カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

尊敬しているが逃がさない   刑事コロンボ・死者のメッセージ

2014-07-12 | コロンボ

刑事コロンボ・死者のメッセージ/ジェームス・フローリー監督

 ストーリー自体を詳細に記憶していたわけではなかったが、この殺され方が恐ろしかったという記憶は思い出せた。ある意味復讐で殺されたのだから、それなりに残酷でいいということなのかもしれないが、金庫に閉じ込められて、暗黒の中、いくら助けを呼んでも無駄で、さらに死後自分を最初に発見するのが恐らく犯人で、ダイニングメッセージを残したいが難しく、でもだんだんと酸素が薄くなり死ななければならないとしたら、いったい人はこの残酷な状況にどれくらい耐えられるのだろうか。また、トイレに行きたくもなるだろうし、さらに困るのではなかろうか。
 殺されるのは嫌だけど、どの道殺されるのならば、一気にやってほしいものだと思う。拷問で殺されるのは最悪だとしても、このようにじわじわ殺すというのはまったく困ったことだ。実際にだんだんと酸素が薄くなるというのは、頭痛がしたり、最終的には意識を失うということになるのかもしれないが、これだけ広い金庫の中で窒息するというのは、相当な時間を意識がはっきりしたまま生きていなくてはならないように思えて、それが何より恐ろしいわけだ。犯人のおばあちゃんは大変にお茶目な人だけれど、この殺し方というのは、残忍に過ぎるのではなかろうか。
 ところが、せっかく計画的な殺人として上手くいきそうな感じなのに、被害者が金庫の外に残した車の鍵の所為で、それなりに苦労を抱え、墓穴を掘ることになってしまう。いわば結果的に犯人の呪いのようなことになっている。このあたりは被害者が苦労して残そうとしている手がかりとの対比もあって、なかなか面白い皮肉的な仕掛けである。恐喝される材料にもなっており、殺人を隠すというのはそれなりに苦労が多いことが分かる。隠すとは嘘を通すということである。嘘を通すことは殺人ではないが、結果的に同じような苦労がある。罪の意識に違いがあるにせよ、結局苦しめられることには共通するものがあるのかもしれない。
 もっとも、この殺し方以外に視点を移すと、コミカルで楽しいお話になっている。コロンボが突然の指名でスピーチをしたり、会話の掛け合いも意味深で面白い。捜査哲学というか、仕事に対する考え方も垣間見える。犯人をある意味では尊敬さえしているという物言いは、誤解を怖れず言うと、このシリーズに低通しているひとつの見識といえるのではないか。結果的に殺人を犯さざるを得なくなった犯人に対して、見逃すことなく捕らえることで、かえって尊厳の気持ちを伝えてもいるのである。もちろん犯人にとっては迷惑なことに変わりは無いが、殺された人への同情だとか、社会的な制裁とは別のコロンボの考え方があるからこそ、このシリーズの考え方の面白がさがあることは、間違いないのである。
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