カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

挨拶を邪魔するもの

2008-10-21 | ことば

 最近ちょっと挨拶で話をする機会が続いて、久しぶりに緊張の連続だった。こういうことには、ある程度の連続性が必要で、間が開くとまた話しづらくなってしまうようだ。続くときには馬鹿みたいに何度も話す機会があったものだけれど、途切れると案外めったに挨拶しなくてもいいようになる。他人の集まるところへ近づかなくてよくなれば、自然に挨拶しなくてもよくなるのだろう。なんとなく理想の生活だが、浮世の義理があるのでそのような理想の世界に住むことはかなわない。しかし、もう少し年をとって付き合いが無くなると、逆に寂しくなるものなのかもしれない。
 僕は気が小さいので人前に立つというのが今だに慣れないようである。慣れの問題だから続いているときは、まったく緊張しないという頃もあった。しかしやはりそれも一時のことで、場が変わるとそれなりに緊張感が戻る。酷いときには膝がふるえて、それが他人に見られると思うのがまた恥ずかしく、さらに緊張する。懇親会などの席で最後に何か言わなければならなくなったりすると、ほとんど何を食っても味がしない。がぶがぶ酒をあおって前後が分からなくなってしまう。その上出番前に最高に尿意が高まって大変なことになってしまう。壇上でもじもじしながら無様な姿を幾度もさらしてきたことを思うと、まったく情けないものである。どの道挨拶しなければならないのであれば、その場でいきなり指名してくれたならどんなに楽だろうと思うのだった(実際そういう機会もそれなりにあったけれど)。困惑はするだろうけれど逆に開き直るので、僕の性格では突然指名の方が楽なのである。
 まあそれぐらい緊張するのだけれど、不思議なことに話し出すにつれ自然に落ち着くことが多い。特に会場が広くてマイクを使うようなときは、自分の声が聞こえてくると途端に落ち着いたりする。ひどく昔のことだがバンドをやっていた頃もそうで、ステージに立つ前は逃げ出したくなって弱気になっていたくせに、歌いだすと開き直るというかだんだん楽しくなってくる。終わる頃には時間が愛おしい。できることならまた最初からやり直したいくらいなのである。まあ、挨拶はちょっと違いはするのだけれど、必ずと言っていいほど失敗があるし何か言い足りないような気持も残って、できることならやりなおしたいという気にはなるものである。壇上に長くいるのは嫌われるの(僕だって他人事なら嫌いである)で出来るだけしないように注意してはいるのだが、思いのたけが残りすぎるとしつこくなっていつまでも居座ってしまうのかもしれない。
 しかし短く話すというのはやはりむつかしい。何かを言うということは、やはり何かを伝えたいということもあるからである。対話でないからちゃんと伝わるものなのかが分からない。だからといって講演ではないのだから、くどくど説明したからといって伝わるものではない。中途半端な時間ならかえって焦点がボケてしまって何にもならない。しかしワンフレーズで言えるような単純性は、どこか誤解を招くような不安がある。何を削って鋭く出来るのか。やはり短いものこそ準備をする必要があるのかもしれない。
 いや、いざとなるとやはり少しは準備をする。以前は通勤の車の中で実際にいろいろ話してみて、内容を組み立てたりしたこともある。何度も何度も同じような話をしてみて、実際に精度が上がっていくことは実感ができる。しかしある時からぱったりそういうことをしなくなってしまった。理由としてはなんとなく演劇調になってしまうように思われたからである。芝居がかった物言いが良い場合もないではないが、役者としての大根ぶりが洗練されるには時間がかかる。いろんな人の話を聞いてみて感じるのは、やはりライブ的な勢いが、良いスピーチを活かす最大の武器のような気がする。
 サッと考えて、できるだけサッと的確に言えればいい。理想としてはそうなのだけれど、それが簡単にできないので悩むのであろう。結局どこか格好をつけすぎる自意識過剰な自分が邪魔をしているのかもしれない。他人がどう思うのかなんてことは、本当には分かるものではない。自分の役割を役割らしく粛々とこなしていくより無いのであろう。
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