カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

上手く言えたかは別にして

2009-03-19 | ことば

 肩の荷が下りたという状態が今なんだろう。たかが祝辞なんだが重たい気分が続いていたのは確かである。お隣の市長さんと談話して時を待つ間、緊張感がピークに達してゆく恐怖をしっかりと味わった。まるで死刑執行を待つようなものだ。
 しかしまあ不思議なもので、話している間はなんとなく落ち着いていく。準備していた話の内容を変更(前の人が同じようなネタだったため)するということも決めていたし、淡々と語るのみである。できるだけ卒業生の顔を見るように語りかけていたが、しかし、やっぱり息子の顔の方にはあんまり目を向けることができなかったりした。このような緊張感のやり場は、かえってむつかしいものである。冗談も実は考えていたが、こういう場合誰も期待していないということもあるだろうから、あえて控えた。期待に沿うというのはこういう場合のスピーチのセオリーで、そうではあるが、少し趣向を変えるという冒険は内容の方に込めることにした。まあ、少し変わった祝辞であったのではないだろうか。
 そうしてやっと大役を務めた訳だが、終わった後の充実感はあんまりなくて、実は上手くいったものかどうかという不安の方が大きかったのであった。この不満足感というのは僕自身の伸びしろというか欲なので仕方がないが、正直いってやり直したいくらいだった。まあしかし終わりは終わりだ。そういう意味での解放感があったことは大きかった。単に弛緩しただけかもしれないが…。
 とりあえずはほっとしながら席に戻って卒業式を眺めていたら、目の前の子供が何かこちらに向かって言っている。よく見ると、隣の子が戻したらしい。ちょっと躊躇する空気はあったもの、あわてて席を立ってステージ横の階段部屋のようなところへ連れて行った。他にも先生が連れ添ってきて背中をさすってやる。別れの言葉をいう役割のプレッシャーで、戻してしまったらしい。ああ、こういう小さい子供でも責任感の重たさに耐えているんだ、と思うと、僕の中に勇気のようなものが湧いてくるのを感じた。もちろんこの子の心配もあるのだが、本当に吐いたっていいじゃないか、というような、共感と励ましの気持ちである。小さいながらに必死で頑張っているそれぞれの立場がある。僕が祝辞をのべるために味わったものは、特殊な役割というものの代償というだけのことではなく、皆が同じように感じる流れの中の一部だったのだろう。僕は目の前のこの子に支えられて話をすることができたのかもしれない。もちろん、この場にいる多くの人たちも含めて。
 この子は、しばらく先生に付き添われていたが、後にちゃんと席に戻って、自分のセリフをこなしていた。間にあって良かった。大役を立派に果たしたのであった。そしてもう一つの懸念であった僕の息子も、おんなじように何かセリフを言っていた。みんなそうやって本当に卒業していくんだなあという思いがして、なんだか胸が熱くなる思いがしたのだった。こういう風に卒業式に出ることができたのは、本当にしあわせなことだった。
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2 コメント

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Unknown (はじめちゃん)
2009-03-19 13:43:32
ご卒業、おめでとうございます。m(_ _)m

卒業式の祝辞、ちょっと変わった内容でしたが、子ども達には分かりやすくて良かったですよ。(^_^;)
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Unknown (korin310)
2009-03-19 14:08:48
はじめちゃんさん。ご出席くださいましてありがとうございます。
 急遽話を変えたんですよ。教育委員会の方と微妙に内容が重なってしまって、正直に言って焦りました。なんかおんなじような話を聞かされるほうもシラけるだろうなと思って、座っている間必死で内容を組み立てていました。結局詰めが甘い話にはなってしまいましたが、子供たちが理解してくれるようにと祈るような気持ちでおりました。
 今度は入学式ということで、さらに頭が痛いです。
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