今更新聞を取って無い、といわれても、それはもうまったく驚かない。そのほうが普通だし、とっている方が少数派であるのは繰り返し聞かされている。さらに普通に新聞は老人文化なのだから、僕のように若くない人間が新聞を擁護する必要はまるでない。僕自身も既に新聞そのものを信用していないし、ある意味、社会の曲がった面を確認するためだけにみているという感じだ。人間はある程度の偏見にさらされないことには、自分自身の軸足を保つことは出来ない。なんていうかっこつけたこと言うからいけないが、要するに惰性が続いているだけのことである。僕は既に老人になってしまっただけのことである。
ところで新聞を読んでいない人たちはどうしているのか? などという疑問を持つ人がいるようだ。テレビを見ているんだろう、ということと、ネットであろう、という二つの答えが一応ある。そうしてそれで納得するというパターン。それは会話ではお決まりである。しかしながら新聞を斜めに読んでいる僕の感覚では、テレビは新聞を読んでいる人が見ている印象がある。内容が似ているというのが第一だが、例えば職場の人間や、少し若い人などにこのニュースなどの話題を聞くと、たいてい通じない。職場に来て新聞を読んだり、僕より年配の人ならば通じる。結局新聞を読まない人は、テレビでもニュースなどは見ないのではないか。またネットのニュースもだが、これは僕はあんまり見ないが、基本的には新聞と同じである。ネットでは自分のクリックする関心の方向を察知してニュースの選択がなされている傾向があり、それでもかなりニュースは少ない。事故や芸能人のスキャンダルは見出しにあるが、スキャンダルは興味が無いし、ニュースは後追いで内容が薄い。
ところが東アジアの反日感情のニュースや、美容関係や通販などの情報は、あんがい皆が共通で知っている感じがある。僕はそれのどこにも共感が無く、それもあまりに情報が画一的で驚く思いがする。それはどこが出どころか時折尋ねると、「ニュース」といわれることがある。要するに僕の見ているニュースとは異なるニュースを見ているらしいのだ。それはテレビだろうし、ネットなのかもしれない。
多様化と言ってしまえばそれまでだが、僕の方が偏っているのを棚に上げて、多くの人はずいぶんと偏ってしまっているんだな、といつも思う訳だ。
しかしながら台風など天気のことになると、これはいつも共通だ。これだけが通じる。そうではあるが時々まったく違う予報を聞くことがあって、こっそりスマホで確認する。やっぱりあいつは何を見て言ってるんだろう、などと思う。しかし実際に予報通りなのかは五分五分くらいだろうか。要するにどっちが正しくてもいい問題なのである。