盆にこんなに雨が降ったことなんて記憶にない。それはおそらく、僕の頼りない記憶の所為だけではないだろう。記憶だけでなく、記録にも残っていないはずだからだ。
僕自身は、必ずしも雨が嫌いではないのだけれど、ずっと降ってもらっては、やはり困ることになる。日課のようにしている散歩ができないからだ。今年はずっと暑い日が続いて、そうしてそれを言い訳にして、目標にしている歩数に届かない日が増えていた。そういう日が続くと、万歩計の記録は残るので、何かとても残念な気分になった。そうして達成できない歩数というのは蓄積されていき、その月の目標とする歩数から、かけ離れていくのだった。足りない歩数のはずなのに、それが増えることは、何か借金の額が増えるような錯覚を起こした。そういうものは、心の片隅にだんだんと積み上がっていって、そうして僕自身を脅迫するのだ。そのまま返さないつもりか? それでお前は平気なのか?
もちろん気の弱い僕は、そういうことが平気ではない。実際にしている借金のことは、日常では忘れているくせに、歩いていない歩数の積み上がりは、気にかかるものである。
雨は続いていたが、時折止んでいることはある。そういう空具合を見計らって、少しでも歩こうとした。そうするとまたパラパラと雨粒が落ちてきて、慌てて元の道を帰ったりした。
何にもやることのない日曜に、ふと雨が止んでいる。これはチャンスだと思って、まとめ歩きを断行した。それも午前も午後も。3時間くらいは合計で歩くことができた。散歩以外にもいくらかは歩くので、久しぶりに2万歩を超える歩数が稼げた。それでも全部の借金は返し終えていなかったのだが、少し見通しが明るく感じられた。まだ残りの日数から考えて、この月には見込みがある。一日に借金を増やさない頑張りはもちろん維持して、そうしてできることならば、プラス千歩でいいから超過できれば、この月はクリアができるだろう。
読んでいる本のあとがきに、著者のコロナ禍の心労のようなことが書いてあった。親しい人とも会うこともかなわないし、研究に必要な文献を見るための図書館の制限などもあったという。そういうつらい条件の中にあって、なんとか書き上げられたということだろう。そうしてこういう時には散歩しかないといわれて、ひたすら散歩に励んだのだという。わかるよ分かるよ、まさにそんな気持ちの時、ひたすら歩くという感じはよく分かる。散歩は気分転換というよりも、何か瞑想のような心の平穏を保つような作用があるはずなのだ。それも気分よく歩くのではなく、何か励むように歩いているような場合においても、それがそれだけの目的化したとしても、自分を助けてくれるのである。でもそれだけでは何か自分を維持できなくて、例えば万歩計のような、目標の後押しがなければ自分を動かせない。人のモチベーションというものは、なかなか難しいのである。
そうしてやっと長い雨が明けたような気がする。ああ、やっぱり心はなんとなく晴れやかになるのだな。そうして外に出てみて、あっと思った。暑いのである。青空に入道雲がぐんぐん育つように伸びていく。それは真夏のそれで、暑いのである。
長時間歩くのは無理だ。時計を見て時間を刻んで歩くよりないと、来た道を帰っていくと、クラクションが鳴って横にするすると軽トラックが止まった。ご近所の農家のおじいさんで、僕を見かけて声を掛けたのだ。そうしてそのまま通り過ぎるのではなく、車から降りて話をし出した。僕はもう一度時計を見て、「帰らなければ……」と言ったのだけれど、「ああそれはヨカ」と言って、また話をするのだった。田舎で自由に歩くというのは、それなりにむつかしいことなのであった。