突然に昔の友人に会いに行く
色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年/村上春樹著(文芸春秋)
過去のしあわせな時間と負ってしまった深い傷の記憶が、現在の行動の支障になることは多々あることかもしれない。むしろそういうことの方が、実際上は多くあるのが、ある程度の年を経た人間として自然なことなのではあるまいか。一時期は個人を死に至らしめるほどの強力な影響があった物事であるにせよ、現在においては、ある程度は距離を置けるくらいには冷静になれる。しかし、だからこそ、今だからこそ、そのことともう一度正面から向き合えるという絶好の機会なのかもしれない。当時の体験した生の事件と向き合うには、あまりにタフな精神と肉体を必要とする。そもそもそのことに耐えうるものを持ち合わせていないのが若さというもので、しかし、今にあっても、過去という生々しさの記憶が失われていない程度に必要なタイミングということもあるのかもしれない。もちろんそれは完全に比喩ではあるが、しかし、同時にリアルにタイムリーなことなのだ。何の問題をそれに当てはめるかは個人の問題であろうけれど、小説の主人公だけのタイムリーさでない普遍性を感じさせられるところに、作家村上春樹の価値があるのだろうと思う。それは、やはり時代が欲していることでもあり、幸運な偶然なのだろう。いや、分かっていてやっているというのであれば、やはり超越した何かの力があるとしか言いようがないではないか。
誰もが受け止められる物語としての普遍性があるとはいえ、しかし物語は荒唐無稽である。ナンセンスであり、漫画的でもある。そうして、必ずしも、この小説の枠内ですべてが解決しない。それはある意味で音楽を聴くように、情景的に感情的にリアルではあるけれど、しかし何もその場の自分自身のあるがままの姿ではない。感覚的に理解できるものの、しかし表現としては単純化するのが危険な予感がある。そこのところがやはり、村上作品なんだな、ということになるのであろう。
謎解きの展開に、最初は早くスジを追いたいという欲求があった。しかし段々と、やはりこの時間のいとおしさのような感情が湧いてくる。早く読む必要なんて何もない。3年待たされて、なぜ先を急がなければならないのだろう。そういう体験そのものを満足させれられるような事こそ、読書体験としては大切なことなのであるまいか。結果的に当たり前のように今後もムーブメントは続く。後のことは知らない。自分がそうあればいいということに特化すればいいだけのことなのである。
昔の友人にもいろいろとある。もちろんあんまり会わなくても、親友というような人間とならばすぐに打ち解ける。そういう体験は誰にもあることだと思う。そういうつながりとしての過去が途切れてしまった人間というのは、やはり修復を必要とするものなのだろうか。僕には友人が特に多いのか少ないのかはよくわからないのだけれど、そうしてそのような修復が必ずしも必要なのかさえもわからないのだけれど、一瞬巡礼をしてもいい気分になるのだった。
過去の友人巡礼ツアー。今年はひょっとするとそういうことが流行るのかもしれないな、などと読後に思ったことだった。
色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年/村上春樹著(文芸春秋)
過去のしあわせな時間と負ってしまった深い傷の記憶が、現在の行動の支障になることは多々あることかもしれない。むしろそういうことの方が、実際上は多くあるのが、ある程度の年を経た人間として自然なことなのではあるまいか。一時期は個人を死に至らしめるほどの強力な影響があった物事であるにせよ、現在においては、ある程度は距離を置けるくらいには冷静になれる。しかし、だからこそ、今だからこそ、そのことともう一度正面から向き合えるという絶好の機会なのかもしれない。当時の体験した生の事件と向き合うには、あまりにタフな精神と肉体を必要とする。そもそもそのことに耐えうるものを持ち合わせていないのが若さというもので、しかし、今にあっても、過去という生々しさの記憶が失われていない程度に必要なタイミングということもあるのかもしれない。もちろんそれは完全に比喩ではあるが、しかし、同時にリアルにタイムリーなことなのだ。何の問題をそれに当てはめるかは個人の問題であろうけれど、小説の主人公だけのタイムリーさでない普遍性を感じさせられるところに、作家村上春樹の価値があるのだろうと思う。それは、やはり時代が欲していることでもあり、幸運な偶然なのだろう。いや、分かっていてやっているというのであれば、やはり超越した何かの力があるとしか言いようがないではないか。
誰もが受け止められる物語としての普遍性があるとはいえ、しかし物語は荒唐無稽である。ナンセンスであり、漫画的でもある。そうして、必ずしも、この小説の枠内ですべてが解決しない。それはある意味で音楽を聴くように、情景的に感情的にリアルではあるけれど、しかし何もその場の自分自身のあるがままの姿ではない。感覚的に理解できるものの、しかし表現としては単純化するのが危険な予感がある。そこのところがやはり、村上作品なんだな、ということになるのであろう。
謎解きの展開に、最初は早くスジを追いたいという欲求があった。しかし段々と、やはりこの時間のいとおしさのような感情が湧いてくる。早く読む必要なんて何もない。3年待たされて、なぜ先を急がなければならないのだろう。そういう体験そのものを満足させれられるような事こそ、読書体験としては大切なことなのであるまいか。結果的に当たり前のように今後もムーブメントは続く。後のことは知らない。自分がそうあればいいということに特化すればいいだけのことなのである。
昔の友人にもいろいろとある。もちろんあんまり会わなくても、親友というような人間とならばすぐに打ち解ける。そういう体験は誰にもあることだと思う。そういうつながりとしての過去が途切れてしまった人間というのは、やはり修復を必要とするものなのだろうか。僕には友人が特に多いのか少ないのかはよくわからないのだけれど、そうしてそのような修復が必ずしも必要なのかさえもわからないのだけれど、一瞬巡礼をしてもいい気分になるのだった。
過去の友人巡礼ツアー。今年はひょっとするとそういうことが流行るのかもしれないな、などと読後に思ったことだった。