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宗祇終焉記8 文亀二年八月~ 兼載長歌 (終り)

(昨日の雨で水没、大代川工事現場)

「宗祇終焉記」も今日が最後になった。さっそく解読を始めよう。

この頃、兼載は白川の関近きあたり、岩城とやらんいう所に、草庵をむすびて、程もはるかなれば、風のつてに聞きて、せめて終焉の地をだに、尋ね見侍らむとや、相模国湯本まで来りて、文に添えて書き送られし長歌、この奥に書き加うるなるべし。
※ 兼載(けんさい)- 猪苗代兼載。室町から戦国時代の連歌師。会津出身。心敬、宗祇に学び京都へ出て活動する。

   末の露    もとの雫の   ことわりは 大かたの世の
   ためしにて  ちかき別れの  悲しびも  身に限るかと
   思おゆる   なれし初めの  とし月や  三十あまりに
   なりにけん  そのいにしえの こゝろざし 大原山に
   焼く炭の   烟にそいて   昇るとも  惜しまれぬべき
   いのちかは  おなじ吾妻の  旅ながら  さかい杳
(はるか)
   隔
(へだ)つれば たよりの風も あり/\て つげ(黄楊)の枕の
   よるの夢   驚きあへず   おもいたち 野山をしのぎ
   露きえし   跡をだにとて  尋ねつゝ  言問う山は
   松かぜの   こたえばかりぞ かいなかりける

     反歌
   遅れぬと 嘆くもはかな 幾世しも 嵐の跡の 露のうき身を

この一巻は水本与五郎、上洛の時、自然斎知音の人に、京都にて、いかにと問わるゝ返事のために書き与うものなり。一咲々に
                           宗長
※ 自然斎 - 宗祇の号。
※ 知音(ちいん)- 知り合い。知己。
※ 一咲々に -「咲」は「笑」の古い字。ほんのお笑い草の意。


この一冊、宗長真筆の本を以って、これを書き写す。
  駿州駿東郡、桃園山定輪寺、什宝
時に、文久三星舎癸亥中秋、下院
  山主百園和上の需(もと)めに応じて、これを写す。
                   武陵城外人、大圓杜多。
※ 什宝(じゅうほう)― 家宝として伝えられた道具類。


「宗祇終焉記」を読み終えた。さて、次に解読する本は松浦武四郎の「東海道山すじ日記」にしようと思い、何日か前より解読を進めているが、原文は細かいくせ字で、慣れるまでにしばらく掛かりそうである。幸い宮本勉氏の翻字版が付属しているので、カンニングしながらの解読になりそうである。
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宗祇終焉記7 文亀二年八月 追悼

(裏の畑のボケの花)

朝から一日雨降りであった。宗祇終焉記も明日で終りになる。解読を続けよう。

同じ夜、侍りし一続の中に、「寄月恋旧人」という題にて、
※ 寄月恋旧人 - 月に寄せ旧人を恋う。
※ 旧人(古人、ふるひと)- すでに死んだ人。故人。


                           氏親
   ともに見ん 月の今宵を 残し置きて ふる人となる 秋をしぞ思う

宗祇を心待ち給いしも、そのかい無きという心にや。

また、ありし山路の朝露を思い出でて、

   消えし夜の 朝露わくる 山路かな     宗長

という上の句をつかうまつ(仕)りしに、下の句に

   名残過ぐ憂き 宿の秋風         宗碩

これを宵居のたび/\に、百句に連ねて、せめてなぐさむ。燈し火の元にて、かれこれ、去年今年の物語し侍るを、ものに記し付け侍るものならじ。
※ 宵居(よいい)- 夜遅くまで起きていること。


この月の晦日は月忌の初めなれば、草庵にして素純など来り、あわれあい、とぶらわれし。
※月忌(がっき)- 毎月の、故人の命日にあたる日。月命日。

次に連歌あり。発句、

   虫の音に 夕露おつる 草葉かな      宗長

この発句を案じ侍りし暁、夢中に宗祇に対して談じせしに、朝露分くると申す発句をつかうまつりて、又夕露はいかがと尋ね侍りしかば、吟じて幾度も苦しからざる由ありしも、あわれにぞ覚え侍る。

同じ日の一続のうちに、「寄道述懐」という題にて、
※ 寄道述懐 - 道に寄せ思いを述べる。

   たらちねの 跡いかさまに 分けも見ん おくれて遠き 道の芝草

東野州より古今集伝受の聞き書き、並び切紙など残す所なく、この度今際の折りに、素純口伝付属ありし事なるべし。
※ 東野州(とうやしゅう)- 東常縁(とうつねより)。室町中期の歌人。美濃国郡上の領主。
※ 切紙(きりかみ)- 奉書紙・鳥の子紙などを折り目どおり二つに切ったもの。
※ 切紙伝授 - 古今伝授で、奥義とする秘説を切り紙に記して伝授する形式。東常縁が宗祇に行ったものを最初とする。
※ 付属(ふぞく)- 師が弟子に教えを授け、さらに後世に伝えるよう託すること。


同じ頃、素純の方より、初鳫(雁)を聞きて、宗祇の事を思い出でて、など言い送られし、
 
  ながらえて ありし越路の 空ならば つてとや君も 初雁の声
※ つて(伝)- 相手に伝えるための手段や方法。

かえし                  
                               宗長
   三とせ経し 越路の空の 初雁は なき世にしもぞ つてと覚ゆる

宗祇北国の住い三ヶ年の程、たよりにつけて、文などありしを思い出て、かくぞ侍りし。
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宗祇終焉記6 文亀二年八月 桃園-駿府

(大代川の水が引き、土手の補強がされた。明日はまた雨だ。)

宗祇終焉記の解読を続ける。宗祇は定輪寺に葬られた。取材に行きたかったが、裾野市は先日の大雪の真っただ中で、車で行くのはまだ無理であろう。

足柄山はさしてだに、越し憂き山なり。輿(こし)にかき入れて、ただある人のように拵え、跡さきにつきて、駿河国の境、桃園という所の山の麓に会下あり。定輪寺という。この寺の入相のほどに落つきぬ。
※ 会下(えげ)- 禅宗・浄土宗などで、師の僧のもとで修行する所。
※ 入相(いりあい)-日が山の端に入るころ。日の暮れるころ。夕暮れ。


ここにて一日ばかりは、何かと調えて、八月三日のまだ明けぼのに、門前の少しひき入りたる所、水流れて清し。杉あり、梅、さくらあり。ここにとりおさめて、松をしるしになど、常に有りしを思い出て、一もとを植え、卵塔をたて、荒垣をして、七日ばかりほど籠りいて、
※ 卵塔(らんとう)- 台座上に卵形の塔身をのせた墓石。禅僧の墓石に多く用いられる。
※ 荒垣(あらかき)- すきまの大きい垣根。


おなじ国のこう(国府)に出で侍りし道のほど、誰もかれも物悲しくてありし、山路の憂かりしも、泣きみ、わらいみ、語らいて、清見ヶ関に、十一日に着きぬ。よもすがら、磯の月を見て、

   諸ともに 今宵清見ヶ 関ならば と思う月に 袖ぬらすらん

かくて、こうにいたりぬ。我が草庵にして、宗碩水本、あわれ、これまでせめてなど、うち嘆くほかの事なし。
※ こう(国府)ー 駿府のこと。そこに宗長の草庵「柴屋」があった。現在の吐月峰柴屋寺である。
※ 宗碩(そうせき)- 室町時代の連歌師。号、月村斎。宗祇に師事、のち肖柏・宗長に兄事。公家・武将とも親しく、旅を多くした。
※ 水本 - 水本与五郎。「宗祇終焉記」を宗長より預かり、京へ持参する役割を負う。宗祇の弟子だったのだろうか。不詳。


十五夜には当国の守護(氏親)にして一座あり。かねて宗祇、あらましごとの次に、名月の頃、駿河国にや至り侍らむ。発句などあらば、いかにつかうまつ(仕)らむと、くるしがられしかば、去年の秋の今宵、越後にしてありし会に、発句二つ有り、一つ残り侍るよし、相伴う人言えば、さらばこれをしもぞ、つかうまつ(仕)らめなど侍りけるを、語り出でれば、それを発句にて、

   曇るなよ たが名は立たじ 秋の月      宗祇
   空とぶ雁(かり)の 数しるき         氏親
   小萩原 朝露さむき 風過ぎて         宗長
※ しるき(著き)- はっきり見えるさま。
※ 氏親 - 今川氏親。戦国時代の武将。今川義忠の子。母は北川殿。今川義元の父。駿河、遠江守護。分国法「今川仮名目録」を制定。
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宗祇終焉記5 文亀二年七月~ 宗祇臨終

(黒田代官屋敷の蘇鉄の花)

宗祇終焉記ノ解読を続ける。いよいよ宗祇の命が尽きる。

廿七日、八日、この両日、こゝに休息して、廿九日に駿河国へと出立ち侍るに、その日の午の刻ばかりに、みちの空にて、寸白といふ虫おこりあいて、いかにともやるかたなく、輿を立て、薬を用いれども、しるしもなければ、いかがはせん。
※ 寸白(すばく)- 条虫・回虫などの、人体の寄生虫。また、それによって起こる病気。すんばく。
※ 露(つゆ)-わずかなこと。少しも。


国府津という所に旅宿をもとめて、一夜を明かし侍りしに、駿河より迎いの馬、人、輿などもみえて、素純、馬を馳せて来り。向われしかば力をえて、明ければ箱根山のふもと、湯本という所に着きしに、道のほどより、少し心よげにて、湯漬けなど食い、物語うちし、まどろまれぬ。
※ 素純(そじゅん)- 東胤氏(とうたねうじ)の法名。室町-戦国時代の武将、歌人。

おの/\心をのどめて、あすはこの山を越すべき用意せさもうて、打ちやすみしに、夜中過ぐるほどに、いたく苦しげなれば、押し動かし侍れば、只今の夢に、定家卿に会い奉りしと言いて、「玉の緒よ絶なばたえね」という歌、吟ぜられしを聞く。
※ のどむ(和む)- 気持ちなどを落ち着かせる。やわらげる。静める。
※ 「玉の緒よ絶なばたえね」- 百人一首に取り上げられた式子内親王の御歌。
  玉の緒よ 絶えなば絶えね 永らえば 忍ぶることの 弱りもぞする
※ 式子内親王(しきしないしんのう)- 平安時代末期の皇女、賀茂斎院である。新三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人。後白河天皇の第三皇女。


人これは式子内親王の御歌にこそと思えるに、又この度の千句のうちにありし、前句にや「ながむる月に、立ちぞ浮かるゝ」という句を沈吟して、我は付け難し。みな/\付け侍れなど、たわぶれに言いつゝ、ともし火の消ゆるがようにして、息も絶えぬ。時に、文亀二年夷、則ち晦日、八十二歳。
※ 沈吟(ちんぎん)- 静かに口ずさむこと。

誰も/\、人心地するもなく、心惑いども思いやるべし。かく草の枕の露を余波(なごり)も、ただ旅を好める故ならじ。もろこしの遊子とやらんも、旅にして一生を暮らし果つとかや。これを道祖神となん。
※ 遊子(ゆうし)- 家を離れて他郷にいる人。旅人。

   旅の世に また旅寝して 草枕 夢のうちにも 夢をみるかな

慈鎮和尚の御詠歌。心あらば今宵ぞ思いえずべかりける。
※ 慈鎮和尚(じちんかしょう)- 滋円の諡号(おくりな)。平安時代末期から鎌倉時代初期の天台宗の僧。歴史書「愚管抄」を記した。
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宗祇終焉記4 文亀二年二月~ 越後-江戸

(黒田代官屋敷の椿)

宗祇終焉記の解読を続ける。

この暮より、又わずらう事さえ、返りて、風さえ加わり、日数へぬ。

ここで患ったのも、宗長である。

二月の末つ方、おこたりぬれど、都のあらましはうち置きて、上野国草津という湯に入りて、駿河国にまかり帰らむのよし、思い立ちぬといえば、
※ おこたる(怠る)- 病気がよくなる。

宗祇老人、我もこの国にして、限りをまち侍れど、命だにあやにくに、つれなければ、こゝの人の憐れみも、さのみは厭わずかしく、又都に帰り上らんももの憂し。美濃の国に知る人ありて、残るよわい(齢)の影かくし所にもと、度々ふりはえたる文あり。あわれ伴ない侍れかし。富士をも今一とたび見侍らんなど、ありしかば、打捨て国に帰らむも、罪得がましく、いなびがたくて、信濃路にかゝり、千曲川の石踏み渡たり、のあら野をしのぎて、廿六日というに、草津という所につきぬ。
※ 限り - 命が絶える時。臨終。
※ あやにく(生憎)- あいにく。意に反して不都合なことが起こるさま。
※ つれない - 思いやりがない。薄情である。
※ ふりはえる(振り延える)- わざわざ寄越す。
※ いなぶ(辞ぶ)- 断わる。
※ 菅(すげ、すが)-カヤツリグサ科スゲ属の多年草の総称。


同じき国に伊香保という名前の湯ありし。中風のためによしなど聞きて、宗祇はそなたにおもむきて、二方になりぬ。この湯にて煩いそめ、湯におるゝこともなくて、五月の短夜(みじかよ)をしも、あかし侘(わび)ぬるにや、
※ 二方になりぬ - 二手(草津と伊香保)に別れた。

   いかにせん 夕つぐ鳥の しだり尾に 声うらむ夜の 老いの寝覚めを

ここで患ったのは、今度は宗祇である。「煩いそめ」とは患い始めるの意である。

文月の初めには、武蔵の国、入間川の渡り、上戸という所は、いま山の内の陣所なり。こゝに廿日余りが程、やすらう事ありて、すきの人々多く、千句の連歌なども侍りし。
※ 文月(ふみづき、ふづき)- 陰暦七月の異称。
※ すきの人々(数寄の人々)- 風流人たち。風流・風雅に心を寄せる人々。


みよしのゝ里、川越に移りて、十日余り有りて、同じき国、江戸という館にして、すでに今際のようにありしも、又とり延べて、連歌にもあい、気力も出くるようにて、鎌倉近き所にして、廿四日より千句の連歌あり。廿六日に果てぬ。
※ 今際(いまわ)- 死のうとする時。臨終。

一座に十句、十二句など、句数もこの頃よりはあり。おもしろき句も数多ぞ侍りし。この千句のうちに、
    今日のみと すむ世ごとぞ 遠きけれ(と云う句に)
  八十(やそじ)まで いづかたのみし 暮ならん
    年のわたりは 行く人もなし
  老いの波 幾帰りせば 果てならん
思いは今際のとろめ(とどめ?)の句にてもやと、今ぞ思い合わせ侍る。
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宗祇終焉記3 文亀二年正月 越後

(黒田代官屋敷の紅梅)

今日は語呂合わせの「富士山の日」である。午後、県中央図書館で、その記念イベントの歴史講演会があり、出席した。「参拝曼荼羅にみる中世の富士山信仰」という演題で、元興寺文化財研究所の大高康正氏の講演であった。元々地味な研究課題が、世界遺産に指定されて、急に脚光を浴びて、話を頼まれるようになったのだろう。この話題で講演会を盛り上げるのは難しいようであった。

「宗祇終焉記」の解読に戻ろう。昨日、「宗祇終焉記」を読み終えた。

「宗祇終焉記」は、ネットで探せば解読されたものを、いくつか見ることが出来る。ならば、このブログの解読は、屋上屋を重ねる、無駄な労力と思われるかもしれないが、古文書解読の訓練とは別に、誤読の吟味という価値を見付けている。ネット上の解読にはとんでもない間違いが放置されていることがある。それを見つけるのも楽しみの一つである。

さて、宗祇終焉記の解読に戻ろう。

元日には、宗祇夢想の発句にて連歌あり、

   年や今朝 明けのいがきの 一夜松
※ いがき(斎垣)- 神社など、神聖な場所に巡らした垣。瑞垣。玉垣。

この一座の次に、

   この春を 八十にぞ添えて 十とせてふ 道のためしや 又も初めん
※ てふ(ちょう) - 「という」の意。

と賀し侍りしかえし、

   いにしえの ためしも遠き 八十(やそじ)だに 過ぐるは辛き 老の恨みを

明けて80歳になる宗祇を賀して、宗長がまだこれから10年も頑張ってもらわねばならないと言うに、80歳にもなると、身体が言う事をきかなくて、辛いことばかりだと答える。そんな師弟の会話が歌の形ですらすらと出て来る。

同じき九日、旅宿にして、一折り、つこうまつり(仕り)し発句に、

   青柳も としにまさきの かつらかな    宗祇
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駿府町奉行の交替 - 駿河古文書会

(黒田代官屋敷梅園)

菊川市、旧小笠町の黒田代官屋敷の梅が見頃と聞いて、女房と出掛けた。屋敷内の梅園が無料で見せてもらえるという。およそ一時間ほど観梅した。紅梅は少し早いのか、見ごろは過ぎて、今は白梅が盛りであった。黒田代官屋敷については、後日また紹介しよう。

駿河古文書会のテーマ、「萬留帳」の続きである。今日の部分では、駿府町奉行の交替があると、町方の月行持たちがどのように関わったのかが解って面白い。

一 村瀬伊左衛門様、御病気に就き、御役御免、御願い成され候処、七月九日、御願い候通り、仰せ出され候由、十一日御番所において仰せ渡され、町触れ致し候。惣丁頭御番所へ罷り出に及ばざる段、相触れ候事。

一 伊左衛門御跡、津田外記様へ、七月廿六日、仰せ付けられ候て、信濃守様へ、御奉書御到着の旨、廿七日御番所に於いて、仰せ渡され、則ち、町触れ致し候。御祝義のため、惣丁頭御番所へ罷り出候事。
※ 信濃守 - 青山信濃守。時の駿府城代。

一 廿八日、雷電寺に於いて寄り合い、外記様へ御祝儀のため、先規の如く、年行持の内、壱人(江戸へ)罷り下り候筈、右入用、前格の如く、壱軒役八文ずつ集め候筈に、申し合わせ候事。

一 外記様へ、御祝儀のため、御組より、原田只右衛門殿、田崎直右衛門殿、八月四日、御立ち候事。

一 町中惣名代として、本通五丁目五郎兵衛、五日に発足。九日、原田只右衛門殿御同道にて、外記様へ罷り出候処、八時参り候様に、御用人衆仰せ渡され、八時参り候処、御目見え仰せ付けられ、町中の儀ども、御尋ね遊ばされ、御懇ろの御意ども御座候。
※ 発足(はっそく、ほっそく)- 出発すること。

伊左衛門様御参府候後、外記様駿府へ御越し遊ばされ候までは、余程の内、御役所の明き候間、万端、別して心付け、第一、火の元大切に仕るべき旨、罷り帰り候節、惣町中へ申し達し候様に、御直(じき)に仰せ渡され候。御次へ退去、御料理下しされ候。江戸表用事、相済み次第、勝手に任せ、発足仕るべき旨、御用人衆仰せ聞けられ候。

但し、生干し肴一箱持参、先規の如く、御受納遊ばされ候。御家老衆、御用人衆への土産、御断りにて候趣、成られず候。村瀬伊左衛門様へ御肴一折持参、御別れ申し上げ候事。十四日江戸発足仕り候に付、十三日外記様へ御届け申し上げ、十四日罷り立ち、十七日の夜、罷り帰り候。

一 八月十九日、雷電寺に於いて寄り合い、外記様へ惣名代の御祝義相勤め候儀、御意の趣ともに、申し渡し候事。
 附(つけた)り、年行持より相触れ候町中、集銭未進の分、右一応承り届け、相済まず候わば、御月番様まで申し上げ候様にと、丁頭中申し合い候事。
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拝借金返済の延長など - 駿河古文書会

(靜岡市中央図書館前のパンジー)

午後、駿河古文書会に出席した。今日の課題は前回に続いて「萬留帳」である。過去に何度も出ている課題である。

   覚え
去る暮れ願いに付、御差し延べ下され候、朝鮮人給仕人拝借金の内、去る未暮れ上納仕るべき分、この節御取立仰せ付けられ候。銘々相談の義、御座候間、右拝借致され候丁々(町々)丁頭中、明後廿六日四つ時、いかづちまで寄り合い申され候様に、御触れ下さるべく候。拝借致され候丁々、別紙書付進じ申し候、以上。
※ 去る(未)暮れ ― 正徳元年暮れ。
※ いかづち - 雷電寺のこと。町会所があった。


右の通り、朝鮮人御用掛り、年行事より頼み来たり候に付、相触れ申し候。明後廿六日にいかづちまで、御失念なく御出成らるべく候。もっとも御名代は御無用に候。
   申八月廿四日            横内町
                       年行持

   覚え
去る暮れ頼みに付、御差し延べ下さり候、飢人拝借金の内、去る未暮れ上納仕るべき分、この節、御取り立て仰せ付けられ候。これにより、相談の義、御座候間、右拝借致され候丁々、町頭中、明後廿六日四つ時、いかづちまで寄り合い申され候様、御触れ下さるべく候。拝借致され候丁々、別紙に書付進じ候、以上。

右の通り、さき年行持、本通四丁目より頼み来たり候に付、相触れ申し候。明後廿六日に、いかづちまで御失念なく御出成らるべく候。もっとも、御名代は御無用に候。
   申八月廿四日            横内町
                       年行持

一 同廿六日に、右両様、拝借致され候町々、町頭衆、いかづちへ寄り合い、御相談の上にて、飢人拝借の義は、当分未年分ばかり差し上げ、朝鮮人給仕拝借の義は当暮に差し上げ申す筈に、御番所様へ、右御用掛り衆中、願い申され候筈に、相談相極り、皆々罷り帰り申し候     横内町
   申八月廿四日                 年行持

 享保三戌年七八月 年行持本通  五丁目  五郎兵衛
                 四丁目  作左衛門
                 三丁目  十右衛門

一 七月五日、御番所において、仰せ聞かされ候は、四、五拾年来、江戸より遣わされ、町触れこれ有り候御書付ども、写し差し上ぐべき旨、仰せ渡われ候。これにより、雷電寺長持相改め、御触れ帳、弐拾七冊、御目に掛け候。十一日、右帳ども御返し成られ候に付、前々の如く相収め候事。

歩行弥右衛門義、淨円院様御通り前後、御用多く骨折り、その上、大方両人ずつ罷り出、相勤め候に付、正徳元卯年、朝鮮人来聘の節の格を以って、町中壱軒役四文集め、合力(ごうりょく)申し候。もっとも町中丁頭相談の上、相究め候事。
※ 歩行(あるき)- 江戸時代、村・町で書状の伝達、触れ歩きなどをつとめた者。小使。
※ 淨円院(じょうえんいん)- 紀伊藩主・徳川光貞の側室。八代将軍・徳川吉宗の生母。俗名は由利、紋。
※ 来聘(来聘)- 外国から使節が来朝して貢ぎ物を献ずること。
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宗祇終焉記2 文亀元年 鎌倉-越後

(土手のカラシナの花)

土手のカラシナが今年も花を付けた。大代川の改修は3月中に完成というが、渇水期のはずがこのところ周期的に雨が降り、増水して、そのために工事は中断するらしく、作業が一向に進まない。この周期的雨は、靜岡以外の地域では大雪をもたらしてきたことは言うまでも無い。

   *    *    *    *    *    *    *

昨日の書き込みで、最初の場面で自分の理解に間違いがあったので、訂正しておいた。この旅で、駿河から宗長が宗祇に同行したわけではなくて、正しくは、越後に滞在している宗祇に、宗長が逢うために訪れるところから、話が始まる。したがって、越後までの旅は従者などはいたかもしれないが、基本的に宗長の一人旅である。それでは、宗祇終焉記の解読を続けよう。


山々のたゝずまい、やつ(谷津)/\のくさ(草)/\、いわば筆の海も底見えつべし。ここに八、九年のこの方、山の内、扇の谷矛楯の事出来て、凡そ八ヶ国、二方にわかれて、道行く人も容易(たやす)からずとは、聞こえしかど、こなたかなた知るつてありて、武蔵野をも分け過ぎ、上野を経て、長月朔日頃に越後のこうにいたりぬ。
※ 山の内、扇の谷 - いずれも鎌倉にある地名。
※ 矛楯の事 - 戦いを意味する。こゝでは「明応の政変」のこと。明応二年(1493)に起きた、足利将軍廃立事件で、これを戦国時代の始まりとする説もある。
※ 長月朔日(ながつきついたち)- 陰暦九月のついたち。
※ 越後のこう-「こう」は国府と書く。越後の国府は現在の上越市国府。「国府」は「こう」とも読む。


宗祇見参に入りて、年月へだゝりぬる事など、うち語らい、都へのあらましし侍る。折しも、ひな(鄙)の長路の積りにや、身にわずらう事ありて、日数になりぬ。
※ 身にわずらう事 - ここで煩ったのは宗長であろう。

よう/\、神無月廿日あまりに、おこたりて、さらば、など思い立ちぬるほどに、雪風激しくなれば、長浜の波も覚束なく、有乳の山もいとゞしからむという人ありて、かたのようの旅宿を定め、春をのみ待つ事にして、明かし暮らすに、大雪降りて日頃積りぬ。
※ 神無月(かんなつき)- 陰暦十月。
※ おこたる(怠る)- 病気がよくなる。快方に向かう。


この国の人だに、かゝる雪にはあわずと侘びあえるに、まして耐え難くて、ある人のもとに、
   おぼ(思)いやれ 年月なるゝ 人もまた あわずと憂う 雪の宿りを

かくて、師走の十日巳刻ばかりに、地震大きにして、まことに地をふりかえすにやと、おぼゆる事、日にいく度という数をしらず。五、六日うち続きぬ。人民多く失せ、家々ころび倒れしかば、旅宿だに定かならぬに、また思わぬ宿りを求めて、年も暮れぬ。
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宗祇終焉記1 文亀元年/はじめに-鎌倉

(「宗祇終焉記」本文)

今日より、「宗祇終焉記」を解読し始める。テキストは「駿河古文書会原典シリーズ(4)」である。

宗祇(そうぎ)は、室町時代の連歌師。号は自然斎、種玉庵。姓は飯尾(いのお/ いいお)というが定かではない。応永二十八年(1421)生まれ、文亀二年(1502)七月三十日死去。生国は、紀伊とも近江とも言われている。
最晩年の文亀元年、旅の途中で死亡し、駿河の桃園(裾野市)の定輪寺に葬られた。

「宗祇終焉記」は、駿河の宗長が越後の国に滞在する宗祇を訪ねてゆくところから始まる。越後から駿河に戻る旅に同行した宗長が、師の死に至るまでの様子を、京の人たちに知らせるべく、一文にしたため、京へ登る人に持たせたものである。元々題名はなかったので、それを書き写した人々が、思い思いに題名を付けたので、宗祇臨終記、宗祇道記など様々な標題が付けられている。

テキストにしたものは、戸田本といわれるもので、定輪寺に所蔵されていたものを、幕末の文久三年(1863)に書写されたもので、外の系統の書写本と違って、書写された時期は新しいが、宗祇の菩提所保管の書写本として、写し間違いなどが少なく、宗長の書いた原本に最も近いものと評価されている。なお原本は残っていない。

テキストには、内閣文庫本(宗祇臨終記)が添付されていたので、戸田本で不明瞭な部分は、内閣文庫本と照合しながら、解読を行った。しかし、あくまでも戸田本を主に解読した。同じ旅を扱ったものながら、「秋葉街道‥‥」とは一転して格調の高い文となる。では解読を始めよう。

宗祇老人、としごろの草庵も物憂きにや、都の外のあらましせし、年の春のはじめの発句に、
    身や今年 都をよその 春霞
※ あらまし - 概略。

その秋の暮、越路の空に趣き、この旅は帰る山の名をだに思わずして、越後国に知る頼りを求めて、二年(ふたとせ)ばかりを経られぬと聞きて、文亀はじめの年、六月の末、駿河の国より一歩を進め、足柄山をこえ、富士の根を北に見て、伊豆海沖の小嶋に寄る波、こゆるぎの磯をつたい、鎌倉を一見せしに、右大将家のそのかみ、また九代の栄えをも、ただ目の前の心地して、鶴ヶ岡の渚の松、雪の下の甍は、げに石清水にもたち勝るらんとぞ覚え侍る。

※ 文亀はじめの年 - 文亀元年(1501)。
※ こゆるぎの磯 - 小余綾の磯。(歌枕)神奈川県大磯付近の海岸。こよろぎのいそ。
※ 右大将家 - 源頼朝の家系のこと。鎌倉幕府の征夷大将軍は、形骸化していたが、九代まで続いた。
※ 雪の下 - 鎌倉鶴岡八幡宮一帯の地名


このあたりは、宗長が越後の国に宗祇を訪ねてゆく途中のありさまである。
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