気球の事故のニュースに心を痛めた人は多かったことだろう。ほとんど悪夢のような状況にいたたまれない気持ちになる。亡くなった方々においては心からご冥福をお祈りしたします。
最初はエジプトということで、テロではないかという予感が走った。報道のほうもなんとなくはっきりした感じがなかった。因果関係などを考慮したせいだろう。管理面においては問題があったようなことはあるようだが、テロという可能性は低くなっているように見える。いいとか悪いとかという問題ではないが、勘違いの思い込みで犠牲が増えるのはやりきれないことである。
実は僕がこの事故において気になるところは、感情的な部分なのである。タイタニックでもそうなんだけど、このような事故現場に遭遇した時に、いったい僕はどういう行動をとることになるんだろうか。気球自体が恐ろしげだということはあるかもしれないが、せっかくエジプトくんだりまで観光に来て、そのような観光オプションがあるというのであれば、僕の性格からすると、まちがいなく乗っているに違いないのである。亡くなった日本人の二組の夫婦ということであるが、僕だったら乗りたくないというに違いないつれあいを必死に説得するだろうとおもうのである。そうして重大な事故に遭遇してしまう。操縦士は火だるまになって先に気球から飛び降りてしまう。爆発が数回あったということだから、ほかの人も火に包まれていたのかもしれない。軽くなった気球はさらに高度を上げていく。乗客が具体的な行動をとれたとは考えにくいが、もうだめかもしれないという状況において何をすればいいのか。ダメかもしれないと思いながら、火の具体的な苦痛と高所というどうにもならない場所にいるということになると、選択できるのは死に方のスタイルのみということかもしれない。つまり飛び降りるか焼け死ぬか、待っていて結果的に落ちて死ぬかである。いや、その選択は終わってみての選択だからすべては不確実だ。絶望的に見える状況の中、選べないという選択こそ、自然と考えるべきかもしれない。
具体的に自分自身に火がついていたのであれば、飛び降りるということはあるかもしれない。しかし本当につれあいを残して自分だけ死ねるのか。もしくは相手が楽に死ねる方法を考えることはあるんだろうか。そう考えたとしても実行できるかも不明瞭だ。結果的に落ちていくことになるときに、何を言うべきなんだろうか。予期してない時に言うべきことなどあるのだろうか。
事故で命が助からないというのであれば、できる限り一瞬であってほしいと思う。選択の余地のないほどに死が訪れるのであれば、考える必要もないだろう。爆発か何かで最初から死んでしまっていたというような、そういう被害者になれるものならなりたいものだと、無責任な僕は考えてしまうのだった。