前回の続きで、カール・ニールセンの歌劇<仮面舞踏会>。今回は、その後半部分。
〔 第2幕~後半 〕
いきり立ったイエロニムスが舞踏会場に乗り込もうとやって来たが、彼は入り口で制止される。「ここから先は、何か仮装していただきませんと・・」。召使のアーヴを引きずって、近くの貸衣装屋へ入っていくイエロニムス。そんな出来事の間、仮面をつけたマグデローネがこっそりと通りへ出てくる。そこで彼女は、これまた仮面をつけたレナード卿と遭遇。お互いに正体を知らない二人は、一緒に揃って舞踏会場へ。
やがて、イエロニムスとアーヴが衣装屋から出てくる。主人の方はバッカス、そして哀れな召使はキューピッドの姿になっている。その二人に続き、衣装屋の店長も(『ディドーとエネアス』の)ディドーに仮装して舞踏会場へと入っていく。夜警が9時を告げると、会場からはにぎやかな音楽が聞こえ始める。
〔 第3幕 〕
仮面舞踏会は、宴たけなわ。主催者(B)の号令でコティヨンの踊りが始まると、娘たちが学生たちに誘いをかける。オレンジやバラの花を売る子供(Boy-S)が通り過ぎる。ヘンリクは前の晩にいちゃついた三人の娘たちに呼び止められ、移り気な性格をなじられる。羊飼いに扮装したレアンダーと花の女神に扮した恋人は、ここでついにお互いの名前を伝え合う。相手の女性の名がレオノーラ(S)と分かったとき、「ぼくらの名前は永遠につながって、一つだ」とレアンダーは答える。一方、家来同士のヘンリクとペルニッレ(Ms)も、お互いの愛情をそこで確認。
続いて、レナード卿とマグデローネのやり取り。レナードはしきりにマグデローネにアプローチするが、彼女の方は「正体がばれたら、大変」と内心戦々恐々。そこへ、イエロニムスが近づいて来る。彼は最初、この二人が息子のレアンダーとその恋人であろうと思い込んだが、人違いと分かってお詫びする。しかし、まさかレナード卿と自分の妻であるとまでは思いもよらず、その場を去っていく。
(※音楽的な観点、そしてドラマ面での楽しみという点でも、この第3幕が当オペラの中でも一番のクライマックスと言えそうだ。音楽面ではまず、冒頭の華やかな前奏と合唱、そして各種の舞曲。さらにレアンダーとレオノーラ、そしてヘンリクとペルニッレの二重唱など、聴かせどころが集中している。とりわけ、レアンダーとレオノーラの二人が名前を教えあう場面は、ちょっとしたハイライト・シーンである。ここはさすがに、音楽にもロマンティックな雰囲気が漂う。)
(※ところで、ヘンリクとペルニッレの二重唱だが、ここにはデンマーク語の分かる人だけが楽しめるような“言葉遊び”みたいなものが見られる。「ヘンリク、あなたは私の心のフェンリク【=officer、将校】よ」とペルニッレが言えば、「ペルニッレ、君はぼくの魂のペルズィッレ【=parsley、パセリ】だ」とヘンリクが応じる。そして二人揃って、「この韻の踏み方、楽しいね」と歌うのである。この部分は、原語台本と英訳を並べた歌詞ブックを見ながら気がついたのだが、やはりオペラは原語が分かる人とそうでない人では楽しみの深さが違ってきてしまう。しかしまあ、このあたりは仕方のない問題であろう。)
学生と軍人の間で喧嘩騒ぎが起こるが、舞踏会の主催者が「『雄鶏の踊り』を始めよう」と宣言し、その場をとりなす。そして踊りが終わる頃、ヘンリクがレアンダーのところに来て伝える。「最悪ですよ。あのバッカスに仮装している変な男、あれはイエロニムス様です」。「うげげっ」。続いてヘンリクはレアンダーの苦境を家庭教師(B)に伝え、彼の手助けを請う。話を引き受けた家庭教師はイエロニムスに酒を勧めて酔わせ、彼の注意をよそに向けさせる。その後アーヴがヘンリクの正体に気づくが、「台所でやったことを、ばらすぞ」と脅され、そのまま黙っていることを約束。
(※演奏時間約5分半の『雄鶏の踊り』も、さすがにニールセンらしい一曲で、何ともシンフォニックな響きを持つ舞曲に仕上がっている。随所に「コッ、コッ、コッ」「ココココ」というニワトリの声を模したような音型が聞かれるのが、いかにもタイトルどおり。舞台では、どんな踊りが見られるのだろうか。)
続いて、ディヴェルティスマン(=お楽しみ)の時間。ファンファーレに続いて踊りの先生と彼のフィアンセであるバレリーナが登場し、『マルスとヴィーナスの恋』を演じる。これは「女神ヴィーナスが夫の留守中に軍神マルスと浮気を楽しむが、途中で天井から落ちてきた網に捕えられてしまう」といった内容のお芝居である。二人とも身動きできずにじたばたしているところへ、ヴィーナスの夫であるヴァルカン(=鍛冶の神ヘパイストス)が帰ってくるので一同大笑い、という展開だ。その「パントマイムとダンス」に合わせて、家庭教師と学生たちがバッカス讃歌をにぎやかに歌う。
そこへ、すっかり酔いが回ったイエロニムスがやって来てバレリーナに言い寄るが、それを見て怒った踊りの先生に制せられる。続いて先生とバレリーナは二人がかりになって、しょうもない酔っ払いオヤジをグルグルグルグルと回転させる。日ごろの威厳など完全に吹き飛んで、イエロニムスはすっかり皆の笑いもの。
やがて、舞踏会の主催者が死の神モルス(=タナトス)に扮した姿で登場。そこで、会の進行はストップする。この神の姿は、“現世の楽しみのはかなさ”を人々に思い起こさせるのである。「さあ、今日はこれでお開き。皆、元の姿に戻るのです」。名残惜しい気持ちに浸りつつ、参加者が一人ひとり、仮装を解き始める。レナード卿とマグデローネ、レアンダーとレオノーラ、ヘンリクとペルニッレ、そしてアーヴとイエロニムス。それぞれが順に、素顔を見せ始める。
イエロニムスは、息子が見知らぬ娘とくっついているのを見て腹を立てるが、自分の妻であるマグデローネがレナード卿とくっついているのを見て、さらにびっくり。しかし、事態はすぐに解決。息子と一緒にいる娘が、他でもないレナード卿の息女レオノーラ、つまり、もともと息子と結婚してほしかったお相手だったと分かり、イエロニムスは一安心。妻のマグデローネも、別に不倫などしてはいなかった。これにて、一件落着。『チェーン・ダンス』の華やかな踊りと合唱をもって、オペラはめでたし、めでたしの終曲となる。
―以上で、ニールセンの歌劇<仮面舞踏会>は終了。先頃語ったゴメスの<グアラニー族>などとは対照的に、この作品にはイタリアやフランスなどのオペラ書法を真似して書かれたような部分は殆ど見当たらない。良くも悪くも、「デンマークの作曲家カール・ニールセンが書いたオペラ」という感じがする。従って、ここで聴くことのできる音楽はオペラティックというよりもシンフォニックな性格が強く、「やっぱりニールセンは基本的に交響曲作家であって、オペラ作家とか、メロディ・メイカーとかいうタイプの人じゃないんだよなあ」と思わせるものになっている。だからCDで音だけを聴いていると、(少なくとも私は)“地味に楽しいオペラ”という印象を受けてしまうのが正直なところだ。
ただ、その一方で、実際の舞台を目で見ながらの鑑賞であったら、このオペラに対する感想はまた随分違ったものになってくるんじゃないかなという気もする。特に、第3幕で披露される仮面舞踏会のシーンなどは、登場人物たちの装いとか、各種の舞曲で見られる踊りの振り付けとか、視覚的に楽しめる要素が結構ありそうなのだ。プロコフィエフの舞台作品などと同様、当ニールセン歌劇も映像があったら、きっとまた次元の違う味わい方ができるに違いない。
いずれにしても、ムソルグスキーやヤナーチェクのオペラみたいに、「イタリアやフランスなどに代表される西ヨーロッパの書法に倣わず、作曲家がひたすら自国の言語と独自の音楽語法に徹して書いたオペラ」というのは、そのある種エソテリック(esoteric)な性格ゆえに、国際的に認知されるのが非常に遅れてしまうのは避けられないということであり、今回のニールセン歌劇にも、その話がかなり当てはまってくるのではないかと思えるのである。
―次回は、小休止。だいぶ重くなってきた「過去の記事タイトル一覧」のトップ・ページをいったん更新しておくことにしたい。
〔 第2幕~後半 〕
いきり立ったイエロニムスが舞踏会場に乗り込もうとやって来たが、彼は入り口で制止される。「ここから先は、何か仮装していただきませんと・・」。召使のアーヴを引きずって、近くの貸衣装屋へ入っていくイエロニムス。そんな出来事の間、仮面をつけたマグデローネがこっそりと通りへ出てくる。そこで彼女は、これまた仮面をつけたレナード卿と遭遇。お互いに正体を知らない二人は、一緒に揃って舞踏会場へ。
やがて、イエロニムスとアーヴが衣装屋から出てくる。主人の方はバッカス、そして哀れな召使はキューピッドの姿になっている。その二人に続き、衣装屋の店長も(『ディドーとエネアス』の)ディドーに仮装して舞踏会場へと入っていく。夜警が9時を告げると、会場からはにぎやかな音楽が聞こえ始める。
〔 第3幕 〕
仮面舞踏会は、宴たけなわ。主催者(B)の号令でコティヨンの踊りが始まると、娘たちが学生たちに誘いをかける。オレンジやバラの花を売る子供(Boy-S)が通り過ぎる。ヘンリクは前の晩にいちゃついた三人の娘たちに呼び止められ、移り気な性格をなじられる。羊飼いに扮装したレアンダーと花の女神に扮した恋人は、ここでついにお互いの名前を伝え合う。相手の女性の名がレオノーラ(S)と分かったとき、「ぼくらの名前は永遠につながって、一つだ」とレアンダーは答える。一方、家来同士のヘンリクとペルニッレ(Ms)も、お互いの愛情をそこで確認。
続いて、レナード卿とマグデローネのやり取り。レナードはしきりにマグデローネにアプローチするが、彼女の方は「正体がばれたら、大変」と内心戦々恐々。そこへ、イエロニムスが近づいて来る。彼は最初、この二人が息子のレアンダーとその恋人であろうと思い込んだが、人違いと分かってお詫びする。しかし、まさかレナード卿と自分の妻であるとまでは思いもよらず、その場を去っていく。
(※音楽的な観点、そしてドラマ面での楽しみという点でも、この第3幕が当オペラの中でも一番のクライマックスと言えそうだ。音楽面ではまず、冒頭の華やかな前奏と合唱、そして各種の舞曲。さらにレアンダーとレオノーラ、そしてヘンリクとペルニッレの二重唱など、聴かせどころが集中している。とりわけ、レアンダーとレオノーラの二人が名前を教えあう場面は、ちょっとしたハイライト・シーンである。ここはさすがに、音楽にもロマンティックな雰囲気が漂う。)
(※ところで、ヘンリクとペルニッレの二重唱だが、ここにはデンマーク語の分かる人だけが楽しめるような“言葉遊び”みたいなものが見られる。「ヘンリク、あなたは私の心のフェンリク【=officer、将校】よ」とペルニッレが言えば、「ペルニッレ、君はぼくの魂のペルズィッレ【=parsley、パセリ】だ」とヘンリクが応じる。そして二人揃って、「この韻の踏み方、楽しいね」と歌うのである。この部分は、原語台本と英訳を並べた歌詞ブックを見ながら気がついたのだが、やはりオペラは原語が分かる人とそうでない人では楽しみの深さが違ってきてしまう。しかしまあ、このあたりは仕方のない問題であろう。)
学生と軍人の間で喧嘩騒ぎが起こるが、舞踏会の主催者が「『雄鶏の踊り』を始めよう」と宣言し、その場をとりなす。そして踊りが終わる頃、ヘンリクがレアンダーのところに来て伝える。「最悪ですよ。あのバッカスに仮装している変な男、あれはイエロニムス様です」。「うげげっ」。続いてヘンリクはレアンダーの苦境を家庭教師(B)に伝え、彼の手助けを請う。話を引き受けた家庭教師はイエロニムスに酒を勧めて酔わせ、彼の注意をよそに向けさせる。その後アーヴがヘンリクの正体に気づくが、「台所でやったことを、ばらすぞ」と脅され、そのまま黙っていることを約束。
(※演奏時間約5分半の『雄鶏の踊り』も、さすがにニールセンらしい一曲で、何ともシンフォニックな響きを持つ舞曲に仕上がっている。随所に「コッ、コッ、コッ」「ココココ」というニワトリの声を模したような音型が聞かれるのが、いかにもタイトルどおり。舞台では、どんな踊りが見られるのだろうか。)
続いて、ディヴェルティスマン(=お楽しみ)の時間。ファンファーレに続いて踊りの先生と彼のフィアンセであるバレリーナが登場し、『マルスとヴィーナスの恋』を演じる。これは「女神ヴィーナスが夫の留守中に軍神マルスと浮気を楽しむが、途中で天井から落ちてきた網に捕えられてしまう」といった内容のお芝居である。二人とも身動きできずにじたばたしているところへ、ヴィーナスの夫であるヴァルカン(=鍛冶の神ヘパイストス)が帰ってくるので一同大笑い、という展開だ。その「パントマイムとダンス」に合わせて、家庭教師と学生たちがバッカス讃歌をにぎやかに歌う。
そこへ、すっかり酔いが回ったイエロニムスがやって来てバレリーナに言い寄るが、それを見て怒った踊りの先生に制せられる。続いて先生とバレリーナは二人がかりになって、しょうもない酔っ払いオヤジをグルグルグルグルと回転させる。日ごろの威厳など完全に吹き飛んで、イエロニムスはすっかり皆の笑いもの。
やがて、舞踏会の主催者が死の神モルス(=タナトス)に扮した姿で登場。そこで、会の進行はストップする。この神の姿は、“現世の楽しみのはかなさ”を人々に思い起こさせるのである。「さあ、今日はこれでお開き。皆、元の姿に戻るのです」。名残惜しい気持ちに浸りつつ、参加者が一人ひとり、仮装を解き始める。レナード卿とマグデローネ、レアンダーとレオノーラ、ヘンリクとペルニッレ、そしてアーヴとイエロニムス。それぞれが順に、素顔を見せ始める。
イエロニムスは、息子が見知らぬ娘とくっついているのを見て腹を立てるが、自分の妻であるマグデローネがレナード卿とくっついているのを見て、さらにびっくり。しかし、事態はすぐに解決。息子と一緒にいる娘が、他でもないレナード卿の息女レオノーラ、つまり、もともと息子と結婚してほしかったお相手だったと分かり、イエロニムスは一安心。妻のマグデローネも、別に不倫などしてはいなかった。これにて、一件落着。『チェーン・ダンス』の華やかな踊りと合唱をもって、オペラはめでたし、めでたしの終曲となる。
―以上で、ニールセンの歌劇<仮面舞踏会>は終了。先頃語ったゴメスの<グアラニー族>などとは対照的に、この作品にはイタリアやフランスなどのオペラ書法を真似して書かれたような部分は殆ど見当たらない。良くも悪くも、「デンマークの作曲家カール・ニールセンが書いたオペラ」という感じがする。従って、ここで聴くことのできる音楽はオペラティックというよりもシンフォニックな性格が強く、「やっぱりニールセンは基本的に交響曲作家であって、オペラ作家とか、メロディ・メイカーとかいうタイプの人じゃないんだよなあ」と思わせるものになっている。だからCDで音だけを聴いていると、(少なくとも私は)“地味に楽しいオペラ”という印象を受けてしまうのが正直なところだ。
ただ、その一方で、実際の舞台を目で見ながらの鑑賞であったら、このオペラに対する感想はまた随分違ったものになってくるんじゃないかなという気もする。特に、第3幕で披露される仮面舞踏会のシーンなどは、登場人物たちの装いとか、各種の舞曲で見られる踊りの振り付けとか、視覚的に楽しめる要素が結構ありそうなのだ。プロコフィエフの舞台作品などと同様、当ニールセン歌劇も映像があったら、きっとまた次元の違う味わい方ができるに違いない。
いずれにしても、ムソルグスキーやヤナーチェクのオペラみたいに、「イタリアやフランスなどに代表される西ヨーロッパの書法に倣わず、作曲家がひたすら自国の言語と独自の音楽語法に徹して書いたオペラ」というのは、そのある種エソテリック(esoteric)な性格ゆえに、国際的に認知されるのが非常に遅れてしまうのは避けられないということであり、今回のニールセン歌劇にも、その話がかなり当てはまってくるのではないかと思えるのである。
―次回は、小休止。だいぶ重くなってきた「過去の記事タイトル一覧」のトップ・ページをいったん更新しておくことにしたい。