goo blog サービス終了のお知らせ 

カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

エディのプレイは永遠です

2020-10-21 | 音楽

 エディ(ヴァン・ヘイレン)が亡くなったことは残念ではあるが、ああ、そうだったのか、とは思った。年齢も65ということで、まだ早いとはいえるものの、偏見もあるのか、ロックスターはあんまり長生きしない印象もあって、いわゆる普通である。亡くなってしまったことは残念と思うものの、やはりそれなりに距離感があるのかもしれない。また、近年のというか、比較的近年はそこまで興味がなかったかもしれない。
 でもまあ当然ながら中学生だったか(小学生だったかもしれない)、キンクスのカバー曲である「ユー・リアリー・ガット・ミー」を聞いた時には、かなりびっくりした。なんじゃこりゃ、って感じだった。もうそのショックで、ライトハンド奏法というらしいと聞きつけて、けっこうまねした。もちろんなんとなくそれらしくはできるものの、実際の曲の中でやるのは大変だったし、中途半端にやると、かえってカッコ悪いのだった。でも当然これが上手い奴もいるもんで、そういうのを見ると負けたと思って嫉妬して、もうやらなくなった。
 でも当時はとにかくヒット曲が多くて、またカバー曲である「プリティー・ウーマン」の時も、かなり多く人がコピーする対象になった。いや、正直言って他の曲は難しすぎて、一応古典的な曲で一部がエディっぽかったらよかったのだ。
 当時はカセットテープには階級的なものがあって、ちょっと高価なクローム・テープを買ってきて録音して聞いた。アルバムはファーストくらいしか持ってなかったが、他も欲しいが小遣いが足りない。それでせめて贅沢してクローム・テープで聞くような好きさ加減だったのだ。あんまりアメリカっぽいのは本当は好きじゃない部分もあったのだが、何しろエディの演奏が凄い。キロキロキロキロ、ギュイーン、ボーン、ガーンンとか。ブブブブブルブルブルウーーウーンとか鳴ってて、いったいどうなっているか混乱した。でもとにかくカッコイイのだった。
 そうして一般的な層には「ジャンプ」で大ブレークする。僕等ロック好きやギター少年に限らず認知度が上がって、凄いことになった。学校の運動会なんかでもバックにかかるようになっていた。とにかく大ヒットだ。
 でも正直に言って、僕らギター少年の多くは、これでエディがギターを弾く場面が少し減って、失望したのだった。確かに印象的だし、それなりに簡単だし、正直言っていい曲だとは思うが、エディはギターを弾きまくらなければならない。それもなんだかいとも簡単に超絶的なアクロバット奏法をやるからいいのだ。はっきり言ってこれほどうまくて速い人はプロでもそんなにいない。絶対いないわけではないが、ものすごく速く弾いていても、ちゃんとこれはエディだな、と分かるし凄いからいいのだ。初めてラジオから流れてくる曲でも、おお、来たなって感じなのだ。
 でもジャンプの入っているアルバムでは、「ホット・フォー・ティーチャー」っていう偉大な曲が入っていた。これはまた、ギター少年たちは熱狂した。もうほんとに凄い。ちょっとジャンルは違うけど、後にアメリカから出てくるグランジなんかにも絶対影響があるんじゃないかと僕は思うのだが、勝手な勘違いかもしれない。でも、ドラムもギターもものすごく速くてかっこいい。エアギターやって口真似で弾いている音を出しても、実際の音にはぜんぜん追いつかない感じがする。やっぱりギター弾かなくちゃって思うけど、いったいどうなってるんだか分からないのだ。歌詞はただのバカっぽいものだが、そういうのも含めてアメリカ人って凄いな、って思ってしまう。こんなにバカで凄いことは、ちょっと普通の人ではできない。そもそも普通ではありえないわけだが……。
 ということで、やっぱり残念だよね。ああいうスタイルはいつのまにか流行らなくなったけど、あの時代だからこそ、ものすごく輝いていたのは間違いない。それにしても、絶対にそれなりに練習してたはずだよな。あんまり努力の人って感じはしないけど、そういうのが透けて見えないからこそ、その凄さが際立っていたのかもしれない。ともかくエディが亡くなったことで、またヴァン・ヘイレンの曲が売れまくっているらしい。関係者や家族にとっては、少なからぬ置きみやげになっていることだろう。合掌。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

まちがって邦楽の世界をさまよう

2020-10-01 | 音楽

 定期的に予約して聞いているFM番組を再生して聞こうと思ったら、違うものがかかっている。あれっ、今週はお休みだったのかな? と思って残念さを噛みしめながらぼんやりそのまま聞いていたが、それにしても同じ時間帯に邦楽の番組というのも不思議な気がする。雅楽ともいうのだろうか、雅であるのは分かるが、普段ふれることの少ない分野である。特殊な人が特殊な環境で聞くという感じもする。その日は萩岡松韻という人を中心に、その家族というか奥さんとかお仲間の人が、数人で演奏してたもの、さらに萩岡さん自身が何か歴史的に因果のある場面において作曲された曲を披露されているらしい。曲の解説もたんたんと的確である。どういう内容かもさらりと語られていて、その後に流れている状況が果たして解説の通りなのかはまったく理解できないまでも、なるほどそういうものか、くらいには感じ入ることができる。
 さて、しかし何故そのまま僕は聞き続けているのだろうか。暇だからだろうか。聞こうと思っていたロックの音を聞けずにショックだからだろうか。
 ああ、そうだった。これは録音予約の時間を間違えたに違いないのだ。夕方と朝の十二時間を間違えたのだ、たぶん。
 さらにじわじわ自分の愚かさと取り戻せない(再放送は無い)時間の切なさに打ちひしがれながら、さらに邦楽の琴の音と鼓の音と、イヨーっという掛け声や歌声を複雑な気分とともに聞く。なんとなく寂しい調べではないか。この世ははるかに古から無情な時間を過ごしてきたものよ。そうしてかえらないものを惜しみ、いつまでもくよくよとしている人間の小ささよ。
 などと考えながら一通り曲を聴き。結局しかし、違う曲が数曲流れた筈なのに、それが違ったのかどうかさえ曖昧で分からず、解説があったが、そのような場面がどこにどうやって再現されていたかもわからないまま番組が終わった。おそらくこれからも、このような体験を経ても、この世界との交わりはなかなかうまくいかないことだろう。
 さて、帰ったらこの番組を消去しなければ。そうしてその空間を埋めるのは、間違った予約時間でないように気を付けなければならないのだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

短くても手ごわいものに変わりはない

2020-09-25 | 音楽

 再び村上RADIOの感想。今回は短い尺のクラシック特集だった。なんとなく聞いたことのあるメロディは無いことも無かったが、ほぼ知らないものばかりだった。
 確かにクラシック音楽を聴くことのハードルには、長く重たい、というのはあるかもしれない。いわゆる退屈なのだ。その退屈な時間を我慢して聞いて、そうして眠くなったり体がかゆくなったりする。牛やトマトに聞かせる人もいるというが、彼らや彼女らは音楽から逃げられない。いったいそれはどんな気分なんだろうか。
 ということで、5分以内だったら退屈する暇はないということだろうか。で、実際に選ばれた曲は、必ずしもキャッチーなものばかりでもなく、かなり希少な感じのするものが多かった。こういうのを集めると、やめられないコレクターになるというのがよく分かる。それにまあ、よくそんなものを持っているものである。
 最初の琴の演奏は、日本だからそういうものはあるのかもしれないとは思われるのだが、しかしたぶんそれなりに希少だろう。ちょっとコミカルにも感じられるし、日本人には受け入れやすいかもしれない。しかし次の象のための曲は、楽しいが、しかしちょっと空想を超えている。そういう曲を真面目に作ってしまうということが、面白い現象なんであろう。
 クラシック音楽を聴くだけでなく、奏でる人々の人口ってどれくらいあるのだろう。オーケストラは、大勢の人々が演奏しているので、多くの人がそれを目指して練習していることを思うと、凄まじい競争もさることながら、それだけ楽器になじんでいる人々がいるはずだろうことは分かる。しかし一般的に言って、ギターを弾くのとはわけが違う。我流の人がいないわけではなかろうが、やはりそういうものを始めてみようと考える人たちの環境は、そもそも何かが違うはずである。そうして逆に、それは少数者であるはずだ。でも競争は激しく、そうしてそのピークにいるだろう人は、壮絶に凄い人のように思われる。そういうものすごいテクニックのものがいくつか紹介されていて、たしなむ人は特に、深いため息をついたのではないか。僕なんかは関係ない人だが、それでも凄さは伝わる。それは曲芸的であり、畏怖の領域である。長い曲でやられると、何かが壊れるかもしれない。
 しかしながら今回の発見は、みじかくても退屈は退屈だということだ。特に知らない曲というのは、その知らない興味があったとしても、ポップソングばかり聞いている耳に対しては、やはり強引なキャッチーさが無い。そこがクラシック愛好者にとってはいいところであるはずなのだが、根気が足りない人には、やはり障壁であるはずだ。少なくとも僕は、改めてその壁の高さに呆れるところがあった。あるいは、それが凄すぎることで近寄れないのかもしれない。
 しかしまあ、本当に村上さんは音楽が好きなんだな、ということはヒシヒシと伝わった。その聞き方が、やはりすさまじく凄いのかもしれない。いったいどれくらいの時間を、音楽を聴くために割いてきたのだろうか。その厚みが背後にあるという迫力が、この短い曲の紹介には込められている。演奏者も時間をかけて練習し、素晴らしい演奏を実現している。聞く方だって、そういう熟練のための訓練を積まなければ追い付かないのだろう。それがクラシックを馴染んで聞くという態度なのかもしれなくて、だから短くてもとっつきやすいかどうかは、やはり別の話なのではないだろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

社会に背負向けても、迎合しなくても、受け入れられる音

2020-08-24 | 音楽

 妙なご時世になっているとはいえ、音楽はそれなりにふつうに聞けるというのはある。もともと田舎暮らしなので、そういうあたりは何の関係も無いということなんだろうか。しかし、ちょっとだけ以前より画像検索なんかしたりしているようで、やはりそういう部分は違うといえば違うのか。
 そうしてちょっと考えさせられたというか、唸らされたという感じが、他でもなくハイムだったのだ、それなりにコーラスのやり方はマンネリ化しているかもな、と感じていたにもかかわらず、新作はちょっとジャズっぽい趣向を凝らして、もっとおしゃれになっている。バンドとしても音がいい感じになっているな、と感じてちょっと映像を見てみようかと思ったら、PVの映像もなかなか楽しめるのだった。
 彼女らはいちおう三姉妹のようだけど(その役割分担など詳しいことまでは知らない)、失礼ながらアイドル的な感じではないのではないかと思われる。映像でも汚く歯を磨いたり、ノーブラで下着姿だったりして、男目線というよりは、女性への共感の方を大切にしている風である。分かり合えない男たちにイラつきがあって、そういうものを音楽にぶつけているということか。女として批判や非難されていることをあえてやって、逆批判を世間に向けてぶつけている風で、そういうのが、やはりなかなかロック的なのだった。
 以前より不幸な感じの女性の代表選手的な雰囲気を持っていたフィオナ・アップルの新譜も良かった。自らしあわせにはなれないような感じの人が、更に牙をむいて狂気をみせている感じだ。以前は明確に男たちに対してのイラつきというのがあったにせよ、世間一般的にも、何か気に食わないことばかりで牙をむいている変な人ではあった。それがまた磨きがかかって、誰に対しても気を許さないような緊張感がある。そんなものがいいのか? と思う人はやはり騙されて聞いた方がいいと思う。奇妙な歌い方や変な調子を取りながら、やっぱり心惹かれる楽曲の力がある。そうして確かに何かが新しい。不気味な赤ん坊のような笑い声だったり、相変わらず暴力的だが、その力量に脱帽するより無いだろう。ボブ・ディランなんかもアルバムを出したが、なんとなくフィオナに食われて霞んだようにさえ思われる(まあ、個人の感想です)。
 そういうことに刺激を受けたのかどうかまでは計りかねるが、何とテイラー・スイフトまでいいのである。いったいどうしたんだろう? といぶかしく思うが、売れるために開き直ってポップに走りこんでいた人だったのに、もともとの原点回帰のカントリーでもなく、暗いポップソングの世界に入り込んでいるように見える。しかしこれが聞きにくいわけでも無くて、ちゃんと感心しながら聞ける。そもそもの力量もありながら、芸術作品だって作れるってことなのかもしれない。内向的でありながら、ちゃんと社会の中で成り立つ客観性があるということでもあろうか。売れている人が趣味に走りすぎて観客を忘れて歌うことはありがちだが、そういうことにならないバランス感覚はさすがではあるまいか。
 ということで、ちゃんと音楽は楽しんでおります。ダーティ・プロジェクターズもポップで良かったです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

通勤には音楽を聴く

2020-08-05 | 音楽

 通勤には車で30ほどかかる。行き帰りがあるので、合計は最低一時間以上になる。さらに車に乗っている時間自体を考えると、田舎に住んでいることと、長崎市内などへの会議への出席も頻繁にあるので(ご時世で、実際の今はほとんど無くなってしまったが、以前は、ということ)、週に8時間くらいは車に乗っているのではないか。その間何をしているのかというと、もっぱら音楽を聴いている。それは生活の一部だし、ちょっと大げさに言うならば、僕の人生の一部である。それも結構大切な。
 以前なら、音楽を掛けながら何かをするということもしていたのだが、どういうわけか、特に集中を必要とする時には、音楽を掛けることをしなくなってしまった。やっぱり聞いている音楽に引きずられるような時があるし、仕事中にやるのはなんとなく気が引ける。もちろんそうしたとしても誰も非難はしないだろうが、自制を利かせることも時には必要だ。自由だからこそ制限がある。そういうものが、何かの役に立つのかは分からないが……。
 ということで、運転自体も好きなのだが、運転中に音楽を聴くのが、ものすごく好きである。通勤であっても、季節は巡る。僕の住んでいるところは、本当に風光明媚なところなのである。通勤で同じ風景を見ているとしても、ちっとも飽きる心配がない。山の緑は美しく輝いているし、海の色は緑に青に、鮮やかで素晴らしい。もちろん天気の悪い日もあるが、灰色にくすんだ海や山が、幻想的に迫ってくる時もある。それは思わず車を停めて、映像に残していきたい世界遺産のようなものだ。その一瞬一瞬が、本当に愛おしい絵画の世界なのである。そうしてその映像美をさらに演出するのが、他ならぬ音楽の調べなのだ。
 僕は基本的にはその時代かかっている洋楽といわれるものを中心に聞いている。もうかれこれ40数年、ずっとそういう趣向である。英語はできないのでほとんどの意味は理解していない。ときどき訳してくれる人もいるし、簡単なフレーズならば理解できる場合も無いではないが、分からないからと言って特に気にしているわけではない。歌声はメロディとして流れているだけで壮快だし、歌える歌は少なくても、別段どうということも無い。アイドル的な歌手のも聞くし、ヒップポップだって聞けないわけではない。ラジオ放送を録音して、ナレーションだけあとで編集して消して、そうして集めた曲を延々と流して聞く。今まで録音した音楽をすべて再生していると、もうおそらく僕の残された寿命では、聞きとおせることは不可能かもしれない。そうしてまた録音して編集して繰り返して聞く。思えば遠くに来てしまったな、と思わないことも無い。なかにはそんなに気に入らないものも無いではないが、まあ順番だから仕方がない。そうやって聞いていると何かの間違いで、いい感じに聞こえる時だってある。外の風景は美しいわけで、音楽だって変化するのだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

古い歌がいつまでも古くならない。新しく歌い継がれるとは

2020-05-15 | 音楽

 BSのカバーズという番組で、松本隆の特集のようなことをやっていた。もともとこの番組は楽しみにして観ているが、これはちょっと特別感がある。もともと松本隆はたくさんの詩を書いているし、そうしてその曲自体がヒットしたというのがごまんとある。いわゆるこの番組のもともとの常連さんである。でも本人が出て、自分の作った歌のオリジナルの歌手以外の人が、また歌うのを見て、何を思うのだろう。
 松本隆は作詞家として有名だけれど、伝説のバンドである「はっぴいえんど」のドラマーだったことでも著名である。このバンドは日本のロックの創始者的な存在であって、僕らの子供のころに、すでに伝説だった。ですます調でロックだというのが新しいといわれていた。当時の僕らからすると、はっぴいえんどの曲はフォークソングみたいだったけど、まあ、ロックも幅が広いしな、ということで納得するよりなかった。しかしまあ、すでに歌謡曲で松本隆の名は知れ渡っており、後で聞いて知ったのだが、そのように松本が売れたことで、仲間たちが歌謡界に参入してきたのだということだった。日本のロックの垣根を超えた存在であることが、その後の日本の歌謡界にも、大きく影響を与えたわけだ。
 でもまあ、僕が本当に松本隆に注目したのは、大瀧詠一の存在からである。多少歌謡曲を馬鹿にして粋がっていたようなところがあるロック少年の、考え方を根本的に変える力を大瀧詠一から受けたのであった。そしてその曲の多くは、松本の詩で構成されていた。それまで曲に詩がついていることに何の興味も無かったが(だいたい英語も分からないのに洋楽中心で聞いていたし)、詩にも意味があることをなんとなく知ったというか。
 僕の子供のころは、歌謡曲の詩の多くは阿久悠だった。それはちっとも悪いことではなかったが、確かに松本隆の詩は、それまでとはなんだか違う感じはする。それがモダンかどうかまでは分からないが、いま改めて聞いてみると、確かにそんなに古くなっていない。都会的なのかというと、そんなことは分からないが、それなりに普遍的なのかもしれない。
 さて番組は、二週にわたり放映された。宮本浩次もエライザも良かったし、翌週の氷川きよしも、藤巻良太も良かった。要するに誰が歌ってもいい歌はいいということなんだろうか。
 しかしながら、やっぱり聖子ちゃんや、大瀧詠一というのは、僕らの青春ソングなんだな、とも思いなおしたわけで、歌というのは、若いころに聞いていた影響というのが、一番大きいのかもしれないと、改めて思うのだった。当たり前の結論で申し訳ありません。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

雑音の多い録音を聞く

2020-04-12 | 音楽

 番組を予約録音しているのだが、どういうわけかその時間帯だけ雑音がたくさん入る。アンテナの方向が悪いのだろうと思って調整はしているのだが、調整しているときにはそれなりに受診具合は調子がいいので、録音時間帯に何か電波の不調が現れるのではないかと考えられる。番組によって雑音が生じることがあるんだろうか。一応アンテナも別に買っておいて試してみたが、特に変化は無いような気がする。
 もちろん電波の障害になる可能性のある電化製品、または他のケーブルなどの影響を受けている可能性もある。だが、受信状態の良い日もあって、その時の録音は問題なく聞ける。誰かの悪意があるとも考えられないので、その時間帯に何かほかの原因があるのかもしれない。まさかその時間帯にご近所すべての電波状態が悪くなるとも考えにくいが。
 雑音の多い録音を聞いていると、とても空しい気持ちになる。ディスクジョッキーが話している内容も、ところどころ想像して聞く。もうやめようかな、とも思うのだが、ちょっとだけ聞き取れるのでタチが悪い。想像を巡らせて分かるところもあるが、やはり分からないとイライラする。イライラするためにラジオを聴くなんて馬鹿げていると思うのだが、しかし性格なのか、そういう状態をやめられない自分がいる。
 FM放送ではないが、小学生のころに短波放送でワライカワセミの声を聴いた。オーストラリアの日本語番組で、オープニングにワライカワセミの鳴き声が聞けるのだ。短波だからというのもあるし、オーストラリアのような遠いところからの電波だから、チューニングを合わせるのが、とても大変なのだ。番組の内容などほとんど覚えていないが、雑音の混じった奥から聞こえてくるワライカワセミの声を聴いたときは、本当にうれしかった。僕と同じような体験をした少年は多かったはずで、しかしどうしてそれを知ったのかは、もう忘れてしまった。
 雑音がひどい中で、グリーンデイの新しい曲が聞こえてきた。こういうストレートな音なら、雑音があってもそれなりに聞こえるらしい。きれいな音で聞いた方がいいに決まっているが、このようなロックというのは、雑音があっても聞けるということか。また、機会があったら、もっと良い音で聞いてやらなくてはならないな、と思いながら、車を走らせて聞いていたのだった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

村上レディオ、今年もよろしくです

2020-01-15 | 音楽

 昨年の一番の事件として挙げていいのは、村上ラジオではないかと思う。いや、厳密には一昨年からスタートなんだろうけれど、昨年はコンスタンスに放送は行われ、いや、実際堪能いたしました。
 それというのも、内容そのものがいいと思うのである。もともと音楽に対して造詣が深いというのは分かり切っていたことなのだが、そういうことをわかっていながら、やはりしかし、本当に楽しみながら実際に音楽が好きな人なのだな、というのが、改めてわかる内容だったのである。深いだけでなく、広い。ほんとに広い。凄いなあ~、というのが感じられるだけでも事件だったのではなかろうか。
 そうしてまた、選曲も、ある意味でオーソドックスでもない。ちょっと外れている。でも、マニアックなだけでもない。ちゃんとその面白さのわかる範囲で、外れてない。このバランスも凄いのである。あきれるけど、王道でもないけど、凄いなあと思わせるポイントはちゃんと踏んでいる。これが世界の村上春樹たるゆえんなのではなかろうか。
 ということで、興奮して番組を聞いて過ごした時間は楽しかったのです。こういう事件が、長生きしていると起こることもあるんだな、と思うだけでも、素晴らしいことだと思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

要するに昔の僕は恥ずかしい

2020-01-05 | 音楽

 音楽の話を一緒にするような仲間というのは、かなり減った。特にロックの話というのはなかなか難しいことになっていて、だいたいの分野というのが重なる人というのはものすごく限られている。僕は小学高学年くらいから渋谷陽一のラジオを聞いて育ったのであるが、そういう人が周りを探しても容易に見つかるはずが無い。いや、出会ったことさえないはずである。ロック好きの友人はたくさんいるけれど、そういうことはあんがい重ならない。でもまあ、だいたいロックだしな、という緩い感じでお互いの話をクロスさせて楽しんでいる。好きなバンドとか曲というのが重なるというのはあるけれど、おんなじ塊が合う感じというのは、中学生頃に一緒にバンドをやっていた仲間たちくらいではなかろうか。もうずいぶん昔のことである。
 しかしロックの話というのは時々する機会があって、話をできるだけでも貴重で楽しいのだが、ちょっと世代が違ったりするだけで、ほんとにまあ、ずいぶん違う展開になっていく。僕のまったく知らない音楽と、相手がまったく知らない音楽でありながら話をしたりする。
 徳島の居酒屋で飲んでいたら、僕より10くらい若い人が古典ロックが好きだと言っていて、それは僕の高校生くらいの時代の音楽だった。そういうのは古いには古いが、さて、古典なんだろうかな、と思ったりした。
 さてしかし、若くてロックに詳しい人というのは確かにいて、若いからものすごく力強く音楽を聴きこんでいることは見て取れるのだが、しかし放っておいて聞いていると、どんどん事細かくマニアックになって困る。聞きたくないということではないが、なんだか僕が若いころに話していたような感慨がよみがえって、とてもいたたまれなくなるような恥ずかしさを覚えるのだ。そういうわけで、ロックの話をすると恥ずかしいということも同時に思い起こされてしまう。もう少し軽い感じでぼそぼそと話ができるような環境に、身を置きたいと願っているのである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

懐古趣味でも復活はいい

2019-12-08 | 音楽

 最近の音としては、オジサンでも聞きやすいスタークローラーが何と言ってもいい。要するに古臭いバンドロックで、カッコいい狂い方なのである。今はユーチューブがあるので映像を見られるのは助かる。是非見てください。面白いから。
 ボーカルのアローちゃんという娘が、ガリガリに痩せていて長身で、なかなか変である。ライブでは血だらけになったりするらしい。詩も自らの自慰行為などを書いたりして、ちょっと過激かもしれない。訳してくれないと知らなかったことだけど。かといって投げやりな娘なのかというと、どうもそういうことではなくて、まじめではあるようだ。パフォーマンスで割り切っているのかもしれない。血を使った演出をする理由かどうかは分からないが、オジー・オズボーンのファンらしい。なるほど。
 オジーといえば、ポスト・マローンもオジーのファンらしくて、曲で使っているのを聞いた。なかなかこれもいい。僕はブラック・サバスのファンではなかったけれど、もちろん子供のころに流行っていたので知っている。日本でも大人気だった。高校生くらいになるとあんまり聞かれなくなっていった記憶があるが、どういうわけかどこかで復活した。日本で放送があったのかどうか知らないが、オズボーン家のドラマというか、テレビ番組が人気になっているという話も聞いたことがある。娘が奔放で、それが変なアイドル的に面白がられているらしいという噂だった。何が面白いのかは今一つ分からないのだが、全世界に知られる変な一家だったらしい。
 僕がオジーのことを知ってるのは、なんでも彼がたいへんなビートルズファンで、毎日ビートルズばっかり聞いているという話を聞いたからだ。後にビートルズのカバーアルバムを出したりもしている。サバスなどの曲は、確かにメロディも悪くないけれど、ビートルズとはかなり違う印象だ。面白いものだな、と思うのである。化学反応としてそういうことが起こるのは、ロックなのかもしれない。
 そうして世代が変わってもバンドロックはこうして復活したりする。こういうのが面白いと思うのは、僕なんかは懐古趣味が混ざっているけど、若い人には新しいのかもしれない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ポップであることから逃げない

2019-09-01 | 音楽

 ラジオを聞いていると渋谷さんが、あるミュージシャンのことを「ポップであることを恐れていない」と評していた。風貌もファッションも前衛的であるが、しっかりメジャーで活躍できるという期待もあるんだろう。以前であればこのような人は、ちょっと芸術的にはまり込んだりして、アンダーグラウンドな感じになる場合が多かった。いや、実際のところ、そういうところの人だからポップに這い上がれなかったのではないかと思うが…。
 要するになんとなくロック・オタクになったりすると、それなりに気難しくなったりする場合がある。ロックというのは音楽だから、いくらキャッチーなメロディを持っていたとしても、理解されにくい場合はある。だから理解できないほうが悪いような、そういう気の毒な場合も確かにあるだろう。
 またたとえヒットしたとしても、売れ続けるとは限らない。むしろ続けることの方が困難で、要するに消えてしまう。せっかく売れ続けても、プレッシャーなのかどうか、自殺してしまったりする。大衆にさらされるというのはそういうことを含んでいるようで、個人としては、それなりにつらいことなのかもしれない。
 要するにポップでいられることから逃げるというのは、それなりの防衛行動かもしれず、逆に言うと逃げないというのは、馬鹿なのか勇気があるのか、はたまたその両方の覚悟を持っているというとらえ方もできそうである。
 妙な言い方には違いないが、素直なポップに対して蔑むような態度を持つ大衆は、またはポップファンは、それなりにいるのかもしれない。欲していながら同時に嫌悪の対象となってしまうスターは、だから何れにせよ逃げられはしない。それを態度というべきなのかどうかは、よくわからないけれど。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

音楽配信に搾取される

2019-08-04 | 音楽

 今は音楽配信で曲が売られている時代なので、僕のようにいまだにCDを買っているような人間には分からないことだろうと考えていたのだったが、CDが売れなくなったことによって、CDの売り場に人々は行かなくなったわけで、いわゆる自分の聞きたい曲へのアクセスが直接的になっていて、目的外である曲やジャケット(パッケージ)などにふれる機会が激減していて、商売が難しくなっているのではないか、という話を聞いたわけである。おお、そういうものなのか。と、一瞬分かった気になった。そうであるなら今のミュージシャンは、さぞかし貧乏になったのではなかろうか。何しろ余分に曲が売れないのだから。
 ところが実はそうではなくて、現代のミュージシャンは、比較的以前のミュージシャンより、収入の面では相対的に増えているらしいのだという。それでは何か理屈か合わない気がするが、どうしてだろう。
 要するに音楽業界というのは、CDをヒットさせるために、中抜きをするシステムが整っていた業界であって、CDが売れるととにかく会社が儲かるのだが、曲を作ったり演奏したりする人たちに行き渡るためには、全体の一定の利潤が得られる必要があったらしい。もちろんそのために投資をしてリスクを負っているのは会社だとはいえるので、そういう仕組み自体がおかしいということは無い。しかしネットなどで直接に配信して、場合によってはすぐに演奏場所などの案内ができるような環境が整ってきたおかげで、いわゆる広く食えるようになった音楽家がたくさん生まれているんだそうだ。そうして音楽を直接配信するような形態を作り出した会社が、また多くの音楽家を取り込もうともしている。大家さんが変わった、ということでもあるんだな。
 いまだにCDなどを買っている人間に言わせてもらうと、YOUTUBEなどの音楽配信というのは、結構怖い場所である。時間がつぶれてしまうというのが一番だけど、結局お金を使わせられる感じがするのである。以前なら、ラジオかせいぜいCD売り場でしか音楽にふれることが無かったのに、ネットだと、どんどん次を紹介してくれるのだ。時間がつぶれるのはそのせいであって、目的の音楽はもちろんのこと、知らず知らず知らない曲やバンドなんかまで知ることになってしまう。結局それなりに気に入ってしまうと、いつの間にかCDを探して買ってしまったりするのである。
 音楽というのはキャッチーだからこそ、搾取構造が成り立ちやすい。そうしてその世界に取り込まれやすい僕らの世代が、一番危険なのであった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いまさら踊れはしないけど

2019-07-23 | 音楽

 踊りは得意ではないが、嫌いなわけではない。僕らの若いころにはディスコというところがあって、お金がなかったので簡単に行ける場所ではなかったけれど、ともかく踊りに行くことはできた。また、特にディスコでなくても、踊ったりする人はいたような気がする。僕らは日本人でシャイなんだけど、バンドとかを聞いていると体をゆするくらいはする。アルコールが入ったりすると、踊っても別にいいじゃん、ということくらいはあったかもしれない。
 ところでそういう場合には、ダンスミュージックということになるのか。同級生にはテクノが好きな奴がいて、YMOが一番踊れると信じているのがいた。そういう気分があったのは知らないではないが、僕の本当の仲間というのは、ちょっとそういう人たちとは違っていた。ダンスミュージックで踊らないわけではないが、ちょっと仕方がない、という感じもあった。何しろ僕らはバンドマンで、そういうのは演奏したことが無い。普段はまったく聞かない分野だったのだ。
 ということで、僕のダンスミュージックはストーンズのミス・ユーなんである。またはプリンスのダイ・フォー・ユーとか。いや、そんなこと言うと何でもありだな。まあ、そのようなヒットソングがかかると、踊りたくなるくらいいい気分という感じだろうか。
 でもやっぱり踊れないな。いつの間にかそんな機会を逸してしまった。かといって盆踊りも得意じゃないし、たぶん誰も誘ってくれないしな。誘ってもらっても困る気もするし。
 というようないじけ方をしても仕方ないが、この間レッチリを聞いてたら、自然に体が動く気がした。こういうのだったらいいのかもしれない。なんといっても馬鹿っぽいし。カルフォルニアには行ったことないけど、良いところかもしれませんね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昨年つらつら聞いてたのを振り返る

2019-01-18 | 音楽

 ヤンキーと思われるかもしれないのが嫌だったのであまり人には言えなかったのだが、昨年の前半は、わりにポスト・マローンを聞いていた。車から音が漏れるのは仕方がないが、信号待ちではなんとなく恥ずかしい。恥ずかしいが聞いてしまう。やっぱり馬鹿っぽいけどカッコいいんだよな。ユーチューブを見ると、やっぱりセンスは合わないな、とは思うのだけど。
 一気に飛んで後半になると、ザ・レモン・ツィッグスが出た。知性があるというわけじゃないが、一気に趣味が変わった感じもする。この人たちは何か変だとは思うんだけど、妙に引き付けられるものがある。まじめな人たちでも、ぶっとんでびっくりさせることができるというか。妙に感心させられるというか。
 変わり種の一発勝負だとは思うが、スーパーオーガニズムも面白く聞いた。日本人の女の子がボーカルだからという話題性もあるが、やっぱりこの人たちも変である。変なのが好きなのかな。いや、そんなことはないと思うが。でも、芸術集団っぽい感じでも、気取っているわけじゃない。売れちゃって、戸惑いもあるんじゃなかろうか。
 本当に感心してしまったのは、ダーティプロジェクターズだった。なんか凄いなあ、と素直に感じる。ライブなんかどうするんだろう。曲が自在というか、非常に趣味的なんだが、ちゃんとポップで高揚感がある。みんなで聞いて盛り上がるって感じじゃないのかもしれないけど、一人で聞いて盛り上がりはするのである。
 さらに良かったのはミツキですね。なんか素晴らしい出来のアルバムじゃないですか。曲が短いけどドラマチックだし、東京ラブストーリーみたいなギターも鳴るんだけど、かなり芸術性が高いというか、凄い才能なんだろうな、と思います。ジャケットはアートすぎると思うけど、そういうことに躊躇しない人なのかもしれない。日系の血があるのだろうけど、日本的ではぜんぜん違う。私的な部分でそういうものはあるのかもしれないが、もうあっちに行ってしまって届かない人、という感じかもしれない。
 けどやっぱり一番の事件はグレタ・バン・フリートで、昨年はこれで決まりである。若いしカッコいいし、実力もありそうだ。もちろんツェッペリンに似てるから興味が出たのは間違いないけど、もうそんなことばかりも言ってられない。実際にそういう曲作りをしているが、早晩脱皮するだろう(しなくていいと思うが)。さらにビッグになるとは思うが、兄弟でもあるし、ケンカしないで続いてほしいものである。兄弟バンドの先輩たちは、なんか問題あるところが多すぎるから、周りがちゃんとサポートしてやんないといけないのではないだろうか。甘やかしすぎてすいません。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

クリスマス・ソングを聞く

2018-12-21 | 音楽

 今回も村上レディオ、よかったですね。クリスマス・ソング特集でありました。毎回変わった曲がかかるので知らない曲が多いのだが、ワムがかかったのにはびっくりした。村上さんも三河ナンバーのトヨタ・プリウスみたいにガチな定番と言っていた。バカにしているが、まあ、そういう感じだから仕方ないか。
 ところでこの時期に買い物に行くと、あたりまえだがどこに行ってもクリスマス・ソングがかかっている。楽し気な気分を盛り上げるものだろうけれど、ひねくれものの僕にしてみると、いささか食傷気味になる。クリスマスだからって、何が何でも楽しそうにしなければならないんだろうか、などと思ったりする。まあだいぶ大人にはなったから、楽しいんならそれで別に構いはしないとも、少しくらいは思えるようになったものの、やっぱり全体に浮かれすぎているんじゃないだろうか。僕の母もクリスチャンだから、そりゃあもうクリスマスといえば子供のころから最大のイベントだったけれど、大人になり自分の子供と祝うようになるまでは、だいぶ中抜けしてクリスマスはお休みしていた時間が長くなった。そうしてまた子供がいなくなってみると、まあ、特に盛大にやることなんてないよな、という感じだろうか。まあ、楽しい人は構いませんけどね。やっぱりクリスマスは宗教的なお祭りで、日本はその辺は、素直に変だと思う。
 さて、村上さんの番組でもそうだったけれど、この時期になると何故かビーチボーイズなんてものを聞きたくなるものである。ハッピーだけどちょっとだけくらい雰囲気というのが、何より合っているのではないか。
 本当はクリスマス・ソングにかこつけた反戦歌だけど、ジョン・レノンもいいかもしれない。もっとも彼は12月に亡くなったので、この時期になると自然にほかの曲も流れる。だから全体的な雰囲気として、クリスマス・ソングのようなことになっているのかもしれない。
 もう一つお勧めするとすれば、なんといってもエイミー・マンである。彼女もちょっとひねたところがあって、必ずしもハッピーなクリスマス・ソングではないけれど、やっぱりしっくりくるところがあるように思う。熱唱というわけでもなく、しかししっかり歌われている感じが、クリスマスにはお勧めであります。なんとなく物悲しい時期だしね、クリスマスは反面的に…。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする