーゴリ公>は終了。お疲れ様。
(PS) ロシア国民楽派の2つの流れについて
今回は枠に余裕があるので、ちょっと知ったかぶりのお話、と言うか、本の受け売り話を一席。イタリアに学んだミハイル・グリンカ(1804~57)がロシア国民音楽の土台を作り、多くの作曲家がその後に続いたというのは周知の通り。歌劇<ルスランとリュドミラ>に強く感化され、自らルスラニストであることを明言していたR=コルサコフも勿論、その一人である。しかし近代ロシアの音楽史を語る際には、グリンカと並んでもう一人、その出発点となった人物として忘れてはならない作曲家がいる。
アレクサンドル・ダルゴムイシスキー(1813~69)である。グリンカがイタリアの流儀をもとにした作風で、アリアとレチタティーヴォをはっきり区分けしつつ、随所にロシア民謡等の民族素材を盛り込んだのに対し、ダルゴムイシスキーは全く別のスタイルを打ち立てた。それは、もっぱらレチタティーヴォを中心にドラマを運び、ロシア語の特徴から劇的内容まで、すべてを音楽の言葉に移し変えていくという手法である。このデクラメーション(=朗唱)様式は、後にムソルグスキーによって完成されることになる。さらに言えば、そのムソルグスキーに深く傾倒し、20世紀ソヴィエトの時代に衣鉢を継いだのが、あのショスタコーヴィチであった。
(※先頃当ブログで語ったR=コルサコフの歌劇<モーツァルトとサリエリ>が異色の作品に見えるのは、基本的にはグリンカの流儀を引き継いでいた作曲家が、その出来上がりの姿に於いて、ダルゴムイシスキーの様式に近づいたような物を書き上げることになったからである。)
ところで、そのダルゴムイシスキーの作品だが、私がこれまでに聴いたことがあるのは、ほんの数曲しかない。まず、<毛虫>などの歌曲がいくつか。これは、エフゲニ・ネステレンコ(B)の来日リサイタルがNHK-TVでオン・エアされた時に視聴したものだ。もう何年前になるのだろうか・・。後は、ドン・ジョヴァンニの物語を題材にした<石の客>の一部。これもやはり随分昔、確かFM放送で聴いたものだったと思う。しかし、それらの中で私に音楽的な感動を与えてくれたものは、残念ながら一つもなかった。彼の作品を理解するにはやはり、ロシア語の素養が必要なのだろう。
【 参考文献 】(※いずれも、音楽之友社)
『スタンダードオペラ鑑賞ブック 5 フランス&ロシアのオペラ』 ~124ページ
『オペラ・キャラクター解読事典』 ~186、187ページ
★〔年末年始特番〕開始!
さて、次回からの予定について。R=コルサコフが補筆完成させた名作オペラの話をまだ続けてみよう、という考えはあるのだが、時期がこれから年末年始に入る。そこで、今やっているシリーズはちょっと休憩にして、これからしばらく、〔年末年始特番〕と銘打った特別記事のシリーズを“気ままに”書いていきたいと思う。
テーマを具体的に言えば、「今年(2006年度)買って聴いたCDの中で、特に印象に残った物」である。こういう話題は、今のような年末年始こそがチャンスだと思う。また、「厳密に言えば買ったのは去年だが、今年に入ってからじっくり聴いたCD」というのも、せっかくなので、この特番に含めて扱っていきたい。オペラ以外の話に普段なかなか触れられずにいるので、それらをまとめて採りあげることが出来るという意味でも、これは絶好のチャンスである。
次回はその第1回となるが、やはり最初は日本人の作曲家から始めてみることにしたい。
〔 第4幕 〕
戦によって荒れ果ててしまったプチヴリの町。ヤロスラヴナが一人佇(たたず)んで、悲しい思いを歌にする。「私はカッコウ鳥になって飛んで行き、カヤラ川に袖を浸そう。そして、我が夫の傷口を拭いてあげたい・・」。
(※このヤロスラヴナの歌の中で、夫のイーゴリ公がアリアの中で歌ったものと同じメロディが繰り返して聴かれるのが注目ポイント。これはひょっとしたら、遠く離れていても心が通い合っている夫婦の姿を表現しているのかも知れない。)
(※先にご紹介した森安達也氏の『イーゴリ遠征物語』によると、ここに出て来るカッコウ鳥というのは、実際にはカモメと解釈するのが妥当なようである。原語の「ゼグジツァ」は確かにカッコウと訳せる単語ではあるらしいのだが、ウクライナ地方の鳥類に関する研究成果から、実体はカモメであろうと推測出来るのだそうだ。ヤロスラヴナの言葉にある「カヤラ川に袖を浸す」という行動も、カモメの習性にこそ一致するものらしい。ちなみに同書によると、在原業平が歌に詠んだと伝えられる都鳥(みやこどり)も、その正体はユリカモメだそうである。)
(※森安氏の著作から得られる知識を、もう一つ。ヤロスラヴナというのは、「ヤロスラフの娘」という意味の言葉で、彼女本来のファースト・ネームはエフロシニヤというのだそうだ。イーゴリ公の後妻として嫁いだ時には、わずか16歳だったという。また、悪役である彼女の兄ガリツキー公も、本当の名前はウラジーミル・ヤロスラヴィチである。これは、「ヤロスラフの息子ウラジーミル」という意味だ。たまたま、主人公であるイーゴリ公の息子もウラジーミルという名前なので、混乱を避けるため当ブログではずっと、「ヤロスラヴナの兄ガリツキー」で通したのだった。ちなみに、イーゴリの息子ウラジーミルをロシア語流に言えば、ウラジーミル・イーゴレヴィチということになる。なお、このウラジーミルはヤロスラヴナの子ではなく、イーゴリ公と先妻の間に生まれた息子である。)
「こんな姿になってしまったのは、グザーク汗にやられたからだ」と、プチヴリの人々がうなだれて行進していった後、ヤロスラヴナは遠くから2人の男が馬に乗って近づいてくるのを目にする。やがて、そのうちの一人が夫のイーゴリ公であると分かり、彼女は大喜び。そしてついに、夫婦は感激の再会を果たす。
敵に囚われたイーゴリ公のことをそれまでさんざんからかっていたスクラとエロシュカの2人も、イーゴリの帰還を知るや、態度をコロッと変える。「おーい、みんな喜べー!我らの公がお戻りだぞー」。お調子者2人にあきれる人々も、「まあ、うれしい出来事だから、こいつらも許してやろう」と寛容な言葉を送る。そして、イーゴリ公の帰還を喜ぶ人々の大合唱による華々しい終曲。
(※という訳で、イーゴリ公は無事に帰国し、愛する妻と再会することが出来た。めでたし、めでたし。ところで、一旦は断ったオヴルールの脱出計画を、その後どんないきさつでイーゴリが受け入れて実行することになったか、あるいは、彼らの脱出行にどんな“神と自然の御加護”があったか、そのあたりの説明はオペラにはないが、原典の『イーゴリ公遠征譚』の中ではしっかりと語られている。興味の向きは、ご一読を。)
―以上で、歌劇<イーゴリ公>は終了。お疲れ様。
(PS) ロシア国民楽派の2つの流れについて
今回は枠に余裕があるので、ちょっと知ったかぶりのお話、と言うか、本の受け売り話を一席。イタリアに学んだミハイル・グリンカ(1804~57)がロシア国民音楽の土台を作り、多くの作曲家がその後に続いたというのは周知の通り。歌劇<ルスランとリュドミラ>に強く感化され、自らルスラニストであることを明言していたR=コルサコフも勿論、その一人である。しかし近代ロシアの音楽史を語る際には、グリンカと並んでもう一人、その出発点となった人物として忘れてはならない作曲家がいる。
アレクサンドル・ダルゴムイシスキー(1813~69)である。グリンカがイタリアの流儀をもとにした作風で、アリアとレチタティーヴォをはっきり区分けしつつ、随所にロシア民謡等の民族素材を盛り込んだのに対し、ダルゴムイシスキーは全く別のスタイルを打ち立てた。それは、もっぱらレチタティーヴォを中心にドラマを運び、ロシア語の特徴から劇的内容まで、すべてを音楽の言葉に移し変えていくという手法である。このデクラメーション(=朗唱)様式は、後にムソルグスキーによって完成されることになる。さらに言えば、そのムソルグスキーに深く傾倒し、20世紀ソヴィエトの時代に衣鉢を継いだのが、あのショスタコーヴィチであった。
(※先頃当ブログで語ったR=コルサコフの歌劇<モーツァルトとサリエリ>が異色の作品に見えるのは、基本的にはグリンカの流儀を引き継いでいた作曲家が、その出来上がりの姿に於いて、ダルゴムイシスキーの様式に近づいたような物を書き上げることになったからである。)
ところで、そのダルゴムイシスキーの作品だが、私がこれまでに聴いたことがあるのは、ほんの数曲しかない。まず、<毛虫>などの歌曲がいくつか。これは、エフゲニ・ネステレンコ(B)の来日リサイタルがNHK-TVでオン・エアされた時に視聴したものだ。もう何年前になるのだろうか・・。後は、ドン・ジョヴァンニの物語を題材にした<石の客>の一部。これもやはり随分昔、確かFM放送で聴いたものだったと思う。しかし、それらの中で私に音楽的な感動を与えてくれたものは、残念ながら一つもなかった。彼の作品を理解するにはやはり、ロシア語の素養が必要なのだろう。
【 参考文献 】(※いずれも、音楽之友社)
『スタンダードオペラ鑑賞ブック 5 フランス&ロシアのオペラ』 ~124ページ
『オペラ・キャラクター解読事典』 ~186、187ページ
★〔年末年始特番〕開始!
さて、次回からの予定について。R=コルサコフが補筆完成させた名作オペラの話をまだ続けてみよう、という考えはあるのだが、時期がこれから年末年始に入る。そこで、今やっているシリーズはちょっと休憩にして、これからしばらく、〔年末年始特番〕と銘打った特別記事のシリーズを“気ままに”書いていきたいと思う。
テーマを具体的に言えば、「今年(2006年度)買って聴いたCDの中で、特に印象に残った物」である。こういう話題は、今のような年末年始こそがチャンスだと思う。また、「厳密に言えば買ったのは去年だが、今年に入ってからじっくり聴いたCD」というのも、せっかくなので、この特番に含めて扱っていきたい。オペラ以外の話に普段なかなか触れられずにいるので、それらをまとめて採りあげることが出来るという意味でも、これは絶好のチャンスである。
次回はその第1回となるが、やはり最初は日本人の作曲家から始めてみることにしたい。
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