カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

感情を利用して考えることの実践

2009-05-26 | 映画
ブタがいた教室/前田哲監督
 考えるための映画ということで、そういう視点で捉えるならば、提言として多くの人に観られるためにつくられた映画であろう。材料として提供される設定が最小限になっており、細部を追って検証したい人には不十分かもしれない。しかしそれでも考えるためにはこれはこれで焦点を絞るためだったかもしれず、苦心したということかもしれない。もともとのドキュメンタリーと基本的には同じような流れを組んでいるということもあり、フィクションであり実話的であるということも、考えてみると重たいものだと思う。
 先に僕なりの疑問点をいうと、この設定は食べ物の大切さというだけの問題なのではないと思われた。もちろん世の中は複雑だ。結果的に予定通りに事は運ばないことを思うと、そのようなふくらみを含めて考えるべきかもしれないのだが、映画としては(または教育現場としては)建前としてそれ以上は踏み込めないのかもしれない。しかし人間が豚を食っているのは、食べるためと生きるためということなのだったら、経済はやはり切り離せないとも思う。豚を売るという視点もあればもっと良かったのではないだろか。人間はそこまで残酷であるということを直視するためにも。
 多くの人が感じたことだろうけれど、家畜とペットは混同して考えられる問題だろうか。もちろん家畜なんだから殺していいというのは傲慢だと思うが(もしくはペットだから動物がしあわせなのかということもある)、しかしペット化した生き物は、やはり殺せないというのは当たり前の話だ。そういう住み分けはどちらも人間のエゴであるにせよ、やはり少し食の問題とは別モノのようだ。飼い続けられないペット問題なのではないのか、と感じたのも確かだ。例えばアパートに住んでいて犬を飼えないという問題に近いのではないかとさえ思った。違うという人は、やはり豚を特別視している。ではなぜ豚が人に食われるべき生き物なのか。または韓国人が犬を食ってもいいではないか。
 いや、出発点はやはりいきものを食うということなのであろう。しかしそれが身近な問題になると、このように複雑化する。もともとこの若い先生が考えていた以上のことが結果的に生まれてしまった。このような残酷な事を直視する機会をつくったという発想が、やはり人間的であり、教育的であるとは思える。少なくともこの実践を行うということができたことは、豚の命以上に人間的に価値がある、と人間のエゴでは思う。人間が生きるということは基本的に罪深い。そして生きるために食べるということは、そのような意味を持っているのだということを考えないで生きていくことこそが欺瞞だろう。この体験の所為で豚が食べられなくなると非難するのは簡単だ。普通ならそれくらいショッキングなことから、目をそむけているにすぎないだけの話なのである。

 原作本もあるし、元になったドキュメンタリーもある。考えるためにはどれを観てもいいのではないかと思うので、添付しておこう。

命の授業900日 豚のPちゃんと32人の小学生?


命の授業900日 豚のPちゃんと32人の小学生?


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