和歌山カレー事件の判決が出て、おおかたの予想通り林真須美被告の死刑が確定した。マスコミとしては裁判員制度の始まるわずか前という時期と重ねて、この死刑判決を問題視する姿勢を見せているのが特徴である。そのことの根拠として、林被告が一貫して無罪を主張(最初は確か黙秘だったけど)していることも大きく、状況証拠と推論のみで死刑判決が出たということも異例視されているようだ。もっとも林被告こそ犯人であると一貫して問題提起してきたのは他ならぬマスコミだったことも今となっては都合よく忘れているようだけれど、これはいつものマッチポンプ的な報道姿勢なのであるとは思いだすべきだろう。実際に事件の報道経過を俯瞰すると、逮捕前からカウントダウンが始まっていたと捉える方がむしろ自然な感覚だったろう。もちろんその流れを受けて、世論としても早期の逮捕と判決を望む空気が醸造されていたと考えた方が妥当だろう。僕自身はこの流れに対して早い段階で林被告以外の犯人論というのをどこかの記事で読んだ記憶があって、かなりびっくりして経緯を眺めていたということもある。もちろん結局その別の犯人とやらは現れることもなく、このような魔女裁判化していく様相に違和を感じていながら、林被告のかなり特異な性格と動向を鑑みて、たとえ冤罪であっても死刑判決はやむを得ないとまで思うようになってしまった。彼女は抹殺されるべくして登場した人なのであろう。
いやいや、ちょっと行き過ぎた意見になってしまったが、この件を冤罪と絡めた死刑廃止論に絡む議論に発展させることに、やはり異議をもっているというのが正確なところなのだ。ましてや裁判員制度において林被告に対する自白無しの姿勢に理解を示すマスコミや世論に、もっと嫌悪を覚えるというのがあるようだ。彼女はたとえ殺人を犯していないにしろかなりの悪党であることは間違いなさそうで、この件で死刑にできないのであれば、さらに事件を重ねる可能性が極めて高い人物だろう。それでも今件で殺人犯でないのならば、死刑判決は不当であるのは確かだ。しかし罪を犯した人間でないという証拠の方が当然ながら希薄であり、性格的に危険であるからこそ否認をするような人格者であるという状況証拠が積み重なっているという見方も妥当性があると考えられる。当事者であるなら事件の真相を知っているというのが普通の感覚であるにせよ、死刑判決を前に刑を認めないというのも人間心理として当然ありそうなことであって、自白を重視するという判断基準こそ、やはり改めるべき時期に来ていると考える必要もあるのではなかろうか。それに自白がないから死刑でなく、無期懲役などの刑が妥当であるという判断も、それはそれで根本的に論理性に欠ける。
これだけ後味の悪い結果を残せる林真須美という人物は、やはりマスコミ的においしい人であるということだけは言えることで、なんだか振り回された僕らが割を食っただけだという気がしないではない。人間が人間を裁くという倫理性に訴えるのが、はからずもこのような人物であったというのは、極めて日本的な事件であるという気さえする。本当の善人ならば静かに死んでいってしまって、何の問題提起さえできなかったのかもしれない。今となってはこの存在こそが人間性の真のダークサイドのような気がして、大変に複雑な思いをするのであった。