カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

じゃんけんと民主主義

2012-01-22 | culture

 ふと、じゃんけんの「最初はぐー」というのは欽ちゃんだったっけ? と疑問に思ったのだけど、答えはドリフ(とくに志村けん)だったということだ。欽ちゃんはあっち向いてホイなので、じゃんけん関連でそう思い込んでいたのだろう。ドリフターズは食事の支払いはじゃんけんで決めていたらしく、支払う時に酔ってしまってじゃんけんの号令がそろわないので、最初はグーですね、とそろえたのだという。それを番組でも使っていて日本全国に広がったのらしい。
 じゃんけんポンという号令だけで揃わないのに、最初はグーだと揃うというのは少しばかり疑問だが、じゃんけんを出すのが揃わなくてやり直しだというのは、遅出しがずるいからである。遅出しの人が勝った場合はやり直しというのなら分かるが、時には遅出しの人が負けているのにかかわらず「やり直し」という号令がかかるとやりなおされる場合があって、何となくそういうものこそずるいという思いがするのだけど、じゃんけんが始まるとそれに抗うことができない。そういう仕切りのようなものをジャッジ出来る人がいると助かるが、そういう人を決めるのにじゃんけんが必要なら、やはり本末転倒である。
 実は中国留学時代に、かの国の人の多くがじゃんけんを知らなくて驚いた。日本の文化をいくらか知っている人なら普通にじゃんけんを理解しているが、しかしそれは日本から来たものというより、中国から日本に渡って定着している間に中国はじゃんけんを忘れたのだという風に理解しているようだった。民間ではそういうのはどうでもいいけど、すべての文化の発祥だと信じている国民は強いものである。
 さて、そういうわけでじゃんけんが無ければ困るのかというと、やはり彼ら同士の間では、そんなにじゃんけんが必要でないらしいというのも、あとでわかった。嫌なら押しつけるし、良ければ自分がごり押しする。要は強ければ勝ちなので、じゃんけんで決まったことも簡単に反故にされる。つまりじゃんけんの意味がない。じゃんけんのような遊びはあるにはあるが、そういうわけで日本のじゃんけんのように誰でも運で勝つというようなものではなくて、説明するのが厄介だが、いわゆる考えてやり方が上手かったり強かったり少しばかりずるかったりする方が勝つようなゲームで物事を決めるのである。日本人の目からすると極めて不公平だが、弱肉強食の世界なのでその方がかえってはっきりしているのであるようだ。
 じゃんけんというのは日本に住んでいると大変に便利な文化なのだけど、欧米や中国などの自己主張が大切な文化では、かえって厄介な摩擦を生みだす元になるような気がする。
 自分の主張の方が正当だとか、自分の方が強いということを明らかにしたい文化圏では、運で物事を決めるというのは、大変に不公平な印象を持っているのではなかろうか。
 日本人も自己主張を大切にすべきだという意見をよく聞くことがあるわけだが、そういうことをいう人は、じゃんけんを廃止すべきだということを考えてみてはどうだろうか。
 なかなか物事が決まらないで厄介なことになるとは思うが、自己主張の文化というのは、根本的にそのような厄介な取り決め方法のことなのである。少しでも反対があるから(もしくはあるかもしれないという予想だけかもしれない)と言って口をつぐんでしまうような考え方こそが、実は自己主張の無さのような気がする。物事が決まらないからじゃんけんで決めるというような乱暴な文化は、そもそも民主的な手続きですらないのである。
コメント
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