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「徳川記 巻八」の解読 3

(散歩道のヤブラン)

漸く晴れて、いよいよ梅雨明け間近である。
昼食後、ほぼ一時間ほどの昼寝は最高の贅沢である。図書館からの電話で目が覚めた。覚めるのが惜しい夢を見ていたはずだが、覚えていない。

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「徳川記 巻八」の解読を続ける。

久野一揆永禄十二年(1569)正月、家康公は遠州に発向し、掛川を攻伐(こうばつ)すべし。巷説(こうせつ)在り、これを聞く。久野三郎左衛門が族、久野佐渡守、同日向守、同弾正忠(三郎左衛門が男(むすこ))、同淡路守、本間十左衛門など評義して曰く、徳川殿、掛川を攻めらるに於いて、我々一揆を起し、前後より引き包み、これを討ち取るべし。然れば、氏真より恩賞(おんしょう)として当国を一族に給うべし。各(おのおの)これを分け領(りょう)せん。侍の立身(りっしん)、この時に在りと、三郎左衛門を勧(すす)む。三郎左衛門曰く、我れ去年、家康公に属す。今更背かんこと、本意に非ず。我において、同意叶うべからず、と称(とな)えて、席を去る。これに依り、皆な三郎左衛門を討たんとす。これを聞いて驚き、家康公に援兵を請い、久野に楯籠(たてこも)る。これに於いて一族など害に遭う、と云々。
※ 攻伐(こうばつ)➜ 攻め討つこと。討伐。
※ 巷説(こうせつ)➜ ちまたのうわさ。世間の評判。世の中の風説。
※ 恩賞(おんしょう)➜ 功績のあった者に対し、褒美として主君が金品・地位・領地などを与えること。


小笠原従属同月、家康公、小笠原新九郎に命じて、汝一族の(よし)を以って、馬伏塚の与八郎を味方に引き入るべし、と云々。新九郎往(ゆ)きて、これを計らんと欲す。与八郎、人質を連れ、秋山に与(くみ)するため、宅を出る途中に行き逢う。新九郎、公命(こうめい)を含み、稍(やや)、利を尽す。与八郎これに応ず。新九郎悦びてこれを伴い、家康公に見えせしめ、酒盃を給い、慇懃(いんぎん)にして馬伏塚に皈らる。ここに今川の家人(けにん)、小原備後、日来(にちらい)与八郎に交わる。今川没落に依って、遁(のが)れて馬伏塚に到る。与八郎、年来の親(しん)を変じてこれを入れず。皆な嘲(ちょう)じて、人倫(じんりん)に非ず、と云々。
※ 好み(よしみ)➜ 関係。因縁。縁故。ゆかり。
※ 公命(こうめい)➜おおやけの命令。ここでは、家康公の命令。
※ 慇懃(いんぎん)➜ 親しく交わること。親交。よしみ。
※ 家人(けにん)➜ 家臣。家来
※ 日来(にちらい)➜ ふだん。平生。
※ 人倫(じんりん)➜ 人として守るべき道。人道。

(「徳川記 巻八」の解読つづく)
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「徳川記 巻八」の解読 2

(散歩道のヒマワリ/23日撮影)

太陽の顔を見ない日々が続き、ヒマワリも心なしか元気がなく、どちらを向けばよいものやらと、思案顔である。しかし、今朝、近所でクマゼミの声を聴いた。この夏の第一声の気がする。梅雨明けも北九州、中国、四国まで進み、もう少しである。

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「徳川記 巻八」の解読を続ける。

  秋山出張
永禄十一年(1568)十一月、家康公、遠州に出張。今泉四郎兵衛、菅沼新八郎案内として、井の谷を攻め破り、これに於いて、鈴木三郎太夫、菅沼二郎右衛門、近藤登之助降参す。これを聞き、大沢、二俣、浅原、松下、久野など、これに従う。十二月三日、刑部(おさかべ)を攻め捕る。菅沼二郎右衛門家内(かない)、同又左衛門を入れ置く。同十一日、入山瀬に出張す。
※ 家内(かない)➜ 家中の者。

然る処に、武田信玄、遠州を望み、秋山伯耆守をして、信州伊奈より二股に働かしむ。秋山、愛宕山に懸り、見付に到り陣を張る。奥平道文、菅沼伊豆、同新九郎、田岸新三郎ら、味方に属し、見付に出で秋山と相戦う。秋山利を得、引間に打ち出で、天野宮内右衛門(乾の城主)師兵(しへい)、和を請うて曰く、氏真、掛川に在り。家康公よりこれを攻めらるべし。大井川を涯(かぎ)り、東は武田信玄公、西は徳川公支配たるべしと約し、山梨より直に高原に上り、原谷を経て、佐夜の中山を越え、駿州に入る、と云々。
※ 利を得る(りをえる)➜ いくさなどで有利になる。優勢になる。
※ 師兵(しへい)➜ 軍兵。


伝曰く、これより先、家康公、信玄、大井川渡し、国切(くにぎり)の約在り。然るに、秋山伯耆守、見付に陣を張り、遠州諸士の人質を取り来たる。附く者を、皆な帳に付ける。向坂六郎五郎、同十左衛門を、秋山が陣辺にて斬り殺し、則(すなわ)ち、家康公の掛川の陣所に来たり、秋山所為(しょい)を談(はな)す。
※ 国切(くにぎり)➜ 戦国時代後期に行われた大名間の領土協定。国分(くにわけ)・国定(くにさだめ)とも。
※ 所為(しょい)➜ しわざ。振る舞い。


これに依りて、家康公より、山岡半左衛門、植村与三郎を使者として、曰く、遠州、信玄治めらるべきに於いては、速やかに相渡し、吾れ他邦(たほう)に働くべし。足下(そっか)を以ってこれを信玄に達(たっ)し、愚意(ぐい)を仕るため、酒井を遣(つかわ)し、原川まで出さるべきなり。伯耆、則ち、原川を出、左衛門尉に対す。本多平八郎、榊原小平太など、秋山を手詰(てづめ)にして、駿州へ送り遣し、見付の伯耆が人数(にんじゅ)へ、使を立て、使まで送る。これに於いて、遠州諸士、多く家康公に来たり服す、と云々。
※ 他邦(たほう)➜ ほかの国。他国。ここでは、国切の破棄を指す。
※ 足下(そっか)➜ 二人称の人代名詞。同等、または、それ以下の相手に用いる敬称。貴殿。
※ 愚意(ぐい)➜ 自分の意見・考えを謙遜していう語のこと。
※ 手詰(てづめ)➜ 相手に猶予を与えずきびしく詰め寄ること。

(「徳川記 巻八」の解読つづく)

読書:「襲撃者 剣客春秋親子草 6」 鳥羽亮 著
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「徳川記 巻八」の解読 1

(散歩道のカワラナデシコ/写っている葉っぱは別の花の葉)

曇りで、未だ梅雨は開けず。窓を開けて昼寝をしていると、寒いほどの風が入ってきて、半分、窓を閉めた。

NHKラジオ文化講演会の「月山と芭蕉」を聴き逃しで聞いた。奥の細道の中に、駆け落ちした芭蕉の妻の悩みが言外に感じられるという話は、初耳で興味深かった。

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今日より「徳川記 巻八」の解読を始める。

    徳川記 巻第八目録
  浜松合戦、付り井伊後室武勇
  秋山出張
  久野一揆
  小笠原従属
  懸川防戦
  氏真没落
  堀川一揆

 徳川記巻第八
  浜松合戦、付り井伊後室武勇

永禄十年(1567)、家康公、遠州浜松城へ発向ある。城主井伊豊前守病死す。後室これを抱え、家康公より、後藤太郎左衛門、松下与右衛門を以って、後室に謂いて曰く、当城、開き渡すに於いて、宜しく扶助(ふじょ)を加え、家人(けにん)など本領(ほんりょう)を与えるべきとなり。後室返答して云う。豊前守没して未だ遠からず。吾れ女性たるといえども、弓馬(きゅうば)の家に生まれ、降人(こうじん)と成らんこと、覚悟(かくご)にあらずと云う。
※ 後室(こうしつ)➜ 身分の高い人の未亡人。
※ 家人(けにん)➜ 家臣。家来 (けらい) 。
※ 本領(ほんりょう)➜ 中世、開発以来代々領有している私領。
※ 弓馬の家(きゅうばのいえ)➜ 武士の家柄。武門。武家。
※ 降人(こうじん)➜ 降参した人。
※ 覚悟(かくご)➜ きたるべきつらい事態を避けられないものとして、あきらめること。観念すること。


ここに依り、十二月廿四日、軍兵を差し向けらる。城兵、塩市口より突いて出、味方敗乱(はいらん)するに依って、軍を引き捕る。翌未明に攻め寄せて、二、三之丸を破る。城兵身命を軽んじて防戦、討ち死にする者、二百余輩。味方、疵つけられ、或いは戦死する者、三百余人。後室、緋糸(ひいと)の鎧(よろい)を着し、鍪(かぶと)を載せず長髪を乱し、長刀(なぎなた)を持つ仕女十七人左右に立たせ、城門を開き駈け出で、竪横(たてよこ)に挑戦して主従十八人討ち死にす。彼が(ほう)に当り、各(おのおの)疵を蒙る。家康公、これを感じ給う。然して後、酒井左衛門を入れ置き給う。(時に酒井忠次廿七歳)
※ 敗乱(はいらん)➜ やぶれみだれること。くずれみだれること。
※ 身命を軽んず(しんめいをかろんず)➜「身命」は「自身のいのち」「軽んず」は「軽くみる。大切に思わない。」命を惜しまないの意。
※ 緋糸(ひいと)➜ 赤い糸。
※ 仕女(しじょ)➜ 女の召し使い。
※ 鋒(ほう)➜ きっさき。

(「徳川記 巻八」の解読つづく)

読書:「黒衣の刺客 はぐれ長屋の用心棒 7」 鳥羽亮 著
NHKラジオ文化講演会:「月山と芭蕉」俳人 宮坂静生、朗読 加賀美幸子
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「徳川記 巻七」の解読 5

(裏の畑のボタンクサギに止まるクマバチ)

大形のハナバチであるクマバチは余程のことがない限り、人を刺すことはない、形の割りにやさしい蜂である。

午前中、電気屋さんが来て、食洗器と扇風機を注文した。近日中に届くはずである。

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「徳川記 巻七」の解読を続ける。今日で「巻七」を読み終える。

両軍終日戦い、寄せ手無理して岡崎に皈城。家康公、本多平八郎、松平主殿介案内として、自ら吉田に寄せられ、酒井忠次先陣に大原へ進み、緻(こまか)矢石(しせき)を放ち、能くこれを防ぐ。酒井計略を廻(めぐ)らし、大原方へ言い遣し曰く、度々当城に向い、雌雄を決するため、若干(じゃっかん)軍兵、互いに命を(いん)すること、益なし。向後(きょうこう)、氏真より東三河を徳川公に渡さるにおいて、駿三和睦を為(な)すべく、人質として、家康公一腹(ひとはら)の舎弟、松平源三郎勝俊、並び左衛門尉が娘を渡すべきと云々。大原これに応じ、東参川を渡し、源三郎と酒井が女(むすめ)を取りて、駿府へ皈(かえ)る。
※ 矢石(しせき)➜ 矢と、弩(いしゆみ)の石。また、矢や石の飛び交う所。戦場。
※ 若干(じゃっかん)➜ 数量の多いさま。たくさん。多く。
※ 殞する(いんする)➜ しぬ。命をおとす。
※ 一腹(ひとはら)➜ 同じ母親の腹から生まれること。同腹。ひとつばら。


時に、永禄七年(1564)六月廿日、三州一統して、家康公の領国と成る。源三郎、駿州没落の時、人質、奉行三浦与市、信玄に送るといえども、後年甲州を逃げ参州に皈り、酒井が女は駿府より皈りて御油の松平外記に嫁す。
※ 一統(いっとう)➜ 一つにまとめて治めること。統一。

その後、家康公、田原表に出張して、近辺を放火して、緻(こまか)くこれを攻め、城主戸田吉兵衛門隆を討ち、城を請け亘(わた)す。本多豊後守を入れ置き、ここに於いて三奉行(さんぶぎょう)を定む。
                高力左近太夫
     三奉行        本多作左衛門
                天野三郎兵衛
※ 三奉行(さんぶぎょう)➜ 家康の三河時代に、奉行として活躍した戦国武将。岡崎三奉行とも呼ばれる。民政・訴訟等を担当させた。

(「徳川記 巻七」の解読終り)

読書:「きたきた捕物帖」 宮部みゆき 著
読書:「深川思恋 剣客船頭 5」 稲葉稔 著
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「徳川記 巻七」の解読 4

(散歩道のシュウカイドウ)

吉田の古本屋さん、T氏に電話。今週は忙しいようで、来週の約束をした。コロナ禍で伸び伸びにしていたから、今年も梅雨明けの暑い時期になりそうだ。

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「徳川記 巻七」の解読を続ける。

ここに於いて、渡辺半蔵、石川新七郎、同新九郎など、殿(しんがり)す。板倉弥(いよいよ)勝ちに乗ってこれを追い、半蔵引き返し鑓を合わす。家康公籏本、急に押し来たるを見て、板倉、諸卒に下知して城中の引き入れんと欲す。籏本勢、駆け付け、緻(こまか)く挑戦して、大将板倉弾正、同主水介を討ち取り、残党を追い散らす。渡辺半蔵、米津藤蔵、度々(どゝ)先登を進み、半蔵、山下八郎三郎を討つ。ここに於いて、佐脇八幡を乗っ取り、窪の牧野新二郎降(くだ)り属す、これより小坂井、牛窪に砦を構え、番兵を入れ置く。家康公、岡崎に皈城。

  戸田忠節、付り下地合戦
駿州より大原肥前守、吉田に在城せしめ、近辺の人質を取り、城中に入れ置き、設楽二連木、一旦(いったん)今川に従うといえども、その志、皆な家康公に服す。ここに依り、大原を討って忠を尽さんと欲す。公、これを聞き給い、鵜殿十郎三郎、喜見寺に置き、小笠原新九郎を賀須塚に置き、吉田を窺(うかが)わしめ、比(なら)びに、二連木戸田主殿介老母、質として吉田に有り。これを竊(ひそか)に捕らんため、常に吉田に徃(ゆ)き、大原と交わりを深くし、長持に美食入れ、大原にこれを進ず。双六(すごろく)を催し、家人野々山、その間を計りて、老母を長持に入れ、潜(ひそか)に城を出し走り逃がす。戸田相図(あいず)を聞き、座を立ちて馬を駆け、二連木に皈る。大原怒りてこれを追うといえども、協(かな)わず。戸田、岡崎に徃き、家康公に拝謁(はいえつ)、公これを感じ、松平氏を給う(主殿遺跡(いせき)、甥丹波守これを継ぐ。公の妹に嫁せしめらる。)
※ 拝謁(はいえつ)➜ 身分の高い人に面会することをへりくだっていう語。
※ 遺跡(いせき)➜ 先人ののこした領地・官職など。また、その相続人。


これに於いて、家康公、兵を喜見寺、加須塚、二連木砦に遣して、吉田の城を攻めんと欲す。下地に至り、大原討ち出でて合戦す。鵜殿十郎三郎、蜂屋半之丞、小笠原新九郎ら、先登を進み、本多平八郎(十八歳)、牧野宗九郎、鑓を合わせ、武勇に励む。蜂屋度々一番鑓といえども、今日、本多に越され、二番鑓は(せん)なしと云いて、鑓を捨て刀を抜き懸かり入り、敵二人斬り伏せ、首を捕る。退(しりぞ)く所に、蜂屋が内甲(うちかぶと)に鉄炮中り、顛倒(てんとう)すといえども、剛なるに依り退く処に、川井正徳これを討つ。
※ 詮なし(せんなし) ➜ 何かをしても報いられない。かいがない。
※ 内甲(うちかぶと)➜ かぶとの正面の内側。かぶとの「まびさし」の内側に接する、額のあたり。
※ 顛倒(てんとう)➜ 倒れること。ひっくりかえること。

(「徳川記 巻七」の解読つづく)

NHKラジオ、朗読:「華日記~昭和生け花戦国史」 早坂暁 著(朗読 藤田三保子)
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「徳川記 巻七」の解読 3

(散歩道のカラス?/23日撮影)

夕食時、激しい雷雨で、何度も近くに落ちたような雷鳴に驚かされた。停電になる前にと、夕食を急いだ。間もなく雷鳴は遠ざかって行った。梅雨も終りに近いのかと思ったが、予報では今月中の梅雨明けはなさそうであった。

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「徳川記 巻七」の解読を続ける。

家康公、東参川を発向すと、駿府へ聞こえ、氏真一万余騎を率し出張して、牛窪に到る。家康公、一の宮砦に軍兵を六百人入れ置く(本多百介、その将たり)。然るを、氏真千余騎を以って、これを囲み攻む。家康公三千の兵を率し、佐脇八幡の間に打ち出で、本能原、氏真本陣に兵を向け進む。然る所に、武田信虎謀叛を企て、駿州を欲す計(はかりごと)告げ在り。駿兵周章(しゅうしょう)す。家康公、駿州の魁兵と籏本の間を押し破り、城中に入らんと欲し、駿州の魁兵とも屢(しばしば)挑戦すといえども、敗北に及ぶ。ここに於いて、本多平八郎先登を進み、これを追い討ち、駿州足軽大将、菅沼帯刀、城所助之丞、伊東左近右衛門ら、蹈み留まりて、鑓を合わし、殿(しんがり)して引き退く。一之宮篭兵(ろうへい)、本多百助突いて出、粉骨を竭(つく)すと。勝利を得、家康公、その夜、一の宮に陣す。翌日、本路を押し通るといえども、氏真、敢えてこれを遮(さえぎ)らず。大軍を率し駿州より出張して、聊(いささ)か雌雄を決せず、駿府に皈(かえ)る、と云々。
※ 周章(しゅうしょう)➜ あわてふためくこと。うろたえること。
※ 篭兵(ろうへい)➜ たてこもる兵。


御油八幡合戦氏真、駿州に皈陣の後、家康公、八幡、牛窪、御油に働き、城下を放火せしむべきと、千余騎を分け遣(つかわ)し、岡崎に皈城。御油、牛窪の城兵、これを聞き、御油東台に出、身命を向け、軽く挑戦す。味方利なくして、甚だ危うし。家康公、これを聞き、千余騎を率して岡崎より駈け着け、敵軍に乗り入れ、敵兵多く討ち取る。敵、御油の城を捨て、八幡要害(ようがい)に引き篭る。家康公、これを追い、八幡を攻め取るため、酒井左衛門尉をして、本路の砦を見せしむ。板倉これを聞き、二連木、牛窪、佐脇八幡の砦より、片坂に兵を出し合戦す。板倉打ち勝ち、岡崎勢敗軍す。酒井従兵五、六十輩戦死す。
※ 身命(しんめい)➜ 身体と生命。自身のいのち。
※ 本路(ほんろ)➜ あらかじめ決めてある道。

(「徳川記 巻七」の解読つづく)

読書:「小説家の四季」 佐藤正午 著
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「徳川記 巻七」の解読 2

(散歩道のヤブミョウガ、23日撮影)

曇り、時々小雨。玄関を網戸にして開けておくと、南風が入ってパソコンの前を涼しい風が通り抜け、快適であったが、女房からは、家に湿気が入るとクレームが付いた。

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「徳川記 巻七」の解読を続ける。

諸士これを聞き、金子原に出迎え、家康公、その忠志(ちゅうし)を感ず。これより石川が威勢、諸倫(しょりん)を越え、竹千代殿皈(き)国に依って、三州の武士勇気を得、近々駿州抱えの城々、攻め取るべしと評議す。氏真、臣の諫言(かんげん)を聞かず、これを許す。短才(たんさい)国を亡ぼす(はし)と為す。世人嘲談(ちょうだん)すと、云々。(竹千代殿五歳、織田信長公女(むすめ)に嫁す)
※ 忠志(ちゅうし)➜ 忠義の志。
※ 諸倫(しょりん)➜ もろもろのなかまたち。諸輩。
※ 諫言(かんげん)➜ 目上の人の過失などを指摘して忠告すること。また、その言葉。
※ 短才(たんさい)➜ 才知の乏しいこと。また、その人。
※ 端(はし)➜ 物事のおこりはじめ。端緒。
※ 嘲談(ちょうだん)➜ あざけって話す。


  長沢落城、付り牛窪合戦
同七年(永禄七年、一五六四)の夏、家康公、三千余騎を率し、岡崎を出、長沢を押し通り、牛窪に働く。家康公諸卒に謂いて曰く、皈陣の時、若し長沢之城より討ち出るに於いて、嶮難(けんなん)に到り、歩行成り難かるべし。勢を二手に分け、籏本は城の南を押し、魁兵(かいへい)本路を通るべし、と下知して、旗本の兵は城の南門を過ぐ時、城中より失火あり。櫓(やぐら)一軒を焼く。本路の兵、山下よりこれを見、籏本よりこの城を乗っ取ると思い、咸(みな)、馬を駆け進みて城門に付く。籏本の兵、已むことを得ず、魁兵とともに城門を攻め破り、乱入。城兵防ぐに足らず、逃げ散る。大原藤十郎、一人踏み留りて討ち死にす。
※ 嶮難(けんなん)➜ 道などが非常にけわしく、通過するのに困難なこと。
※ 魁兵(かいへい)➜ さきがけの兵。先手(さきて)。
※ 本路(ほんろ)➜ あらかじめ決めてある道。
※ 已むことを得ず(やむことをえず)➜ しかたがなく。どうしようもなく。止むなく。


家康公、この城、嶮難に依り、攻められざる処に、不慮(ふりょ)に陥(おちい)る。これより牛窪に働き、牧野新三郎、同出羽を攻めらる。佐脇八幡に要害(ようがい)を構え、緻(こまか)く柵を結う。吉田、牛窪を本城として、駿州より板倉弾正、同主水介、三浦左馬助などを篭め置く。
※ 不慮(ふりょ)➜ 思いがけないこと。意外。不意。
※ 要害(ようがい)➜ 戦略上、重要な場所に築いたとりで。要塞。

(「徳川記 巻七」の解読つづく)

読書:「黙示」 今野敏 著
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「徳川記 巻七」の解読 1

(散歩道の赤いダリア)

どういう風の吹き回しか、息子が長野みやげに「凍み豆腐」を買って帰った。関西ではこれを「高野豆腐」というと話すと、これは「凍み豆腐」で「高野豆腐」ではないと言い張る。確かにネットで調べると、「凍み豆腐」と「高野豆腐」では製法が少し違う。戦後、凍豆腐組合が統一する呼称として「凍り豆腐」(こおりどうふ)という名称を使っている。作り方は少し違っても、消費者は区別なく料理に使う。せっかくだから、今夜、ネットでレシピを調べて、ちらし寿司を作って頂いた。自分の故郷では、専ら「高野豆腐」と呼んでいて、「凍み豆腐」とか「凍り豆腐」と呼ばれることは全くない。

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今日より「徳川記 巻七」の解読を始める。

    徳川記 巻第七目録
  竹千代殿(信康卿)皈国
  長沢落城、付り牛窪合戦
  御油八幡合戦
  戸田忠節、付り下地合戦

 徳川記巻第七
  竹千代殿(信康卿)皈国


同年夏、今度降参の軍士を催(もよお)し、氏真領地、東三州に発向(はっこう)させられ、西郡には鵜殿長助、在城す。足軽大将、三原三左衛門、計略を巡らせ、伊賀衆、伴中務、同太郎左衛門に談(はな)して、城中に忍び入り、鵜殿を討ち、二子を擒(とりこ)にす。家康公、大悦びし給い、三原、加恩(かおん)賜う。西郡は、東参河先手(さきて)たるに依って、久松佐渡守入れ置く。(家康公父、松平隠岐が父)駿府より、これを取り返すを欲(ほっ)し、これを窺うといえども、久松、丈夫にこれを守るに依り、叶わず。
※ 発向(はっこう)➜ 出発して目的地に向かうこと。
※ 加恩(かおん)➜ 禄などを増し与えること。
※ 丈夫に(じょうぶに)➜ 確かに。確実に。


家康公、東参川の城々、相望み賜うといえども、子息、竹千代殿、質(しち)として駿府に有り。これに依り、延引(えんいん)に及ぶ。氏真、家康公の御志(こころざし)を聞き、竹千代殿、殺さんと欲すといえども、家人関口刑部少輔、外孫たるに依って、稍(やや)猶予(ゆうよ)す。石川伯耆守これを聞きて、幼君害に遭い、殉死(じゅんし)無し。参州の瑕瑾(かきん)たるべし、と称して、家康公に暇(ひま)を請い、駿府に行き氏真に謁(えっ)し、弁舌の序でに、鵜殿が二子を以って、竹千代を請け代える。氏真、許諾して竹千代を返し渡す。石川悦んで二子を亘(わた)し、竹千代殿を相倶(とも)に岡崎に皈(かえ)る。
※ 延引(えんいん)➜ 物事を先に延ばすこと。遅らせること。
※ 猶予(ゆうよ)➜ ぐずぐず引き延ばして、決定・実行しないこと。
※ 殉死(じゅんし)➜ 死んだ主君のあとを追い、臣下が自殺すること。
※ 瑕瑾(かきん)➜ 恥。辱め。名折れ。

(「徳川記 巻七」の解読つづく)
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「徳川記 巻六」の解読 7

(散歩道のノボタン)

なぜかくも、時代小説を好んで読むのかと、自分のことながら、この頃考えている。時代小説は舞台は江戸時代の市井で、日々暮らしを立てる人々の話。そのほとんどは、一冊で終りではなくて、シリーズものになっていて、シリーズ名を見るとついつい手に取ってしまう。(専ら図書館で、ネット予約するのだが)

それはあたかも古い友人の、今の様子を知りたくなる気持ちに似ている。今と言っても、時空を超えた今なのだが、変わらぬ活躍を知り、どこか安心する気持ちがある。歴史小説では決して味わえない感覚である。パソコンを使って、一ヶ月足らずで書き上げる、乱作、多作であっても、そんなことは一向に気にならない。同じ時代でも、難解な古文書と格闘していると、ついついそんな軽さを好ましく感じてしまう。だから、当分はそんな読書が主流になりそうである。

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「徳川記 巻六」の解読を今日で終える。明日から、引き続き「巻七」へ入る。

酒井将監、徳川譜代の臣といえども、酒井(ちゃく)微恨(びこん)を含み、敵となり、日々に石川と合戦に及ぶ。今成(いまなり)、家康公に従うを見て、竊(ひそか)に城を出、駿州に奔る。国中城々、一揆に及ぶなど、或いは降参、或いは出奔に依り、戸呂、針崎、佐々崎、野寺、已下(いか)破却して、宗門を替えべき旨、家康公、宣(のたま)うといえども、僧徒愁訴(しゅうそ)申すに依って、無智無才の悪僧を追い払い、学僧を立て置き、その領米(りょうまい)(糧米)を給う。檀越(だんおつ)これを悦ぶ。
※ 嫡(ちゃく)➜ 正妻の産んだ跡継ぎ。
※ 微恨(びこん)➜ わずかな恨み。
※ 今成(いまなり)➜ 今の様子
※ 愁訴(しゅうそ)➜ つらい事情を明かして嘆き訴えること。また、その訴え。
※ 檀越(だんおつ)➜ 寺や僧に布施をする信者。檀那。檀家。


旧冬(きゅうとう)より今春に到り、主従の礼を反し、法義(ほうぎ)を尊び、乱逆(らんぎゃく)を起すといえども、家康公、武威(ぶい)に依り速やかに静謐(せいひつ)なり。上野の城に水野三郎左衛門、同四郎左衛門、入れ置き、これより西参川(三河)(ことごと)く、家康公の応命(おうめい)、云々。公廿三歳。
※ 旧冬(きゅうとう)➜ 昨年の冬。昨冬。
※ 法義(ほうぎ)➜ 一宗の教義。一宗の教理。
※ 乱逆(らんぎゃく)➜ 謀反。反逆。
※ 武威(ぶい)➜ 武力の威勢。武家の威光。
※ 静謐(せいひつ)➜ しずかでおだやかなこと。
※ 応命(おうめい)➜ 命令に従うこと。

(「徳川記 巻六」の解読終り)

読書:「わるじい慈剣帖 3 こわいぞお」 風野真知雄 著
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「徳川記 巻六」の解読 6

(牧之原公園、カタクリ園のヤマユリ)

ヤマユリは、いうなればカサブランカに斑点を付けたような、日本特産の大型のユリである。山歩きをしていた時代には、あちこちで目にした花である。

午後、はりはら塾の古文書講座で、榛原に行く途中、少し早く出たので、牧之原公園に立ち寄った所、かたくりに今を盛りに咲いていた。金網越しには、余り良い写真にはならなかった。

4回目の今日は、中止になった5月分として実施した。受講者9名、全員参加してくれて、それが何よりも嬉しいことであった。帰りにKさんと牧之原市史料館に寄り、新たな資料の影本写真を頂いた。

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「徳川記 巻六」の解読を続ける。

家康公、下知し給いて、打ち追うべからず。逃がすべし、と云々。一揆ら這々(ほうほう)、針崎へ逃げ入る。家康公の曰く、寺内は立て置き、張本人は免(ゆる)すべからずとなり。大久保浄玄入道曰く、これを宥(ゆる)し、酒井、東条、荒川を誅戮(ちゅうりく)されるべしと、強いてこれを諫(いさ)めるに依り、これに同じられ、上和田に於いて、成就院誓紙(せいし)を書き、降人ら案内として、針崎に向かう。石川伯耆守をして、高須口より軍勢到らしめ、寺内に入りて放火す。小閣(しょうかく)狼煙(ろうえん)天に上り、途(みち)を失い、進退狼狽(ろうばい)す。石川、高声(たかごえ)に呼びて、一命を助けらる。迅(はや)く散ずべし、と云々。徒党ら一同に首を抛(なげう)ちて拜降(はいこう)す。
※ 這々(ほうほう)➜ 這うようにしてやっと進むさま。
※ 誅戮(ちゅうりく)➜ 罪ある者を殺すこと。
※ 誓紙(せいし)➜ 誓いの言葉を記した紙。起請文。
※ 小閣(しょうかく)➜ 小さい高殿(たかどの)。
※ 狼狽(ろうばい)➜ あわてふためくこと。うろたえること。


家康公、岡崎に皈(き)城。これに於いて、張本人鳥井四郎左衛門、渡辺八郎三郎、同源蔵、本多弥八郎、同三弥浪切孫七郎逐電(ちくでん)す。渡辺半蔵、同平六、平岩善十郎ら降参なり。これを聞き、松平監物、降(こう)を請く。荒川甲斐守、縁者の好(よし)みを忘れ、両度返(反)逆、その罪、遁(のが)れ難くに依り、参州を離れ河州(かしゅう)漂泊(ひょうはく)す。吉良東條義照、城を出て、江州佐々木承禎が領地に奔(はし)る。(摂州に於いて、芥川の城、討ち死にす)松平七郎、前非を恥じ逐電(ちくでん)す。
※ 河州(かしゅう)➜ 河内(かわち)国の別名。
※ 漂泊(ひょうはく)➜ 所を定めずさまよい歩くこと。さすらうこと。流浪。
※ 摂州(せつしゅう)➜ 摂津(せっつ)国の異称。

(「徳川記 巻六」の解読つづく)
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