カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

財布を拾う時が…

2012-01-06 | 感涙記

 録画していた談志の芝浜を観た。これが泣かずにいられるか。
 屈指の人情噺ということになっているが、まあ、それはそうなのだろうが、僕が最初芝浜を観た時は、何となくひどい話だと思ったものだ。僕は嘘が嫌いなのです。そうして誰だったか、談志でない芝浜だったが、それを観て、ひょっとするとこの男、最初から酒をやめることを考えていたのではないかという疑問を持ったことがあった。僕も酒飲みだから酒を飲むのは好きなのだが、毎日酒を飲んでいると、飲むことに怖くなってやめたくなる時が、ほんのたまにだが、ある。酒がまずいんじゃなくて、飲んでいる自分が嫌になるというか、そんな感じ。それとまあ、酒飲みの仲間の中には、明らかに酒が過ぎるやつが出てくる。大抵はあらかた飲むと娑婆に帰ってくるようにはなるが、戻ってきにくくなるやつが出てくる。病気になってしまうとそう簡単に戻れないが、病気に近くなるというやつだろうか。もう本人はやめたいが、飲むことをやめるのは、そのふんぎりをつけられるだけの何かが欲しい。そういう自分自身だけの力じゃなくて、特別なものが欲しくてたまらないのである。芝浜というのは、ひょっとすると、そういう話なんじゃないか。
 江戸時代にアル中がいたのかは知らない。まあ、しかし酒があったんなら、いた可能性もあろう。アル中になってしまうと、二度と酒を飲むことはやめた方がいい。たぶん生物的に適性に欠いていると思うしかない。思うしかないが、酒は大人のたしなみとして飲んで悪いものではない。まわりの人間は病気なら治ることがあると思っているから、しらふになったら飲んでみな、と勧める。そうして適性に欠いた人間の病気が再発する。
 もちろん江戸時代は病気とは思っていなかったろう。病気だと知っていたのは、恐らく本人だけなのではないか。そんな話ではないのは分かっているが、そうかもしれないと思っていたということだ。
 さて、談志の芝浜。これはやはり病気の話ではない作りだ。そうして強烈な夫婦愛。人間の業。年末年始にこれを聞いて、そうして明けると仕事に励む。これ以上の人間への励ましは無かろう。しかし、やはりどこか怖いところがある。そういう恐ろしさもわかった上で生きていくよりないということか。落語は屁のように馬鹿馬鹿しいが、やはり深いものは深いのであった。合掌。
コメント
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