インセプション/クリストファー・ノーラン監督
いろいろな映画のごちゃ混ぜ感が爽快な玉手箱映画。観る前は難解なところもあると聞いていたけど、夢のまた夢というめんどくささはあっても、ちっとも難解な映画なんかでは無かった。純粋真っ当なアクション娯楽作だといっていいだろう。007ありマトリックスありで、よく分からんがパロディ映画なんじゃなかろうかといった趣もある。夫婦の苦悩はディカプリオの一連の出演映画の一場面ではないかと錯覚するほどだ。なるほど、そういう意味で考えさせられるということはあっても、普通に映画に時間を委ねていれば、あっという間に時間が過ぎていくタイプのアクションの連続劇なのであった。
それにしても夢の中を覗くとこのような映像世界が広がっているというのは、本当にSFX全盛の時代にあって、改めて驚愕するものがあった。ダイナミック且つ大胆に不思議の世界が連続していく。後戻りできないドタバタがぐいぐい前に進んでいって本当に先が予測できなくなる感じだ。普通ならあり得ないことが起こると分かっていながらも、その起こる出来事のほとんどが想定外にハチャメチャである。赤塚不二夫が生きていたら、きっと映画を撮ることに情熱を燃やしたのではなかろうか。しかしながらそうではあっても、ギャグになるぎりぎりの無茶苦茶であって、かろうじてアクション映画であることを忘れないでいられる。ずっとハラハラしながら、時間を気にしながら手に汗を握ることになる。実に見事な完成度といっていいだろう。観終わった後も、凄いものを見てしまったという満足感の余韻も残る。つまり深読みもできるわけで、これでファンがつかないわけがないではないか。多くの人を虜にする完璧な娯楽映画だ。
ところでこのような世界観は、ひょっとするとセカンドライフのようなバーチャル空間を連想される人も多いのかもしれない。それ以外でもゲームの中の世界においても似たようなデジャヴはあるかもしれない。確かにそうであるから、現実感の喪失から来る主人公の妻のような恐怖があるのだろうとも想像できる。ただしかし、僕にはどうもそのあたりのところが引っかかる部分ではあった。夢と現実の境界がここまであいまいになってしまえば起こりうることなのだということは理解できるものの、だからと言って現実の死の選択をする必然がどうも…、ということのようだ。実をいうと、夢と現実、もしくはリアルとバーチャルがごちゃ混ぜになったとしても、死の選択をするのはあくまで狂気であると思うからだろう。どちらであろうと狂わなければ死を選んだりしない。錯綜するからそのような選択を選んでしまうというより、どちらであれ、死の選択をする場合は逃避に変わりないのではないか。むしろ現実の逃避にバーチャルが有効であるとしたら、さらなる逃避の死を避けるということも、逆に大いに起こり得ることではないか。
僕は一貫した人格の持ち主が、特にしあわせな人生を送るということに懐疑的である。まじめな人は一貫して真面目なのではなく、時にはギャンブルをしたりハメを外したりもできるということが重要なのではあるまいか。そうではあっても単なる外面的なマークとして、まじめであるというだけのことではないか。
確かにしょっちゅう意見をころころ変えるような人は信用がならないのではあるが、人というのは朝令暮改をするものであり、君子であっても豹変する。そういうことが面白さであり、ヒトの持つ深みのようなものではないか。立場や場面が変わることにより、いかばかりかそのような立ちふるまいをし、ある意味演技をしながら生活をすることが、ヒトとしてのバランス感覚には重要なことのようにも思える。そうでなければ生きていくということは、限りなくつらい苦行になってしまうのではないかとさえ思うのである。
いろいろな映画のごちゃ混ぜ感が爽快な玉手箱映画。観る前は難解なところもあると聞いていたけど、夢のまた夢というめんどくささはあっても、ちっとも難解な映画なんかでは無かった。純粋真っ当なアクション娯楽作だといっていいだろう。007ありマトリックスありで、よく分からんがパロディ映画なんじゃなかろうかといった趣もある。夫婦の苦悩はディカプリオの一連の出演映画の一場面ではないかと錯覚するほどだ。なるほど、そういう意味で考えさせられるということはあっても、普通に映画に時間を委ねていれば、あっという間に時間が過ぎていくタイプのアクションの連続劇なのであった。
それにしても夢の中を覗くとこのような映像世界が広がっているというのは、本当にSFX全盛の時代にあって、改めて驚愕するものがあった。ダイナミック且つ大胆に不思議の世界が連続していく。後戻りできないドタバタがぐいぐい前に進んでいって本当に先が予測できなくなる感じだ。普通ならあり得ないことが起こると分かっていながらも、その起こる出来事のほとんどが想定外にハチャメチャである。赤塚不二夫が生きていたら、きっと映画を撮ることに情熱を燃やしたのではなかろうか。しかしながらそうではあっても、ギャグになるぎりぎりの無茶苦茶であって、かろうじてアクション映画であることを忘れないでいられる。ずっとハラハラしながら、時間を気にしながら手に汗を握ることになる。実に見事な完成度といっていいだろう。観終わった後も、凄いものを見てしまったという満足感の余韻も残る。つまり深読みもできるわけで、これでファンがつかないわけがないではないか。多くの人を虜にする完璧な娯楽映画だ。
ところでこのような世界観は、ひょっとするとセカンドライフのようなバーチャル空間を連想される人も多いのかもしれない。それ以外でもゲームの中の世界においても似たようなデジャヴはあるかもしれない。確かにそうであるから、現実感の喪失から来る主人公の妻のような恐怖があるのだろうとも想像できる。ただしかし、僕にはどうもそのあたりのところが引っかかる部分ではあった。夢と現実の境界がここまであいまいになってしまえば起こりうることなのだということは理解できるものの、だからと言って現実の死の選択をする必然がどうも…、ということのようだ。実をいうと、夢と現実、もしくはリアルとバーチャルがごちゃ混ぜになったとしても、死の選択をするのはあくまで狂気であると思うからだろう。どちらであろうと狂わなければ死を選んだりしない。錯綜するからそのような選択を選んでしまうというより、どちらであれ、死の選択をする場合は逃避に変わりないのではないか。むしろ現実の逃避にバーチャルが有効であるとしたら、さらなる逃避の死を避けるということも、逆に大いに起こり得ることではないか。
僕は一貫した人格の持ち主が、特にしあわせな人生を送るということに懐疑的である。まじめな人は一貫して真面目なのではなく、時にはギャンブルをしたりハメを外したりもできるということが重要なのではあるまいか。そうではあっても単なる外面的なマークとして、まじめであるというだけのことではないか。
確かにしょっちゅう意見をころころ変えるような人は信用がならないのではあるが、人というのは朝令暮改をするものであり、君子であっても豹変する。そういうことが面白さであり、ヒトの持つ深みのようなものではないか。立場や場面が変わることにより、いかばかりかそのような立ちふるまいをし、ある意味演技をしながら生活をすることが、ヒトとしてのバランス感覚には重要なことのようにも思える。そうでなければ生きていくということは、限りなくつらい苦行になってしまうのではないかとさえ思うのである。