子供とプールにいった。公営のプールなので、昼の休憩時間というものがある。こういうルールを決めたがる姿勢はバカそのものだと思うが、言っても仕方がない。バカに馬鹿といっても始まらないのだ。そういうことで強制的に昼飯を食うことになって休憩する。
子供がアイスクリームを食べたいというので百円持って並ぶ。長蛇の列とまではいかないけれど十数人は並んでいた。こういうのも休憩時間を決めるからである。まあ、それはいい。
売店のアルバイトらしいいかにもなれないまどろっこしい動きの女の子のせいなのかどうかは判別しにくいが、遅々として順番がまわってこない。子供が多いので、選択の判断がむつかしいらしい。10分ぐらいしてやっと順番がまわってくる。直近に「ちゃんと選んでおけよ(注文を決めておけ)」といってあったが、子供はほんの少し躊躇したようす。その隙に後ろに並んでいたおばさんがいきなり口頭で注文を始めた。「なんじゃ」と思って振り向くと、そのまま前につんのめってきて一万円札を差し出した。こういう売店なので一万円札の処理に時間がかかる。横で子供が「僕が先だったのに」としきりに僕に苦情を言うが、じゃあ100円置いていこう、と提案しても、それは駄目なのだそうだ。ウチの子達はこういうところが融通が利かないというか、ひどくまじめなのである。しかしながら一万円の処理に頭がいっぱいの店頭の女の子は、子供の百円を受け付けてくれない。手に取ったままのアイスは、暑さで容器の回りがすっかり溶けてしまった。
こういう列で並ぶというのは非常にむつかしい行動だと思う。
先日つれあいがビデオ店のレジで並んでいたら、自分の前までは西洋方式(最近のキャッシュカードの列のような)で順番を待っていたのに、いきなり無視して空いたところにすばやくおじさんが割り込んできて(そういう形式で並ぶことを知らないらしかった)一気に列が崩壊したそうだ。結局一番最後に順番が回ってきたという。
なんというか、こういう経験は僕の日常でもある。僕はこういう経験をさせられるために生まれてきたのではないかと思うほどだ。そのたびに殺人事件をおこしたくなる衝動にかられるが、今までのところかろうじて実行には至っていない。
確かに並ぶことも苦痛には違いないが、並んで順番がまわってくることは喜びでもある。しかし、正当に順番がまわらない社会というものが現実なのである。競争社会自体を否定するつもりは毛頭無いし、競争に負けるということにもむしろ僕は寛大な方である。競争ということなら、それはそれでいいのである。しかし競争ではないにもかかわらず、機会の平等が保障されない順番待ちということに関しては、気持ちを寛大に持つことができないだけの話なのだ。子供の頃よりもだいぶましにはなってきたけれど、いまだに僕の順番は後回しにされるという暗黙の決まりにはかわりが無いようである。そういう社会ルールがあるのであれば受け入れよう。しかし、そんなルールは聞いていない。受け入れようがないではないか。
僕はちょっとの間中国で暮らしたことがあるけれど、あの国に二度といかなくていいと思うのは、並ぶマナーがなっていないからである。弱肉強食の世界で、強いものだけがチケットをゲットできる。駅のチケット売り場ではちゃんと並ばない人は駅員に竹刀で殴られるのだが、それにもかかわらず、その竹刀をかいくぐってでもチケットを求める人が、窓口に群がって買うシステムになっていた。数限りない敗北を繰り返し、自分に鬼になる覚悟を決めて挑まなければならない精神的な情けなさは、二度と体験したくない行動だった。僕は既になんども魂を悪魔に売り払った。もうまともに死ぬことなど不可能だろう。
日本は格差社会がどうだという人が多いようだけれど、機会の平等という意味では、整列こそ問題にするべきではないかと日々思っているぐらいである。それが平等になりさえすれば、格差などというのは瑣末なことなのではないだろうか。
子供がアイスクリームを食べたいというので百円持って並ぶ。長蛇の列とまではいかないけれど十数人は並んでいた。こういうのも休憩時間を決めるからである。まあ、それはいい。
売店のアルバイトらしいいかにもなれないまどろっこしい動きの女の子のせいなのかどうかは判別しにくいが、遅々として順番がまわってこない。子供が多いので、選択の判断がむつかしいらしい。10分ぐらいしてやっと順番がまわってくる。直近に「ちゃんと選んでおけよ(注文を決めておけ)」といってあったが、子供はほんの少し躊躇したようす。その隙に後ろに並んでいたおばさんがいきなり口頭で注文を始めた。「なんじゃ」と思って振り向くと、そのまま前につんのめってきて一万円札を差し出した。こういう売店なので一万円札の処理に時間がかかる。横で子供が「僕が先だったのに」としきりに僕に苦情を言うが、じゃあ100円置いていこう、と提案しても、それは駄目なのだそうだ。ウチの子達はこういうところが融通が利かないというか、ひどくまじめなのである。しかしながら一万円の処理に頭がいっぱいの店頭の女の子は、子供の百円を受け付けてくれない。手に取ったままのアイスは、暑さで容器の回りがすっかり溶けてしまった。
こういう列で並ぶというのは非常にむつかしい行動だと思う。
先日つれあいがビデオ店のレジで並んでいたら、自分の前までは西洋方式(最近のキャッシュカードの列のような)で順番を待っていたのに、いきなり無視して空いたところにすばやくおじさんが割り込んできて(そういう形式で並ぶことを知らないらしかった)一気に列が崩壊したそうだ。結局一番最後に順番が回ってきたという。
なんというか、こういう経験は僕の日常でもある。僕はこういう経験をさせられるために生まれてきたのではないかと思うほどだ。そのたびに殺人事件をおこしたくなる衝動にかられるが、今までのところかろうじて実行には至っていない。
確かに並ぶことも苦痛には違いないが、並んで順番がまわってくることは喜びでもある。しかし、正当に順番がまわらない社会というものが現実なのである。競争社会自体を否定するつもりは毛頭無いし、競争に負けるということにもむしろ僕は寛大な方である。競争ということなら、それはそれでいいのである。しかし競争ではないにもかかわらず、機会の平等が保障されない順番待ちということに関しては、気持ちを寛大に持つことができないだけの話なのだ。子供の頃よりもだいぶましにはなってきたけれど、いまだに僕の順番は後回しにされるという暗黙の決まりにはかわりが無いようである。そういう社会ルールがあるのであれば受け入れよう。しかし、そんなルールは聞いていない。受け入れようがないではないか。
僕はちょっとの間中国で暮らしたことがあるけれど、あの国に二度といかなくていいと思うのは、並ぶマナーがなっていないからである。弱肉強食の世界で、強いものだけがチケットをゲットできる。駅のチケット売り場ではちゃんと並ばない人は駅員に竹刀で殴られるのだが、それにもかかわらず、その竹刀をかいくぐってでもチケットを求める人が、窓口に群がって買うシステムになっていた。数限りない敗北を繰り返し、自分に鬼になる覚悟を決めて挑まなければならない精神的な情けなさは、二度と体験したくない行動だった。僕は既になんども魂を悪魔に売り払った。もうまともに死ぬことなど不可能だろう。
日本は格差社会がどうだという人が多いようだけれど、機会の平等という意味では、整列こそ問題にするべきではないかと日々思っているぐらいである。それが平等になりさえすれば、格差などというのは瑣末なことなのではないだろうか。
ターンテーブルが回り始めたとたん、我先にとターンテーブルの端にピッタリと並び、あれでは荷物を受け取るにも、わざわざ「すみません」と声をかけなければいけません。
なんで、自分の荷物が出てくるまで、離れてみていられないのかと、文句が言いたくなります。
英国に旅行に行ったときに、そうするものだと聞いていましたし、彼の国では、確かにそんな動きだったように記憶しています。アジアでは、大概日本と同じです。これもマナーでしょうか。
監督とか指示を出す人がいると、ものすごく素直な反応をするくせに、一人でもマナーの悪い人がいると、すぐに右へならえもしてしまうのではないでしょうか。そういう意味では自主性の問題かな、とも考えてしまいます。