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カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

僕の「である」の嘘っぽさ

2023-08-02 | ことば

 「日本語からの哲学」を読んでいて思い出したのだが、僕はずいぶん前から「である」体で文章を書いているようだ。それはたぶん「である」体が大人びた文体のような気がしていて、背伸びして書き始めたからではないかと思う。それというのも小学生の4年生くらいの時に、作文を書いて提出したら、先生から「この文章は、何を写したの?」と聞かれたことがあるからだ。しばらく意味が分からなかったが、自分で書いたものではないとみなされたのだと思う。どうして先生がそう考えたかしばらくたつまで分からなかったくらい幼かったのだけれど、その当時の僕は、どういう訳か読めない漢字は飛ばして新聞ばかり読んでいた。あたまの中は新聞の文章のような文体になっていて、しきりにそういう文体で文章を書いていた。「です・ます」体で最初は作文を書いていたと思うが、今になって思うと、それは先生に向けた文章だからそうであったのと(先生に対する敬意と、手紙文のような対話でもあったのかもしれない)、最初は話し言葉として、そういう風に書くのだと習ったからであろう。しかしすでに自分の世界は新聞世界だから、文章は「である」体に変換された時期だったと思われる。
 同じような思い出として、僕の書いているノートを盗み見した友人が、僕の書いている文章をやはり、どこから模写したの? と聞いてきたことがあったのである。たぶん詩を書いていたと思うのだが「僕は他の誰でもない僕である(大意)」というようなものだったような気がする。いや、僕が書いた詩だ、と答えると、嘘をつくな、と言われた。
 しかし僕は大人になり、lineなどの文章はほとんど「です・ます」調である。それは妻に対してもそうだし、いつの間にか仕事関係者も年下の人が増えたが、そのような人への文章や言葉遣いが「です・ます」なのである。もちろん話し言葉のほとんどがそうであるように、「である」体での表現が難しいというのはある。そうしてやはり対話ということの多くは「です・ます」が、日本語としてふさわしいものとして選択されるのであろう。ということになると、子供のころに背伸びして書いた「である」体であったのに、大人になると別段子供っぽくもないと思われる「です・ます」なのである。まあ、やはりブログの文章は「である」なのであるから、これは背伸びしたままなのかもしれないけれど……。
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相手は僕のことを本当には分かっていない

2023-07-30 | ことば

 最近スポーティファイで音楽を流して聞いたりもしているのだが、僕は無料版を聞いており、ときどきこの無料版から有料に変えるように宣伝が入る。宣伝でかかる音楽は同じだが、ふつうにアナウンスがあり、より快適で便利な音楽を楽しむにはバージョンアップしてお金を払え、と迫るのである。時間的には数十秒なので毎回我慢して聞かないふりをしているのだが、ある時、このアナウンスが英語になった。僕は英語の語りはほとんど聞き取れないが、宣伝であることと、バージョンアップのお知らせであることは分かる。ああ、そうか。僕は洋楽ばかり聞くからである。日本語の曲を検索したことは、たぶん一度もない。
 しかしここでさらに疑問が浮かぶ。検索は日本語で行っているからである。好きなバンドや人物を探す折に、ひらがなでやってもちゃんと目当ての人を探してくれる。それは僕が書く日本語を理解しているからで、基本的にはパソコン上の、こちら側には日本語話者がいると相手が認識していい材料である。ところが相手側が、英語で対話を迫ってきた訳だ。聞いている音楽は洋楽ばかりだから、可能性として英語話者であるかもしれないと考えた、というよりも試してみた、ということか。それもこれまでずっと、日本語の問いかけにはまったく無視を続けている。それは単にそんなに大きなメリットでもない(携帯にダウンロードするなどすれば別なのだろうが)ものと、僕が考えているから無視しているだけであって、日本語が分からないからそうしているわけではない。しかし繰り返しアナウンスしていて、聞いているのが英語なのだから、という理屈も推理も成り立つ。なるほど、相手はたぶんAIなのである。これが現代の文明の利器を使っている、現実をあらわしているのであろう。
 ところで僕は、チャットGTPもそれなりに使ってはいる。何文字でどういう文を書け、とお願いして例文を書いてもらうことがそれなりにあるからだ。出てくる例文は間違いだらけだから、それらの内容の年代などを調べ直して訂正し、そうして僕なりの文体に直して、ささっと相手に送ってしまう。そういう事ばかりでは無いにせよ、とっかかりとして文章を作るには合理的なものを感じている。相手が嘘ばかりつくこと以外は、こちらの方が専門的なことについては知識が上だし、相手の嘘をつきやすい部分というのがあって、これは適当に書いてるようだというのは違和感を感じるし、実際に簡単に間違いは分かる。今のところマスコミはAI脅威論ばかりだけど、彼らはいったい何に怖がっているのだろうといつも思うのは、現実のAIの馬鹿っぷりにいつも付き合わされているからかもしれない。それは人間の方が優秀だという優越感で言っているのではなく、あくまで道具なので使いようだ、ということに過ぎない。電卓の計算能力が明らかに僕より上だと認めていても、何の脅威も感じないことと少し似ている。それでも、もとになるそれらしい文章の土台は、目の前に甲斐甲斐しく提示してくれるし、後で調べ直して修正する手間があるとしても、もともと自分の書く文章であっても、普段から推敲していることに変わりない訳で、まあ、違和感のかけらもない。ちょっとだけ便利な面があるかもな、くらいで使い分けて遊んでいるだけで、願わくばもう少し学習してもらって能力を上げて欲しいということだ。それにはっきり言って、文章はかなりへたくそである。誤字もそれなりにあるし、質問の内容を正確には理解すらしていない。しかしその考え方の過程は面白いものがあって、そのような態度を楽しんでいるのかもしれない。
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僕らが生きて立ち会っているものごと

2023-04-26 | ことば

 考えてみると、言葉に興味を持ったのは、やはり父の影響もあったな、と思う。父は昭和一桁の人間で、最後の旧制中学の出なので、ふつうに漢字はよく知っていて、読めない漢字は無いのではないか、と子供ながらに頼りにしていた。父が読んで教えてくれた漢字を後で辞書を引くと、ちゃんとそう書いてある。これはとても楽しい体験だった。「あれなんて読むの?」と聞いて、読めなかったことは一度も無かったのではなかろうか。
 そうではあったのだが、ある日テレビの宣伝を見ていて、父が「センジョウザイで決まったのかもしれないな」とつぶやいた。何のことかというと、商品の洗浄剤のことである。これは本来「センデキザイ」と読むのが正しいのだが、「洗滌」と書かれていたものがデキと読めずに慣用的に、センジョウ(ややこしいことにジョウとも読めるが、この場合にはデキとしか読めないにもかかわらず、ということになる)と読んでしまう人がそれなりに居たものらしい。その上で当用漢字だか常用漢字から滌の字がもれてしまい、どういう訳か音も違うが読み間違う慣用読みと同じで意味合いが似ているという理由だか何だか知らない「浄」の字があてがわれてしまった。そうすると読み間違いのセンジョウの方ががぜん強くなってしまい、自社商品であるにもかかわらず間違い読みであるセンジョウザイと自ら宣伝してしまっている始末である。これではもうどうにもならなくて、正しさは押しやられてしまったのである。
 僕は何も、もともとあった正しさに戻せとか、原理主義的に元のものこそが唯一の正しさだと言いたいわけではない。そのような物事そのものが、何か言葉の面白さとして感じられたということなのである。こういうことは、あとで調べ直したりして正確にわかったことで、単に父が疑問に思ったという時代に立ち会えたことが、僕の子供のころに重なった訳である。そういえばそういう疑問に思うようなことは、日本語を使う僕ら自身にもたくさんある。あの人は何と言っていたとか、自分はこう言い間違えたとか、それこそ言葉にまつわることは、日常でごまんと発生する。別段それらは頭が悪かったからそうなったとかいう恥ずかし気な話ではなく、日本語というのは、そういうものなのである。
 もちろん、最初のころは、正しいものを知りたいとか、間違わないようにしたい、という気持ちもあったとは思う。でも、そのような使われ方であるとか意味合いなどの変化というのは、僕らが生きていることと同時性がある。僕らの使っている言葉は、ひょっとすると数世代先の人は、何か翻訳のようなものを使わないと理解できなくなっているのかもしれない。
 そういうのって、ちょっといとおしいことだとは思いませんか。
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どちらも記録に残る言葉

2023-04-24 | ことば

 伊集院光と大江健三郎(もちろん生前である)が対談しているラジオをぼんやり聞いた。伊集院はいわば喋りのプロで展開のさせ方が上手く、しかも思ったより文学に通じていて感心したのだが、しかし問題はそうではなく、話というのは話ながら修正することができるが、文章は残るので慎重にならざるを得ずむつかしい、という立ち場であった。ところが大江の方はまったく逆で、話は事前に決まったことを話すとは限らないので不安だが、文章は何度も書き直すことができるので、そんな不安が無いという趣旨だった。いずれも自分の得意分野の方が言葉を扱いやすいということでもあるのだが、捉え方というか、感覚として同じことが逆になっている。では実際のところ多くの人はどう思っているのだろうか。
 大江は職業作家だから毎日続けて大量に文章を綴ってきた。さらに流行作家でもあり、学生時代からこれで食えたのだから稀有な存在だが、しかしおそらく〆切もあろうし、無限に書き直すことができたのだろうか。いや、ある程度納得のいくように推敲し、書き直していることは間違いなかろう事だが、どこかその文章において納得いくまでは書き直している、ということなのだろう。それでああいう難解な妙な文体になってしまうのだから変だけれど、いわゆる分かりやすく書くために書き直しているわけではない。適当にわかりにくいので、本心が知られないくらいには納得がいっているのだろうか。僕も時には文章は見直すし、その時にはかなり文章は書き直すが、無限にはしない。たくさん文章を書くのは癖だが、〆仕切りが本当にあるわけでは無いが、自分なりには〆切は設けていて、それに向かって書き直している。文章によってはどんどん増えるが、逆にどんどん削られていく日がある。そういうのは気分なのか体調なのか、はたまたその両方なのかは自分ではわからない。分かりやすく書き直すこともあるが、あえて分かる人だけに分かればいいだろう、という文章にしたりする。そういうリズムのようなものを面白がって欲しいけどな、とは思うのだけれど……。
 大江と比較するのはおこがましい問題であるとは思うが、文章というのはそういうよそ行き感とか仕掛けとかを忍ばせて作られるもので、多少は対象に合わせて変えることができる。だからその塊の文章ごとに、何か違う場合があるように感じる。それで誤解も受けるが、それで残念に思う時と、そうでないときがある。分かられないのは自分の力量不足かもしれないが、ある程度は仕方ないのである。
 さて話であるが、伊集院の言う記録の残らなさというのは、このラジオがネットに残っている録音であるということを考えると、そのことには当たらないことであるとはいえる。また対話であるが、聞いている人がいる限り、それはある意味で残っている。証拠というほどでは無い日常会話であったとしても、あの人がなんと言ったというのは、残った記録のようなものではないか。対話で瞬時の修正ができる場合もあるが、出来ない流れだってあるだろう。そういう意味では話し言葉の方が難しい場合が多い、とも思う。僕は居酒屋での会話はほとんど忘れているはずだが、うまく伝えられない言葉を発してしまった時は、夢で見たり翌日に反省して恥ずかしかったりする。忘れるように努めるけれど、そんなに簡単に忘れられるものではない。そういう意味で大江派であるともいえる。しかし不謹慎で軽率だから、話をすることができるのである。
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ウルトラマンの時代は良かったな

2023-03-19 | ことば

 ちょっと前から気づいてはいたが、メールやラインのやり取りなどで、相手が「承知しました」とか「かしこまりました」などと書いてくる場合が増えている。それなりにつきあいの長い顔見知りや、完全に友達ならそれは当然あり得ないが、いわば仕事上のやり取りをしている人に、ぼつぼつそういう人がいるようだ。ほとんどが若い人だが、なかには僕の世代の人なんかもいるんで、会社なり、組織なりの決まり事にでもなったのだろうか、といぶかっていた。
 ところがなんとなく眺めていたネットの記事に、ビジネス・マナーのようなことを教えてくれるところがあって、そこでは上司や仕事先への了承の言葉遣いとして、「承知しました」が正しいと書いてあるのだった。「了解しました」は目上の人が、目下の報告などの際に使うもので、目下のものがそれを使うのは不適切なのだという。パラパラ見ていくと、そこだけでなく結構複数の記事にそうあるので、何かの陰謀を考える「正しい」ビジネス講座の組織があるのだろう。
 またしても日本語の乱れを発見したわけだが、その不適切だという感覚が、かなり威圧的な間違いであろう。ほとんどバカなのかな、とも思うが、実際バカな人間だから思いつく感覚なのであろう。まあ、丁寧なものいいかもしれないが、相手から承知されたりしたくないのが、普通の感覚であり人情である。そこまで前時代的に接せられると、はっきり言って気持ち悪いのである。
 しかしまあ、堂々とそう書く人がいると、やはり相手に失礼のないように接したいと考える人には、それなりの影響があるだろう。こういうのが害悪というのである。僕の若い頃には、「いつもお世話になっております」と言うと怒る年配の人がいたものだが(お前のお世話なんかした覚えはない、という訳だ)、いつの間にかこれもビジネス的には定着した(僕も残念ながら使うようになった)。他に適当な言いようが無く便利なんで、いいまわし的に席巻したのである。言葉にはそういう恐ろしいところがあるので、皆が承知しましたと合唱すると、それが正しくなっていくだろう。(間違った)敬語というのは、民主的な世の中を破壊していくのである。
 しかしまあ、そこまでして相手に気を遣うのは、知らないからというのがまずはあるのは確かだろうけれど、失礼のない接し方ということに、何か大きな価値観のようなものがあるためではあるまいか。それは相手のためであるという前に、自分への保身があるのではないか。ふつうに接して問題の無いものであっても、それを逆手にとって優位に立つような嫌な奴が増えたとか、芸能人のたわごとのようなお客様が神様であるというような神話であるとか、結局は事なかれ主義でその場だけ逃げ切ればよいという短絡さもあるのではないか。それが失礼だと言い出されると、確かに過剰な丁寧表現をやろうと思えば(このように)できるのであって、そちらへ最初から配慮しておくことで間違いなさを担保したい、ということにもなるのだろうか。そんな些細なことで引っかかって議論するよりも、過剰に丁寧にしてやり過ごす方が、落ち度が少なくリスクも少ない、ということにつながるのだろうか。
 やはりいくら言っても悲しい限りで、「了解しました」程度の了解度のあるつきあいを心がけるべきなのであろう。それにはやはり時間がかかる面倒も、これからは覚悟しなければならなくなるのだろうか。いや、すでにそんなことも気づかなくなってもいい年頃になってのかもしれなくて、相手にされない問題に過ぎないのかもしれない。
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当たり前に球種が変わっていた件

2023-03-15 | ことば

 久しぶりに野球中継を見ていると、以前と使われている言葉が違っていた。厳密には近年聞いたことはあったわけだが、だいたいの雰囲気というか、知ったふりして聞き流していたのかもしれない。ストレートとかチェンジアップというのは素直にわかるが、これのコンビも以前と比べると増えている。まっすぐとカーブだけの投手というのは昔はそれなりにいたものだが、今はずいぶんと多くの変化球を使う人が増えている印象がある。投手というのは、器用な人が多いのかもしれない。まあ、そうでなければ務まらないのかもしれないが。
 よく聞くのがスプリットだが、いわゆるフォークのことらしい。人差し指と中指の間に挟んで投げると、いわゆるすっぽ抜けるようにボールが飛んで回転をしない。そうすると急激に球速が遅くなり、結果的に落ちるような軌道を描く。初速はストレートと同じだし、見た目もストレートと変わらないため、バッターにとっては直前で消えるように落ちるように見えるらしい。また、いまだに日本ではフォークとスプリットをあえて区別する場合もあるらしくて厄介なのだが、要するにしっかりはさんで落差の大きなものをあえてフォークと言っているようで、メジャーのピッチャーは、あまり球速が変化せず、それほどの落差のない高速のものが多いため区別したい考えがあるのかもしれない。
 ツーシームというのは、シュート回転のものを言っているようで、要するに利き腕側に曲がる球をそういっているようだ。投げ方の癖のようなもので変化の軌道に違いがあって、以前なら荒れ球の一つでもあった。高校野球はいまだにシュートと言っている場合があるように思うので、やはりメジャーの中継の影響だと思う。
  カットボールはスライダーのような小さなカーブのことらしい。高速スライダーのことだと解説している場合もある。スライドは横にずれる(滑る)ことだから、あえて縦横に変化するカットボールとか言っていたりする。大谷投手のカットボールは浮き上がるようだとも言っていて、なかなかに複雑である。
 基本的に腕の振りをあまり変化させずに、握り方の小さな変化でボールの軌道を変える手法が増えている印象がある。今の投手はそもそも球速が格段に速くなっていて、140キロ台ではそんなに速くないとはっきり言われていた。それではとらえられやすいという考えもあるらしく、速い球のまま小さく鋭く変化して、三振なり芯に当たらない球を競っているということなのだろう。もちろん緩急も大切なはずだが、そういう技巧派ピッチャーは、少なくとも日本代表では少なくなっている印象があった。
 ピッチャーのほうがそのように変化したが、バッターのほうもパワーヒッターが増えた。うまくあてられると、軽くスタンドまで持っていかれる印象だ。パワーとスピードの面から言って、僕の青春時代のプロ野球とは、確実に日本人も変わったものだな、と思う。ある意味で仕方がないことだが、メジャーを狙える位置の選手でなければ、なかなかに難しくなっているのだろう。この大会は、選手の狩場になっていることは間違いなさそうだ。不振の人も、頑張ってください。
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僕は気が変わりやすくなりたい

2023-03-01 | ことば

 最近はそんなこと聞かれなくなって久しいが、以前は好きな言葉は何かとか、座右の銘は何かとか、好きな漢字を書け、というのがあったように思う。奥さんの名前や生年月日を教えてくれ、というのも困るが(※1)、こういうのをいきなり聞かれても困る。
 若い頃にはちょっとふざけていたこともあるので、好きな言葉と言われたらいろいろすぐに浮かんだもので、素直に「割引」とか「半ドン(※2)」とか答えていた。生徒としては、「挑戦」とか「夢(※3)」とか無難なものが多かったのだろうが、そういうのを言いたくない気持ちの方が強かった。
 僕の友人に「臥薪嘗胆」や「捲土重来」というのが好きな奴がいて、それで四字熟語を少しは覚えたというのは良かったかもしれないが、最初につらいことがあるのはどうか、とも思っていた。でもまあつらいから忘れず努力できるというのはそれなりに合理的であるとは後で気づいたが、つらいのを忘れないのは精神的に不健康ではあろう。
 それで自分なりのモットーのようなものをいうのもいいかな、とも思うのだが、実はそういうものもそんなに無いような気もする。その時に行きあたりばったりでそうするというか、考えを決めるようなところがあって、柔軟性があっていいともいえるが、優柔不断であるのも事実である。そもそもそんなに事前に何か考えるようなことも無い。
 それでも僕なりに尊敬しているというか、尊敬できる人物像というのがあって、それは素直に誤りを認めるような人なのである。それは自分が悪かった。そう言えるような人に出会うと、ちょっとした感動を覚える。何でもすぐにごめんなさいと謝るような人もどうかとは思うが、もちろんそういうことではなく、たとえ最初に自分が正しいと思ったことであっても、途中で誤りに気づいたら、勇気を出して修正できるということだ。柔軟さがあり、深みがある。
 尊敬できると思えるのは、そもそもそんな人間なんてほとんどいないからだ。人間には感情があり、よほどのことが無い限り、その時瞬時に判断できて正しい、なんてことはあり得ない。だからこそ誤りを認めることは難しく、皆が苦労しているともいえる。もちろん、僕を含めて。
 「朝令暮改」は、あまり意味の良いとされる四字熟語ではない。それは分かっているが、ひょっとするとこれを悪いと考えている多くの人々というか、いわば多数派の無理解にあるのではないか。方針がころころ変わって振り回される身になってみると、お気の毒には感じられるものではあるが、朝令暮改をした人物というのは、迷いがあるというよりは、柔軟に物事を考えたいという思いもあるのではないか。僕としては朝令暮改ができることに、何かヒントを覚えるのである。しかしこれを好きな言葉とするには、やはり抵抗がある。自分の憧れや方針であるにせよ、何か理解を得られにくい感じはある。
 そこで「君子豹変す」、はどうだろう。これも、実際は困った場合を指しているのが本来の語感だろうけれど、そもそも君子のような偉い人であっても、そうなる、というニュアンスもある。ましてや凡人ならどうなのか。君子にあやかって豹変しても良いのではないか。
 ということで、僕の好きな言葉というか、生き方というか、方針というのは、これなのである。そのような人間になれたらいいな、という願望が込められているのである。


※1 たぶん保護法とかのたぐいで、そういうのがなくなった。思えば昔は情報駄々洩れで恐ろしい時代だった
※2 僕らの児童生徒時代の学校には、土曜が昼までという半ドンの日があったのである。半分休みで半ドンというが、半休という言い方をする大人もいた。ドンは休みの意味らしく、当時担任の先生に意味を聞いたら何故か怒られた記憶がある。単に自分の無知が恥ずかしくて逆切れしたのだろう。昔の先生は、ほんとにバカが多かった(今はどうだか知らないが)。
※3 実は「夢」というのは比較的新しめ、という気もする。以前の子供たちは、安易に夢を語らなかったという感覚がある。夢というと将来の職業めいた感覚があって、そんなことをしっかり言えるような子供にろくな者はいなかった。パイロットになるのはそれなりにむつかしそうだし、医者も今から勉強頑張りますって感じで敬遠されたのではなかろうか。だからスポーツ選手はともかく、教師や看護婦のようなものが多かった。また、大工などの職人系のものもそれなりにあったと記憶するが、それは彼らの親の職業だったのだろうか。少なくとも公務員というのは、純粋な子供では聞いたことが無いようにも思う。
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僕は英語ができない

2022-11-29 | ことば

 先日僕の部屋に遊びに来ていたお客さんと、英語の話になった。僕の部屋の本棚に、英語学習の本があるのに目が留まったためだと思う。それで関連の本を棚からいくつか取り上げると、結構出てくる。話を交わしながら取り出すだけで15冊以上。隠れているものを後で数えると40冊以上はあると思う(真剣にはもう探さない)。辞書も英語関係で10冊近くはあるから、まるで英語に興味ある人みたいだ。自宅にもあるんで、100冊と言わない数の英語学習の本を持っていると思う。全部を読んだわけではないと思うし、何十年という歳月の間に買ったというだけの事だから、それくらいあるのは当然だとは思うけれど、学生時代に勉強した以外であっても、毎年英語に関する興味が途絶えず、少なからず学習し続けているということは言えるかもしれない。英語のことを、ある意味で多方面からそれなりに勉強し、知っていることも多くなったとは思うが、英語は得意ではないし、まったくと言っていいほど話せないし読めない。普段英語の歌ばかり聞いているけれど、意味なんてほとんど知らない。というか理解できない。
 日本人が英語ができないという話には、決着がついている。僕はそういう話をしたいわけではない。はっきり言って日本で生活している圧倒的多数の日本人にとって、英語は必要なものではない。不必要なものが、上達するはずがない。それが結論であることは明明白白だ。そうであるにもかかわらず、日本人の英語学習のことで論争が絶えないのは、日本人であるすべての人が、英語学習を強いられているにもかかわらず、英語ができないからであろう。当然のことをいろいろ言っても無駄であることに変わりがないのに……。
 もちろん僕だって、英語が話せたり、理解できたらいいな、とは思う。そう思って英語を勉強したりもしていたのかもしれない。しかしながら、英語を流暢に操るために必要な労力は、そうとう大変なものであるということも、長年の間学習したからこそ身をもって理解できることだ。それくらいの意欲をもって英語を勉強する強いこころというものが、僕には不足していることも分かった。将来にそれが変化する可能性は無いではないが、そうまでして英語を習得する理由が、今のところ僕には無い。英語ができないことは平気なことではないけれど、出来ない現実は当たり前だから受け入れるよりないだけのことなのだ。
 しかし、それくらい難しく嫌なところのある英語だけれど、ちょっとくらい学ぶには、面白いところが多い。いちいち、おおっと驚いたり、なるほどと感心したりする。ちょっと歯が立たない抽象的なところは残っているけれど、多少でもわかるところがあるのは楽しいものである。だからまた英語に関する本を買って、パラパラめくって楽しんでいる。他の言語を学ぶことは、英語に限らず、苦労多くて楽しいことだが、何しろ日本においては、他の言語を圧倒して多くの英語に関する文献にあふれている。これらの日本語で書かれている英語のことを読んでいるのが、何より楽しいということかもしれない。つまり英語を習得する方法としては、このような勉強法ではあまり役には立たないということなのだろう。もちろんこれは逆説的に必要のないものだから、これだけ面白いのかもしれない。それでも英語にだけ関わっているわけにもいかないので、これくらいの距離間でちょうどいいのかもしれない。
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川柳を楽しむ

2022-09-06 | ことば

 僕は川柳好きではあるのだが、俳句にはほどんど興味が無い。また、短歌になると、これはもうまったく興味が無い。似たようなものだという人もいるんだが、ぜんぜん別物であるというのがまずあるが、短歌の漢字のルビが嫌いで、見るのも嫌という感じなのである。「夜空(そら)」とか「太平洋(うみ)」とか、なかには「祭り(カーニバル)」なんてのもあったようだ。見ていて恥ずかしいし、こういう感性がキラキラネームとかヤンキー文化のような感じもする。まあ、その筋の人たちには、これがいいんでしょうね。
 俳句の方なのだが、これも何か季語を含め、情景だけだとか、この世界観がいいという感覚が、何とも言えずついて行きたくないような雰囲気を持っている。模範解答みたいなものがあって、じゃあお前が全部作ったり添削しろよ、って感じかもしれない。悪い句だったら、ははは、と笑い飛ばせば済むことである。ほとんどの人はそうしているのだろうけど、回答を求めて書いているような人もいそうだ。そういうのはなんだかね……。
 川柳は好きなんだが、政治ネタだけはいただけない。地元の長崎新聞の川柳は、だからちっとも面白くはない。そういうのをつくって楽しい人もいるらしいが、見ていてうんざりさせられる。知識が乏しいのに偉そうなのである。
 ではどんなものがいいかというと、要するに何でもないようなものがいいのである。何でもないようなことを川柳で作ってみると妙におかしみが湧くものがいいので、上手く言えないが、凄いのがたまにある。ひどく感心してしまって思わず尊敬してしまう。そういう人が日本には何人もいて、そうしておそらく毎日頭をひねって何句か作句しておられるようだ。若い人がいないではないが、おそらくそれなりに先輩たちだろう。時には何を言っているのかしばらく考えないと分からないものもある。しかし、そういうものも分かった瞬間に面白いのである。ユーレカである。できれば選者に一定の偏りがあって、体調が良ければいいのかな、という感じもする。そういう選別を経て世に出る川柳は、一定の運を兼ね備えている。僕は自分ではまったく作らないので(こういうくどくどしく文章で考える専門である)、テクニックのようなものは、はっきり言ってどうだっていい。いくつも毎日眺めていて、必ずと言っていいほど、一つくらいは感心する。ほんとに素晴らしい娯楽だな、とつくづく思う。僕も体調を整えていかなければならない。
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絵の下手な人が必死になって描いたからこそ

2022-08-09 | ことば

 僕は水木しげるファンではあるが、特に妖怪好きという訳ではない。妖怪のようなものの存在は面白いとは思うものの、そういうものとかかわりを持ちたいわけではないのだ。
 コロナ禍になって有名になった「アマビエ」というのだって、知らない訳じゃないという程度で、特に詳しくない。疫病退散にご利益があるなんて言うのはそもそもうさん臭くて、そんなに面白がられるものなのだろうか? くらいにしか考えていなかった。確かにその絵姿はユーモラスなところがあって、そういうのが人気なのかな、とは考えていた。それにしても絵が下手クソというか、昔の人は絵心が無かったのかな、と勝手に想像していた。
 ところがである。改めてアマビエのことを解説している人があって、ちょっと合点がいったのである。アマビエのような妖怪は、大きなくくりで予言獣と呼ばれる妖怪の一種で、他にもいくつか種類がある。その名の通り、厄災など、将来に起こることを予言するところが共通するが、姿形や現れる場所などによって、さまざまなバリエーションがある。
 アマビエというのは、実は熊本地方に起源があるようで、そこではアマビコ(海彦・天日子・など)というのがそもそもあって、海の中から現れて、吉凶などを予言する。毛におおわれていて三本足であったりする。くちばしのように口が尖っているともされ、なかには全身が光っていたとも言われているものがあるようだ。そうして厄災から逃れたいものは、自分の姿を絵にかけばよい、というのだった。
 実はアマビエとかアリエといわれるものとは、このアマビコの誤記であるともされている。自分の姿を描いたものが救われるということで、多くの絵なんて描いたことの無い人々がアマビコを描いた。それの保存の良かったものが残っているのだが、たまたま残ったものが、このようにひどくへたくそな絵だったということと、そのへたくそな絵を描いた人が、誤記をしてアマビエとまで書いてしまったのかもしれない。そうして後世の僕らのような人々が、その絵を面白がりながらありがたがり、その絵を模写した上に、間違った名前をさらに広げて定着くさせてしまった。いくら当時正しかったアマビコであっても、現代以降にはアマビエの方が優勢で残るに違いない。言葉の変化や偶然というのは、このようにして起こっていくものなのかもしれない。
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次の言葉は控えている(のかどうか)

2022-04-19 | ことば

 最近は何でもかんでもホームレスって単語に置き換えられていれば良いような風潮になっていて、テントのようなものを張っている人だとか、一応小屋のようなものを組んで住まいのようにしている人なんかも、おしなべてホームレスになってしまった。特にそれらの人からの抗議が無いのかもしれないが、何か勝手に気を使ってそういっているような感じもする。そういう気の使い方をして表現したものが、適当なのかどうかは、つまるところよく分からない。無難、というところなんだろうか。
 しかしまあそうなってからそれなりに長い時間が経過したにもかかわらず、やっぱりいまだに違和感をもってしまうのは、どうしたものだろう。ホームレスって言葉を使って、かえって馬鹿にしてるような気分を読み取ってしまうからではないか。
 もちろん以前はふつうに馬鹿にしても良い風潮があって、乞食だとか浮浪者だとかは、それなりの侮蔑の気持ちがこもった人が実際に使っていた。しかしながらそうだけれど、当時の爺さん婆さんのような人にとっては、そういう言葉しかなかったから、別段差別的な意味を伴わない単語としても使われていた。文脈とか語感から、そういうものは感じ取ることができて、ああ、何か事情があるにせよ、ある程度の困り具合と距離感が、そこには感じられるものだった。それ自体もあっさり否定してしまったようなホームレスは、ただ単に距離ができただけのような気がしないではない。そうしていずれはこの語感に差別感を嗅ぎだして、別のもの置き換わりはしていくのだろう。
 先にそういうことを別の機会に書いていて、そういえば別にルンペンってのも以前は普通に聞いたものだけどな、と思い出した。Lumpenと書くようだが、この度改めてドイツ語だと知った。ボロ切れなど意味らしくて、要するにそういうみすぼらしい服装というような見た目をさして使っていたのだろう。僕は田舎暮らしなので、そういう人のいない世界(要するに田舎では何のつながりのない本当の孤独な人は、道端などには居なかった。しかし本当に住居としてはどうなのか? という小屋に住んでいる怪しげなおじさんはいた。途中で役場の人などに連れていかれたのではないかと推測するが……、本当のことは今となっては知らない)に住んでいたので、読んでいる漫画などで存在を知っていたのだと思う。でもまあ公園で酔っぱらって寝ている人はたまに見ていて、今考えるとアル中とか精神系の人だったかもしれないな、とは思う。近寄ると怖そうなので、あまりかかわりを持ったことはなかったけど。
 それで何気なく類語の中に英語のloafer ってのを見つけた。ローファーって靴のローファーである。僕の通っていた高校の靴がそういう種類の奴だったので、何も考えてなかったけど、デッキシューズの上等な奴をそんな風に言うのかな、程度にしか思ってなかった。そんなことも知らずにこれまで生きてきたのか。というか調べろよ当時の俺! バカ。って感じっすかね。
 このローファーってのが紐靴でないから、怠け者、プー太郎、さぼり、浮浪者、といったような意味のようなのだ。これってカジュアルなニュアンスがあるんで、なんかホームレスってのよりいいんじゃなかろうか。まあ結局横文字に逃げてる感じは付きまとうけど、次の候補として控えていてもらおう。控えのまま出番ないかもしれないけれど……。
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女抜きは悲しいか?

2022-03-30 | ことば

 映画「ドライブ・マイ・カー」が賞を取ったからだと思うが、原作と言われている村上春樹の「女のいない男たち」を引っ張り出して、読み返したりしている。これには前書きがあり、この表題で多くの人がヘミングウェイの「男だけの世界」を思い出すだろう、と言っている。原題が「Men Without Women」だから。高見浩の訳の方が日本語の語感として捻られていて、村上のものはあえて引っかかる直訳である。村上も「女抜きの男たち」の方が原題に近い、とも書いている。単純だけど、翻訳ってやっぱり面白い。それに、ドライブ・マイ・カーなのに運転手が主人公の車を運転している話なんだから、これもなんとなく変な感じもする訳だ。いつか映画も見なくちゃな。
 ということで、本文の内容も、今読み返して感じることは、やっぱりヘミングウェイっぽいということだ。これは「男だけの世界」を村上作品として作り上げた世界なのかもしれない。そういうのなんて言うんだっけ? モチーフにするとかインスパイアするとか。まあ、無理にそんな風に言う必要は無いか……。
 同じく「バーニング」(韓国映画)という名で映画化された「納屋を焼く」だが、納屋のことはbarnだから「Burn the barn」というような洒落なのだ、と小谷野敦が書いていて、そうだったのか、と改めて気づいた。小説では納屋を焼いたり、映画ではビニールハウスを焼くことが、なんとなく重要だが、しかし、実態としては、そんなに重要なのかよく分からない。洒落だったのなら仕方がないのかもしれない。
 ノルウェイの森も映画化されたが、これには何もないか、と思ってはいけない。これは実は前にも書いたのだが、大有りである。原題の Norweigian wood というのは、直訳すると「ノルウェイの木」とするのが普通だろう。それにビートルズの歌詞をちゃんと読むと、これはノルウェイの家具のことである。ノルウェイの家具の置いてある女の子の家で遅くまで飲んで話をしたのにもかかわらず、結局やらせてもらえず風呂(水の入っていない)の中で寝て、起きてみると彼女は既にいなくて、頭にきて火をつけた、という物騒な歌詞だ。メロディは美しいのに恐ろしい(というか変ですね)。
 もっともこれは、村上訳がノルウェイの森を採用しているだけで(というか訳している話ですらなく、借用しているだけだけど)、昔から日本ではノルウェイの森である。英語を勉強していてビートルズも聞いている村上少年としたら、あれっ、この邦題ちょっと違うんじゃないか、という違和感を抱いたのではなかろうか(勝手な想像だが)。そうしてそういう違和感を抱えながら大人になり、長編小説を書いた。そうしてそれは大ヒットして、おそらくノルウェイの森は、再度英語に翻訳されたことだろう(結局はNorweigian woodとして)。村上作品は、作品自体もだけど、そういうところが連鎖的に面白くなってしまうのが、なんとも言えないところかもしれない。
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バナナを食べろ

2022-02-02 | ことば

 中国に留学しているころ、習っている普通語とは別に現地の言葉は違っていた。日本の方言というのとはかなり違って、完全に別言語ではないかと思えるくらいまったく別の発音で、とても覚えられない気がしていた。なのでほとんど聞き取れない。また、僕ら世代の若い人たちは普通語もできるので、普段は聞き取れなくても、そんなに不自由はなかった。
 しかしながら街中を歩いていると、普段の生活では現地の人は現地の言葉を使って話をしている様子である。そういう中にあって、特に労働者風のお兄さんなんかが、頻繁に発する言葉があった。普通語ではザオガオというのがあって、失敗などをするときに「しまった(なんてことだ)」というような時に発する言葉だ。しかしながら単語の違いというより、文の長さも違うような気がする。
 ある時一緒にいた中国の友人に、あれはなんて言ってるの? と聞く機会があった。その時は女の子も一緒にいたかもしれない。彼らは(彼女ら)はちょっと考えた風にして「あれは、バナナでも食べろ、って汚い言い方なんだよ」という事だった。「ふーん、変なの」って思ったのだが、あとで考えてみると、男性性器をバナナに言いかえたんだろうな、と気づいた。日本ではあんまりそういう表現の仕方はしないが、中国に限らず、外国の男性は、よくそんな言い方をする。Fuck you なんてのは有名だから知っているだろうと思うのだが、こういうのを話のあいなかにはさみながら話すような習慣のある人なんかもいるようだ。
 日本にも汚い言い方で相手を罵倒するというのはある。また、「くそ」なんていうのも、頻繁に口にする人もいそうだ。下の汚い系というのも外国語には多いが、日本だとせいぜいこの「くそ」くらいのものではないか。
 落語なんか聞いてると「とうへんぼく」とか「おたんこナス」だとか、まあ可愛らしい感じすらする。言葉の勢いで頭にくるかもしれないが、そんなこと言われても、あとあとそんなに傷つかない気もする。日本人が喧嘩が弱そうなのは、こういう罵倒語の弱さに起因しているのかもしれない。
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人が豚小屋に住んでいる理由

2022-01-09 | ことば

 確か学校で習ったことだと思うが、字の成り立ちを教わったときに出てきた話である。「家」という漢字はウ冠(これ自体が家屋という意味である)豕(ブタ)と書く。昔は元々家は豚小屋を意味していた。人は豚とともに生活もしており、豚舎と人の家とは、ほとんど一体化していたのだろうと考えられる。そういう事情もあってか、いつの間にか人の住む家のことが、豚小屋の字であらわされるようになったのかもしれない。というものである。僕は基本は素直だから、それをずっと信じて生きてきた。それに中国の農村部を旅行していると、実際に豚小屋の上に住居のあるようなところがあったりして、なるほどな、という経験もしたことがある。子供のころに豚舎(と言っても二三頭)のある農家の家も近所にあって、いたずらして豚の上に乗って遊んだりしていた。そういうところも家の隣が豚舎であって、まあ、完全に一体化してはいなかったが、一緒に暮らしている風景ではあるようにも思った。そういうこともあって、家が元豚舎の意味であっても、そうおかしい話ではない実感があったかもしれない。
 ところがある中国出身の人の書いているものを読んでいたら、人の家の文字に「豕」があるのは、古くから人が豚を食って暮らしてきたあかしだ、と書いてあったのである。それに軽く衝撃を受けた後に、確かにそれはそうであるはずだと納得したのだ。
 もちろん、人は鳥も食うし牛も食っただろう。しかしながら中国の豊かな生活を支えていた肉食文化の王道は、ほかならぬ豚ではないだろうか。中国人はテーブルの脚以外は何でも食すと言われているが、事に豚肉を食べる執念に並々ならぬものがある。ふつうにいろんなものと炒めて食べるのはもちろんだが、茹でたり蒸したりのバラエティさというのにも、ほとんど際限がない。豚肉を使って加工した食べ物も多彩で、干したりハムにしたり、豚まんのようにくるんだり餃子にしたりシュウマイにしたり、いろんなものの具材には豚肉を美味しく食べるための工夫のようにも感じられる。少なくとも中華の王道にある肉料理は、牛や鳥などではなく、豚なのである。
 漢字は日本人が中国文化から借りてきて使っている文字が基本である。もちろん日本にしかない漢字である国字もありはするが、その文字の由来となる考え方や文化は、中国のものであろう。だとするならば中国の由来から紐解かない限り、本来の意味は分かりえないのではないか。まあ、実際のところ豚小屋に人間が住んで家になったという由来も面白くないわけではないのだけれど、人の暮らしぶりを含めた文字であるという感覚の方が、やはりよりしっくりすると思う。
 せっかく豚肉の気分になったことだし、久しぶりに東坡肉でも食べてみたいものであります。
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マンションに住んだことはありません

2021-10-25 | ことば

 「マンション」という言葉が嫌いである。とはいえ、そんなこと言われたって何のことだか分からない人が大半だろう。単に口にしたくないというか(普段口にすることは、ほぼ無いが)、この言葉を聞くのもなんとなく抵抗がある。日本人同士の間柄だと、これは通じているので問題のないことだとはいえ、ちょっと指摘してみたい気もする。しかしその人が、実際にマンションに住んでいるような人であると、これは言ってはならない気もする。そういう感じが、なんだかもやもやと気分を乱すのだろうと思われる。
 まだまだ何を言っているのやら? という気分の人がいる一方、ああ、そのことなのね、とぴんと来ている人がいると思う。でも、ぴんと来ている人の皆さんは、そういうときにどうしていらっしゃるのでありませうか。
 時は学生時代にさかのぼるのだが、単にその時に香港人の友人が混ざっているときに、「マンションに住んでいる誰それが…」と言ったときに、「ああ、また日本人が間違いを」と言って笑われたのだ。「彼が住んでいるのはアパートメントで、マンションじゃないですよ」ということなのだ。それまで何の認識もして無くて気にもしてなくて、それにまだ携帯電話の無い時代でググることさえできない状況で、改めてマンション(mansion)が豪邸をさす言葉であることを知ったのである。しかしながらたとえそうだとしても、日本においては鉄筋コンクリートらしい少し高層の建物ならば、一般的にマンションである。僕一人が笑われる問題ではない。ついでに日本人の英語発音はひどくて、例えば外来語のスーパーケットでもちゃんとした英語発音では通じなくて、わざわざ日本語アクセントで単語を覚え直さないとならなくて、ほんとに日本語ってめんどくさい、と文句を言われた。それはお気の毒なことだとは思ったものの、やはり僕には責任を負いかねない問題なのは変わりないではないか。
 まあ、そういった呪縛めいた思いが想起される暗号として、これが結構ふつうに聞こえてくる言葉なのだ。あちこちに新たに建てられるマンションの広告は見られるし、そうして田舎の街なので一戸建てに住むというのが基本形であったはずなのに、わざわざ日本語のマンションと言われる住宅に住んでいる人が増えている印象がある。中にはなんでそうするのか不明だが、マンションからマンションに移り住むような人がいたり、住んでもいないのに新しくできたマンションの部屋を買っておいた、などという自慢をする金持ちもいる。定年などの転機に、山間部の家から駅前のような場所に立つマンションに移ったというようなことを言う人がいる。確かに僕は学生時代からだいぶ時間を経過して、知った人がアパートに住んでいる状況の方が少なくなっているのかもしれない(まだ住んでいる人の方が親しみを感じるが)。多くの人が庭の手入れなどに時間を取られるよりも、狭い地域を歩いて回る程度の集合住宅のマンションに住みたがっているということなのだろうか。それは正確には分からないまでも、しかしマンションという言葉が日本語としては完全に定着している以上、この現象とライフスタイルは、ますます増殖の一途をたどっているとしか言いようがない。しかしながら(英語をあやつる)外国人だって一定以上いるはずの日本において、この言葉の意味をめぐっての軋轢の起こる機会は、増えているのではあるまいか。
 もちろんだからと言って日本のこのような言葉を、どうにかせよと言っているわけではない。いや、どうにかして欲しい思いはあるものの、外圧で屈してしまう日本というのも情けない。もうどうしようもない事態にあることで、このように考えてしまう自分が、一番嫌なのかもしれない。
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