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クラシック音楽オデュッセイア

2025年正月、ついに年賀状が1通も来なくなった“世捨て人”のブログ。クラシック音楽の他、日々のよしなし事をつれづれに。

歌劇<フニャディ・ラースロー>(2)

2008年08月16日 | 作品を語る
前回からの続きで、エルケルの歌劇<フニャディ・ラースロー>の後半部分の展開。

〔 第3幕 〕・・・ブダ城内にある王の部屋

国王ラースロー5世が王の孤独感と苦悩を吐露し、マリアに対する熱い思いを歌う。総督ガラがそこへ来て、王に進言する。「反逆者フニャディ・ラースローの処刑を命じていただければ、我が娘マリアはあなたのものです。私はあの反逆者から直接、暗殺計画のことを聞きました。奴は結婚式にあなたを呼び、そこであなたを殺害しようとたくらんでいるのです」。若く未熟な王はあっさりと、その言葉を信じてしまう。「伯父のツィレイを殺されたときにも、余はフニャディ一族に慈悲をかけてやった。それが今度は、余の命を狙うというのか。許せぬ!ガラよ、フニャディ・ラースローの処分はお前に任せる」。王の部屋を出た後、ガラは一人ほくそ笑む。「ふん、恋にうつけた男ほど、だましやすいものはないわ。これでマジャールの国土は、我らガラ一族のものだ」。

場面は変わって、城の庭。ラースローとマリアの愛の二重唱に続き、舞台は結婚式の場へ。来客たちが新郎新婦をたたえ、チャルダーシュの踊り手が幸せな二人を祝って踊る。しかし、突然武装した男たちが式場に乱入し、ガラの命令でラースローを謀反人として逮捕する。愕然と立ちつくすマリア。

(※以前、モニューシュコの歌劇<ハルカ>を語ったときにも触れたが、国民歌劇によく見られる“お約束”の一つである民族舞曲が、ここにも登場する。ハンガリーの踊り『チャルダーシュ』である。今回は映像版を鑑賞しているので、目で見る楽しみが大きい。何組かの男女ペアが並んで華やかなダンスを披露してくれるのだが、特に男性の足捌きに独特な味わいを感じる。ハンガリーっぽさ、とでも言うのだろうか。そう言えば、チャイコフスキーのバレエ<白鳥の湖>に出てくる『ハンガリーの踊り』も、だいたいこのような振り付けでやっているような気がする。)

(※しかし、それにしても、「幸せな結婚式の最中に、いきなり無実の罪で逮捕されて投獄される」というこの主人公の不幸を、いったいどんな言葉で表現したらよいのだろう。捜査も検証も一切なければ、この後裁判も行なわれないのである。まさに、“中世的野蛮”という言葉を絵に描いたような状況だ。そしてオペラはここから先、非常にスピーディーに場面が進んでいく。悲劇の幕切れに向けて、一直線である。)

ブダ城の牢獄。ラースローは自分がひどい罠にはめられたこと、そして未来の希望を失ったことを嘆く。そこへ警備兵をうまく買収したマリアがやってきて、彼を安全な場所へ解放するために仲間たちが外で待っていることを伝える。ラースローは喜ぶが、部下を引き連れたガラがそこへ現れ、二人の希望を打ち砕く。マリアは外へ引き立てられていき、ラースローは処刑場へと連れ出される。

聖ジェルジの広場に、断頭台が設置された。厳粛な葬送行進曲が流れる。エルゼベトは激しい悲しみに打ちひしがれ、息子のために祈りながら、彼を捕えた者たちをののしる。処刑台に立たされたラースローは身の潔白を訴えるが、死刑執行の時がやってくる。

首切り役人が3回、ラースローの頭上から斧を打ち下ろす。しかしなぜか、いずれも失敗に終わる。ラースローは立ち上がり、「不正を認めない神が、執行人の力を奪ったのだ」と叫ぶ。続いてエルゼベトと群集が、「お慈悲を!ラースローに解放を」とガラ総督に訴える。しかし、ガラはそんな声をまったく聞き入れず、「もう一度やれ」と執行人に命じる。そしてラースローはついに、斬首されて果てるのだった。

(※以上で、歌劇<フニャディ・ラースロー>のストーリーは終了。ところで、音楽面でのお話で、実は一箇所気になっていることがある。最後の第3幕にはマリアが歌うカバレッタというのがあるはずなのだが、この映像ソフトにはそれが出てこないのだ。映画版としての収録時間の制限があったのか、それとも使用楽譜の違いによるカットなのかは不明だが、ちょっと残念な気がする。フルート・ソロを従えたその興味深い一曲には、ドニゼッティの<ルチア>に出てきそうなソプラノの技巧的パッセージが使われていて、作曲家エルケルの拠りどころが何であったかがよく分かるのだが・・。)

―という訳で、エルケルのオペラは主人公フニャディ・ラースローの悲惨な死によって幕を閉じるが、この政争劇にはまだ続きがある。それはおおよそ、次のような展開だ。

{ 傷心の母エルゼベトと彼女の兄(あるいは弟)のミハーリが、国王ラースロー5世に対して怒りの蜂起を起こす。王はラースローの弟マティアスを人質にとってプラハへ逃げるが、結局その地で客死する。18歳にも満たない夭逝であった。ガラ総督と彼の部下たちは、自分たちの影響力を維持しようと政治的な妥協を行い、フニャディ・マティアスを国王とすることに同意する。時は1458年。マティアス・コルウィヌスというラテン語名で知られることになる新しい国王は、その後1490年にこの世を去るまで、大いなる権威をもって国を治めた。彼は政治面での賢さに加えて、深い教養と芸術への愛情を備え、ハンガリーのルネサンス王として歴史に名を残すこととなったのである。 } (※ネット上の英文サイトで見つけた文章をもとに、ブログ主が訳出。)

フニャディ家の長男ラースローは非業の死を遂げたが、彼の弟であるマティアスがしっかりと、その後を補ってくれたようである。無慈悲な幕切れに愕然としたオペラ鑑賞者にとっては、この後日談が少しばかり気持ちの救いになると言えるかもしれない。なお、日本語版・ウィキペディアによると、マティアスという名はハンガリー語ではマーチャーシュのように発音され、コルウィヌスはフニャディ家の紋章である鳥のカラスに由来する呼び名だそうである。興味の向きは、そちらのサイトで「マーチャーシュ・コルヴィヌス」の項を御覧いただけたらと思う。

―次回も、フェレンツ・エルケル(※ハンガリーの語順なら、エルケル・フェレンツ)のオペラ。作曲家円熟期の力作を、一つ。
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歌劇<フニャディ・ラースロー>(1)

2008年08月06日 | 作品を語る
当ブログでは先頃、ゾルタン・コダーイの代表作<ハーリ・ヤーノシュ>を語ったが、これはオペラというよりはむしろ、音楽付きのお芝居といった感じの作品であった。では、ハンガリーの国民歌劇といったら何を挙げたらよいのだろうか。そういう話になればやはり、フェレンツ・エルケル(1810~1893年)の作品から、いくつかが選ばれることになるだろう。今回はまず、このエルケルが比較的若い頃に書いた歌劇<フニャディ・ラースロー>(1844年)【※注1】を採りあげてみることにしたい。参照音源は、アダム・メドヴェツキ指揮ハンガリー国立歌劇管弦楽団、他による1977年の映像ソフトである。なお、ブログ主はハンガリー語の読み方を知らないため、人名・地名などのカタカナ表記についてはどこかで間違いをしでかす可能性が高い。そのあたりはひらに、御海容を賜りたいと思う。

【※注1】このオペラのタイトルは、「ラースロー・フニャディ」という逆の順番で書かれることもある。具体的なストーリーに入る前に、この点についての注釈を先に入れておきたい。ハンガリーで人のフルネームを書く順番は、実は日本語と同じなのだそうである。つまり、「名字が先で、本人の名前が後」ということだ。たとえば、作曲家ゾルタン・コダーイはコダーイ・ゾルタン、指揮者のイシュトヴァン・ケルテスならケルテス・イシュトヴァンといった風に、故国ハンガリーでは呼ばれるらしいのである。今回のオペラの主人公は「フニャディ家のラースローさん」なので、幅広く使われている西欧風の表記なら“ラースロー・フニャディ”になるけれども、ご当地ハンガリーの流儀で書くなら“フニャディ・ラースロー”が正しいということになるわけだ。以下、登場人物の名前は、ハンガリー風の語順に統一していくことにしたい。

―歌劇<フニャディ・ラースロー>の前置き

1456年に病死したフニャディ家のヤーノシュは、傑出した人物だった。彼は生前、ハンガリーの総司令官として王国の統一、治安の確立、そして国の防衛といった各方面にわたって優れた能力を発揮した。ヤーノシュは若き国王ラースロー5世の後ろ盾となって力を尽くしたが、彼の死後、国王の取り巻き連中がフニャディ一族を権力の座から追放してやろうと、画策し始める。彼らはフニャディ家の若い世代から権力や財産をもぎ取ろうと、動き出すのである。そして、その直接的な標的となったのが、英雄ヤーノシュの長男であるフニャディ・ラースローであった。

―歌劇<フニャディ・ラースロー>のあらすじ

〔 第1幕 〕・・・ナンドルフェヘルヴァル(現ベオグラード)にあるフニャディ家の砦

フニャディ家の支持者たちが、彼らの若きリーダーであるラースロー(T)の帰りを待っている。「ラースローは、国王(T)や摂政ツィレイ・ウルリク(Bar)のことを、あまりにも無防備に信用し過ぎているのではないか」と、皆心配している。やがて国民会議から帰ってきたラースローは、そんな人々の疑念をなだめようと努力する。そこへ、国王ラースロー5世が家来たちを従えてやってくる。その中には摂政ツィレイ・ウルリクもいる。人々が懸念しているとおり、彼はフニャディ・ラースローを亡き者にし、城を乗っ取ってやろうと密かに企んでいるのだった。下心のない実直なラースローが国王への信頼と忠誠心を歌い、人々がそれに唱和する。

(※短い序曲と、それに続く男声合唱。ここで早速、作曲家エルケルがどんな書法を拠りどころにしているかが見えてくる。イタリア・オペラである。岡田暁生氏の著作『オペラの運命』に述べられているとおり、国民歌劇というのは一般に、「イタリアやフランスなど、西欧のオペラ書法を基本として書かれ、そこに民族楽器や独自の音階などをスパイスのように効かせたもの」であって、エルケル作品もその例外ではないということなのだ。ちなみに、<フニャディ・ラースロー>について言えば、ドニゼッティが具体的なお手本になっていると考えてよいだろう。)

場面変わって、国王の部屋。国王ラースロー5世に、摂政ツィレイがささやく。「フニャディ一派は、王の座を虎視眈々と狙っている。警戒した方がいい」。

(※主人公のフニャディ・ラースローが力強いリリコ・スピントであるのに対し、国王は同じテノールでも、どこかヘニャッとした感じのレッジェーロな声。この対比がいかにもという感じで、面白い。「余は一体、どうしたらよいのじゃ」とツィレイにすがるあたり、未熟で不安いっぱいな王の雰囲気がよく出ている。なお、この国王ラースロー5世というのは、年齢がわずか10代半ばの若造であるということを、ご承知おきいただきたい。)

フニャディ・ラースローが、婚約者マリア(S)への思いをアリアで歌う。そこへ彼の仲間たちが駆けつけ、摂政ツィレイ・ウルリクの策謀についての情報を与える。やがてツィレイが一人でやってきて、ラースローを罠に陥れるための話を持ちかけるが、ラースローは「その手は食わんぞ。お前の企みはもう分かっている」と応じ、ツィレイが振り上げた剣を見事に打ち払う。そして仲間たちが一斉にツィレイの身体に剣の雨を降らせ、悪漢の息の根を止める。

続いてその場に姿を現した国王は、自分の伯父でありアドヴァイザーでもあったツィレイの亡骸を目にして、激しく動揺する。しかし、「この男こそ、謀反人なのです」という人々の訴えを聞き、王は事を荒立てないことを約束する。

(※この場面では、主人公ラースローの仲間たちによる勇壮な男声合唱を聴くことができるが、音楽的な雰囲気としてはやはりドニゼッティ風だ。しかし、登場した時に異様な存在感を見せてくれた悪役ツィレイが、こんな早くにやっつけられて退場してしまうのは、ちょっと寂しい。w )

〔 第2幕 〕・・・テメシュヴァル(現ティミショアラ)にあるフニャディ家の城

フニャディ・ラースローの婚約者であるマリアが、愛する人を思ってアリアを歌う。続いて、輪になって縫い物をする侍女たちの楽しげな合唱。その一方で、フニャディ・ヤーノシュの未亡人シラジー・エルゼベト(S)は、深い悲しみに沈んでいる。彼女は、息子のラースローが処刑されるという恐ろしい夢を見てしまったのだ。国王が到着して悲嘆にくれる彼女をなだめるが、王はそこにいるマリアの姿を目にするや、たちまち一目惚れしてしまう。マリアの父親である総督ガラ(Bar)は、そんな王の様子をすばやく察知し、ニヤリと笑う。そして、「娘をうまくだしに使えば、国王を意のままに動かせる」と、彼は権力獲得へ向けて思案を巡らし始める。

(※摂政ツィレイ・ウルリクはあっさりやられたが、次に登場する悪役・ガラ総督は恐ろしい。具体的な行動はドラマの後半部で明らかになるが、権力獲得のためなら自分の娘がどんな不幸な思いをしようと一向に構わない、そういう男である。今回参照している映像ソフトの演奏は全体に可もなく不可もなくといったレベルのものだが、このガラ役を歌っているバリトン歌手はなかなか良い。映像で口パク演技をしている俳優さんがまた、いかにも悪そうだなあ、という感じの面構え。こういう分かりやすさは、大歓迎だ。)

エルゼベトと二人の息子(ラースローと、弟のマティアス)は再会を喜び、未来への希望に胸を弾ませる。しかし、総督ガラがラースローとマティアスの二人を国王の下へ呼び寄せると、エルゼベトは再び不吉な予感をおぼえる。その後二人が無事に戻って来て、「王様から、慈悲の言葉をもらった」と伝えると、彼女はようやくほっとする。

(※このオペラの登場人物に関して一つ興味深く感じられるのは、ラースローの母エルゼベトに与えられた音楽的性格である。オペラでは普通、歳のいった女性にはメゾ・ソプラノかアルトの声が付けられ、歌も落ち着いたタイプのものが多いのだが、エルゼベトの声は純然たるソプラノであり、その上至難なコロラトゥーラの技巧までが要求されるのだ。そのあたりについての作曲者の意図が何であったかは詳らかでないが、次回の補足話に書くとおり、この嘆きの母はフニャディ家が巻き込まれた政争劇に、後日大きな役割を果たすことになるのである。なお、主人公ラースローの弟であるマティアスも、映像で演じる俳優さんは若い男の子だが、声はソプラノ歌手の担当になっている。)

王の招きによって、ラースローとマリアの結婚式がブダで行なわれることとなった。礼拝堂で、王が宣言を行なう。「エルゼベトは我が母となり、彼女の息子たちは我が兄弟となろう」。人々の大きな歓声が上がる。王は内心穏やかではないのだが、自分の伯父であるツィレイ・ウルリクの殺害については今後フニャディ一族の責を問わないと誓う。

―この続き、何とも無慈悲なドラマが展開するオペラの後半部分については、次回・・。
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<ハーリ・ヤーノシュ>全曲(2)

2008年06月27日 | 作品を語る
前回の続きで、コダーイの<ハーリ・ヤーノシュ>全曲。今回は、その後半部分のお話。

〔 第3の冒険 〕・・・戦場

フランス軍の総攻撃。しかし、ハーリは一人でフランス兵たちをなぎ倒し、ついに敵将ナポレオンと向かい合う。するとナポレオン、ハーリを見るや完全にブルって戦意喪失。彼はへなへなと地面にひざをつき、「ごめんなさーい」とハーリに謝る。そんな夫の姿を見たマリー=ルイーズは、「情けないわねえ!あなたとはもう離婚です」と、ナポレオンに三下り半。将軍の指揮棒を手にしたハーリは、「戦争賠償金を支払いなさい。それと、ナジャボニィの村長へ金時計を贈りなさい」と、ナポレオンに命令する。

ハーリは勝利の宴を開く。マリー=ルイーズとハーリに続き、皆が踊りを楽しむ。しかし、そこへエルジェが現れ、「あなたには、立派なご婦人がいるのね。私はもうウィーンには居られないから、故国(くに)へ帰ります」とハーリに別れを告げる。ハーリはそんな彼女を慰めて一緒に踊りを始めるが、今度はそれを見たマリー=ルイーズが嫉妬に燃える。「何よ、それ!私、死んじゃうから」。二人の女性にはさまれて困り果てたハーリは、豪快な『軽騎兵募集の歌』を歌いだす。

(※ここではまず、組曲版・第4曲でおなじみの『戦争とナポレオンの敗北』が流れる。ナポレオンが登場する場面での物々しいトロンボーンの威力、『葬送曲』での鮮やかなサクソフォンなど、ケルテスはここでもダイナミックな演奏を聴かせる。その後、ナポレオンの情けない歌、『ジプシー音楽』、そして騎士エベラスティンの歌と続く。但しフェレンチク盤では、短い『ジプシー音楽』はカット。)

(※ハーリ役のバリトン歌手と男性合唱団が歌う『軽騎兵募集の歌』は、ハーリとエルジェによる二重唱の『歌』と並んで、<ハーリ・ヤーノシュ>全曲の中でもピカイチの名曲だ。これはハンガリーの民族色が豊かに打ち出された情熱的な曲で、ハンガリー人ならずとも聴いていて心が燃えるような気分になってくる。ケルテス盤のパワーは言わずもがなだが、一方のフェレンチク盤もここでは驚くほどホットな演奏を聴かせてくれる。惜しまれるのは、フンガロトン・レーベルの音作りがマイルド志向なものであるため、その録音がせっかくの演奏パワーを削いでしまっているように感じられることだ。フェレンチク盤がもしデッカあたりで録音されていたら、おそらく合唱のテノール・パートなど、旧ソ連の赤軍合唱団みたいに響いたことであろう。w )

〔 第4の冒険 〕・・・宮殿内にあるハーリの豪華な部屋

皇后と皇女が歌う。「今までに10人の結婚候補者がいたけれど、やっぱりハーリさんが最高ね」。そこへオーストリア皇帝が廷臣たちを連れて登場し、食事会が始まる。上機嫌の皇帝は、ハーリとマリー=ルイーズに帝国の半分を与えようと進言するが、ハーリはそれを辞退し、次のように答える。「皇女様は、もっと身分の高い男性と結婚なさるべきです。それに私には、エルジェという許婚がおります。ご褒美をいただけるのでしたら、軍役を解除して年金をください」。皇帝は、ハーリの願いを聞き入れる。そしてハーリはエルジェとともに、懐かしい故郷の村へと帰っていく。

(※この〔第4の冒険〕は、音楽的な聴きどころが満載だ。まず、「ハーリさんが一番素敵ね」と歌う皇后と皇女の二重唱。これは、女声合唱を伴った非常に美しい一曲である。フェレンチク盤は、二人の歌手が優秀。逆にケルテス盤は歌手がペケだが、その代わり女声合唱がめっぽう美しい。で、それに続くのが、組曲版・第6曲でおなじみの『皇帝と廷臣の入場』。ケルテス盤は金管の音が輝かしくて、ダイナミック。しかしフェレンチクも、ここではケルテスに負けず劣らず、エネルギッシュな快演を披露している。)

(※オーストリア皇帝と廷臣たちが入場した後は、食事会の風景。ケルテス盤では、食器がガチャガチャいう音や人々のおしゃべりの声など、臨場感溢れる効果音が使われている。一方のフェレンチク盤はこのあたりをカットして、すぐ次の曲『小さな王子たちの入場と合唱』に進む。これは「アー、ベー、ツェー、デー・・・」とアルファベットから歌い始める、子供たちによる可愛らしい一曲だ。ただ、それぞれの演奏家によって、王子たちの年齢イメージが異なっているようだ。ケルテス盤の少年合唱は大人びていて、立派な感じ。逆に、フェレンチク盤の児童合唱は構成メンバーの平均年齢がかなり低いようで、そのあどけなさがメチャ可愛らしい。w )

(※〔第4の冒険〕も後半に入ると、いよいよ名曲のオン・パレード。まず、ニワトリの世話をしながら歌うエルジェの悲しい歌。これはまるでガーシュウィンさながらの、夕暮れみたいな名歌である。「私はもともと貧しい生まれだったけど、心から好きだった人を取られちゃって、ほんとの貧乏になっちゃった。もう誰も私を知らないような、遠い国へ行きたい」。続いて、「ハンガリーの人々の苦しみに、鞭打つことはなさらないでください」と歌うハーリの短い歌。これも、なかなかの佳曲だ。ケルテス盤は例によって歌手があまり巧くないが、伴奏の指揮は大変良い。こういうところを聴いていると、ケルテスさんにはもっと長生きして円熟してもらって、色々なオペラを振ってほしかったなあと、つくづく思う。自信過剰の遠泳による水難事故死というのは、あまりにも勿体ない死に方であった。)

(※いよいよ、終曲。「今私たちは、ハンガリーの人たちの心、その悲しみや苦しみがわかるのです」という合唱に続き、〔第1の冒険〕でも聴かれたハーリとエルジェの二重唱。組曲版・第3曲でおなじみの『歌』の旋律が、ここで再び歌われる。「ティサ川のこちら側、ドナウ川の向こう側、ティサ川の向こう側に、ポプラの木がある小さな小屋。私の思いは、いつもそこに。心はいつも、そこを求める。愛する人と一緒に・・・」。そして、合唱団とオーケストラによる一大クライマックス。ここには、組曲版では絶対に味わうことの出来ない、全曲ならではの感激体験がある。この終曲でのケルテスの指揮はとりわけ素晴らしく、初めて聴いたとき、私は怒涛の感動に打ち震えたのだった。やがて遠くから合唱の歌声が聞こえてきて、深い余韻を残しながら全曲が静かに閉じられる。

そう言えば、ケルテス&ロンドン響による<ハーリ・ヤーノシュ>組曲版の演奏について、「刺戟的なくらい外面の威力に頼った指揮ぶりで、演奏効果は十分だが、デリカシーの不足は否めない」と、宇野功芳氏がかつて『新編・名曲名盤500』(音楽之友社)の中で書いておられた。確かに、組曲だけを聴けば、そういう印象になるかもしれない。しかし音楽劇全曲としてなら、十分なレベルに達した名演であるように私には思える。これであと、歌手陣さえ良かったら・・・。)

―<ハーリ・ヤーノシュ>の冒険談は、以上で終了。但し、劇としてはこの後〔エピローグ〕が続く。ハーリの話が終わると、「わしのところに、金時計なんか贈られて来なかったぞ」と、村長がつっこみを入れる。それに対してハーリは、「ナポレオンの奴、約束を守らなかったんだ。しかし、妻も亡くなった今、俺の話を証明してくれる人はいなくなってしまった」と答える。すると、お話が始まる時にくしゃみをしていた若者が、「証人なんかいなくたって、ハーリおじさんの話は本当さ」とフォローを入れて、めでたし、めでたしの幕切れとなるのである。

―という訳で、次回予告。次はいつものオペラ系統の話から離れて、ちょっと脱線した記事を書いてみたいと思っている。すぐ上に登場していた有名な評論家先生を巡る、私の個人的な思い出話である。
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<ハーリ・ヤーノシュ>全曲(1)

2008年06月16日 | 作品を語る
先頃語ったマスネの歌劇<ドン・キショット>の主人公は、若い女性デュルシネにプロポーズして、ふられた。求婚者が50歳代で相手がおそらく20歳代ぐらいであったと考えれば、仮にその年齢差を理由に断られたとしても無理のないような展開だった。しかし、「事実は小説より奇なり」とはよく言ったもので、現実のクラシック音楽界には、親子どころか、孫ぐらい歳の離れた相手と本当に結婚した人がいる。

ハンガリーの作曲家ゾルタン・コダーイである。彼は76歳の時に、長く連れ添った妻に先立たれた。しかしその翌年、コダーイ先生は教え子の女性と見事に再婚を果たす。夫は77歳で妻は何と19歳!という、トンデモ(?)年齢差のカップルが誕生したのである。で、その時のプロポーズの言葉というのが、なかなかふるっていた。「あんた、わしの未亡人になってもらえんかな?」

―という訳で、今回はゾルタン・コダーイの代表作<ハーリ・ヤーノシュ>全曲を採り上げてみることにしたい。参照演奏は、下記の2つ。

●イシュトヴァン・ケルテス指揮ロンドン交響楽団、他(1968年・デッカ)
【 英語のナレーションや各種効果音の付いた、ほぼ完全な全曲録音 】

●ヤーノシュ・フェレンチク指揮ハンガリー・フィル、他(1978年?・フンガロトン)
【 主要な音楽ナンバーのみを収録した準全曲盤で、珍しい『序曲』付き 】

―<ハーリ・ヤーノシュ>のあらすじと音楽

舞台は、ハンガリーのナジャボニィ村。ほら吹きとして知られる名物男ハーリ・ヤーノシュが、宿屋で自らの武勇伝を語り始める。すると、その場に居合わせた一人の若者が、ハーックション!とくしゃみをする。どうやら、これから始まるお話は、本当の事であるらしい。

〔 第1の冒険 〕・・・ハンガリーとロシアの国境

ハンガリーとロシアの兵士たちが、国境を警備している。温暖なハンガリー側とは対照的に、ロシア側は寒い。そして食べ物も粗末なため、明るいハンガリーの兵士たちとは対照的に、ロシア兵は暗くて陰険だ。そんな場所に勤めているハーリのもとへ恋人エルジェがやって来て、ハーリとの逢瀬を楽しむ。

やがて、マリー=ルイーズの一行が国境に差し掛かる。彼女はオーストリア皇帝の娘にしてナポレオンの妃でもあるという、いとやむごとなき女性だ。しかし、意地の悪いロシア兵が国境の通過を拒否するので、一行はすっかり往生してしまう。そのことを知ったハーリがそこへ駆けつけ、一肌脱ごうと腕まくり。彼は超人的な怪力を発揮し、詰め所を丸ごと引っ張ってハンガリーの領土側に入れてしまう。そしてハンガリーの兵士が皇女一行の国境通過を認め、問題は解決。感謝感激のマリー=ルイーズは、「お父様の衛兵として、ハーリ・ヤーノシュさんを雇いたいわ」と、彼を一緒に連れて行くことにする。そんな成り行きで、ハーリは恋人エルジェとともにオーストリアへ。

(※ケルテス盤は俳優ピーター・ユスティノフの英語による前口上に続き、組曲版・第1曲でおなじみの『くしゃみの音~前奏曲』が始まる。一方、フェレンチク盤では、最初に『序曲』なるものが演奏される。<ハーリ・ヤーノシュ>の序曲というのはちょっと耳慣れないが、全曲の内容を知っていると、まあそれなりに頷けるものではある。ただ、この曲、音楽劇の序曲としてはいささか冗長な感じだ。ちなみに演奏時間は、約16分。そして両盤とも共通して、『前奏曲』の後にハンガリー兵の一人が組曲版・第3曲の『歌』のメロディを美しい笛の音で吹く。)

(※ケルテス盤では〔第1の冒険〕の出来事として、様々な人々が国境を通る場面を、ユスティノフが巧みな一人芝居で演じる。老婦人やら、ユダヤ人の大家族らが次々とやって来て、詰め所の兵士とやり取りを交わす。それに続いて、ハンガリーの少女たちによる短い合唱。これは民謡風のリズミカルな名曲で、いかにもコダーイ先生らしい一曲である。以上のそれぞれに巧みな伴奏音楽が付いているのだが、フェレンチク盤ではこのあたりはすっぽりカット。その後、エルジェ登場の歌、ハーリの『赤いリンゴの歌』、ハーリとエルジェの短い二重唱と続き、マリー=ルイーズの一行が登場する場面へとつながっていく。)

(※ハーリが詰め所の建物を力ずくで移動させる場面の前に、マリー=ルイーズに雇われているハンガリー人の御者マルチが、民族楽器ツィンバロン等の伴奏に乗ってユーモラスな『酒酔いの歌』を歌う。ここはケルテス盤、フェレンチク盤、ともに甲乙つけがたい出来栄えを示す。どちらのバス歌手もそれぞれに、表情豊かで豪快だ。で、それに続くのが、ハーリとエルジェの二重唱。これは全曲を見渡した中でも、白眉の名曲である。組曲版・第3曲『歌』の名旋律は、この歌に由来するものだ。ここで深い郷愁を感じるのはおそらくハンガリーの人たちに限られようが、日本人の聴き手にも十分そのノスタルジックな雰囲気は伝わってくる。なお、この美しいデュエットは全曲終了の間際にも出てくるので、歌詞の内容についてはその時に補足したい。)

(※〔第1の冒険〕を締めくくるのは、組曲版・第5曲でおなじみの『間奏曲』。ケルテス盤は、ツィンバロンを前面に押し出しての鮮烈演奏。録音がまた、いかにもデッカらしい派手な音作り。一方、全体にシックな演奏を聴かせるフェレンチク盤も、この『間奏曲』は結構個性的。ディナーミクやテンポの幅が大きく、大胆な表情づけを行なっている。)

〔 第2の冒険 〕・・・ウィーンの宮殿の庭

皇女マリー=ルイーズお抱えの騎士であるエベラスティンは、いきなり伍長に任ぜられたハーリに嫉妬している。そのハーリに恥をかかせてやろうと、彼は「この馬に乗ってみろ」と言って荒馬を押しつける。しかしハーリは、暴れ馬を見事に乗りこなしてみせる。そんな彼のかっこよさに、マリー=ルイーズはすっかりベタ惚れ。やがて皇后までが、「勇敢なハーリ・ヤーノシュさんとやらに、会ってみたいわ」とやって来る。

その後皇后がハーリを連れて立ち去ったので、エルジェは一人ぼっち。寂しそうに歌っている彼女をエベラスティンが誘惑しにかかるが、まったく相手にされない。怒った彼はナポレオンに手紙を書き、フランス対オーストリアの戦争をけしかける。で、いきなり戦争開始。ハーリは大尉に任ぜられ、戦地へ赴くこととなる。一方エベラスティンは、ハーリとの別れを嘆くマリー=ルイーズを馬車に乗せ、パリへと去っていく。

(※〔第2の冒険〕冒頭で聞かれる『カッコウの歌』は、どこかモーツァルト風な感じの楽しい曲だ。ケルテス盤は、指揮者の好演に比して歌手たちの出来があまりよろしくないが、ここでも低調。フェレンチク盤は逆に歌手陣に恵まれており、この歌も楽しく聞かせてもらえる。それに続いてケルテス盤では、エベラスティンがハーリに荒馬を持ちかける場面となる。ユスティノフが巧みな声色演技を駆使して、面白く演じる。さらに、デッカお得意のソニック・ステージで、そこに本当の馬がいるような効果音付き。一方のフェレンチク盤は、この場面をカット。)

(※その後に流れるのが思いっきり有名な『ウィーンの音楽時計』で、これは組曲版・第2曲ですっかりおなじみの名曲だ。正午を告げて鳴り出す鐘を聞きながら、「あれは、私の夫の祖父が作らせたものよ」と、皇后が得意げに語る。ケルテスの演奏も勿論良いが、フェレンチクは鮮やかさの上に繊細な美しさも加えて、さらなる名演を成し遂げている。)

(※次は、エルジェの『愛の歌』。「あなたのいない人生なんて・・」と、一人になった彼女が寂しい気持ちを歌う。こういうしっとりした情緒を歌いだすところは、フェレンチクの独擅場。歌手の巧さも、フェレンチク盤の勝ち。それに続いて、同じエルジェによる『ひな鳥の歌』。これは、ニワトリに餌をやろうとする彼女が歌うきびきびした曲で、ハンガリー情緒が溢れる名曲だ。木管楽器が「コケコッコー」の音型を吹くところもユーモラス。ケルテスはやはり、ダイナミックな演奏。一方のフェレンチクは、ぐっと洗練された演奏を行なっている。)

(※この〔第2の冒険〕を締めくくるのは、『兵士たちの合唱』。最初は、「俺は徴兵されてしまい、おふくろを世話してやれなくなった。鳩たちよ、小麦の穂を食うんじゃないぞ」と嘆き節を歌いだすのだが、やがてマーラーの<復活>に出てきそうなトランペットの間奏を挟み、曲は勇壮な行進曲へと盛り上がっていく。ケルテス盤はこのトランペットが鮮烈で、続く合唱も力強い。一方のフェレンチク盤は、しっとりした前半の合唱が大変味わい深い。勿論、その後も立派な演奏。)

―この続き、物語の後半部分については、次回・・・。
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歌劇<ドン・キショット>

2008年04月26日 | 作品を語る
当ブログで語ってきたマスネ歌劇のシリーズも、今回の作品で一応打ち止めということにしたいと思う。最後に採り上げるのは、作曲家晩年の傑作<ドン・キショット>(1910年)である。このオペラの主人公は、あの有名なドン・キホーテをモデルにした人物だ。参照演奏は、カジミエーシュ・コルト指揮スイス・ロマンド管、他による1978年のデッカ録音。

―歌劇<ドン・キショット>のあらすじ

〔 第1幕 〕

デュルシネ(S)の家の外にある広場で、パーティが催されている。今や宴たけなわ。デュルシネに求婚する4人の男たちが、彼女の美しさを讃える。やがて本人がバルコニーに姿を見せ、艶やかなアリアを歌う。彼女が去った後、ホアン(Bar)とロドリゲス(T)の二人が、自分たちのアイドルについてあれこれと語り合う。そこへ、人々の歓声とともにドン・キショット(B)と家来のサンチョ・パンサ(Bar)が登場。

(※何とも華やかで、けたたましいオープニング。“Alza!Alza!”という人々の掛け声とともに、スペイン・ムード満点の舞曲が始まる。歌劇<ドン・キショット>は、現今普通に上演されるマスネ・オペラの中では殆ど最後の作品だが、このダイナミックな開幕の音楽を聴くと、作曲の筆は枯れていないようだ。しかしまあ、<ル・シッド>や<ナヴァラの娘>もそうだったが、マスネせんせーはスペイン情緒を描き出す音楽が実に巧い。)

(※今回のCDで指揮をしているカジミエーシュ・コルトという人に私は全くなじみがなかったので、ちょっと古い本で調べてみた。この人は1931年生まれのポーランド人で、レニングラードや故国のクラクフ音楽院で学んだ指揮者だそうだ。録音はあまり遺されていない様子だが、ここでの仕事ぶりは上々。マスネが音楽で巧みに描いたスペイン的な雰囲気を、とてもよく出してくれている。デッカの録音も優秀。)

人々の歓迎を受けて、ドン・キショットは良い気分。施しを求めて集まった人たちにお金を配るよう、彼はしぶるサンチョに命令する。やがて舞台から人々が去り、サンチョも気晴らしを求めてどこかへ出かける。一人になったドン・キショットは、デュルシネの家の下でセレナードを歌い始める。が、その歌を、嫉妬に燃えるホアンが中断させる。両者は険悪なムードになるが、「歌がまだ途中なので、決闘はそれが終わってからじゃ」と、ドン・キショットはあくまでマイペース。やがてデュルシネが下りてきて、決闘を再開しようとする二人を止める。彼女はホアンに、「私のマントを取りに行ってちょうだい」とその場を立ち去らせ、続いてドン・キショットに、「本当に私を想っているなら、盗賊テネブランを追って、彼が私から奪っていったネックレスを取り返してきて」と難題を持ちかける。ドン・キショットは、その依頼を引き受ける。

(※ここで聴かれる『ドン・キショットのセレナード』は、なかなかの佳曲である。今回参照しているコルト盤ではニコライ・ギャウロフがタイトル役を演じているが、さすがにこういうメロディアスな曲を朗々と歌わせると、この人は抜群の巧さを見せる。サンチョ役のガブリエル・バキエも、ヴェテランらしい闊達な表現を聞かせる。デュルシネを歌っているのは、レジーヌ・クレスパン。結構名高いソプラノ歌手だが、この録音での出来栄えは、正直、今ひとつといった感じ。)


〔 第2幕 〕

田舎の風景。夜明け。愛馬ロシナンテにまたがったドン・キショットが、デュルシネに捧げる新しいセレナードを作り出そうと、楽しげにあれこれと歌っている。現実的なサンチョはそんな主人を尻目に、「俺たちは、あの娘っ子にからかわれているだけだ。だいたい女なんて・・・」と、長広舌をぶち始める。やがて朝靄(もや)が晴れて視界がすっきりしてくると、ドン・キショットの目に巨大な風車が飛び込んでくる。それを打ち倒すべき巨人だと思い込んだ彼は、サンチョの制止も振り切って全速力で突撃。しかし逆に、その風車によって空中高く吊り上げられ、何とも情けない姿をさらす結果となる。

(※ここは、原作となっているセルバンテスの『ドン・キホーテ』の中でも、おそらく最も有名なエピソード。この「風車への突撃シーン」の音楽は、とても面白い。どんな楽器を使っているのかは不明だが、ピコピコピコピコ・・・と繰り返されるユーモラスな伴奏音がぐんぐん加速していって、ドン・キショットの滑稽な突進ぶりとその後の悲惨な結末を見事に描いている。)

〔 第3幕 〕

『ドン・キショットのセレナード』をモチーフとする間奏曲に続いて、場面は夕暮れ時の山脈。盗賊たちの足跡を熱心に追うドン・キショットだが、サンチョの申し出を受け入れ、ちょっと休憩をとることにする。「武者修行に励む者は、いつ何が起きてもすぐ対応できるようにしておかねばならん」と、ドン・キショットは槍に体を預けるようにして、立ったまま眠る。が、やがて音もなく姿を現した盗賊たちによって、二人はいともたやすく捕えられ、縛り上げられてしまう。

盗賊たちから突っつかれ、「殺しちまおうぜ」と囃(はや)されて、ドン・キショットは寂しく神への祈りを歌い始める。ところが何が幸いしたものか、その歌に盗賊テネブランが痛く感動。彼はドン・キショットの話を聞き、デュルシネから奪ったネックレスをあっさりと手渡してやるのだった。

(※この第3幕で音楽的に面白いのは、盗賊たちが声をそろえて歌う合唱の部分。最後にドン・キショットとサンチョを見送るシーンで、彼らはまるで修道士たちの祈りみたいな敬虔なコーラスを聞かせるのだ。w )

〔 第4幕 〕

デュルシネの家の外にある庭園。パーティが再び催されている。デュルシネは、「あなたたちって、退屈なのよ」と言い寄る男たちを袖にして追い払い、一人物思いに沈んでいる。その後気分を変え、彼女はギターの伴奏に乗ってスペイン色豊かな歌を歌い始める。そこへ、ドン・キショットとサンチョが登場。老騎士が本当にネックレスを取り返してきたことに、誰もがびっくり。デュルシネも、「あなたは、あのアマディス【※1】をも超えたわ」と絶賛する。気を良くしたドン・キショットは恭(うやうや)しくデュルシネの前に進み出て、彼女にプロポーズ。しかしデュルシネは、彼との二重唱でやんわりとその申し出を拒否する。パーティの客たちがしょんぼりするドン・キショットを笑いものにするが、サンチョは激しい勢いで彼らの無神経さをどやしつける。

(【※1】アマディス : ガルシア・ロドリゲス・デ・モンタルボが書いた『アマディス・デ・ガウラ』という騎士物語の主人公。本の内容は、アーサー王伝説でおなじみの騎士ランスロットを300年後のスペインに復活させたお話。アリオストの作による『狂えるオルランド』ともども、ドン・キホーテ誕生のきっかけとなったものである。セルバンテスの原作中でも、しばしばこの名前が主人公たちの会話に出てくる。「ラ・マンチャの男ドン・キホーテ」を名乗るようになった田舎紳士アロンソ・キハーノにとって、アマディスはいわば彼が追い求める理想であり、崇拝の対象であった。ちなみに、マスネが生涯最後に書いたオペラも<アマディス>というのだが、内容的には全く別物。)

〔 第5幕 〕

森に続く小道。星のきれいな夜。木にもたれて休むドン・キショット。サンチョは火を起こしながら、主人の夢がいつか叶うようにと祈る。しかしドン・キショットは、自分に死が近づいていることを悟っている。ここまでよくついてきてくれた家来に老騎士は心からの感謝を述べ、思い姫デュルシネの幻を見ながら、静かに息を引き取る。嘆き悲しむサンチョの声とともに、オペラの全曲が終了する。

(※演奏時間約10分の第5幕は、ある意味、全曲中で一番のハイライトかもしれない。原作とはだいぶシチュエーションが違うけれども、全編に流れるしんみりした音楽が妙に泣かせる。この部分については、ドン・キショットとサンチョの二役を一人で歌ったフョードル・シャリアピンの歴史的な録音がある。そこでは特に、サンチョを歌うときの大歌手の役者ぶりが見事。最後に「モン・メートゥル(=だんな様)!モン・メートゥル」と泣き崩れるところなど、ちょっと普通の歌手には真似の出来ない味がある。これは1927年という太古の録音だが、現在「シャリアピン・プリマ・ヴォーチェ」と題されたNimbus Recordsの2枚組CDの中で聴くことが出来る。ついでながら、同CDにはイベールの作曲による<ドン・キホーテの死の歌>も収録されていて、そちらは1933年の録音。いずれもマニア向けの音源ではあるが、一応参考までに。)

―以上で、当ブログのマスネ歌劇シリーズは終了。実は、私が今全曲盤を持っているマスネ・オペラはまだ他にもあるのだが、これまでに語ってきた作品群に比べると明らかに遜色がある。そんな事情から今回のマスネ・シリーズはここで打ち止めということにして、今後はまた目先を変えた新しいトピックを立ち上げていくことにしたい。ただし、次回は特別編。今回語ったマスネの<ドン・キショット>とセルバンテスの『ドン・キホーテ』を比較しつつ、最近読んだ本の受け売り話みたいなものを、ちょっと書いてみようかと思う。
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