カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

来るべき次の人たち、いでよ   幼年期の終わり

2013-03-29 | 読書
来るべき次の人たち、いでよ
幼年期の終わり/アーサー・C・クラーク著(光文社古典文庫)

 いわずと知れた古典的なSF名作。たぶん本棚を探せばもう一冊は出てくるはずだ。しかしながら何となく読んだ記憶が無い。少しくらいは読んだかもしれないが、たぶん全部は読まなかったのだろう。理由はその時の自分に聞いてみなければわからないが、今回はすんなり読了したことを思うと、気分が乗らなかっただけのことだろう。
 古典とはいえそんなに古臭いお話では無いし、もっと哲学的なお話かと思っていたが、わりあいとっつきやすいお話ではないかとも思った。まあ、ある意味ではいろいろと想像力を刺激されることも確かで、妙にあらを探したくなったり、別の展開が可能かどうか考えてみたりしながら読んでしまった。そういうところが古典的名作と言われるゆえんなのであろう。
 今となっては様々な物理的な法則がいろいろと未来を予想させることを手伝っているといえるが、人間の想像力もどうして、未来の形としてはそれなりに予測的なことを考えることも可能であろう。必ずしもそういう性質だけの作品では無いのだけれど、宇宙から異星人が来るとしたら、空間の移動能力の差があるのは確実だから、必ず地球人の能力よりもはるかに優れた文明をもっていることは間違いない訳で、その上何かの使命をおびてくるだろうこともあって、このような物語が、あながち的外れなものではないという気はする。
 しかしながら、最初は一種のユートピア小説風の、地球規模の平和な世界の構築が描かれる訳だが、しかし時代を越えて、物語は次の展開を見せていく。そのあたりが観念的と言われることになったのだろうけれど、特段そのようなことを気にする必要もない気もする。物語としては、なるほどそうなってもいいのかもしれないとさえ思わせられるのだった。人間がはたしてそうなるのかというのは、つまるところよく分からないとしても。
 さて、進化の過程で現在の人間の姿があるとすると、これからの人間は、さらに進化をするということは言えるだろう。どのような姿や能力を持つことになるのかというのは、多くの人が考えているはずである。見た目はどんどん幼児化しているので、子供のまま成人になるということも考えられるし、顎が退化してすべて二重あごになるなどという話もあるが、はたしてどうなのか。
 どうも進化する過程で、ある程度同時にその種が変わるようであるということは分かっていて、しかし同時といっても時間的にはそれなりに何万年とかそれ以上の時間を必要とするのではないかという話もある。例えばイエス・キリストだとかお釈迦様だとか、もしくはレオナルド・ダビンチだとか、まあ、誰かは分からないが、非常に能力が抜きん出ているように思えるような人間というのは、実は次の世代の人間の姿かもしれないとも考えられている。最初はポツポツ現れている歴史上の人物かもしれないが、それがいつの間にか僕らと入れ替わってしまうのではないか、ということらしい。
 能力として有望なのは、やはりその優れた知力であったり、一種の超能力のようなものではないかと考える人もいる。テレパシーが使えるとかものに触れずに動かすことができるとか、段々オカルト的なことを楽しく想像してもいいかもしれない。宗教的な奇蹟はだから、本当なんだという話もある訳で、まあ、そこまで付き合うかはともかく、我々と違った能力があるらしいことは間違いあるまい。そして、その能力については、旧人間の側からすると、恐らく理解できるものではない可能性も高いのであろう。
 実はそのような話は、特に日本ではサル学というのがあるから、ずいぶん以前から議論のある話であるのだが、これを西洋的な視点から考えると、このような小説になるのではないかということも思った。つまりやはりちょっと文化的に宗教的な感じもする。でもまあ未来の人間像がある意味で一緒であるという方向性は、やはり面白いと思う。
 そういう次の人間を見てみたいと思う反面、もうすでにその機会は僕の世代では難しいのかもしれないということも分かりかけていて、なんだか残念だという気もする。もちろん、今日明日にもオーバーロードが地球にやってくるとしたら、少しはその望みもかなえられるかもしれないのだが…。
コメント
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