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クラシック音楽オデュッセイア

2025年正月、ついに年賀状が1通も来なくなった“世捨て人”のブログ。クラシック音楽の他、日々のよしなし事をつれづれに。

ニールセンの歌劇<仮面舞踏会>(2)

2008年10月05日 | 作品を語る
前回の続きで、カール・ニールセンの歌劇<仮面舞踏会>。今回は、その後半部分。

〔 第2幕~後半 〕

いきり立ったイエロニムスが舞踏会場に乗り込もうとやって来たが、彼は入り口で制止される。「ここから先は、何か仮装していただきませんと・・」。召使のアーヴを引きずって、近くの貸衣装屋へ入っていくイエロニムス。そんな出来事の間、仮面をつけたマグデローネがこっそりと通りへ出てくる。そこで彼女は、これまた仮面をつけたレナード卿と遭遇。お互いに正体を知らない二人は、一緒に揃って舞踏会場へ。

やがて、イエロニムスとアーヴが衣装屋から出てくる。主人の方はバッカス、そして哀れな召使はキューピッドの姿になっている。その二人に続き、衣装屋の店長も(『ディドーとエネアス』の)ディドーに仮装して舞踏会場へと入っていく。夜警が9時を告げると、会場からはにぎやかな音楽が聞こえ始める。

〔 第3幕 〕

仮面舞踏会は、宴たけなわ。主催者(B)の号令でコティヨンの踊りが始まると、娘たちが学生たちに誘いをかける。オレンジやバラの花を売る子供(Boy-S)が通り過ぎる。ヘンリクは前の晩にいちゃついた三人の娘たちに呼び止められ、移り気な性格をなじられる。羊飼いに扮装したレアンダーと花の女神に扮した恋人は、ここでついにお互いの名前を伝え合う。相手の女性の名がレオノーラ(S)と分かったとき、「ぼくらの名前は永遠につながって、一つだ」とレアンダーは答える。一方、家来同士のヘンリクとペルニッレ(Ms)も、お互いの愛情をそこで確認。

続いて、レナード卿とマグデローネのやり取り。レナードはしきりにマグデローネにアプローチするが、彼女の方は「正体がばれたら、大変」と内心戦々恐々。そこへ、イエロニムスが近づいて来る。彼は最初、この二人が息子のレアンダーとその恋人であろうと思い込んだが、人違いと分かってお詫びする。しかし、まさかレナード卿と自分の妻であるとまでは思いもよらず、その場を去っていく。

(※音楽的な観点、そしてドラマ面での楽しみという点でも、この第3幕が当オペラの中でも一番のクライマックスと言えそうだ。音楽面ではまず、冒頭の華やかな前奏と合唱、そして各種の舞曲。さらにレアンダーとレオノーラ、そしてヘンリクとペルニッレの二重唱など、聴かせどころが集中している。とりわけ、レアンダーとレオノーラの二人が名前を教えあう場面は、ちょっとしたハイライト・シーンである。ここはさすがに、音楽にもロマンティックな雰囲気が漂う。)

(※ところで、ヘンリクとペルニッレの二重唱だが、ここにはデンマーク語の分かる人だけが楽しめるような“言葉遊び”みたいなものが見られる。「ヘンリク、あなたは私の心のフェンリク【=officer、将校】よ」とペルニッレが言えば、「ペルニッレ、君はぼくの魂のペルズィッレ【=parsley、パセリ】だ」とヘンリクが応じる。そして二人揃って、「この韻の踏み方、楽しいね」と歌うのである。この部分は、原語台本と英訳を並べた歌詞ブックを見ながら気がついたのだが、やはりオペラは原語が分かる人とそうでない人では楽しみの深さが違ってきてしまう。しかしまあ、このあたりは仕方のない問題であろう。)

学生と軍人の間で喧嘩騒ぎが起こるが、舞踏会の主催者が「『雄鶏の踊り』を始めよう」と宣言し、その場をとりなす。そして踊りが終わる頃、ヘンリクがレアンダーのところに来て伝える。「最悪ですよ。あのバッカスに仮装している変な男、あれはイエロニムス様です」。「うげげっ」。続いてヘンリクはレアンダーの苦境を家庭教師(B)に伝え、彼の手助けを請う。話を引き受けた家庭教師はイエロニムスに酒を勧めて酔わせ、彼の注意をよそに向けさせる。その後アーヴがヘンリクの正体に気づくが、「台所でやったことを、ばらすぞ」と脅され、そのまま黙っていることを約束。

(※演奏時間約5分半の『雄鶏の踊り』も、さすがにニールセンらしい一曲で、何ともシンフォニックな響きを持つ舞曲に仕上がっている。随所に「コッ、コッ、コッ」「ココココ」というニワトリの声を模したような音型が聞かれるのが、いかにもタイトルどおり。舞台では、どんな踊りが見られるのだろうか。)

続いて、ディヴェルティスマン(=お楽しみ)の時間。ファンファーレに続いて踊りの先生と彼のフィアンセであるバレリーナが登場し、『マルスとヴィーナスの恋』を演じる。これは「女神ヴィーナスが夫の留守中に軍神マルスと浮気を楽しむが、途中で天井から落ちてきた網に捕えられてしまう」といった内容のお芝居である。二人とも身動きできずにじたばたしているところへ、ヴィーナスの夫であるヴァルカン(=鍛冶の神ヘパイストス)が帰ってくるので一同大笑い、という展開だ。その「パントマイムとダンス」に合わせて、家庭教師と学生たちがバッカス讃歌をにぎやかに歌う。

そこへ、すっかり酔いが回ったイエロニムスがやって来てバレリーナに言い寄るが、それを見て怒った踊りの先生に制せられる。続いて先生とバレリーナは二人がかりになって、しょうもない酔っ払いオヤジをグルグルグルグルと回転させる。日ごろの威厳など完全に吹き飛んで、イエロニムスはすっかり皆の笑いもの。

やがて、舞踏会の主催者が死の神モルス(=タナトス)に扮した姿で登場。そこで、会の進行はストップする。この神の姿は、“現世の楽しみのはかなさ”を人々に思い起こさせるのである。「さあ、今日はこれでお開き。皆、元の姿に戻るのです」。名残惜しい気持ちに浸りつつ、参加者が一人ひとり、仮装を解き始める。レナード卿とマグデローネ、レアンダーとレオノーラ、ヘンリクとペルニッレ、そしてアーヴとイエロニムス。それぞれが順に、素顔を見せ始める。

イエロニムスは、息子が見知らぬ娘とくっついているのを見て腹を立てるが、自分の妻であるマグデローネがレナード卿とくっついているのを見て、さらにびっくり。しかし、事態はすぐに解決。息子と一緒にいる娘が、他でもないレナード卿の息女レオノーラ、つまり、もともと息子と結婚してほしかったお相手だったと分かり、イエロニムスは一安心。妻のマグデローネも、別に不倫などしてはいなかった。これにて、一件落着。『チェーン・ダンス』の華やかな踊りと合唱をもって、オペラはめでたし、めでたしの終曲となる。

―以上で、ニールセンの歌劇<仮面舞踏会>は終了。先頃語ったゴメスの<グアラニー族>などとは対照的に、この作品にはイタリアやフランスなどのオペラ書法を真似して書かれたような部分は殆ど見当たらない。良くも悪くも、「デンマークの作曲家カール・ニールセンが書いたオペラ」という感じがする。従って、ここで聴くことのできる音楽はオペラティックというよりもシンフォニックな性格が強く、「やっぱりニールセンは基本的に交響曲作家であって、オペラ作家とか、メロディ・メイカーとかいうタイプの人じゃないんだよなあ」と思わせるものになっている。だからCDで音だけを聴いていると、(少なくとも私は)“地味に楽しいオペラ”という印象を受けてしまうのが正直なところだ。

ただ、その一方で、実際の舞台を目で見ながらの鑑賞であったら、このオペラに対する感想はまた随分違ったものになってくるんじゃないかなという気もする。特に、第3幕で披露される仮面舞踏会のシーンなどは、登場人物たちの装いとか、各種の舞曲で見られる踊りの振り付けとか、視覚的に楽しめる要素が結構ありそうなのだ。プロコフィエフの舞台作品などと同様、当ニールセン歌劇も映像があったら、きっとまた次元の違う味わい方ができるに違いない。

いずれにしても、ムソルグスキーやヤナーチェクのオペラみたいに、「イタリアやフランスなどに代表される西ヨーロッパの書法に倣わず、作曲家がひたすら自国の言語と独自の音楽語法に徹して書いたオペラ」というのは、そのある種エソテリック(esoteric)な性格ゆえに、国際的に認知されるのが非常に遅れてしまうのは避けられないということであり、今回のニールセン歌劇にも、その話がかなり当てはまってくるのではないかと思えるのである。

―次回は、小休止。だいぶ重くなってきた「過去の記事タイトル一覧」のトップ・ページをいったん更新しておくことにしたい。
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ニールセンの歌劇<仮面舞踏会>(1)

2008年09月25日 | 作品を語る
今回のトピックは、デンマークの作曲家カール・ニールセン【※注1】の歌劇<仮面舞踏会>(1906年・初演)。思いっきり有名なヴェルディの同名悲劇とは対照的に、こちらは至ってお気楽なコメディ・オペラである。

【※注1】 今回は<グアラニー>からのしりとりという形で、ニールセンと表記したが、この作曲家の名前はニルセンとつめて発音した方が原語に近いみたいなことを、どこかで読んだことがある。NHKも、ニルセンの方を採用しているようだ。ちなみに日本語版・ウィキペディアによると、ネルセンという表記もあるらしい。一応、参考までに。なお、これから並べるあらすじは、ウルフ・シルマーの指揮によるデッカの輸入盤CDに付いている解説書の英文を当ブログ主が抄訳したものなので、人物名等のカタカナ表記については必ずしも正確さを保証できるものではない。その点はどうか、悪しからず。

―ニールセンの歌劇<仮面舞踏会>のあらすじ

〔 第1幕 〕

舞台は、コペンハーゲン。1723年の春。若者レアンダー(T)と家来のヘンリク(Bar)が、午後5時にのんびりと目を覚ます。前の晩に参加した仮面舞踏会の興奮も冷めやらず、「今夜もまた、行くお」と、レアンダーは再び出かける構えで気もそぞろ。と言うのも、彼はそこで出会った娘と恋に落ちてしまったのである。しかし、ヘンリクは「あなたはお父様の手配どおり、レナード卿のご息女と結婚することになっております。その縁談を破棄するとなると、法的にいろいろと面倒なことになりますから」と、恋する男に注意を促す。そこへレアンダーの母マグデローネ(Ms)が現れ、彼女もまた仮面舞踏会に興味津々であることを打ち明ける。「私だって、踊りはまだまだ現役ですよ」。

(※内容が楽しいコメディということもあって、このオペラの序曲はさすがに華やか。しかしやはり、書いたのはカール・ニールセン。どこか仄暗く、重厚な響きを持った音楽で、北欧の交響曲作家の面目躍如といった感じの一曲になっている。一方、マグデローネがうきうきしながら歌う場面で聞かれるメヌエットの音楽は、思いがけず軽やか。)

続いて、レアンダーの父イエロニムス(B)が登場。「お前たちが仮面舞踏会へ行くのは、許さん」と、彼は一同に禁止令を出す。そして、息子がいまだにレナード卿のところに挨拶しに行っておらず、それどころか舞踏会で出会った見知らぬ娘に入れ込んでいるという話を聞くや、彼は怒り心頭。「何が仮面舞踏会だ。持つべき公共心も持っておらんのか」。するとそこへ、当のレナード卿(T)がやって来る。彼は何やら申し訳なさそうに、イエロニムスに話しかける。「実は、うちの娘が、貴殿のご子息との縁談に乗り気ではありませんで・・。ええ、なんでも、仮面舞踏会で出会った若者と恋に落ちてしまったなどと申しまして」。(←いきなりオチが見えてしまった方、しばらくご辛抱を。w )

(※ここで登場する厳格親父のイエロニムス。この人こそ、ドラマの原動力だ。ちょうど、モーツァルトの<後宮>に出てくるオスミンを思わせるような存在感がある。なお、今回参照しているデッカ盤は、そのイエロニムスを歌うオーゲ・ハウグランドの他、レアンダーを歌うゲルト=ヘニング・イェンセン、ヘンリクを歌うボー・スコウフスら、出演者が皆、お国もののオペラを楽しく演じている様子がCDを通じた音声だけでもよく伝わってくる。ウルフ・シルマーが指揮するデンマーク国立放送響&合唱団による演奏も、これまた優秀な出来栄えと言ってよいと思う。)

イエロニムスは召使のアーヴ(T)を呼び、「今夜は誰も出かけたりしないように、よく見張っておれ」と命じる。ヘンリクは仮面舞踏会の意義を熱心に語るが、そんな話にさっぱり感心しない様子のイエロニムスは、「レナード卿によくお詫びし、明日の3時、そちらの娘さんとお前は結納を交わすのだ」とレアンダーに言いつける。レアンダーの方は勿論、拒否。家来のヘンリクともども、自分たちが楽しむ権利を主張する。父子の主張は、かくして平行線。レナード卿もイエロニムスに賛同している様子を見せるが、内心では彼も、「仮面舞踏会には、行ってみたいのう」と思っている。

(※召使のアーヴというテノール役は、いわゆる“いじくられキャラ”として、あちこちで笑いのネタを提供してくれる。主人のイエロニムスと並ぶ重要?キャラクターの一人だ。w なお、この第1幕を締めくくるのは、畳み込むようなリズムによる快速アンサンブル。で、このあたりがまたニールセンらしいというか、音楽の充実ぶりがオペラティックというよりむしろ、シンフォニック。)

〔 第2幕 〕

その日の夜。夜警(B)が8時を告げて、通り過ぎる。アーヴが主人の指示通り、屋敷の見張りに立っている。迷信深い彼は、悪霊から身を守ろうと賛美歌を口ずさむ。そこへ幽霊の扮装をしたヘンリクが現れ、彼を仰天させる。「今までに犯した罪を告白せよ」と幽霊に迫られたアーヴはすっかり怯え、しょうもない懺悔(ざんげ)を始める。「台所で、私はこれまでにいろいろな物を失敬してまいりました。はい、食べ物から何から、いろいろ。そこで働いているメイドの処女も、いただいちゃったし」。大笑いのヘンリクはそこで素顔を見せ、「俺とレアンダーを屋敷から出させてくれたら、お前の秘密は絶対内緒にしといてやるよ」と、アーヴに持ちかける。学生たち、兵士たち、そして若い娘たちが揃って通りかかる。彼らの行く先は勿論、舞踏会が催されるプレイハウス。その中にはレナード卿も混じっていたが、彼はアーヴに気づくや、「これから、家に帰るところですわ」と嘘をつく。

その後、首尾よく屋敷を抜け出したレアンダーとヘンリクは、仮装して輿(こし)に乗った二人の若い女性と道で遭遇。そのうちの一人は他でもない、レアンダーと昨夜恋に落ちた娘である。で、もう一人は、彼女の侍女であるペルニッレ。そこからは四人揃っての道行となり、向かうは勿論プレイハウス。しかし、その頃、レアンダーの屋敷では大騒ぎとなっていた。若い二人が抜け出したことを知ったイエロニムスが、怒り狂って収まらないのである。

―この続き、オペラの後半部分の展開については、次回・・。
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歌劇<グアラニー族>

2008年09月15日 | 作品を語る
前回まで語ったハンガリーの作曲家フェレンツ・エルケルと同様、ブラジルの作曲家カルロス・ゴメス(1836~96年)も、ドニゼッティやヴェルディをお手本にしたようなオペラを書いた。今回は、そんな彼の代表作と言ってもよいであろう歌劇<グアラニー族>(1870年)を採りあげてみることにしたい。参照演奏は、ジョン・ネシュリング指揮ボン市ベートーヴェン・ホール管弦楽団、他による1994年6月のライヴCD(ソニー盤)。これは輸入廉価盤のため歌詞対訳も解説も全くついていないので、以下に並べるあらすじ文は、ネット上の英文サイトで見つけたsynopsisを当ブログ主が訳出したものである。

―歌劇<グアラニー族>のあらすじと音楽

〔 第1幕 〕

時は1660年。リオ・デ・ジャネイロの近くにあるポルトガル人ドン・アントニオ(B)の城。ポルトガル人とスペイン人の一団が狩猟グループを結成し、気炎を上げる。ドン・アントニオは、「インディオの娘が白人の男に凌辱された事件以来、アイモレ族が復讐を誓っている。気をつけろよ」と、彼らに警戒を促す。インディオのリーダーであるペリ(T)は、争いが起こったときは西洋人に協力することを約束する。と言うのも、彼はドン・アントニオの娘であるセシリア(S)とひそかに愛し合っているのである。そんな秘め事を知る由もないドン・アントニオは、「お前は、ポルトガルの貴族ドン・アルヴァロと結婚するのだ」と愛娘に伝える。セシリアは不本意ながらも、父親への恭順さを示そうと、うなずいて応じる。鐘が鳴ると人々は、『アヴェ・マリア』を唱和。やがて二人きりになったペリとセシリアは、愛の二重唱を歌い始める。

(※序曲はまず堂々たる前奏で開始され、続いて本編に出てくるいくつかのテーマがつながれて演奏される。これはたたみかけるようなリズムとメロディアスなテーマが交互に現れ、どこかヴェルディの<シチリア島の夕べの祈り>を想起させるような一曲になっている。その後、狩猟グループが気勢を上げる場面で聞かれる男声合唱もやはり、ヴェルディ風だ。背景に流れるホルンがいかにも、角笛の響きを連想させる。)

(※ヒロインであるセシリアが登場するときの歌には、かなり高度なコロラトゥーラの技巧が要求されている。このあたりはまあ、ドニゼッティ風といった感じになろうか。これは途中から男声合唱も加わり、非常に華麗な音楽に展開していく。)

〔 第2幕 〕

洞窟の中。スペインの探検家ゴンザレス(Bar)と彼の仲間たちが、ドン・アントニオの城を略奪する計画について相談している。ペリが少し離れたところで、彼らの会話を耳にする。場面変わって、セシリアの寝室。眠りについた彼女を誘拐しようと、ゴンザレスが忍び込んでくる。しかし、外から放たれた矢によって、彼は手を負傷する。この騒ぎを聞いて人々が集まったところで、ペリはゴンザレスの陰謀を暴露。「裏切り者ゴンザレスを、処罰しろ」と皆がいきり立った時、アイモレ族の襲撃が始まる。城の住人は団結し、防衛戦の構えに入る。

(※不穏なムードを漂わせる弦のアンサンブルに木管が色を添える書法、まさにヴェルディ流の前奏曲で第2幕が始まる。ここでは、ゴンザレス一味による合唱、ゴンザレスのアリア、セシリアが歌うバラードといったあたりが一応の聴きどころになっているのだが、ゴンザレスがセシリアの寝室に入り込む場面での音楽が私には面白く感じられる。「すべてが静かだ」というゴンザレスのセリフはふとルナ伯爵を連想させるが、実はその後に続くセシリアとのやり取りもまた、どことなく<トロヴァトーレ>風なのである。やがて彼女を助けに来たペリが登場し、城の人々も集まっての壮麗なコンチェルタータが始まる。今回聴いている全曲盤でペリを歌っているのは、プラシド・ドミンゴ。声自体はさすがに盛りを過ぎているものの、その熱演ぶりは全盛期さながらである。セシリア役のベロニカ・ビラロエルという人も、力のこもった歌唱で健闘している。しかしながら、このソニー盤は指揮者とオーケストラが力不足のため、歌手たちのせっかくの熱唱を支えきれていないように感じられる。冒頭の序曲でも感じられたことだが、このオペラはムーティやシャイーのような人がきびきびと振ってくれたら、おそらくもっと生きてくるのではないかと思える。)

〔 第3幕 〕

アイモレ族の集落。城の襲撃に十分な成果をあげられなかった酋長(B)が、新たな仕返しを誓う。捕えられたセシリアが、酋長の前に引き出される。一方、ペリも今回の襲撃で捕えられており、別の捕虜グループに入れられていた。ペリがドン・アントニオの友人であることを知っているアイモレ族の者たちは、彼に死刑を宣告。儀式の踊りが準備される。そして、「処刑される者の最後のひと時は、好きな人と過ごさせてやる」という彼らのしきたりによって、ペリはセシリアとの逢瀬を許される。儀式が盛り上がる中、彼らの周りを取り囲むように銃声が響き始める。ドン・アントニオに率いられた人々が、捕虜の救出にやって来たのだ。

(※この第3幕が、歌劇<グアラニー族>全曲の中でも一番音楽的に充実しているのではないだろうか。ここでは開幕早々に聞かれるアイモレ族の勇猛な合唱、セシリアとペリの二重唱、そしてアイモレ族の酋長が歌うアリアとそれに続く合唱等、聴き栄えのするナンバーが次々と展開するのである。なお、ここでもまた、その音楽的な雰囲気には、ヴェルディの<トロヴァトーレ>を髣髴とさせる要素があちこちに見受けられる。)

〔 第4幕 〕

城の地下。ドン・アントニオを排除しようと企むゴンザレス一味は、アイモレ族と協定を結ぶ用意をしている。そのことを知ったドン・アントニオはペリを呼び、「無駄な抵抗をするよりも、君は逃げた方がよい」と彼に勧める。ペリは、「自分が助かるだけでなく、セシリアも助けたい」と願うが、自分の娘を異教徒に委ねることにドン・アントニオはためらいを感じる。そこでペリは改宗を決意し、キリスト教の洗礼を受ける。セシリアは父親を置いていくことを嫌がったが、結局ペリと二人で城を離れることとなった。やがて、ドン・アントニオを捕えんとするゴンザレス一味が、城に乗り込んでくる。その時、ポルトガル人たちが火薬庫に火をつけ、城に大爆発を起こす。燃えあがる炎はドン・アントニオと仲間たち、そしてゴンザレス一味も、皆容赦なく焼き尽くしていく。かなたにある丘の上から、セシリアとペリの二人は、すべてを呑み込んでいく炎をじっと見つめるのだった。

―歌劇<グアラニー族>に対する賛辞と疑問

ヴェルディ風の国民歌劇が南米ブラジルの作曲家によって書かれていたというのは、ちょっと意外な感じがするけれども、実はどうしてどうして、歴史的にブラジルという国はかなりオペラに親近感を持っていた側面があるらしいのである。岡田暁生著『オペラの運命』(中公新書)によると、作曲家ゴメスが活躍していた頃のブラジル皇帝はペドロ2世という人だったそうなのだが、この皇帝がまさにペラキチ(?)で、リオ・デ・ジャネイロに宮廷歌劇場を作らせたり、当時不遇だったワグナーを呼び寄せてイタリア語によるワグナー作品の上演を試みたり(※ただし、実現しなかった)、バイロイトの杮(こけら)落としに列席してみたり、まあ、とにかく熱心にオペラ文化の興隆に尽力していたようなのだ。(※ちなみに、そのリオの歌劇場で伝説的な指揮デビューを飾ったのが、あのトスカニーニである。)

カルロス・ゴメスはそんな皇帝から奨学金をもらってミラノ音楽院で学び、スカラ座で上演するために歌劇<グアラニー族>を書いた。で、そのエキゾティシズムが聴衆に受けて、オペラは大ヒット。ちょうど、ヴェルディの<アイーダ>がエジプトで初演される1年前のことになる。大家ヴェルディにも高く評価された<グアラニー族>は、以来ブラジルの代表的なオペラとして位置づけられることとなった。

―とまあ、ここまでの話ではゴメス歌劇に対する賛辞のオンパレードなのだが、私個人的にはちょっと引っかかりを感じてしまう部分がなくもない。まず、音楽的な面で、このオペラにはブラジルらしさを感じさせてくれる要素が乏しいこと。たとえば、序曲など「第二のブラジル国家」とまで呼ばれたりしているそうなのだが、音楽的な作りはイタリア・オペラそのものなのだ。

あと、もう一つ。主人公ペリの人物像にも疑問がある。ブラジルの国民的英雄と呼ぶには、このインディオのリーダーはあまりにもヨーロッパ人にとって都合の良いキャラクターになってはいないかという点である。ポルトガル人の娘と愛し合い、戦争になったらヨーロッパ人の味方をすると約束し、そして最後には土着の宗教をあっさり捨ててキリスト教に改宗までしてしまう。つまるところ、この主人公は、「ヨーロッパ人にとって好ましい植民地のヒーロー」なのだ。逆に、もともとそこに住んでいたネイティヴの人たちにとっては、海の向こうから乗り込んできて勝手放題(たとえば、現地の少女に辱めを与えるなどの悪行)をしているヨーロッパ人に対して反旗を翻すアイモレ族の酋長、その酋長のような人こそむしろ、英雄的存在なのではないのだろうか。と、どうもそんな風に思えて仕方がないのである。結局このオペラ、国民歌劇なるものが国際的に認知されるには、イタリアやフランスなどの西ヨーロッパ諸国で評価されねばならないという重い現実を如実に証明している作品の一例と言ってよいようである。

―以上で、歌劇<グアラニー族>のお話は終了。次回登場するのは、今回語った<イル・グアラニー>の「ニー」をしりとりして、ニールセン。デンマークの作曲家カール・ニールセンのオペラを、一つ。
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歌劇<バーンク・バーン>(2)

2008年09月05日 | 作品を語る
前回の続きで、エルケルの歌劇<バーンク・バーン>。今回は、その後半部分。

〔 第2幕・第2場 〕・・・王妃の寝室

寝室に突然現れたバーンクに、王妃は驚く。「退出せよ」と彼女は命令するが、バーンクは従わない。二人の緊迫したやり取りが始まる。「妻のことでは、あなたに感謝している」「そなたは、今自分でしていることが、正当なことと思っておるのか」「王の留守中に享楽の馬鹿騒ぎ、それは正当なことか?私の妻を呼び寄せ、気が狂うまでに追い詰めた。それは正当なことか?私の家庭は崩壊し、残されたのは恥辱だけ。これが正当なことと思うのか」。詰め寄るバーンクに、王妃は必死に威厳を保って対抗する。「わらわに触れるでない!そなたの前におるは、女王なるぞ」。

「私はマジャールの国土を旅して歩き、いたるところで人々の悲しみの声を聞いた。そのことを私はずっと訴えてきたが、あなたはまったく聞き入れなかった。・・・人民の敵め、呪われるがいい」と、バーンクは王妃に迫る。「そなたは死罪じゃ」と叫び、王妃は部下の助けを呼ぶ。そこにオットーが駆けつけるが、彼はバーンクの形相を見るや、青ざめて逃走。王妃は短剣を抜き、バーンクに切りかかる。しかしバーンクはその剣を取り上げ、それを逆に王妃の身体に突き刺す。うめき声をあげながら、王妃はくず折れて絶命。「終わった。・・・喜べ、我が名誉よ。お前の穢れは、血の洗礼によって雪(そそ)がれた。おお、メリンダ!」とバーンクが叫ぶところで、第2幕が終了。

(※不穏なムードがいっぱいの前奏曲、そしてバーンクが王妃を殺害する場面で漂う<オテロ>みたいな雰囲気。ここはなかなかスリリングで、面白い。ところで、今回参照しているタマーシュ・パールの指揮による全曲盤では、エヴァ・マルトンが王妃を歌っている。当ブログで昔<トゥーランドット>を話題にし、いくつかの全曲録音について感想文を並べたことがあったが、その最後に扱ったジェイムズ・レヴァインの映像盤でタイトル役を歌っていたのが、このマルトンだった。今回の<バーンク・バーン>では、彼女のキャリアの最後期らしいかすれた声しか聞けないが、まあ、役柄的にはこの声量でも十分かな、とも思う。彼女はもともとハンガリー出身の人でもあり、歌詞が母国語というのは、それだけでも強みと言えるだろう。風貌もまた悪辣な王妃のイメージにぴったりで、舞台ではきっと凄い存在感を示してくれていたに違いない。)

〔 第3幕・第1場 〕・・・夜のティサ川のほとり

子供を抱いたメリンダが、ティボルツと一緒にティサ川のほとりまでたどり着く。しかし、すでに正気をなくしている彼女は、ティボルツが何を話しかけても応じない。嵐がすぐ近くまで来ていることを感じ取ったティボルツが船の用意をし、メリンダに早く乗るようにと促す。遠くから、「船には乗るな。嵐が来る」という声が聞こえてくる。ティボルツが改めてメリンダに乗船を急かすと、彼女は夫への別れの言葉を口にするや、幼い子供を抱いたまま荒れ狂う川の流れに身を投げてしまう。

(※ここは木管楽器群のゆらめくパッセージが何とも印象的なシーンだが、これは深く傷ついたメリンダの姿を暗示しているのだろうか。あと音楽的に面白いのは、「船には乗るな」と遠くから呼びかける男声合唱。これがまるで、教会か修道院の中で歌われているミサ曲みたいに響くのである。もう、この世のものではないような、いわく言いがたい不思議な音響世界だ。)

(※第3幕第1場は、メリンダ役の歌手にとって最もやりがいのある場面であろう。「昔々、やさしく愛し合う2羽の小鳥がおりました」と、バーンクと過ごした幸福な日々を暗示するような内容をまず歌う。その終わりの部分では、ドニゼッティが『狂乱の場』で使いそうな高音のパッセージが出てくる。続いて、稲光と雷鳴を表すオーケストラの間奏。これはごく短いものながら、なかなか充実した音楽だ。そして、クラリネット・ソロと弦楽の前奏に導かれ、曲は悲しい『子守唄』へと進む。<バーンク・バーン>全曲を通しても、この場面がひょっとしたら一番の音楽的ハイライトと言ってよいかもしれない。今回参照しているパール盤では、アンドレア・ロストという若いソプラノ歌手がメリンダを歌っている。私は寡聞にしてこの人については何も知らないのだが、清純派みたいなイメージを持った歌手のようである。歌の線は細いが、役柄の性格は十分に歌いだしてくれていると思う。)

〔 第3幕・第2場 〕・・・王宮の祝宴の間

王宮の人々が、死んだ王妃の喪に服している。戦に勝利を収めて帰ってきた国王エンドゥレ2世は、「我が栄光への報酬が、これか?」と悲しみ、憤(いきどお)る。「犯人は誰だ」と叫ぶ王の前にバーンクが歩み出て、王妃殺害の理由とそれまでの状況を語る。「人殺しめ」とののしる王に、「人殺しというのは、違います。私は裁きを行なっただけです」とバーンクは応じる。怒りに燃える王が剣を抜いてバーンクを討とうとすると、そこへティボルツが入って来る。彼はメリンダと幼子の遺体を、ここまで運んできたのであった。「メリンダ様はお子様を抱いたまま、川へ身を投げてしまわれました。お助けしたかったのですが、激しい嵐のために出来ませんでした」。バーンクは愛する妻と息子の亡骸にすがりつき、「王よ、これであなたの復讐も果たされたでしょう!」と悲痛な叫びをあげる。「偉大なる神のお力!死せる者を受け入れ、そして憩わせたまえ」と人々が揃って祈るところで、全曲の終了。

(※国王エンドゥレ2世はバス歌手の役だが、パール盤で歌っているのはコロシュ・コヴァーチ。ちょっと懐かしい名前だ。ショルティの指揮によるバルトークの<青ひげ公の城>で、青ひげを歌っていた人である。このショルティ盤は、ずいぶん前にレーザー・ディスクで鑑賞したのだが、ユディット役のシルヴィア・シャシュに比べるとコヴァーチの青ひげはいささか聴き劣りがするように感じられた。演出家の指示かどうかは不明だが、顔のメイクも、あまりうまくいったものとは思えなかった。むしろノーメイクでやっていた方が良かったんじゃないかと、当時感じたものである。と言うのも、この方、素顔が結構怖いのだ。眉毛がほとんどなくて、目がギョロッとして。w と、これはあくまで、今から30年近くも前にこの人の顔写真を見たときの印象である。半分は冗談という感覚で、お読みいただけたらと思う。)

―以上で、エルケル歌劇のストーリーは終了。ところで、ブログ主はオペラのことしか知らないのだが、バーンク・バーンはハンガリー史の上でもかなり有名な人物のようで、日本語版・ウィキペディアにもちゃんと独立した項目がある。そこを読んでみると、物語への理解が少し深まる感じがする。ペトゥール・バーンやハンガリーの貴族たちが王妃追放を計画していた理由は勿論、彼女の専横にあったわけだが、それをもう少し具体的に言えば、「ドイツ人優遇政策」ということになるようだ。つまり、王妃ゲルトゥルドと彼女の弟オットーはともにドイツ人で、国王遠征中の留守をあずかった彼女は、ハンガリー人を押しのけ、ドイツ人ばかりを重用する政策をとったらしいのである。このオペラに出てくる貴族たちは、彼女によって領地を取り上げられてしまっていたようだ。勿論、ハンガリーの民衆に対しても王妃は厳しかった。そんな事情から、多くの人々がバーンクを支持するので、妻を殺されて激昂した国王エンドゥレも結局、バーンクを処罰することは出来なかったそうである。ただし、「王妃の弟に、バーンクの妻がレイプされた」という部分はおそらく、オペラ台本のための脚色ではないかと思われる。

―次回予告。かつて当ブログで採りあげたグリンカの<イワン・スサーニン>、そして今回語った2つのエルケル作品など、イタリア・オペラを手本にして書かれた国民歌劇は決して少なくない。その流れで次回は、オペラとはちょっとイメージがつながりにくい南米の作曲家が書いた“イタ・オペ流儀による国民歌劇作品”というのを一つ、語ってみることにしたい。
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歌劇<バーンク・バーン>(1)

2008年08月26日 | 作品を語る
今回のトピックは、歌劇<バーンク・バーン>(1861年)。フェレンツ・エルケル充実期の力作である。これは前回まで語った<フニャディ・ラースロー>と同じく、実際のハンガリー史にその名を残す人物の物語だ。まず、タイトルの意味について先に触れておくと、前半の“バーンク(Bank)”は主人公の名前ということで問題ないのだが、後半の“バーン(Ban)”がちょっと難しい。これは人の名前ではなく、一種の称号みたいな物らしい。英語ではviceroy、場合によってはlord of the countyなどといったあまり日常的でない語句が相当するもののようで、「領主」「総督」、あるいは「辺境伯」といった訳語が候補になってくるようだ。このあたりの政治用語の定義は苦手なので、当ブログではとりあえず、“領主のバーンク”といった程度に訳しておこうかと思う。参照演奏は、タマーシュ・パール指揮ハンガリー・ミレニアム管弦楽団、他による2001年のワーナー盤である。

―歌劇<バーンク・バーン>のあらすじと音楽

〔 第1幕・第1場 〕・・・ヴィスグラードにある王宮の大広間

領主のバーンク(T)には、メリンダ(S)という名の美しい妻がいる。そのメリンダに横恋慕しているのが、王妃ゲルトゥルド(Ms)の弟であるオットー(T)。このオットーが、「メリンダをうまく手に入れられそうだ」と騎士のビベラッハ(Bar)に語るところから、オペラは始まる。騎士は、「バーンクには力があるから、気をつけろよ」とオットーに忠告する。

(※悲劇的で荘重な前奏曲が、冒頭に流れる。作曲家若書きの<フニャディ・ラースロー>は“ハンガリー風味のドニゼッティ・オペラ”みたいな雰囲気を持っていたが、こちらの<バーンク・バーン>は、それよりもずっと充実した筆致で書かれている。前奏曲の後オットーが歌いだす場面への導入など、まるでヴェルディ・オペラみたいである。)

続いて、ビハール区の領主を務めるペトゥール(Bar)が、ハンガリーの貴族たちと一緒に登場。彼らは、王妃ゲルトゥルドを追放するための計画を練っている。と言うのも、王妃は夫である国王エンドゥレ2世(B)の留守中に専横な振る舞いをし、ハンガリーの人々を苦しめているからである。王妃たちの一行が通り過ぎた後、ペトゥールはバーンクに計画への協力を願い出る。しかしバーンクは、「そのような陰謀には賛成できん」と答える。「気が変わったら、今夜の集まりに来てくれ。その時の合言葉は、メリンダだ」と言葉を続けるペトゥールに、「何で俺の妻の名を使うのだ」とバーンクは訝(いぶか)って尋ねる。すかさずビベラッハが、「王妃の弟が、そなたの妻の操を奪おうとしているのだ」と、バーンクに話す。それを聞いたバーンクは激しい怒りに燃え、計画への協力を約束する。そして彼がその場を立ち去った後、ペトゥールらは、「バーンク・バーンを、我らのリーダーにしよう」と打ち合わせる。

再び王妃が従者を引き連れて広間に現れ、踊り手たちが華やかな『チャルダーシュ』を踊り始める。それからもオットーはしきりにメリンダを口説くが、彼女は必死にそれを拒む。しかし、王妃がオットーの味方についてしまうので、メリンダはいよいよ追い詰められる。

(※第1幕第1場で見られる音楽的な聴きどころは、主に3つ。まず、ペトゥール・バーンと貴族たちが豪快に歌う『酒の歌』。オーケストラの伴奏が、やはりヴェルディを髣髴とさせる。続いて、やっぱりそれが出ますよね、という感じの『チャルダーシュ』。このハンガリー舞曲は、前回の<フニャディ・ラースロー>にも結婚式の彩りとして出てきたが、こちらでは途中から合唱も加わって、音楽がさらに盛り上がる。最後は、第1場全体を締めくくる多声のアンサンブル。これはメリンダ、オットー、王妃、ビベラッハ、ペトゥール、そして貴族たちの男声合唱と侍女たちの女声合唱が絡み合い、それぞれの気持ちを歌いだす大掛かりな重唱である。作曲家エルケル渾身の筆さばき、といったところか。)

〔 第1幕・第2場 〕・・・礼拝堂の正面にある王宮の中庭

逃げるメリンダを追いかけて、オットーが執拗に迫る。この光景を目にしたビベラッハが、バーンクの元へと走る。オットーはしつこくメリンダを抱こうとするが、彼女は必死にいやな男を振り払って逃げる。やがてその場へ駆けつけたバーンクは、メリンダの後を追いかけるオットーの姿を確認し、「あいつめ、今に見ていろ」と復讐を誓う。バーンクがそこを去った後、オットーが戻り、「ちぇっ、失敗しちまったぜ」とビベラッハにこぼす。腹に一物ある騎士は、「これを使うといい」と言って、オットーに媚薬を渡して去らせる。そして一人になると彼は、「行け、このバカめ。おのれの首に、せいぜい気をつけるがいい」と、侮蔑の言葉を吐く。

(※第1幕第2場では、メリンダに言い寄るオットーのアリアがまずちょっとした一曲になってはいるが、音楽的にはむしろ、「あなたを軽蔑します」と柳眉を逆立てるメリンダとのやり取りの方が面白い。この場面、思いっきりイタ・オペ風なのだ。続いて、ビベラッハに導かれてバーンクが登場すると、重々しい金管のテーマが流れる。これは、主人公を示す一種のライトモチーフのように思える。そして、バーンクのアリア。「メリンダ、この世ならぬ美しい名よ」と始まる妻への賛歌は、途中から表情が一変し、彼女に迫る卑劣な男に対する怒りの歌へと変わっていく。ここは主役を演じるテノール歌手にとって、後に出てくる第2幕冒頭のアリアと並ぶ一番の聴かせどころであろう。)

〔 第1幕・第3場 〕・・・王宮内、玉座のある部屋

王妃が祝宴を催す。そこには、王妃やオットーに対して恨みを持つ者たちも来ている。メリンダは、「王宮にお招きいただいたことには、感謝しております。けれど、私はバーンクの妻です」と、夫の領地へ帰りたい気持ちでいることを語る。しかし、王妃はそんなメリンダの申し出を拒否する。続いてメリンダ、王妃、オットー、そしてペトゥールが、それぞれの胸中を歌いだすアンサンブル。

(※ここも上記の第1場と同じように、最後を締めくくる大規模なアンサンブルが聴きどころになっている。特に面白く感じられるのは、曲の後半にさしかかるところで、合唱の歌声がヴェルディの<ナブッコ>みたいにうねってくる部分だ。澎湃(ほうはい)と湧き上がる波のように、とでも表現できようか。こういう感じ、私は結構好きである。そして、アンサンブルの最後を締めくくるのは、いわゆるカバレッタ風の音楽。このリズム感、もうイタ・オペそのもの。w )

〔 第2幕・第1場 〕・・・王宮の礼拝堂

「祖国を救うことが、自分に残された使命だ」とアリアを歌って心情を吐露するバーンクのところに、一人の老いた農夫がやって来る。彼は領主であるバーンクに、民の窮状を訴えに来たのであった。バーンクは妻のことで頭がいっぱいだったため、はるばるやって来た老人に対して邪険な対応をする。しかし、「ずっと昔のことです。ザラで戦闘があった時、ヴェネツィアの刺客が幼いあなたとお父上を狙ってきましたが・・」と彼が話し始めると、バーンクははっきりと思い出す。この農夫こそ、かつて戦場で自分を救ってくれた命の恩人ティボルツ(Bar)であると。バーンクは、民衆のために力になろうと彼に約束する。

そこへ、ビベラッハが恐ろしい知らせを持ってやって来る。「オットーがついに、メリンダの寝込みを襲って犯してしまったぞ」。激しいショックに立ちすくむバーンク。やがてメリンダが打ちしおれた様子でそこへ現れ、自分の心の貞淑と穢されてしまった体のことを夫に告白する。傷心のバーンクはティボルツに、「妻を城まで送り届けてやってくれ」と依頼。その言葉を受けてティボルツは、メリンダと幼い子供を連れて城ヘと向かう。

(※「バーンクお願い、私を殺して」と始まるメリンダの歌は哀切を極めるものだが、ここではヴィオラ・ダモーレのソロと民族楽器ツィンバロンが伴奏を務め、いかにもハンガリー的な情緒を醸し出す。妻の痛々しい姿を見たバーンクが、「白いユリはどこへ」と歌いだし、それはやがて妻メリンダとの二重唱に発展する。まことに悲しくも、壮麗なデュエットである。そしてティボルツに連れられてメリンダと幼い息子が去った後、上記2種の独奏楽器による長い楽曲が流れる。これは、後のシーンに移る前の間奏曲みたいなものと考えてよいだろう。しかしまあ、しみじみと悲しい曲である。)

―この続き、怒れるバーンクの復讐からオペラの幕切れまでの展開については、次回・・・。
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