カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

アメリカ的背景作品   刑事コロンボ・さらば提督

2014-09-20 | コロンボ

刑事コロンボ・さらば提督/パトリック・マクグーハン監督

 なんだかずいぶんいつものコロンボと違う。いつもなら犯人が最初から分かっているわけだけど、なんだか様子が突然変になる。いつもどおり話が進んでいると思ってみている側としては、まったく面食らってしまう。僕は酔っていたので頭が混乱して、トイレに行った後に違う作品を別々に観てしまったのではないかと思ったくらいだ。でもまあ登場人物は繋がりがあるようだ。一体全体何が起こったと言うのだろう。
 まあ、ともかく変な作品なのだが、考えてみるとこれが普通のミステリ作品と言えばそんな感じもする。いわゆる日本のサスペンスドラマあたりの最後の謎解きと同じと言えばそうである。事コロンボだからエラー作品に見えるだけのことで、客を騙すテクニックとしては、これはこれでいいのだろう。なんだか狐につままれたような思いがしたけれど、そのように客を騙す作品としてはアリなのかもしれない。コロンボの若い相方が途中で殺人解説をやりだしたり、なんだかほんとにどうかしている作品という印象が残ったけれど、結局は古いコロンボファンを煙に巻いて喜んでいる製作者側の思惑があって、やっぱりしてやられたのはこちら側であったという落ちであると考えるべきなのであろう。
 だいたい、コロンボの会話の仕方もちょっと違う感じもする。いろいろ考えを述べるのだが、そうに違いないとか、推論のままのものなんかも残る。犯人を絞る仕掛けの重要人物や、その他の従業員との会話も、いわゆる少し強引なアメリカ人的な雰囲気が強い。いわゆる脚本の所為なのだが、聞くところによると、このシリーズが終わるかもしれない途中の区切りの作品でもあったのだという。コロンボの意見も、シリーズの再開を願って、踏み込んで話がなされていた可能性があるのかもしれない。そんなことはタイムリーでみているわけではない僕には何の関係もないことなのだが、シリーズが長く続くと言うことは、テレビ局やスポンサーの関係もあるし、何より人気を維持する努力もあろうということで、それなりに苦労が尽きないものなのであろう。そういう思いが錯綜したまま、このような作品が作られたということなのだろうか。それはある意味で気合が入っていたともいえて、さらに冒険心があったということもいえるのかもしれない。大いなるマンネリもいいといえばいいが、そういうひねりも効かせながら、このようなシリーズ作品は、何とか続けていけるという厳しい現実があるのだろう。やはりコロンボというのは、実にアメリカ的な競争社会の象徴ともいえるものなのであろう。
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