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「竹下村誌稿」を読む 322 産業 18

(SN氏邸のバラ、スペクトラ)

午前中、天浜線の敷地駅近くまで、渋柿を買いに行くも、高くて買うのをやめて帰る。いつも買う所より二、三割高い。目方では次郎柿より高いように見えた。干柿を作る人が増えて、渋柿に商品としての価値が出て来たように見える。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

蚕種その他の概要を記すれば、

蚕種は、昔、白竜交配種などにして、群馬県のものを主とせしも、近来、本県内蚕種を購入するもの多し。而して、貯蔵は概ね購入先製種家に依託して、翌春催青後送達を受くるを普通とす。
※ 催青(さいせい)- 蚕の卵を適当な温度に保ち孵化させること。孵化する前日卵全体が青みがかってくるので,この名がある。

桑園 反別凡そ一町三、四反歩にして、自園のもの多し。桑の種類は遠高モク桑、魯桑などを主とす。逐年、魯桑系のものを植栽する傾きあり。何れも春夏秋兼用にして、専用桑園を見ず。桑の収穫は一反歩百五十貫乃至二百貫とす。なお不足すれば他より移入す。栽培法は根刈仕立にして、一年三、四回の耕耘をなす。肥料は、大豆粕、鰊粕など窒素分のあるものを用ゆ。施用量は一定せずといえども、大約一反歩当り、弐拾円(大正四年)内外にして、春夏二期に分施せり。
※ 大約(たいやく)- おおよそ。大略。

販路 生繭にて、仲買人に売り渡すあり。または付近の市場へ取引するものあり。

      第六節 家  畜

牛馬 皆な雑種にして、その飼育頭数、合わして十五頭あり。何れも厩肥製造及び乾田の耕犂に使用するもの多しといえども、或るは荷車を引かしむるものあり。本村牛馬耕は、明治二十三年、熊本県より講師を聘(へい)し伝習を行ないしを始めとす。農耕上、その畜力を利用するは、労力経済上、最も有利の業にして、特に労銀騰貴の近時に在りては大いにその必要を感じ、耕牛馬次第に増加の傾向あるを認む。
※ 厩肥(きゅうひ)- 家畜の糞尿と藁や落葉等を混合し、牛馬に踏ませることで腐熟させた有機質肥料である。
※ 耕犂(こうり)- 犂耕(りこう)。牛馬に引かせた犂(すき)による耕作。


養鶏 従前は単に愛玩、告暁用に供すると、落ち穂などを拾わしめ、兼ねて産卵を目的として飼育するも、一戸平均三、五羽位に過ぎざりしが、近年肉用の洋種コーチン、アンダラシャンなどを飼育するもの多きを加うる傾あり。
※ 告暁(こくきょう)- 夜明けを告げること。

      第七節 果実及び野菜

果実は、柿、梨あり。柿は五和柿の称ありて、世間に唱揚せらる。その種類少なからずといえども、絵柿、鎧通、七溝、似タリ天龍坊などを主とす。その産額多からざるも、年額壱千円以上を収む。また近来周智郡方面より次郎柿と称する苗木を移入するものあり。梨も漸次植栽するも、数に上げる程に至らず。また近時蜜柑を栽培するものありて、参百円已上を産す。
※ 唱揚(しょうよう)- 唱え上げること。

野菜は、瓜(うり)、茄子(なす)、芋、大角豆(ささげ)、南瓜(かぼちゃ)、大根、蕪(かぶ)、胡蘿匍(にんじん)、牛蒡(ごぼう)、薑(しょうが)、葱(ねぎ)などの品種を栽培すといえども、何れも自家用にして、他に販出する域に進まず。
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「竹下村誌稿」を読む 321 産業 17

(見尾火燈明堂、11/28撮影)

前回の「古文書に親しむ」(経験者)講座で読んだ、「篝火願書写」に出て来た、御前崎に設置されていた燈明堂が、御前崎灯台のすぐそばに、再現されている。今は透明なガラス戸が嵌っているが、当時風の吹く日は障子戸を閉めたのであろうか。確かに、油灯では沖から見えるかどうか、頼りない。

和室の蛍光灯、40年以上使ってきたが、スイッチが壊れたので、器具さら換えて、LEDにすることにし、吉田のアトム電機に注文して来た。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

      第五節 蚕  業

蚕業(さんぎょう)は由来極めて古く、これを詳らかにし易からざるも、本村に在りては従前は畦畔または山野に自生する桑葉を用いて蚕児を飼育し、僅々斗升の繭を獲て、自家衣服の料に供用し来たりしに過ぎず。固(もと)より産物として見るに足らず。想うに本村は已に茶業に全力を注ぎ、多く茶園を開きしを以って、桑園に供給する土地の乏しきと、飼育法の不熟練なるとにより、斯業発達の遅緩を致せるによるものゝ如し。
※ 畦畔(けいはん)- 耕地間の境。あぜ。くろ。
※ 蚕児(さんじ)- かいこ。
※ 斗升(とます)- 一斗を量る枡。(僅かな量を意味する)
※ 遅緩(ちかん)- ゆっくりしていること。おそいこと。


明治維新後、漸次発達の曙光を見、蚕室、蚕具及び桑園の改良を計り、同二十年頃には、稚蚕共同飼育をなし、また蚕糸業組合の設立もありて、当業者を指導誘掖せられ。同三十年より、近傍養蚕家数十人協同して、群馬県高山社より教師(戸坂定吉)を聘用し、毎蚕期四年間、温暖育飼育法の伝習を受けしより、飼育方著しく進歩し、爾来年々好成績を収め、失敗を招くものなく、逐年(ちくねん)発展を来たし、現時の状態に進みつゝあり。また蚕病予防の必要を覚り、蚕室蚕具は何れも、フォルマリン消毒を行い、蚕児の衛生上にも合理的となれり。
※ 稚蚕(ちさん)- 卵からかえった蚕の、第一齢から第三齢までをいう。
※ 誘掖(ゆうえき)- 力を貸して導いてやること。
※ 聘用(へいよう)- 礼を尽くして招き、取り立てて用いること。


本村飼育戸数八戸にして、掃立枚数平付十二枚とす。主として春蚕を飼育し、二化性、三化性は,飼育するもの少ないければ掲げず。大正五年春蚕の収繭、本繭十三石四斗、掃立一枚に付、一石一斗一升六合(玉繭二等繭を除く)にして、一戸平均一石六斗七升五合に当る。もし繭価一石金五拾円と仮定せば、七百参拾七円を受くべし。これを本県飼育戸数六万百戸にして、収繭九萬七千六百石、平均一戸一石六斗二升四合に較ぶれば、伯仲の間にありと云うべし。
※ 掃立(はきたて)- 蟻蚕(孵化したての蚕)を蚕座(蚕を飼育する道具)に移し、細かく刻んだ桑の葉を与えて飼育を始めること。羽ぼうきを使って、蟻蚕を蚕座に掃き下ろすことから、「掃立て」と呼ばれている。
※ 二化性(にかせい)- 昆虫が、一年間に二世代繰り返す性質。


按ずるに、本村の蚕業たる当業者の勉励により、春蚕の飼育は近来著しく改良を加えたれば、追々夏秋蚕の飼育も発展するに至るは、期して待つべしといえども、主として桑園供給地の乏しきは、将来に於いて、自然斯業発達の支障を来すべき原因ともなるべければ、この点に注意あるを要す。また大正七年より、近傍同業者協同して、浜名郡より教師(稲垣某)を聘(へい)し、春蚕条桑育の伝習を受けつゝありて、その成績頗る見るべきものありと云う。
※ 条桑育(じょうそういく)- 桑を枝ごと切って、そのまま蚕に与える壮蚕飼育法。
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「竹下村誌稿」を読む 320 産業 16

(御前崎の海、海中に小さく御前岩(ごぜんいわ)の灯台が見える)

午前中、御前崎市役所に古文書を借りる交渉に行くも、煩い手続きを云われ、不調に終わる。

SN氏より、花の苗をたくさん頂いて帰った。明日からそれを植えてしまわねばならない。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

       三 製  造

製造 本村の製茶は皆緑茶にして、明治七年、紅茶を試製せしことありしも、不成功に了(おわ)りたり。茶は毎年一番、二番、三番の、三回摘むを普通とす。それ以上の晩芽を摘採すれば、茶樹の営養阻碍すること少なからざるべきにより、茶園保護に留意すること、肝要なりとす。
※ 営養(えいよう)- 栄養。
※ 阻碍(そがい)- 阻害。じゃまをして物事を進行させないこと。


而して、製造方は自家用にのみ用いし時は釜熬(釜炒り)と称し、生葉を釜に入れて熬(い)り、これを蓆の上にて、手にて圧揉し、また釜に入れ乾し上げ番茶に製し、稍々(やや)進歩して青製となしたりしが、明治初年、輸出貿易の行われしより法も改良せられ、宇治製の方法を伝え、焙爐にて揉切製となり、一日一人の製造量は、茶葉三、四貫目位(四焙爐に分かつ)なれば、品質も優等なりしが、同十五、六年頃より、江州揉みと称する転繰(でんぐり)制行われ、蒸葉二、三貫目を一焙爐に投じ、三、四焙爐を一日の量とし、外観の美なる茶を製するに至る。また天下一と称する水色、香味、色沢、形状ともに優越なる製造法も行なわれしが、収支償(つぐな)わずして止む。
※ 青製(あおせい)- 蒸した茶葉を加熱・乾燥させながら揉んで作る煎茶。元文三年(1738)に山城国湯屋谷村の永谷宗円が考案したと伝えられる。
※ 焙爐(ほいろ)- 製茶用の乾燥炉。もとは木の枠に厚手の和紙を張ったもので、蒸した茶の葉を炭火で乾燥させながら揉んだ。


その後時勢の要求も伴い、貿易に適すべき製造を主眼となし、漸次改良をなしつゝありしも、明治二十八、九年頃より、諸般の事業勃興し、人夫の需用多く、労銀及び諸物価騰貴の結果、経費節減を図ると共に、製造能力を増大せしむるため、機械を用い、現今にては村内に於いて、高林式、その他、粗揉器、精揉器の数、三十余台を計(かぞ)うるに至る。

而して、器械製は、多くは茶葉の硬化したるを、器械の応用により製造するを以って、自然手製に如(し)かざる傾向あり。ために価格の不振を来たす原因となるべければ、斯業に従事するものは、製造法の改良を促すとともに、硬芽の摘採を避くることに注意あるを要す。また近来機械使用者の増加に従い、生葉を作るものと、製茶をなすものと、自然分業の傾あり。これ農家経済上の趨勢なりと云うべし。
※ 趨勢(すうせい)- ある方向へと動く勢い。社会などの、全体の流れ。

       四 販  路

販路 生産家は製品を毎日仲買人に売るあり。四、五日間製造したるものを近傍市場へ売るものあり。従前は一箱八貫四百目入りの箱詰めとして、江戸または横浜の問屋へ輸送して販売せしものありしも、明治三十二年、清水港が特別輸出港となりしより、静岡市は日本茶業の中心市場となりしを以って、今は紙袋入りとして、静岡に送るもの多し。或るは見本を以って契約取引を行い、多少の口銭を出し、サイ取に托して販売するものあり。
※ サイ取(さいとり)- 才取り。売買の媒介をして手数料を取ること。また、それを業とする人。ブローカー。
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「竹下村誌稿」を読む 319 産業 15

(散歩道のカエンキセワタ 11/21撮影)

カエンキセワタは漢字では「火焰被綿」と書く。初めて見る花であった。

午前中、アクアの点検後、また渋柿を買ってきた。53個で1400円。さっそく縁側で加工する。これで合計318個となった。渋柿の季節が終るのと競争だが、400個まで行くだろうか。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

       二 栽  培

播種(はしゅ) 二月または十一月に於いて、播種す。蒔き方は輪蒔き、節蒔きの別あり。今は節蒔きとするもの多し。播種量は一反歩当り四斗内外とす。

耕耘(こううん) 三月より八月まで、数回の浅耕作をなし、九月已後十一月まで、深耕作をなす。

施肥 二月下旬より三月上旬に亘り、豆粕、鰊粕(にしんかす)などを水肥として施し、発芽を促し、一番茶摘採後、人糞尿アンモニアなどの即効性液肥を用い、七月後は豆粕、油粕など、便宜これを施し、また敷き草をなすなど、凡て合理的経済的に施肥す。
※ 水肥(すいひ)- 液状の肥料。液肥。みずごえ。
※ 便宜(べんぎ)- そのときに適したやり方。


剪枝 一番茶摘採後と二番茶摘採後との二回に行なうを常とす。剪枝の順序によりて、翌年の発芽の進遅を来たすが故に、剪枝を二回に行い、その順序によりて摘採し、労力の分配を図ると同時に、茶葉をして硬化ならしむるなどの虞(おそ)れ、至って少なきのみならず、従前の剪枝を行なわざる当時に在りては、一人の摘採量平均二貫目位なりしが、剪枝の行われし以来は、一人にて大概四貫目乃至六貫目を摘採す。また近年、器械刈をなすものあり。一人十貫乃至二、三十貫を摘採するに至る。而して、剪枝を行なう茶樹は、肥料経済と摘採上の便とにより、株作りを低くし、高さ一尺五、六寸より二尺四、五寸までをとす。
※ 進遅(しんち)- 進むことと、遅れること。
※ 度(ど)- 物事のほどあい。程度。


除虫 近年漸く、病虫害の駆除及び予防として、ボールド液、その他薬剤を調製し、噴霧器を以ってこれを施すに至れるは、斯業の進歩なりとす。


読書:「最後の勧進旅(一)」 大石出穂 著
西行が、その東北への最後の旅で、静岡県を通り、鎌倉まで下った足跡を追った記録である。その旅とは、西行が小夜の中山で、
  年たけて また越ゆべしと 思いきや 命なりけり 小夜の中山
と詠んだ旅である。
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「竹下村誌稿」を読む 318 産業 14

(大代川のオオバン)

オオバンはツル目クイナ科オオバン属に分類される鳥類の一種。日本では夏季に北海道(夏鳥)、本州、九州で繁殖し、冬季になると本州以南で越冬する(冬鳥もしくは留鳥)。全身黒っぽい水鳥だが、くちばしと額が白いのが特徴。意識して初めて確認した。

午前中、磐田市歴史文書館に行き、NS氏に逢い、一時間ほど、明治の商家の日誌についてお話する。もう、日誌を読み進まれていて、今まで知れなかった新しい事実も発見されているらしい。日誌の続きのコピーを提供して帰る。NS氏が関与された「佐久間の民俗」という立派な本を頂き、また、企画展も見学して、お昼になってしまったので、帰って来た。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

また、明治十三年、岡田(佐野、城東)郡長の公梓せられたるものゝ一節に、
※ 公梓(こうし)- 公の出版。

明治維新の初め、大井川の徒渉を廃せらるゝや、川越し人足百余名、ために活路を失せんことを恐れ、将に非挙に及ばんとす。金谷の人、杉本権蔵なるもの、性頗(すこぶ)任侠奮いて曰く、汝ら誤るなかれ。吾必ず汝らのために哀願することあらんとす。吾が命、苟(いやし)くも存ず。決して汝らをして飢渇せしむるなけんとす。則ち、自ら衆に代わりて官に哀訴す。官これを愍(あわれ)み、川越し百余名のために不毛の原野、二百四町歩余、金千円を下附し、開墾して産に就かしめんとす。池新田の人、丸尾文六、その他に諭(さと)して、そのことを担任せしむ。
※ 非挙(ひきょ)- よくない行為。非行。
※ 任侠(にんきょう)- 仁義を重んじ、困苦の人を見ると放っておけず、彼らを助けるために体を張る、自己犠牲的精神や人の性質。


この時、権蔵及び大塚信平、赤堀啓三、三人の引き受ける処、若干戸、杉本氏その人を率いて下附せられたる、日坂宿の北、官林に着(つ)かんとす。その力、作に堪えざるを恐るゝものには、毎戸金若干を与えて自営せしめ、原野は同士二名と共にこれを有し、家を挙げて該地に移居し、開墾に着手す。実に明治三年のことなり。爾来数年、茶の栽培に従事し尽す所、金一万余円、墾(ひら)く所、田八反、畑十四町二反歩、製茶産額四十本(明治十二年)ありしと云う。

また、丸尾氏は明治四年六月、川越し人足百名を率いて、初めて牧野原開墾の業に着手す。而して留まるを欲せざるもの六十七名、各々金拾円を分与して、故地に帰らしめ、残り三十三名の内、同氏の引き受ける所、十九戸、反別百二町余、ここに於いて資金を投じ、家屋を与え、農具を給し、農馬数十頭を蓄え、茶樹の培養に力め、畑二十一町七反七畝歩を開墾するを得たり。静岡藩これを賞して、上下(かみしも)一具を賜う。同七年、毎戸畑二反歩、宅地五畝歩を分給し、私有たらしめ、その堵に安んぜしむ。大凡(おおよそ)費やす所、開墾費一万余円、培養費八千余円、而して明治十二年に至り、製茶一千二百六十一貫、その価格二千三百八十円、耕作費・製造費二千円を引き去り、全く得る所、僅かに三百八十円なりと云う。
※ 堵に安んず(とにやすんず)- 人民が住居に安心して住む。安心して暮らす。

とあり、思うに今日、本郡が茶の産地として、名声全国に冠絶たる所以のものは、各地当業家の熱情に頼(よ)るは言うを要せず。而も明治革新の際、新番組と称する静岡藩士族中條金之助など二百八十戸が率先、牧野原(谷口原、仁王辻、萩間原)を開拓して、茶樹を栽培し、南北五里に亘り千五百余町歩の、所謂(いわゆる)牧野原の大茶園を作成せしに基由せずんばあるべからずといえども、抑々(そもそも)また丸尾、杉本二氏の如き斯界に貢献せしもの、果たして幾人かある。二氏の功また没すべからざるなり。
※ 冠絶(かんぜつ)- 群を抜いてすぐれていること。
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「竹下村誌稿」を読む 317 産業 13






(大代川のアオサギ)

一昨日、散歩で大代川の土手を歩いた時、アオサギを見付けて、カメラを向けたら、こちらに向いてすぐに飛び立った。写真3枚に収めたが、あんまりうまく撮れたとは言えない。

このアオサギ、青くないし、どちらかというと黒っぽい灰色だけれども、どうしてアオサギと名前が付いたのか。それは大昔の日本人の色彩の分別によると聞いたことがある。白(雪)、黒(墨)、赤(夕焼け)ははっきり区別していたが、それ以外の色は皆んな「青」と呼んでいた。だから、白でも黒でもないサギをアオサギと名づけたと言うのである。真偽のほどは判らない。

午前中、ネットで見て、春野町の農業祭に出掛けた。行って見ると先週終ったとかで、ひっそりしていた。どうやらネットで日付を見間違えたようだ。帰り、掛川の西の市に寄り、渋柿26個を900円で買ってきた。これで今までの合計265個となる。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。「牧野原開墾起源」の昨日の続き。

我これを聞き、感激、殊に甚だし。終にその行事を斡旋し、今や開墾その緒(ちょ)を成せり。今年聖天子北を巡し輦輿、我が静岡を過ぐ。君らの勉励、入叡聞し召し見て、その篤志を嘉賞し、千金恩賜ありと。我これを聞きて感嘆して曰く、嗚呼(ああ)、君ら一死の誓い三変して今に及び、小を棄て大に移り、国家有望の大業を成就す。その始め、確乎たる精心、至誠にあらざれば、何ぞかくの如くならんや。然りといえども、今より後、益々勉励、友愛して、毫(ごう)も賞に驕り、逸に失し、この聖天子の恩遇を辱(はずか)しむることなかれ。今やその開墾の淵源を述べ、後世君らの子孫に伝え、その祖の勉励困苦、終にこの盛典に遭遇せしを知らしめんとす。
  明治十一年仲冬
       牧野原諸君に呈す

※ 聖天子(せいてんし)- 聖徳の高い天子。聖帝。ここでは、明治天皇を指す。
※ 北を巡し - 明治11年、明治天皇北陸、東海両道巡幸を指す。
※ 輦輿(れんよ)- 轅(ながえ)を肩に当てて移動する輿(こし)。
※ 入叡(にゅうえい)- お入りになること。「叡」は、天子の行いに冠して敬意を表す語。
※ 嘉賞(かしょう)-よしとして、褒めたたえること。
※ 確乎(かっこ)- しっかりしていて、容易に動かされないさま。確固。
※ 精心(せいしん)- 入念である。細かなところまで神経が行き届いている。
※ 逸に失す(いつにしっす)- 逸失。失うこと。手に入れられずになくしてしまうこと。
※ 恩遇(おんぐう)- 情け深いもてなし。厚遇。
※ 淵源(さいげん)- 物事の起こり基づくところ。根源。みなもと。
※ 仲冬(ちゅうとう)- 陰暦11月の異称。
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「竹下村誌稿」を読む 316 産業 12

(散歩道のツマグロヒョウモンのメス)

快晴、散歩道でツマグロヒョウモンがカンナの葉に止まっていた。気付けば、周囲にオスも飛んでいた。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

        牧野原開墾起源       従二位 勝海舟

明治元年、官軍、我が江戸に逼(せま)る。終に城地を致し去る。この時、君ら我に告げて曰く、時勢ここに到る。今また何をか陳ぜん。然りといえども、我輩同士五百名、辱(はじ)を忍び声を呑んで、脱走、暴挙せざるは、君命を守ればなり。今や喪家の狗の如く、空しく故国を捨て去る。その心中勃如として言うに忍びざるものあり。同志中、その純を選抜し、壱百名従容、義に因(よ)り城内に入り、屠腹、一死を以って、主家数百年の恩に答えん。君また機を失せしむるなかれと、慷慨悲憤涙血襟を湿(しめ)らす。余その心程の忍ぶべからざるを察し、深くその言に感動す。

※ 致す(いたす)- 差し出す。
※ 陳ず(ちんず)- 申し開きをする。弁明する。釈明する。
※ 喪家の狗(そうかのいぬ)- 不幸のあった家で、家人が悲しみのあまりえさをやるのを忘れ、元気のなくなった犬。転じて、ひどくやつれて元気のない人。
※ 勃如(ぼつじょ)- むっとして顔色を変えるさま。
※ 従容(しょうよう)- ゆったりと落ち着いているさま。危急の場合にも、慌てて騒いだり焦ったりしないさま。
※ 屠腹(とふく)- 切腹。
※ 慷慨悲憤(こうがいひふん)- 世情や自分の運命などについて、憤慨し、嘆き悲しむこと。
※ 涙血(るいけつ)- 血涙。激しい怒りや悲しみのために流す涙。


後、答えて曰く、君らのこの挙、可は則ち可なり。余が考えは反せり。今や天下新たに定まると言えども、人心の不測知るべからず。この時にして空死(そらじに)す。何の益あらん。我、君らを以って駿河久能山に據(よ)らしむべし。君ら精を養い、約を堅くし、一朝不測の変あらば、死を以って時に報いば如何(いかん)。宜しく熟慮を以ってその去就を決せよと。
※ 可は則ち可なり - 良いには良い。間違ってはいない。
※ 空死(そらじに)- 死んだふりをすること。


後、君らこの義を可なりとし、終に去りて久能山に入る。後、国家益々無事、君ら再び余に告げて曰く、今や形勢かくの如く、空しく久能山に在り徒食老死せんは誠に我輩の本意にあらざるなり。聞く、遠江国金谷原は磽确不毛、水路に乏しく、民捨てゝ顧みざること数百年、若し我輩をしてこの地を有せしめられなば、死を誓いて開墾を事とし、力食一生を終らんと。
※ 徒食(としょく)- 働かないで遊び暮らすこと。⇔力食
※ 磽确(こうかく)- 小石などが多く、地味がやせた土地。


(「牧野原開墾起源」明日へつづく)
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「竹下村誌稿」を読む 315 産業 11

(蔦に飲み込まれた家)

朝から快晴。少し寒いくらいだったが、午後、思い付いて一時間半ほど散歩した。大代川を下った先に、蔦がからまったと言うより、蔦に飲み込まれたように見える一軒の家を見掛けた。おそらく無住になってから長いのだろうが、中に何が住むのか、近所の人も、見ていて怖いのではなかろうか。

一昨日購入した渋柿、950円で20個、昨夜加工して、合計239個となった。たくさん作って、家の中、干柿だらけと思われるかもしれないが、知人に次々にあげるので、まだ手元にはそんなに残っていない。

夜は寒くて、初めて石油ストーブを点けた。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

本郡茶業組合にて、明治四十年より大正元年まで、五ヶ年間調査せしと云う、上中下、三等の、茶園一反歩に対する収支計算の内、中等部分を抜載すれば以下の如し。

 中等茶園壱反歩収入
         生葉量     単価       価額
  一番茶     80貫   340厘   27.200円
  二番茶     45貫   300厘   13.500円
  三番茶     35貫   290厘   10.150円
   計     160貫          50.850円

 中等茶園壱反歩支出
         員数(男女共) 単価       価額
  耕耘人夫賃   7.0人  350厘    2.450円
  施肥人夫賃   6.0人  450厘    2.280円
  一番茶摘賃  12.5人  500厘    6.250円
  二番茶摘賃   8.0人  430厘    3.440円
  一番茶摘賃   7.0人  430厘    3.010円
  肥料代                  15.000円
   計     43.0人         33.550円

 収支差引残金拾七円参拾銭

ここに茶業の歴史に於いて特筆すべきものあり。本郡牧野原開墾事業にして、茶樹の栽培これなり。今、当時の記録を写して、その事情を明らかにせん。明治十一年、鳳輦巡幸あらせられし際、牧野原開墾率先者たる新番組に対し、恩賜あり。その際、岩倉右大臣の達書(たっしがき)と、従二位勝伯、開墾の起源を述べたるもの、実に左の如し。
※ 鳳輦(ほうれん)- 屋形の上に金銅の鳳凰を飾った輿。天皇の乗り物の称。

その方ども、巳己(明治二年)以来、拓地のことに尽力し、同志戮(あわ)せて勉励し、牧野原開墾候儀、その方ども率先の功、少なからず奇特に思し召され、同士中、元金(もときん)千円下賜候こと。
   明治十一年十一月四日      右大臣   岩倉具視


(勝海舟の「牧野原開墾起源」の文は次回)
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掛川市立図書館文学講座、蒲原・由比文学散歩

(旧五十嵐歯科医院)

恒例の掛川市立図書館文学講座の、「蒲原・由比文学散歩」があった。くじに外れていたが、欠席者がたくさん出て出席することになったことは書いたが、今日、朝から早くから掛川市のバスで出かけた。補助席が空いていて、満車というわけではなかった。蒲原・由比は何度も訪れたことがあり、珍しくもなかったが、何か新しい情報が得られるのではと期待した。

最初に訪れたのは蒲原宿の旧五十嵐歯科医院であった。二階の診察室などには歯医者らしい道具が色々置かれていたように記憶するが、今は診察治療用の椅子が一脚置かれたいるだけで、がらんとしていた。現在、建物を管理しているNPO法人の女性が案内してくれた。近江八景や富士と松原を透かし彫りにした欄間や、花鳥風月で四季を描いた襖、金箔に花を描いた天袋など、中々贅を尽したものに見えた。

裏庭の井戸には、大きな旧式の電動ポンプが乗っており、その奥に御蔵が二棟建ち、その向こうにはやゝ高い所に、患者のための宿泊施設まで備えられていたという。かなり遠方より治療にやって来て、日帰り出来ない患者のためだという。


(木屋の文書蔵)

ぽつぽつ来た天気模様に中、蒲原の古い街並みを歩き、広重の「夜之雪」記念碑や、なまこ壁の商家などを見ながら、木屋の文書蔵の見学をした。雨の中、蔵の外で、長い時間説明があり、蔵の中に入ってからも、熱心に案内して頂いたが、最高齢89才までいる年寄グループにとっては、ずっと立ったままでの見学は、中々の苦行であった。ほとんど限界だったとの声も聞こえた。

しかし、自分にはいくつかの発見があった。珍しい三階蔵で、四方転(しほうころび)という耐震工法で建てられ、安政の大地震にも耐えたという。四方転は23本の通し柱が中心に向けて少し傾けられた工法だと聞いた。

木屋は材木問屋で、富士川流域の天領の材木を一手に扱っていて、富士川から蒲原の港へ材木用の運河や堤を造ったと聞き、話が終ってから、二つの質問をしてみた。

富士川の渡しに舟橋があったのかどうかという質問には、朝鮮通信使などの特殊な通行に作られたことはあったが、何れも一時的なものであった。通常は渡し船が利用されたとの答えだった。

甲州の年貢米は富士川を舟で運ばれ、岩淵で陸へ上げられ、蒲原の港まで陸送、小舟で清水まで運ばれ、千石船などに載せ替え、江戸へ運ばれたというが、この運河を使えば速やかな搬送が出来たと思う。当時、そういう願いが出たことはなかったのだろうか。この質問には、確かにそのような願いが出たことはあるが、許可されなかったという。同じ天領の年貢米と材木、どうして使わせなかったのかという疑問は残るが、船と材木を通すとための、技術的な問題があったのかもしれない。


(東海道広重美術館の門)

昼食の後、東海道広重美術館を見学して、由比の街歩きの後、すっかり空の雲が払われた、夕日の中、帰路についた。
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「竹下村誌稿」を読む 314 産業 10

(国一新大井川橋拡幅橋脚)

国一新大井川橋拡幅橋脚が完成してからしばらく経つが、まだ橋梁がのる気配がない。毎朝夕、渋滞が発生して、拡幅が待たれている。午後、散歩の足を伸ばして見学してきた。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

抑々(そもそも)本村茶樹の栽培は、何れの時代に始まりしか詳らかならずといえども、古老の説を聞くに、往時は畑の畦端に点々植えたるものありて、これを摘み採り製造(釜炒り)して、自家用に供せしに過ぎざりしが、安政以来、外人本邦の茶を好むに至り、互市の要品となり、年々輸出物の首位を占むるに至れるより、その培養に力(つと)め、明治初年の頃には、志戸呂原(牧之原の地名)を開墾して、茶樹栽培に勉めたりしより漸次増殖して、今日の盛況を見るに至れりと云う。
※ 互市(ごし)- 互いに物を売買すること。貿易。交易

想うに、明治七、八年の頃に在りては、茶価非常に騰貴し、茶一貫目と米一俵と相等しかりし時ありしより、当業者の利益少なからざりしかば、茶園を開くもの相踵(あいつい)で起これり。これに於いて、茶樹蕃殖と共に疎(粗)製濫造の弊を醸し、顧客の信用を失い、従いて価格も下落し、明治十三年には茶一貫目壱円内外となり、収支相償(つぐな)わず、茶園の荒廃を見るに至る。
※ 蕃殖(はんしょく)- 繁殖。

同十七年、政府は茶業組合準則を発布して、これを矯正せしめ、民間また茶業組合を設け、これが救済の法を講じて怠らず。益々製造法の改良発達を図り、幾多の変遷ありて、今日の域に進めり。

本村茶は近年長足の増進にて、米麦と同じく重要なる物産となり、而して茶園は主として牧野原の台地に在りて、土質は多く腐植質に富める土壌なり。その反別七町歩、製造戸数四十戸、産額、一番二番三番を通じて、二千一百貫、金額四千七百弐拾五円(大正五年)にして、一反歩平均三十貫余、一戸平均金額百拾八円余に当る。その算出価格の如きは、年々異動あるを免れずといえども、これを本県製造戸数五万八千戸、産額五百参拾六万円にして、一戸平均九拾弐円余に当り、本郡栽培反別弐千百町歩、産額六十二万貫にして、一反歩平均二十九貫余に当るをみれば、本村産額の、他に対して遜色なきを知るべし。
※ 長足(ちょうそく)- 進み方の速いこと。
※ 遜色(そんしょく)- 他に比べて劣っていること。見劣り。


要するに、茶業経済の如何は、茶価の高廉により、採算上得失あるは勿論、茶園の優劣、経営者の巧拙により、素より一定し易からざるも、若しそれ現今の茶価にして、著しき変動を来たさざるに於いては、大要収支相償うに剰(あま)りあれば、将来農家の大いに努むべき事業たるは勿論、気候、地質ともに、茶樹栽培に適すれば、前途頗る多望の物産として、斯業拡張にあるを知るべきなり。
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