『ザカリーに捧ぐ 』予告編
ザカリーに捧ぐ/カート・クエンネ監督
酷い気分になる映画だとは聞かされていたが、かなり落ち込んでしまった。いったい何の救いがあるということか。また、これがドキュメンタリーであることが追い打ちをかけて人を落ち込ませる。いや、分かってはいたんだが、ひょっとすると最後はそうなってしまうんじゃないかと脅えてはいたんだが、実際に物語はそのように展開し、時間が元に戻らないことだけを恨むより仕方がない。逆恨みかもしれないが、米国より少しはまともかもしれないと勝手に思っていたカナダという国自体にも、激しい失望を覚えずにいられない。じゃあ一体何がまともなんだ? それくらいの価値観の転換まで味あわされてしまう。
視点は監督である友人だから仕方が無いのだが、僕は同時に疑問には思っていた。何故そこまで孫に対して執着するんだろう。僕は法の現実を知らないのだけれど、日本など女性の犯罪者が刑務所内で出産するなどすると、おそらく一定期間は育児のために母親から子供を離すことは無いのではないか。これは日本的な母子関係を考慮したものだと思うが、カナダや米国なら違うということなのだろうか。殺す目的を果たしたんだから保釈されるという理屈はよく分からないのだが、刑務所の外で育児をするべきだという考え方があるのだとしたら、そのことが保釈されることの理由なのではないか。さらに生まれてきた孫を息子を殺した女から取り上げたいということが、ただでさえ不安定なこの女をさらに危険にした可能性は無いのか。
しかしながら、やはり結果的にいい方向へは流れていかなかったことのみが事実だ。観ているだけで、ある意味地獄のような日々を想像できて、さらに奈落の底へと落されていく。人間関係をここまで破壊する殺人という罪について、当事者でなくとも考えていく必要はあるだろう。そして社会生活の中の人権というものは、安易に利用するととんでもないことにもなりかねないことを。
おそらくこの事件とこのドキュメンタリーを契機として、後の保釈には影響があるのではなかろうかと考えられる。もしそうでなければカナダはかなり頑固な国かもしれない。しかしながら同時にそのような社会運動のためにドキュメンタリーが作られていくことは、少し危なっかしいものを含んでいる気がしないではない。正しい事だからどんどんやっていいというのは、きわめて西洋的な合理主義の匂いがするのであった。そのようなこと含めて、やはりどうにも後味が悪すぎる。そうではあるが、やはり観ておかなくてはならない映画として、残る作品ではあるだろう。