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「駿府御城代々記」を読む 15

散歩道のハナウリクサ

「駿府御城代々記」の解読を続ける。
(歴代駿府城代のつづき)
右同年より文政二卯年まで在勤         松平伊豫守
御役替え、嘉千代君様御付、飛騨守と改むる。
※ 松平伊豫守 ➜ 1816~1819在勤。
右同年より同八酉年まで七ヶ年在勤       戸田土佐守
御役替え、西御丸御側、仰せ付けらる。
※ 戸田土佐守 ➜ 1819~1825在勤。
同四月より仰せ付けられ、同五月江戸表にて   松平美作守
御側仰せ付けられ、駿府へ御着これ無し。
※ 松平美作守 ➜ 1825、着任せず。
同八月より同十亥年まで三ヶ年在勤       安藤出雲守
於御役宅に於いて病死。
※ 安藤出雲守 ➜ 1825~1827在勤。
右同年より同十二丑年まで在勤         諏訪若狭守
御役替え、西御丸御側、仰せ付けらる。
※ 諏訪若狭守 ➜ 1827~1829在勤。
右同年九月より天保三辰年まで四ヶ年在勤    松平筑前守
若君様御付、仰せ付けらる。
※ 松平筑前守 ➜ 1829~1832在勤。
右同年七月より同五年午年まで三ヶ年在勤    堀田伊勢守
御役替え、御側。
※ 堀田伊勢守 ➜ 1832~1834在勤。
同六年未より同十二年正月まで         大久保主膳正
七ヶ年在勤、参府。
※ 大久保主膳正 ➜ 1835~1841在勤。
天保十二丑九月より弘化二巳年三月参府     菅沼織部正
御役替え、西ノ丸御側。
※ 菅沼織部正 ➜ 1841~1845在勤。
弘化二巳年十月より同三、四月まで在勤     小笠原豊後守
御側御役。
※ 小笠原豊後守 ➜ 1845~1846在勤。
弘化三午年四月より嘉永五子年まで在勤     本多對馬守
三月十七日参府。
※ 本多對馬守 ➜ 1846~1852在勤。
同子年十月より安政四巳年正月まで在勤     坪内伊豆守
御用召しに付、四月廿七日発足、御側仰せ付けらる。
※ 坪内伊豆守 ➜ 1852~1857在勤。
同巳年五月より同未年四月まで在勤       室賀美作守
御用召し発足。
※ 室賀美作守 ➜ 1857~1859在勤。
同年六月より                 土岐下野守
※ 土岐下野守 ➜ 1859~
(歴代駿府城代おわり) 
(つづく)

読書:「返討ち 新秋山久蔵御用控 4」 藤井邦夫 著
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「駿府御城代々記」を読む 14



散歩道のシュウカイドウ

「駿府御城代々記」の解読を続ける。
(歴代駿府城代のつづき)
右同年九月より同九年卯八月まで、       中根大隅守
六ヶ年在勤、御役御免。
※ 中根大隅守 ➜ 1754~1759在勤。
同十辰年三月より明和元年申六月まで、     久世長門守
五ヶ年在勤、御役御免。
※ 久世長門守 ➜ 1760~1764在勤。
右同年十月より同二酉年まで、         花房近江守
二ヶ年在勤、御役宅において病死。
※ 花房近江守 ➜ 1764~1765在勤。
同三年戌四月より同五子三月まで、       菅沼織部正
三ヶ年在勤、御役宅に於いて病死。
※ 菅沼織部正 ➜ 1766~1768在勤。
右同年九月より安永七戌九月まで、       武田越前守
十一ヶ年在勤。
※ 武田越前守 ➜ 1768~1778在勤。
右同年より天明五巳年まで、          本多淡路守
八ヶ年在勤、 御役宅に於いて病死。
※ 本多淡路守 ➜ 1778~1785在勤。
天明五巳年七月より寛政八辰まで、       北條安房守
十二ヶ年在勤。
※ 北條安房守 ➜ 1785~1796在勤。
右同年十二月より同十一未十月まで、      近藤石見守
四ヶ年在勤、御役宅に於いて病死。
※ 近藤石見守 ➜ 1796~1799在勤。
同十二申年より享和二戌年まで、        杉浦丹波守
在勤、五月参府。
※ 杉浦丹波守 ➜ 1800~1802在勤。
右同年八月より文化二丑二月まで、       松平信濃守
在勤、御役宅に於いて病死。
※ 松平信濃守 ➜ 1802~1805在勤。
右同年六月在着、               安藤伊豫守
同八月病死。
※ 安藤伊豫守 ➜ 1805~1805在勤。
右同年九月より、               内藤甲斐守
同三寅年十二月、参府。
※ 内藤甲斐守 ➜ 1805~1806在勤。
同四年卯四月より同十一戌年まで、       浅野中務少輔
在勤。
※ 浅野中務少輔 ➜ 1807~1814在勤。
右同年十月より同十三子年まで、        高木伊勢守
在勤、御役替、西御丸御側、仰せ付けらる。
※ 内藤甲斐守 ➜ 1814~1816在勤。
(つづく)

読書:「わるじい慈剣帖 9 ねむれない」 風野真知雄 著
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「駿府御城代々記」を読む 13


散歩道のハナトラノオ

今日は一日涼しくて、昼寝をしていたら寒かったのだろう、目が覚めたら、側にあったタオルケットを被っていた。このまま秋とはならないだろうが、確実に秋が近づいていると感じた。

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「駿府御城代々記」の解読を続ける。 
     目録
一 御城代    寛永十一酉年より始まる。
一 御定番    慶安二丑年より始まる。
一 町御奉行   慶長年中より始まる。
一 大御番    寛永九申年より始まる。
一 御書院番   寛永十六卯年より始まる。
一 御加番    寛永九申年より始まる。
一 御目付    右同断
一 御大名勤番  宝永四亥年より始まる。
一 御勤番    寛政二戌年より始まる。

     駿府御城代   雁間御縁側、御役知二千石
             五千石高
※ 駿府御城代(すんぷごじょうだい)➜ 江戸幕府の職名。駿府城の警備、及びその管轄下の訴訟をつかさどる重職。城主を置かないで、譜代大名または重代の家臣を任じた。
寛永十酉年、当御役始めて仰せ付けらる     大久保玄蕃頭
明暦二申年まで廿四ヶ年在勤。九十五才、江戸において病死。
※ 大久保玄蕃頭 ➜ 1633~1656在勤。
同三年酉年より                松平丹後守
寛文九酉年まで十三ヶ年在勤、役御免。
※ 松平丹後守 ➜ 1657~1669在勤。
右同年より                  松平左近太夫
延寶四年辰まで八ヶ年在勤、御役御免。
※ 松平左近太夫 ➜ 1669~1676在勤。
右同年より同八申年まで五ヶ年在勤。      松平豊前守
駿府御役宅にて病死。
※ 松平豊前守 ➜ 1676~1680在勤。
右同年より                  三枝摂津守
元禄八亥年まで、十六年在勤。
※ 三枝摂津守 ➜ 1680~1695在勤。
同九子年より                 青山信濃守
享保五子年まで、二十五ヶ年在勤。
※ 青山信濃守 ➜ 1696~1720在勤。
右同年より                  青山備前守
同十巳年まで、六ヶ年在勤、御役御免。
※ 青山備前守 ➜ 1720~1725在勤。
右同年より                  酒井下総守
元文元辰年まで、十二ヶ年在勤、御役御免。
※ 酒井下総守 ➜ 1725~1736在勤。
同二巳年二月より               板倉下野守
同五年申まで、四ヶ年在勤、御役御免。
※ 板倉下野守 ➜ 1737~1740在勤。
右同年より寛延四未ノ三月まで、十二ヶ年在勤。 松平豊前守
因幡守と改め、西御丸御側、仰せ付けたる。
※ 松平豊前守 ➜ 1740~1751在勤。
右同年五月より宝暦四戌八月まで在勤。     土屋兵部少輔
御役宅において病死。
※ 松平豊前守 ➜ 1751~1754在勤。
(つづく)

読書:「ズッコケ中年三人組 age46」 那須正幹 著
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「駿府御城代々記」を読む 12


裏の畑のイチジクが沢山実を付けた
数年前に苗を植えたものである
9月には収穫が出来るだろうか
狙っているのは野鳥たちも同様である

「駿府御城代々記」の解読を続ける。 
一 浄圓院様、紀州より江戸表へ御通行遊ばさせられ候節、享保三
※ 浄円院(じょうえんいん)➜ 八代将軍徳川吉宗の母。
亥年、往還通り廿七町小間一間、金弐分ずつ下し置かれ、有難く頂戴奉り候事。
一 上々様、御婚礼、御誕生、御元服、御髪置などの御祝儀の節、
※ 髪置(かみおき)➜ 男女の三歳児に、それまで髪を剃っていたのをやめて、のばしはじめる儀礼。
町中惣代年行事、弐人ずつ罷り上り、恐悦申し上げ奉り候事。
※ 恐悦(きょうえつ)➜ 目上の人の喜ばしい出来事を、自分も喜ぶという気持を表わす語。
一 元禄年中、駿府町御奉行、佐久間小左衛門様、御勤役の節、
仰せ渡され候は、駿府町の儀、連々困窮仕り候に付、これ以後、常にて
御祝儀、並び御不例の節罷り出候儀、御救免成し下され候間、その
※ 不例(ふれい)➜ ふだんの状態とは違うこと。特に、貴人の病気についていう。
※ 救免(きゅうめん)➜ 免じて救うこと。
旨、有難く存じ奉る様、仰せ渡され候事。
一 御代替り御継目の節、前例の通り、町人惣代として、年行
※ 継目(つぎめ)➜ 家督・位・役職などを交替すること。
事両人罷り上り候様、仰せ渡され、有難き仕合わせ、承知奉り、恐れながら
断絶なく罷り登り、御祝儀申し上げ奉り候。もっとも前例の通り、御押し
※ 断絶(だんぜつ)➜ 続いてきたもの、受け継がれてきたものが、絶えること。廃絶すること。
掛り献上御目見え、仰せ付けさせられ、御暇(いとま)の節、御時服拝領。
※ 時服(じふく)➜ 四季の時候に合わせて着る衣服。
一 前々より、風損、火難の節、その度々、拝借仰せ付けさせられ、有難き仕
合わせ存じ奉り候事。
天明七未年、町方困窮に付、願い上げ奉り候処、御救い米三百石、
下し置かれ、有難く頂戴奉り候事。
  右の通り、当町方由緒書、留め候事。
(つづく)

読書:「弾丸を噛め はぐれ十左暗剣殺 6」 和久田正明 著
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「駿府御城代々記」を読む 11

裏の畑のナンキンハゼ
樹脂製の鉢を破って太く大きくなった
植えた記憶はないから
ムクドリなどの小鳥が種を運んできたものと思われる
秋の紅葉がきれいというから、切らずにもう少し置いてみよう

「駿府御城代々記」の解読を続ける。
一 尾張様、紀伊様、御二方様より、御米六百俵、駿府町の内、往還通り廿
七町へ下し置かれ、もっとも、代金にて弐百両下し置かれ、有難く頂戴候。重ねて、御
通行の節、御礼のため罷り出候に及び申さず候段、仰せ渡され候事。
一 宝永三卯年、米穀高直(こうじき)に付、願い上げ奉り候処、御慈悲を以って、御金
千百九拾五両余り、御米高千百七拾壱石九斗四升六合、拝借
仰せ付けられ、三ヶ年賦、返上納仕り候事。
一 同年、長崎系座賃物割賦御助成、中絶仕るに付、願い上げ奉り候処、
※ 中絶(ちゅうぜつ)➜ 進行中の物事がとぎれること。また、中途でやめること。
貞享元子年まで、拾ヶ年の内、金八千両余り下し置かれ、莫太(ばくだい)の
御救い、冥加至極、有難き仕合わせ頂戴奉り候事。
一 慶長十二未年、寛永十三子年、同廿未年、明暦元未年、朝
鮮人来朝の度々(たびたび)、駿府町の内、往還通り廿七町、小間壱間に付、
金弐分ずつ、給仕人壱人に付、金弐分ずつ下し置かれ、もっとも、明暦元
未年、来朝の節は、駿府両町御奉行、神保三郎兵衛様、
三宅太兵衛様、御勤役の節、仰せ付けられ候は、駿府町の儀は
外場所と違い、御饗應(きょうおう)の場所に候間、万端美々(びび)しく仕り、なおまた
※ 饗応(きょうおう)➜ 酒や料理をとりそろえてもてなすこと。馳走すること。
※ 美々鋪(びびしく)➜ 人目をひくように美しい。はなやかである。
掃除など麁略これ無き様、仰せ渡され候事。
※ 麁略(そりゃく)➜ 物事の扱い方などが丁寧でないこと。また、そのさま。ぞんざい。
(つづく)
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「駿府御城代々記」を読む 10

久し振り、栄西禅師像
一昨日、牧之原公園にて

「駿府御城代々記」の解読を続ける。
一 紀伊大納言様、元和年中、駿府御在城遊ばさせられ候御時、御救いとして
度々(たびたび)御憐愍下し置かれ、その上、御祝儀米、弐万俵、拝借仰せ付けさせられ、
返上納の儀は拾ヶ年賦(ねんぷ)、殊更(ことさら)、時の相場、金拾両に付、五俵安(やす)
積りを以って、金子にて上納仕り候えば、拝領同前、御救いに相成り、有難き仕合わせに候事。
一 尾張様、紀伊様、御通行の節、安倍川端へ罷り出、御通り掛り、
御目見え、仰せ付けさせられ、有難き仕合わせ存じ奉り候事。
一 台徳院(二代秀忠)様、元和九亥年、御上洛遊ばさせられ候節、当御城に於いて、
御目見え仰せ付けられ、御祝儀として、御米弐万俵拝借仰せ付けられ、有難く頂戴仕り候事。
一 大猷院(三代家光)様、寛永十一戌年、御上洛遊ばさせられ候節、御城壁御櫓(やぐら)
出座させられ、町中御上覧遊ばさせられ、町方衰微いたし候様、
※ 衰微(すいび)➜ 勢いが衰えて弱くなること。
御意被為遊ばさせられ、御米壱万五千俵下し置かれ、その上、浅間社御造営、
御金高凡そ拾六万両余御入用、入札無く、駿府町人御救い御
普請仰せ付けられ、重々(かさねがさね)有難き仕合わせ存じ奉り候事。
一 寛永十六卯年、当所鋳銭(ちゅうせん)吹き立て、願い上げ奉り候処、願いの通り、
※ 鋳銭(ちゅうせん)➜ 貨幣を鋳造すること。また、その貨幣。
仰せ付けられ、則ち、井宮村にて吹き立て仕り、町中潤いに罷り成り候事。
一 厳有院(四代家綱)様御代、明暦二申年、大風仕り、御救い御銀弐百貫目、
拝借仰せ付けられ、返上納の儀、拾ヶ年賦差し上げ奉り候事。
一 同年、鋳銭吹き立て願い上げ奉り候処、先達て江戸御銭座へ五拾万貫
文の吹き立て仰せ付けられ候に、又候(またぞろ)、駿府の者へ仰せ付けられ候儀、遊ばさせられ難き
由にて、右五拾万貫の内、弐拾万貫、また駿府の者へ仰せ付けられ、則ち
当所沓谷村にて、吹き立て仕り候。銭相場金壱両に付、三貫弐百文
仕り候処、新銭四貫文替え、御払い遊ばさせられ、その余りは町内御救いに
相成り申し候。
(つづき)

読書:「隙間風 新・知らぬが半兵衛手控帖 16」 藤井邦夫 著
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「駿府御城代々記」を読む 9

昨日の牧之原公園、しきりにツクツクボウシが鳴く
桜の高い枝にやっとその姿を見つけた

「駿府御城代々記」の解読を続ける。

一 慶長十四酉年、長崎系貨物、弐百万分下し置かれ、殊に壱番割仰せ
※ 座(ざ)➜ 中世の商工業組合。
付けさせられ、割符金高五千両ずつ、年々下し置かれ、町中繁昌仕り候事。
一 元和元卯年、大坂御帰陣の節、駿府町中名主ども御祝儀として、
御出迎え申し上げ奉り候節、恐れながら、上々様方御通り掛り、
御目見仰せ付けさせられ、有難き仕合わせに存じ奉り候事。
一 越前の御家門様方、御通り掛り、御目見仰せ付けさせられ、有難き
仕合わせに存じ奉り候事。
一 上々様方、御到着遊ばさせられ候砌り、御祝儀として町中名主
ども麻上下(あさかみしも)着仕り、御城大手御門、西の方御物見御殿へ
出御(しゅつぎょ)遊ばさせられ、これを御上覧、「あれなる者どもは、町頭どなるか」と
※ 出御(しゅつぎょ)➜ 目下の者の前に出ることをいう語。おでまし。
御意遊ばさせられ候段、その節の町御奉行、井出志摩守
様、彦坂九郎兵衛様、御取次にて、仰せ聞かれ、承知奉り、
有難き仕合わせ、それより以来、駿府名主どもの儀、町頭と名目仕り候事。
※ 名目(めいもく)➜ 名称。呼称。駿府の名主をこの後、「町頭」と呼ばれるようになった。
右の節も、御祝儀として、町頭壱人に付、御銭壱貫文ずつ下し置かれ、
 惣町中壱軒役に付、同銭壱貫文ずつ下し置かれ、有難く存じ奉り候事。
一 台徳院様御時代、元和六申年、街中困窮仕り、奉願い上げ奉り候えば、
御憐愍を以って、則ち、申年より戌年まで三ヶ年の内、御米壱万弐千俵
ずつ拝借仰せ付けられ、返上納の義は時の相場、金拾両に付、拾俵安
の積りを以って、上納仕り候様、仰せ付けられ候に付、拝領同前有難き仕合わせ存じ奉り候事。
その節、御代官松波五郎右衛門様、御米御渡し成し下され候事。
(つづく)

読書:「黒刺客 はぐれ十左暗剣殺 5」 和久田正明 著
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「駿府御城代々記」を読む 8

牧之原公園から金谷の町
大井川に架かる橋は、奥から新東名、国一バイパス、旧国一のそれぞれの橋

「駿府御城代々記」の解読を続ける。 
 
然るに、大納言殿、御子細有りて、
※ 「子細」とは、忠長卿発狂し、仕える者を何人も切り殺したという。
同八未年、江戸表へ御下り遊ばさせられ候。またその上、江戸より甲府へ
入らさせられ候。同九申年四月廿一日、諸大名方、江戸御城へ
召しさせられ、忠長卿御子細有りて、上州高崎の城主、安藤右京亮
御預けに相成り候由、御沙汰これ有り、御老臣様方より御申し渡し
これ有りけり。上使として永井信濃守、松平右衛門太夫、御目附
には川野茂左衛門、御代官衆弐人、下嶋市郎兵衛、打出重左衛門。
同十一戌十一日、忠長卿、於高崎に於いて御生害、御年二拾七歳。
※ 忠直卿、御生害は、寛永十酉年十二月六日。享年二十八歳。

当町中、御由緒の事
一 駿府町の儀は、恐れながら、
東照宮様御縄張りにて、鬼門除けをさせられ、末代まで土地は
※ 縄張り(なわばり)➜ 縄を張って境界を決めること。
※ 鬼門除け(きもんよけ)➜ 鬼門の方角(丑寅の方角)に神仏をまつり、災難を避けようとすること。
栄えを云わさせられ、その上、地子御免許仰せ付けられ、冥加至極、
有難き仕合わせ存じ奉り候事。
一 権現様、慶長十二未年、駿府御入国遊ばさせられ候御時、
町中名主ども御祝儀に罷り出、御白洲に於いて御目見え
仰せ付けられ、有難き仕合わせ存じ奉り候。其節、御祝儀として、御褒美
御銭壱貫文ずつ下し置かれ、並びに惣町中壱軒役に付、銭壱貫文ずつ
※ 壱軒役(いっけんやく)➜ 各家ごとに割り当てられる租税。
下し置かれ、有難く御収納来り候。
一 御年始並び五節句、毎月三日(さんじつ)御礼、町中名主ども参上仕る。
※ 五節句(ごせっく)➜年間の五つの節句。人日(正月七日)・上巳(三月三日)・端午(五月五日)・七夕(七月七日)・重陽(九月九日)。
※ 三日(さんじつ)➜ 江戸時代、毎月三日あった式日で、朔日と一五日と二八日をいう。
その外、御祝儀の節、恐悦申し上げ奉る事。
※ 恐悦(きょうえつ)➜ 目上の人の喜ばしい出来事を、自分も喜ぶという気持を表わす語。
(つづく)

読書:「殺される町 同心亀無剣之介 6」 風野真知雄 著
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「駿府御城代々記」を読む 7


夫婦でスマホ買替
壊れた自分のスマホと、女房のガラ系を
今日、島田のドコモショップで同時に買い替えて来た。
さて、色々な機能をどこまで使いこなすことが出来るだろうか。

「駿府御城代々記」の解読を続ける。
 
同六年申より、門奈(助)左衛門、山田清太夫、組同心百人、
伏見より遣わされ、駿城守護。寛永元子年まで御勤役。同二丑年正月
十一日、駿河大納言忠長卿、御入国、則(すなわ)ち、門奈(助)左衛門
山田清太夫、並びに組同心共に、大納言殿へ御附けに相成り、
駿河大納言忠長卿、駿河、遠江、甲斐、三ヶ国五拾万石
領するなり。御附け家老、朝倉筑後守。同三年寅六月、
※ 御附け家老(おつけがろう)➜ 江戸幕府初期、将軍家の連枝を大名として取り立てた際に、特に将軍から直接の命令を受けて、その者の家老に附属された家臣のことをいう。
将軍秀忠公御上洛。東海道行路(こうろ)を修し、驛場を
※ 行路(こうろ)➜ 行く道。道すじ。
(こしら)い、(こう)を埋め、高きを平(たい)らげ、川々は船橋を懸け渡し、
※ 睾(こう)➜ さわ(沢)。水辺の低地。
国主、城主の方々、用心堅固なる事、勝るべからざるばかり。中にも
※ 不可勝(まさるべからず)➜ 勝るはずがない。「まさるべからざる」で「最高の」の意。
駿遠は忠長卿の領所ゆえ、御馳走厳重なり。就中(なかんずく)
※ 就中(なかんずく)➜ その中でも。とりわけ。
大井川の節も、早瀬、浮橋を掛け渡し、平地を歩(あゆ)むが如し。
御供の諸侯、末々までも、往来随一の大難所、安々(やすやす)と渡り
し故、諸人忠長卿の御才智を感じ悦びける。然れども、
※ 才智(さいち)➜ 才能と知恵。
将軍家の御機嫌には叶いさせられず。その故は、箱根、大井川
と二ヶ所の難所は、要害第一の所成るは、東照宮、
※ 要害(ようがい)➜ 地形がけわしく守りに有利なこと。また、その場所。
兼ねてこの所を肝要に思し召しに、この度、浮橋を掛けられしは、
※ 肝要(かんよう)➜非常に大切なこと。最も必要なこと。
天下の要害を破り安き事を、諸人に知らしむるに似たりと有りて、
御賞翫(しょうがん)なしと聞く。
※ 賞翫(しょうがん)➜ ほめたたえること。
(つづく)
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「駿府御城代々記」を読む 6


雨のかなや公園
しばらくデジカメを使わなかったので、少し前の写真
隣りのかなや会館に「駿遠の考古学と歴史」講座、受講時

「駿府御城代々記」の解読を続ける。 
慶長五年、関ヶ原御帰陣より、 家康公、関
東は云うに及ばず、日本国中、御心に任せられざると云う所なし。慶長
六丑年、(中村)一学へ松平の称号、下し置かれ、松平伯耆守と号し、
伯州の国主に成り給う。依って駿城は内藤三右衛門信成に賜う。
同十二年、摂州高槻へ所替え、駿府は諸大名御手伝い
御普請仰せ付けられ、同十三年申三月、
大御所様御隠居、御座御移り、御移徙(いし)遊ばさせらるにて、
※ 移徙(いし)➜ 転居。引っ越し。
御祝儀厳重なり。但し、この前、慶長八年卯二月、家康公
牛車(ぎっしゃ)(くつわ)し、参内遊ばさせられ、この時、従一位内大臣、
※ 轡(くつわ)➜ 手綱(たづな)をつけるため、牛馬の口にかませる金具。あるいは手綱。
※ 参内(さんだい)➜ 宮中、朝廷へ出仕すること。内裏に参上すること。
淳和奨学両院別當、源氏長者、随身兵仗、右近衛
※ 淳和、奨学両院別當 ➜ 室町時代、三代将軍足利義満が、源氏の長者として、両院別当となってからは、足利氏および徳川氏累代の将軍が、将軍宣下とともにこの称を継ぎ、明治維新に及んだ。
※ 兵仗(へいじょう)➜ 武器を持った武官である随身(ずいじん)・内舎人(うどねり)の称。
大将、征夷大将軍任じらる。御歳六拾弐歳。
一 秀忠公、慶長十年巳四月廿六日、牛車にて宮中
へ参内、勅許(ちょっきょ)せられ、従一位内大臣、征夷大将軍に任じらる。
※ 勅許(ちょっきょ)➜ 天皇の許可。勅命による許可。
一 家康公、大御所様と奉称し、慶長十五年戌三月、
※ 奉称(ほうしょう)➜ 称し奉ること。
江戸城は秀忠公に御譲り有りて、駿府御城
へ入らせられ、御在座、御他界
※ 在座(ざいざ)➜ 在席すること。
※ 他界(たかい)➜ 死ぬこと。
東照大権現と号し奉る。元和二年、紀伊大納言へ駿城を
進ぜられ、同五年未年、紀州和歌山へ御国替え。
(つづく)
読書:「金の美醜 日雇い浪人生活録 10」 上田秀人 著
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