前回の続き。ボロディンの歌劇<イーゴリ公>・第4回。このオペラの中で最も有名な、『ポロヴェッツ人の踊りと合唱』が出て来る場面から。
〔 第2幕 〕 ~続き
ポロヴェッツの陣営。夜明け。猛将コンチャク汗(ハン)が、イーゴリ公のもとに現れる。彼はイーゴリへの敬意を表明しつつ、有名なアリアを歌う。「カヤールの合戦であなたは傷つき、そして捕虜となった」と一旦は始めるものの、すぐに、「いや、違う。あなたは私の親愛なる客人だ」と言い直し、豪快な調子の歌を続ける。さらに、イーゴリ公と手を組むことまで希望している彼は、「絶世の美女たちがおる。好きな女を選んでくれ」と、イーゴリの気持ちをなびかせようと努力する。そして、コンチャク汗の命令一下、あの有名な『ポロヴェッツ人の踊りと合唱』が始まる。男女が入り混じっての激しい踊りと、「コンチャク汗を讃えよう」と歌う大合唱が圧倒的な熱狂を生み出し、その興奮が頂点に達するところで第2幕が終了。
(※M=パシャイエフ盤でコンチャク汗を歌っているのは、重鎮マルク・レイゼン。先述のA・ピロゴフと並ぶ大ボリス歌いだった人だ。ここでも深みと威厳のある豊かな声を活かして、スケールの大きなコンチャク汗を聴かせてくれる。いや、凄い貫禄である。ハイライトとなる『ポロヴェッツ人の踊りと合唱』では、当時のボリショイ劇場合唱団の土俗的なパワーが聴き物。オーケストラも豪快。ただこの演奏、太鼓の音が何とも控えめで、引っ込んだ感じになってしまっているのが残念だ。あのドコドンドン、ドコドンドンをもっと派手にやってほしかった。)
(※全体に平凡な演奏を展開しているハイティンクだが、『ポロヴェッツ人の踊りと合唱』に入るや、ここぞとばかりに燃え上がる。M=パシャイエフとは対照的に、彼はあざといぐらいに太鼓を強調し、これでもか、これでもかと煽り立てる。コヴェント・ガーデンの合唱団、そして舞台上の踊り手たちも熱演を見せ、これはかなり楽しめる演奏に仕上がった。ここでコンチャク汗を歌っているのは、パータ・ブルチュラーゼ。カラヤン晩年の<ドン・ジョヴァンニ>で歌った騎士長、あるいはアバドの<ホヴァンシチナ>で歌ったドシフェイなどで、常人離れした豊かな声を披露してくれた人だ。が、ここでの存在感は、正直言って今一つの印象である。と言うより、上記のレイゼン、そして次に出て来るヴェデルニコフがちょっと凄すぎるのだ。)
(※エルムレル盤でコンチャク汗を歌っているのは、アレクサンドル・ヴェデルニコフ。スヴェトラーノフが指揮したショスタコーヴィチの<森の歌>でバス独唱を担当していた人と言えば、思い当たるファンの方も多いように思う。もう、とんでもなくアクの強い声を持ったバス歌手である。しかし、コンチャク汗というのはまさに、彼のような強烈な声でこそ生きてくる役でもあるのだ。これこそ、適材適所!ところで、このエルムレル盤、『ポロヴェッツ人の踊りと合唱』でも勿論力演が聴かれるのだが、曲の後半で右スピーカーから出て来る男声合唱が引っ込み気味になっているのが残念。もっと前面に、ガンガン出してほしかった。)
(※ついでの話だが、エルムレルの<イーゴリ公>について、ここで一つ付け足しておきたい話がある。当ブログで2年前にイワン・ペトロフを語った時にも触れたことなのだが、エルムレルは当1969年録音とは別に、記念碑的な<イーゴリ公>の全曲ライヴを指揮している。これはNHK-FMで1987年10月11日と18日に放送されたので、おそらくボロディンの没後100年記念だったのではないかと思われるのだが、当時のソ連が国を挙げて、「ボロディン・フェスティヴァル」みたいなものをやったことがあったのである。これは作曲家ボロディンの全作品を演奏しようという一大企画で、歌劇<イーゴリ公>はその中でも最大のハイライトだった。当時の名歌手たちを一同に揃え、このオペラのスペシャリスト的存在であったエルムレルがタクトを執った。詳しい配役や演奏の細かい部分は残念ながらもう忘れてしまったが、これも凄い上演だったと記憶する。勿論、『ポロヴェッツ人の踊りと合唱』も、大変な豪演であった。もし、このライヴ音源がボリショイ劇場かどこかに保存されているなら、是非ともCD化してほしいものである。)
(※映画版ソフトでは『踊りと合唱』に他の場面が交錯して入ってくるので、一つの曲としての一貫性は失われている。この作品を映像付きで楽しむなら、一般的には、NHKでかつて放送されたこともあるゲルギエフのライヴが妥当な選択だろう。彼独特のはたきつけるような爆裂サウンドには、強烈な迫力がある。ただし、そちらの歌手陣は総じて小粒。)
〔 第3幕 〕
ポロヴェッツの陣営。遠くから、『ポロヴェッツ人の行進曲』が響いてくる。やがて、「我らがグザーク汗を讃えよ」という勇壮な合唱がそれに加わり、音楽が大きく盛り上がる。続いてコンチャク汗が、戦勝祝いの歌を豪快に歌い始める。
ひとしきり続いた大騒ぎの後、ポロヴェッツ人たちは皆グーグーと寝入ってしまう。これがチャンスとばかりイーゴリ公は、オヴルールの手引きに従って脱走計画を実行に移す。しかし、息子のウラジーミルは、必死にすがりつくコンチャコヴナの熱い想いにほだされて、すっかり挙措(きょそ)を失う。コンチャコヴナが銅鑼を激しく叩き、陣営の仲間たちを起こす。イーゴリ公は脱出するが、ウラジーミルは結局父と別れ、ポロヴェッツ人たちのもとに残る。
騒ぎを聞きつけたコンチャク汗が登場し、「さすがに、俺が見込んだ男だ。やってくれるじゃないか」とイーゴリ公を改めて讃える。ポロヴェッツ人たちが、「敵将イーゴリが逃げたのなら、ここに残った息子の方は殺しましょう。そして、他の捕虜たちも」とコンチャク汗に迫るが、娘の恋心に気付いていた彼は、「大きな鷹は巣に向かって飛び去ったが、小さな鷹は我が娘の婿として迎えよう」と宣言する。
(※楽曲解説書によるとボロディンは、この第3幕と最後の第4幕については、終幕の合唱を除いてスケッチしか残せなかったそうである。つまり、歌劇<イーゴリ公>の後半はほとんどグラズノフとR=コルサコフが作曲したということになる。確かに聴いていて思うのだが、このオペラの後半は音楽の充実度がはっきり低下する。
しかし、そうは言いつつも、第3幕には音楽素材として魅力的な物が多く内包されている。まず、『ポロヴェッツ人の行進』。ボロディンがスケッチを構想した時には、何と日本の大名行列がイメージされていたのだそうだが、これはゴキゲンな名曲である。さらに、そこから続くポロヴェッツ人たちの宴の場の音楽、そしてイーゴリ公脱走直前の緊張感溢れる三重唱、等等。これらをボロディン自身が作曲してくれていたら、どんなに良かったろう・・。)
(※一つ、薀蓄話。勇壮な合唱を伴う『行進曲』の中でしきりに讃えられている人物が、お馴染みのコンチャク汗ではなく、グザーク汗という別の男になっていることにちょっと注目したい。さらに付け足すなら、次の第4幕で、「私たちがこんな姿になったのは、グザーク汗にやられたからだ」と、打ちひしがれたプチヴリの人々が繰り返しながら歌う場面も要チェックである。さて、このグザーク汗とは何者か?
結論から言えば、「コンチャク汗とほぼ同等の、また場面によってはコンチャク汗以上の力を見せるポロヴェッツ軍のリーダー」である。オペラ・キャラクターとしては出てこないが、原典となる『イーゴリ公遠征譚』を見てみると、彼が非常な実力者であることが分かる。たとえば、戦略を巡ってコンチャク汗と意見が対立した時、正しいやり方を主張していたのはグザークの方だったと後で判明する例がある。この人物は極めて現実的、合理的な行動をとる猛将だったようだ。コンチャク汗をも凌ぐこの男の“正しさ”は、下記の例によっても明らかである。前回言及した森安氏の本の中で紹介されている話を、整理・編集して書き出してみたい。
{ イーゴリ公に逃げられた直後、「鷹が逃げたとあっては、ここに残った鷹の子は黄金の矢で射殺(いころ)そう」と、グザーク汗は主張する。それに対してコンチャク汗は、オペラのセリフの元ネタになっている次のような反論を返す。「鷹は巣に向かって飛び去ったが、鷹の子は美しい乙女でつなぎとめよう」。グザーク汗はさらにそれに対し、「それをやったら、我々は鷹の子も美しい乙女も失うことになり、鳥どもがまたポロヴェッツの野で我々を討ち始めることになる」と言い返す。
果たして現実に、歴史はグザーク汗の予言通りに進んだ。「結婚したウラジーミルは妻コンチャコヴナと子供を連れ、1187年にロシアに帰った。そこで彼は改めて教会の結婚式を挙げ、妻はスヴォボダ(=自由)という洗礼名を得た」と、年代記に記されているのである。 }
以上のような訳だが、オペラ・キャラクターとして見た場合は、やはりグザーク汗よりもコンチャク汗の方がよりふさわしくて魅力的な人物のように思える。
―次回は、歌劇<イーゴリ公>の最終回。ラストの第4幕。
〔 第2幕 〕 ~続き
ポロヴェッツの陣営。夜明け。猛将コンチャク汗(ハン)が、イーゴリ公のもとに現れる。彼はイーゴリへの敬意を表明しつつ、有名なアリアを歌う。「カヤールの合戦であなたは傷つき、そして捕虜となった」と一旦は始めるものの、すぐに、「いや、違う。あなたは私の親愛なる客人だ」と言い直し、豪快な調子の歌を続ける。さらに、イーゴリ公と手を組むことまで希望している彼は、「絶世の美女たちがおる。好きな女を選んでくれ」と、イーゴリの気持ちをなびかせようと努力する。そして、コンチャク汗の命令一下、あの有名な『ポロヴェッツ人の踊りと合唱』が始まる。男女が入り混じっての激しい踊りと、「コンチャク汗を讃えよう」と歌う大合唱が圧倒的な熱狂を生み出し、その興奮が頂点に達するところで第2幕が終了。
(※M=パシャイエフ盤でコンチャク汗を歌っているのは、重鎮マルク・レイゼン。先述のA・ピロゴフと並ぶ大ボリス歌いだった人だ。ここでも深みと威厳のある豊かな声を活かして、スケールの大きなコンチャク汗を聴かせてくれる。いや、凄い貫禄である。ハイライトとなる『ポロヴェッツ人の踊りと合唱』では、当時のボリショイ劇場合唱団の土俗的なパワーが聴き物。オーケストラも豪快。ただこの演奏、太鼓の音が何とも控えめで、引っ込んだ感じになってしまっているのが残念だ。あのドコドンドン、ドコドンドンをもっと派手にやってほしかった。)
(※全体に平凡な演奏を展開しているハイティンクだが、『ポロヴェッツ人の踊りと合唱』に入るや、ここぞとばかりに燃え上がる。M=パシャイエフとは対照的に、彼はあざといぐらいに太鼓を強調し、これでもか、これでもかと煽り立てる。コヴェント・ガーデンの合唱団、そして舞台上の踊り手たちも熱演を見せ、これはかなり楽しめる演奏に仕上がった。ここでコンチャク汗を歌っているのは、パータ・ブルチュラーゼ。カラヤン晩年の<ドン・ジョヴァンニ>で歌った騎士長、あるいはアバドの<ホヴァンシチナ>で歌ったドシフェイなどで、常人離れした豊かな声を披露してくれた人だ。が、ここでの存在感は、正直言って今一つの印象である。と言うより、上記のレイゼン、そして次に出て来るヴェデルニコフがちょっと凄すぎるのだ。)
(※エルムレル盤でコンチャク汗を歌っているのは、アレクサンドル・ヴェデルニコフ。スヴェトラーノフが指揮したショスタコーヴィチの<森の歌>でバス独唱を担当していた人と言えば、思い当たるファンの方も多いように思う。もう、とんでもなくアクの強い声を持ったバス歌手である。しかし、コンチャク汗というのはまさに、彼のような強烈な声でこそ生きてくる役でもあるのだ。これこそ、適材適所!ところで、このエルムレル盤、『ポロヴェッツ人の踊りと合唱』でも勿論力演が聴かれるのだが、曲の後半で右スピーカーから出て来る男声合唱が引っ込み気味になっているのが残念。もっと前面に、ガンガン出してほしかった。)
(※ついでの話だが、エルムレルの<イーゴリ公>について、ここで一つ付け足しておきたい話がある。当ブログで2年前にイワン・ペトロフを語った時にも触れたことなのだが、エルムレルは当1969年録音とは別に、記念碑的な<イーゴリ公>の全曲ライヴを指揮している。これはNHK-FMで1987年10月11日と18日に放送されたので、おそらくボロディンの没後100年記念だったのではないかと思われるのだが、当時のソ連が国を挙げて、「ボロディン・フェスティヴァル」みたいなものをやったことがあったのである。これは作曲家ボロディンの全作品を演奏しようという一大企画で、歌劇<イーゴリ公>はその中でも最大のハイライトだった。当時の名歌手たちを一同に揃え、このオペラのスペシャリスト的存在であったエルムレルがタクトを執った。詳しい配役や演奏の細かい部分は残念ながらもう忘れてしまったが、これも凄い上演だったと記憶する。勿論、『ポロヴェッツ人の踊りと合唱』も、大変な豪演であった。もし、このライヴ音源がボリショイ劇場かどこかに保存されているなら、是非ともCD化してほしいものである。)
(※映画版ソフトでは『踊りと合唱』に他の場面が交錯して入ってくるので、一つの曲としての一貫性は失われている。この作品を映像付きで楽しむなら、一般的には、NHKでかつて放送されたこともあるゲルギエフのライヴが妥当な選択だろう。彼独特のはたきつけるような爆裂サウンドには、強烈な迫力がある。ただし、そちらの歌手陣は総じて小粒。)
〔 第3幕 〕
ポロヴェッツの陣営。遠くから、『ポロヴェッツ人の行進曲』が響いてくる。やがて、「我らがグザーク汗を讃えよ」という勇壮な合唱がそれに加わり、音楽が大きく盛り上がる。続いてコンチャク汗が、戦勝祝いの歌を豪快に歌い始める。
ひとしきり続いた大騒ぎの後、ポロヴェッツ人たちは皆グーグーと寝入ってしまう。これがチャンスとばかりイーゴリ公は、オヴルールの手引きに従って脱走計画を実行に移す。しかし、息子のウラジーミルは、必死にすがりつくコンチャコヴナの熱い想いにほだされて、すっかり挙措(きょそ)を失う。コンチャコヴナが銅鑼を激しく叩き、陣営の仲間たちを起こす。イーゴリ公は脱出するが、ウラジーミルは結局父と別れ、ポロヴェッツ人たちのもとに残る。
騒ぎを聞きつけたコンチャク汗が登場し、「さすがに、俺が見込んだ男だ。やってくれるじゃないか」とイーゴリ公を改めて讃える。ポロヴェッツ人たちが、「敵将イーゴリが逃げたのなら、ここに残った息子の方は殺しましょう。そして、他の捕虜たちも」とコンチャク汗に迫るが、娘の恋心に気付いていた彼は、「大きな鷹は巣に向かって飛び去ったが、小さな鷹は我が娘の婿として迎えよう」と宣言する。
(※楽曲解説書によるとボロディンは、この第3幕と最後の第4幕については、終幕の合唱を除いてスケッチしか残せなかったそうである。つまり、歌劇<イーゴリ公>の後半はほとんどグラズノフとR=コルサコフが作曲したということになる。確かに聴いていて思うのだが、このオペラの後半は音楽の充実度がはっきり低下する。
しかし、そうは言いつつも、第3幕には音楽素材として魅力的な物が多く内包されている。まず、『ポロヴェッツ人の行進』。ボロディンがスケッチを構想した時には、何と日本の大名行列がイメージされていたのだそうだが、これはゴキゲンな名曲である。さらに、そこから続くポロヴェッツ人たちの宴の場の音楽、そしてイーゴリ公脱走直前の緊張感溢れる三重唱、等等。これらをボロディン自身が作曲してくれていたら、どんなに良かったろう・・。)
(※一つ、薀蓄話。勇壮な合唱を伴う『行進曲』の中でしきりに讃えられている人物が、お馴染みのコンチャク汗ではなく、グザーク汗という別の男になっていることにちょっと注目したい。さらに付け足すなら、次の第4幕で、「私たちがこんな姿になったのは、グザーク汗にやられたからだ」と、打ちひしがれたプチヴリの人々が繰り返しながら歌う場面も要チェックである。さて、このグザーク汗とは何者か?
結論から言えば、「コンチャク汗とほぼ同等の、また場面によってはコンチャク汗以上の力を見せるポロヴェッツ軍のリーダー」である。オペラ・キャラクターとしては出てこないが、原典となる『イーゴリ公遠征譚』を見てみると、彼が非常な実力者であることが分かる。たとえば、戦略を巡ってコンチャク汗と意見が対立した時、正しいやり方を主張していたのはグザークの方だったと後で判明する例がある。この人物は極めて現実的、合理的な行動をとる猛将だったようだ。コンチャク汗をも凌ぐこの男の“正しさ”は、下記の例によっても明らかである。前回言及した森安氏の本の中で紹介されている話を、整理・編集して書き出してみたい。
{ イーゴリ公に逃げられた直後、「鷹が逃げたとあっては、ここに残った鷹の子は黄金の矢で射殺(いころ)そう」と、グザーク汗は主張する。それに対してコンチャク汗は、オペラのセリフの元ネタになっている次のような反論を返す。「鷹は巣に向かって飛び去ったが、鷹の子は美しい乙女でつなぎとめよう」。グザーク汗はさらにそれに対し、「それをやったら、我々は鷹の子も美しい乙女も失うことになり、鳥どもがまたポロヴェッツの野で我々を討ち始めることになる」と言い返す。
果たして現実に、歴史はグザーク汗の予言通りに進んだ。「結婚したウラジーミルは妻コンチャコヴナと子供を連れ、1187年にロシアに帰った。そこで彼は改めて教会の結婚式を挙げ、妻はスヴォボダ(=自由)という洗礼名を得た」と、年代記に記されているのである。 }
以上のような訳だが、オペラ・キャラクターとして見た場合は、やはりグザーク汗よりもコンチャク汗の方がよりふさわしくて魅力的な人物のように思える。
―次回は、歌劇<イーゴリ公>の最終回。ラストの第4幕。