カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

考えても分からないが、そういうことはたまにある   ドライブ・マイ・カー

2022-11-02 | 映画

ドライブ・マイ・カー/濱口竜介監督

 原作では黄色のサーブ900だが、映画では赤である。舞台も東京ではなく広島になっている。そもそもこの小説で出てくる運転手のみさきの故郷・中頓別町の町議が、小説の科白に対して抗議し、それに悪乗りしたメディアが騒いだため、ちょっとしたニュースになったいわくつきの作品だった。不本意だったろうけれど、著者は場所を単行本に入る際修正させて、架空の上十字滝ということになった。映画ではそこに訪れるのだが、原作にそれは無い。そのように、さまざまな楽しみ方のできる作りになっていて、僕も例外なく、映画を観た後小説を再読し、微妙な、又は全く別の変化具合を楽しんだ。当然だがかなり味わいの違うところも多いながら、しかし何か、確かに本を読んでいるような、そういう解釈もあったように感じた。もともと不思議な感じの宿る物語だが、映画もそれなりに不思議な違和感に満ちていた。
 映画の方の設定で話をすると、主人公の俳優である家福は、広島での舞台演出を依頼される。それでその会場と宿の往復のために、運転手を手配されている。そのドライバーが、どういう訳か煙草を吸う若い女だ。しかし運転手の渡利は寡黙で、往復中舞台の科白をテープを聞きながら練習する家福にとっては都合がいい。また、当然のように運転の腕もいい。家福の妻はすでに亡くなっており、そうして生前妻は他の若い俳優と寝ていた。その若い俳優は、この舞台のオーディションにやってきて、家福はその俳優である高槻を採用し、主役に抜擢する。おそらくだが、妻と寝ていたというわだかまりが、彼にそうさせてしまうのである。高槻は、若く魅力的な俳優だが、舞台の主人公の男とは、年恰好やその雰囲気というものとまるで違った人間のように思える。演じながら高槻は、苦悩する。家福は死んだ妻とのことを思い出し、そうして自分には何も話さなかった過去のことに思い悩んでいる。そのようなことと交錯して、物語は進んでいくのである。
 はっきりとよく分かる娯楽作品ではない。映画なので、映像として彼らが何をやっているのかは明確にわかるのだが、しかしその何をやっているのかというのを観ていても、何のことであるのかはよく分からない。おそらく意味はあるのだろう。そういう感じで、確かに文学的な作品ともいえるかもしれない。数々の賞を取ったらしいが、そうであるから素晴らしいということでは無くて、観ていてなんだかもやもやはするが、考えさせられるから、いい映画なのだと思う。何しろ見終わっても、いまだに何か考えてしまう。もはや、いい映画なのかどうかさえどうでもいい。
 しかしながら、奥さんは、どうして他の男と寝ていたんだろう。やっぱり考えても、よく分からない問題だったのである。
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