カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

他人の追悼などどうでもいい

2016-01-20 | 時事

 デビット・ボウイの死については、僕は小学生の高学年くらいからのファンなのでフツーに痛ましく感慨深い訳だが、例えそうであっても、巷間の反応については、なんとなく冷ややかな自分がいる。そういうところはひねているということは言えるのだけれど、当時のロック好きという若者らしい気分としては、今の人の嘆きというのは無いんじゃないか、という感じかもしれない。だが、死後新作が発表されたばかりということで、死ぬ直前まで、自らの死と向き合いながら創作活動をしていたということも伝えられ、最近は昔の名前で出ています的な再結成バンドの多い中、現役感のまま逝ってしまったミュージシャンとしては、まったく凄まじい信念に敬意を抱くものである。
 という複雑な気分のある中なんだが、日本はともかく、特に英国の政治家なども含んで、追悼のコメントが多数出された。それ自体は至極当然という感じもするし、日本とはロック・ミュージックの立ち位置が違うので、ひょっとすると、例えば美空ひばりが亡くなった、というようなニュアンスとも似ているものがあるのかな、とは想像される。
 僕がなんとなく嫌なのは、それに対する再反応ということを含んでいる。それというのも、いわゆる同僚のミュージシャンを問わず、こんなにもデビット・ボウイは社会的に追悼されているのだとし、それを誇らしげに日本に伝える向きのあるメディアに対してかもしれない。ロックというのは反骨精神があってナンボ、というところがあって、政治家が若いころにロック少年だったとしても、現在の立ち位置で見る場合、ああそうですか、と冷ややかに感じているくらいでちょうどいいと思う。それでロック・ミュージシャンが偉大になったりはしない。そういう態度は逆に、彼に対して情けないような気分という気がするのだろう。
 また、デビット・ボウイという人は、極端にいろいろな顔を持つということもあって、普通にさまざまな反応があって当然という気もしている。アニメオタク的な面もあっただろうし、俳優の顔や、中性的なセクシャルな立ち位置もあった。音楽もマイナーで前衛的な時代もあったし、ダンスミュージックで一世も風靡した。その後も変化し、絶対的な彼の姿というのは、きわめて限定するのは難しいような気もする。イベントの式典などに参加するときも奇抜な姿で、この人はいったいいくつになったら落ち着くんだろうと、僕なんかは愉快に見ていた。そういう変なところも含めてロック的な人生を歩んだ人なんではないか。
 特に早世した訳ではないが、チラリと聞いた新作の出来栄えも含めて(ドラム展開がかっこよかったな)、惜しまれる死であった。
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