goo

秋葉街道似多栗毛17 三十丁目 - 秋葉山

(思い付いて、和室二タ部屋の畳、表替えをした)

「秋葉街道似多栗毛」の解読も今日で最終回である。やや問題表現も多くはらはらさせられたが、何とか最後まで来た。

ここを出、坂を登りけり。坂中の茶屋、あんころ餅の名物にて、女ども皆呼び込みて居る。通りながら見て、

   名物の あんころ餅は ちいさくて 呼びたつ芋が 声の大きさ

しゃれながら、段々と登りけるほどに、早くも三十丁目、富士見茶屋に至り、ここの女、真っ白く化粧をして、口紅粉青き程さしたるが、二、三人いでし。
「御早ようござりますお入りなされまし」という。両人、床木に腰をかける。ここは富士山真向いに見え、山々、谷々の風景、誠に云うべきもあらざる所なれば、弥二「こいつは気がはれて、いゝ所だ」

   富士見茶屋 月雪花に 事たりて 花のさかりも 雪は見えけり

はな紙にかき、もちを付けて、あたりの柱に貼り付くに、その歌かたわらに、年の頃六十ばかりの隠居、休みいたる。これを見て「はゝあ、面白い事よ。
ぶし付けながら、感心いたしました。とてもの事に。そっちゃの御人もどうか/\」北八「あい、わっちも一つ、やらかしましょう」

   塗ったりや 茶屋の女の 富士額 宝永山も むつくりとして

(隠居)「こりゃ、貴公様は余程の狂歌読みじゃ。御俳名はなんとな」弥二「わっちは江戸の寝ぼけの弟子のとぼけと申しやす」(隠居)「はて、兼ねて寝ぼけ先生が事は承知いたしたが、とぼけ先生はいまだうけたまわらず。はゝあ/\」と笑いながら、ここを立ち出でける。
※ 寝ぼけ先生-江戸時代中・後期の戯作者、文人、狂歌師。第一狂詩集「寝惚先生文集」で有名になる。

跡より、喜太八来りて、「御隠居様、おめい何かわすれ物はなかったか」
隠居「あい、わすれた。またよく思い付いて、忝けのうござります。おくれなされ」
北八「ほんまにおめい、跡でいうには、隠居様の餅の代をとったか、覚えがないが、わすれはせぬか、というたから、聞いて見たのさ」
隠居「それなら覚えがないから、ひょっと忘れたもしらぬ。おまいにやらずに、払いなされ」としやれをいゝながら登りて、(弥二)「やれ/\、御前の咄しで、もう秋葉山へ参りました」と定小屋へはいる。

両人「これは有難てい」とわらじをとき、うがい手水に身をきよめ、先ず、くわん音様、権現様へ参詣し、普請のけっかくなるを見廻り、下へおり、接待茶を呑み、しばらく休みながら、

   銭の話 無駄口も 今はしばらく どこへやら ここがちょうじょう(頂上と重畳)

それより台所の方へ行き、諸々見物し、釜の前の火箸などの大きなるを、珍らしく覚え、札を求めるまでに、筆を止めん。

   ぬったりや 茶屋の娘の 富士額媚 宝永山も むっくりとして

   名物と 人を呼びこむ 茶屋女 あんこねったと 口で丸ける


これにて、「秋葉街道似多栗毛」の読み終わり。目次ではこの後、鳳来寺から東海道の御油宿まで続く計画だったようだが、こゝで終ってしまった。明日からは「宗祇終焉記」を読む。短いものだから、7、8回で終ると思う。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

秋葉街道似多栗毛16  乾の渡し

(ムサシの散歩、土手の上の影)

秋葉街道似多栗毛の解読を続ける。

斯くて大日の立場も相過ぎて、若見平へ下りる。ここに大きい家あり。この内に年の頃十五六の美しき娘見えければ、
弥二「今夜は、喜太八、おいらぁ、この内に泊る」北八「旅籠屋でもないもの、泊めるものか」
弥二「おいらが泊ると云い出してからは、止めても泊る。止めいでも泊りて見せる。もし泊めぬ時は、軒下にこもを敷いても泊る。そうすると、あの娘が、あの人も軒下に寝さしては気の毒なと、男どもにたゝき出させるが、その時にたゝき出されるぶんの事さ」大笑いだと行く程に、気田川の渡し場にて筆をとめる。
            似多栗毛、弐編終

  似多栗毛   三編
神祇釋教恋無常、ちゃちゃむちゃにして、言葉のかけながしなる事、水の流れに似て、とどまる所もなし。うまみもおかしみもなきは、豆腐の吸もの似て、予が目くら蛇におじずと、己れが膝栗毛にまかせて、むしょうにはしるまゝに、乾川の渡し場の船へ入る。

この乗合の内に、年頃三拾ばかりにて、羽織を肩に懸け、男「おまえ方は御国はへ」と問う。北八「あい、わっちらぁ、江戸さ」
男「何と江戸に、近く珍らしい事はないかの」と聞くと、(北八)「ありやした、いろ/\ありやすが、その内で珍らしい事は、たいそうな力持ちが出ました。そのくせ親に孝々で、この夏も親仁殿が富士へ立願があるが、馬も籠も嫌いだから、船で行きていというと聞きなせい。俄に屋台船を拵らい、その中へ親父をのせ、大きな綱を付けて、引いたり、背負いたりして、富士へ登られたが、とんだ力持ちでねいか」と話すと、弥次は吹き出す程、おかしさをこらえて、跡から行く。

男「その噺しに付、今度秋葉様へ大きな臼が上ったが、行ってこうらじ。米
なら五俵程もつける臼だ」喜太八「何をつく臼だ。あかうすだろうねい」
男「あい、うそもついたり、餅もついたり」男「富士へ船を引いて登った人が、先日背負いて見えました。ハア/\/\」と笑いながら坂下に至り、喜八「一つてき、きめかけて行きてい。弥二さんどうだ」(弥二)「この内がよかろう」と茶屋へ這入る。

茶屋の女、茶を持ち来る。喜太八「茶はいらねいが、酒を出してくんねい」酒、豆腐の吸物を持って来る。この女、年の頃、廿三、四と見えて、せい小さく、顔はお亀の面のようなる。

喜八「おめいは善光寺さまの申し子なら、一寸八分いう物だが、秋葉様の麓だから三尺ばかりの御せいだねい」
女「あい、せいは小さくても、秋葉様の申し子で、御内陣が広いで、鼻高天狗様でも御祭りは出来ます」と、この噺を肴に酒も呑みしまい、ここをたちながら、弥次さん一首出来、また、

   身のたけは 三尺坊と 言う物の ちよっぽり鼻は いかに似ませぬ
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

秋葉街道似多栗毛15  小奈羅安泊り(2)

(庭のモクシュンギクの花)

少し空いたが、秋葉街道似多栗毛の続きの解読を続ける。

弥二、そろそろと出かけ、女の床へ這い込み、ぐづ/\と話をする。その内、勝手も静まり、寝る喜太八もそろ/\這い出行く内へ、勝手の女、男と寝て居たりしが、そっと起きてあとへ出居る。男ばかり寝て居ると、北八は女と思い、壱朱手に握らせ、中へ這入ると、男「これは朝でもよろしゅうござりますに、お茶代を有難うござります」と礼を言われて、

喜太八はびっくりして、逃げるひょうし、暗紛れに、小膳棚へ当たり、突き倒すと、膳棚のもの、ぐわた/\/\とみな落ちて割れる。この物音に家内中、目を覚まし、何事ぞと皆起きる。喜太八は漸々座敷へかえり、夜着の中へ這い入る。
※ 夜着(よぎ)- 寝るときに上に掛ける夜具。特に、着物の形をした大形の掛け布団。かいまき。

喜太八「とんだ目に逢った。男の所へ這い込んで、壱朱やったれば、これは朝でもえいに、寝所へ御茶代を忝ないと礼を言われて、逃げるとて、膳棚へ当たり、ぶっ砕きて、大騒ぎだ」弥二「しりがくるだろう」

北八「弥二さん御めえどうした。早かった」弥二「おいらがあんべいはよかったが、女の一けんへ手をやろうとて、つゝとやって見るれば、そこらあたりが何か出来物で、誤まる。おいらぁ、しょっては詰らぬから帰ろうと思うと、そのくせに女がひつこいやつで、いろ/\と云うから、しかたがねい。そこで外に断わりもゆえぬから、この間は瘡(かさ)であんばいが悪い。一夜ばかりで御前にうつしても気の毒だからとゆったれば、御遠慮なされますな。わしもちっとは持ち合わせがござりますという。大笑いだ」という所へ、

勝手より亭主来り、「御客、皆んな起きた。貴様達はとんだ手合だ。人の寝所へ来て、それ故、道具まで皆砕くはどういう理屈だ。挨拶によって、了簡せぬ」と大きに力む。弥次、いろ/\断りをいえども、聞かず。連れの女もいろ/\挨拶し、よう/\道具代金壱歩出し、あやまり事すめば、二人もつまらぬ目に合い、しばらく休みけるに、勝手もわれ物をかたづける。

夜も明け方に近ければ、そろ/\朝の仕度に掛りける。二人ながら寝入りもせずして、やがて起き上り居るに、朝めしも出れば、喰いしまい、いとま乞いもそこここにして、この宿を立ち出て、

    口先で にげんとすれば 膳棚へ さし当りたる 返事とうわく(当惑)

弥二 七重八重 ひざ折りて出す 山吹の 理のひとつだに なきぞかなしき
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

文化十三年、大井川満水あらまし - 古文書に親しむ

(二日続いた雨で、大代川の工事現場も休み)

午後、「古文書に親しむ」講座へ出席した。今日、解読した文書は文化13年(1816)の、おそらく台風の被害状況を金谷側から著したもので、公的な文書ではなく、個人的な記録なのだろうと思う。一見やさしいかと思ったが、中々解読の難しいところがあった。以下、読み下し文で示す。

文化十三丙子(ひのえね)年、閏八月三日朝より、少々雨降り、同夜大雨、大井川満水、通り路無し。翌四日辰下刻頃より、風吹出し、次第大風諸木を倒し、生木枝天に飛行し、誠に恐ろしき事、言語に述べ難し。見る間に、洞善院山にて大木の松三本倒れ、その外屋根を吹きまくり、家々に戸を繕い、突っ替え棒をし、空飛ぶ鳥も翻(はね)をふせ、地上に落つなどし、冷敷(すさまじき)事、言うばかりなし。

大井川堤より上へ水越し、窪所などは水上に瓢(ただよ)い、十一分に水増し、本道堤、水越すや否、大水押し来り、堤切れ、同所下七番同断、水勢すさまじく、八軒屋庵へ押し当る。もっとも危き事、風の前の灯し火よりいや増し、家々男女老若、家財をはこび、縁有るは、老若手を引き連れ、行違いするやと見る程に、漸く同日申刻にして、風止み下風ばかり吹く。
※ 下風(したかぜ)- 樹木などの下の方、地面近くを吹く風。

翌五日、大井川水引き候処、五尺余、見る間に引く。これにより、引き水にて二番堤危うし。馬指より右場へ防ぐべく、門役として申し触れ、家々より壱人ずつ出し、危き場所へ大木を振りなげなどし、また竹綱を拵えるも有り、篭を拵えるも有り、石などを持ち運び、漸く防ぐ。
※ 馬指(うまさし)- 宿場において、荷物を人馬に振り分ける役の内、馬に振り分ける者を馬指、人足に振り分ける者を人足指という。
※ 門役(かどやく)- 江戸時代,戸ごとに課せられた税。
※ 竹綱(たけつな)- 細い割り竹を綯(な)って綱にしたもの。


川水五尺余、一時に引きしは、下川大日村前にて切れ、大日の某大家などは蔵など居家へもたれ、出し(山車)の如くに成り、流れずに、依って水道二筋に分れしとぞ。駿河方にても、源助新田にて切れ、榛原通り大損じ。

且つ寔(まこと)にいたわしき事有り。同月一日、さくら明神へ詣でし人、駿府とも云い、江尻とも云う、定かに知らず。併しながら、流れ死は誠の由。死骸川尻へ上り候由。一両日も縁者の方に泊まり、曇天にて、雨も少々降りし故、出かけ候て、大井川満水の由承り、一刻も早く川を越ゆべしと、住吉辺りの縄手を通りしに、田畑をながれ高浪打ち、終(つい)におぼれ死したるとなん。

又川尻と云い、又住吉と云う、煎(焚き)物拾いに出でし所、大風にて松打ち折れしが、因果と拾い居りし者の上へ折れ押しになりしが、不意に折れし事なれば、左の足股よりとれ、膝ぶし近く砂へうまり有りしと云う。誠に痛ましき事なり。
※ 膝節(ひざぶし)- 膝の関節。ひざがしら。

さて、八軒屋並木倒れし数、大小三拾弐本。洞善院山、金性寺山にて、拾六本程。所々並木堤を覆(くつがえ)し倒せし事、数をしらず。天竜川通り懸塚辺りにて壱ヶ所、川下通りにて壱ヶ所切れし由。遠きはしらず。出で見る所々破損。言語に述べ起こし、又大井川出水は六拾余の人、未だ見聞かざる由、誠に増水拾壱分にて、堤、窪所は水乗り、往還より立つ浪見え、すさまじき事なり。あらまし図を略す。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

難解!一紙文書「御注文」 - 掛川古文書講座

(一紙文書「御注文」前半)

水曜日の掛川古文書講座、座学としては今年度最後であったが、途中で受講生から出された一紙文書の解読が残っていた。最後に、この文書を解読しようと試みたが、難解で、その場では、三割ほどしか解読できなかった。宿題として残されたので、帰宅後、さっそくチャレンジしてみた。分かった2、3割をもとに、少しづつ解読を進めると、少し先が見える、というくり返しで、何とか全文字を曲りなりにも解読し終った。以下に、解読したものと、読み下したものの両方を示す。

【 解 読 】
      御注文
一 古佛立像髪際而七寸阿弥陀如来惣躰
積上申処見合さい上ケニ仕候玉眼ホ
御開眼念入御身金鍍念入御衣惣金箔
漆し押し臺座右分通而窕成所見合
宜敷仕候下地塗り替へ惣金箔漆し押し
尚々金物ホ新シク仕替へ金めつきニ仕候
差後光右分通見合念入徒くろい可申候
中ニ霊胎申候惣塗り替へ表うら乃ミ
惣金箔漆し押ニ仕候跡事御注文以上
無相違念入仕立指上可申候
          見鋳物坂丁高岡助右衛門迠
来ル五月中ニ御出来ノ
御約束也
     代金弐歩 九百文
      為御手金 壱歩戌三月十四日ニ受取申候
  寶暦四年戌三月十四日
          京高倉通四条下ル町
          古佛師 半治郎左衛門
 掛川中町
   招屋市郎右衛門様  



(一紙文書「御注文」後半)

【読み下し】
      御注文
一 古仏立像、髪際で七寸、阿弥陀如来、惣躰
積み上げ申す処、見合わせ、再上げに仕り候。玉眼など
※ 積み上げ、再上げ - 見積りの事か。
※ 見合わせ -見比べる。対照する。

御開眼念入り、御身金鍍(きんめっき)念入り、御衣惣金箔
漆し押し、台座右分通りして、窕(うつくしく)成るところ見合わせ、
宜しく仕り候。下地塗り替へ、惣金箔漆し押し
尚々、金物など新しく仕替え、金めっきに仕り候。
差後光、右分通り見合わせ、念入つくろい申すべく候。
※ 差後光 - 光背のことか?
中に霊胎申し候。惣塗り替え、表うらのみ
※ 霊胎 - 胎内仏のことか?
惣金箔漆し押しに仕り候。跡事、御注文以上
※ 跡事 - 後事。あとの事。将来の事。
相違なく念入り仕立、指し上げ申すべく候。
                見鋳物坂町高岡助右衛門まで
来る五月中に御出来の      
※ 出来(しゅつらい) - 物事ができあがること。
御約束なり。
    代金、弐歩九百文
      御手金として、壱歩。戌三月十四日に受け取り申し候。
  宝暦四年戌三月十四日
          京高倉通四条下ル町
          古仏師 半治郎左衛門
 掛川中町
   招屋市郎右衛門様


一応解読してみたものの、そんなに自信はない。講座の出席者の参考になればと思う。特に固有名詞は確定が難しい。   
コメント ( 3 ) | Trackback ( 0 )

伊藤清次郎さんの「天災地変記録」 12 - 掛川古文書講座

(裏の畑のキンカン、半分に切って、種をほじくりだす
そのママ生食すれば、甘くて美味い。少し硬いのが玉に疵。肥料がくれてないからだろう)

昨日の続き、明治の「天災地変記録」である。

一 明治五未(申)年、正月寒気強し。伊井の谷宮、御新築に成る。二月十二日より十五日まで、御祭典御修行。四月、大宮御所様、東京へ御下り、天子様御母公様と申す。
※ 大宮御所 - 太皇太后または皇太后の御所。

掛川紺屋町へ補亡方御役所建つ。村々収納、嘉永五年より明治五年未(申)年まで、二拾ヶ年取り調べ出す。五月八日、僧侶、肉食妻帯仰せ出さる。廿三日、天子様、御船にて大坂並び、中国へ御巡幸。大神宮様御祓い、初めて改まる。壱戸壱枚ずつ、戸長役場より村々役人へ渡る。村役人はこれ毎戸へ配布す。
※ 補亡方御役所 - 警察のようなものであろうか。

七月廿一日、中水、善光寺下水丈が八、九尺ばかり、年以来の大水なり。四月頃より世界に箒星出て、国に害あると人皆云えど実を知らず。八月、田園調べ仰せ出さる。九月、掛川出張所御廃しに成る。九月一日より東海道へ電信線を張る。掛川御城内、御殿及び御蔵、その外立木まで御払いに成る。田畑の名称を廃止て、すべて耕地と唱うべく事、仰せ出さる。石高を廃止て反別相用い申す事、仰せ出さる。僧侶苗字を相設け候様、仰せ出さる。修験宗廃止の事。大陰暦を廃し、大陽暦に改むる。十二月二日、日坂八幡社にて、御祓いの御神事あり。毎戸参詣行くべき旨達せられ、過半参詣に行く。

明治五年十二月三日をもって、明治六年正月元日と弥々改む。また正月と云うを廃して、一月と云う。大陽暦と相成り候。明治六年一月一日と成る。年頭も途中にて、村方ばかり致す。村入用及び庄屋払い、その他勘定は、一月三十一日までに勘定致す事に相成り候。小作年貢も同断の事。田園調べ方、種々振り合い替わる。日延べ願いだす。

四月三日、神武天皇様御祭り、初めて熊野三社にて修行す。村方若者連中と言うを廃止す。七月、田園調べ御厳重に仰せ出さる。もっとも、この度の田園調べは、明治三年の田園調べとは、田畑、宅地、山林、雑種地、及びその他残らずだけ量り、坪詰め地形を改め、野取り絵図面地位の等級、地続き付など中々むずかしく、浜松県庁へ出頭する事、その数知れず。また振り合い替りて、失えし事も尠なからず、本年世の中、上作なり。


さすがに明治の初めで、次々の改革が矢継ぎ早に出されている様子が分かる。この後も「天災地変記録」は明治19年辺りまで続くが、講座で読むのはここまでで終った。テキストはあるので、いつか個人的に読んでみたい。
コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )

伊藤清次郎さんの「天災地変記録」 11 - 掛川古文書講座

(ムサシの散歩の影)

掛川古文書講座に出席する。先月に続いて、伊藤清次郎さんの「天災地変記録」の明治の分である。

天子様御東幸仰せ出され、いよいよ三月御幸輦に相成り申し候。三月御幸輦に相成り、徳川様御役人方、壱町間に御壱人ずつ、麻上下にて御立ち並び、御警固遊され候。御奉行内藤七太郎様、その外、地方役所より御役人、皆々御出張り。四月廿二日大水、善光寺下、水丈六、七尺。

五月、奥州脱走平定の風聞有り。五月廿日、これより凡そ四十日、雨天続き、冷気にて綿違作。七月十三日、烈風吹出し、大雨大満水、善光寺下水丈、凡そ壱丈ばかり。廿四日頃、雨降り田畑とも違作。その内、綿大違作にて、過半、穂をこぎ申し候。九月一日、中水。官軍、奥州平らげ登る。町役毎日当たる。九月、十月雨天がち、水あり。

明治三午年二月九日朝、原川土橋まで、中泉様御支配所、井通り村々より、人数八、九百人、靜岡へ蓑のかぶりに参り候ものの由。三月十六日、中水、善光寺下水丈六尺。七月廿一日大降り、善光寺下水丈七尺。九月八日朝より、東風大きに吹き、また西風成りて強し間に潰家あり。並木ころぶ。大水出る。善光寺水丈七、八尺。また十八日大風雨、同所水丈七、八尺。納米廿分一の積籾する。御上様にても、廿分一の積籾する。これは萬民御助成の御思し召しと云う。本年七、八月の風雨にて、違作と成り、御検見に相成り申し候。
※ 蓑かぶり - 百姓一揆の一種。
※ 積籾(つみもみ)-納米の一部免除をして、飢饉に備える、減税の一種。


一 明治四未年一月一日より、中頃まで寒気強く、氷る事珍しき事なり。七月、岡津村大庭文右衛門方へ、靜岡御役所より、水利御役人、内田少属、倉橋史生と言う御方、ご両人、善光寺下乗り水御見分として、御出張り、逆川筋御見分の上、当梅橋村字かやの木坪、及び字高畑より新堀へ、二ヶ所瀬違えの御談示あり。

度々、岡津村御宿、大庭文右衛門殿方へ行き、二ヶ所だけの瀬違えにては、梅橋田面尚々水入場と相成り、迷惑の旨申し上げ、何卒その一ヶ所、瀬違え致し、原ノ谷川落口まで、真っ直ぐに相成り候様、願い出で候所、その義、むずかしき趣に付、然らば、梅橋田面字稗田より、下石野村境まで大丈夫成る堤防、新築相願い候旨出願致し候処、これは御聞届け成るべく候えども、その後間もなく、御二方静岡へ御引取りに相成り、右の瀬違えは御流れに相成り候。七月十三日、大満水、善光寺下水丈八尺。

八月十九日、社寺境内上地の御見分来たる。この時、前々境内の内、上地と現境内と境杭を打ち、徳川様御領地上地し、浜松へ県立たむ。諸大名残らず上地と相成り、王政復古御一新と相成り候。
※ 上地(あげち)- 上知。江戸時代,幕府が大名・旗本・御家人から,また大名が家臣から,それぞれの知行地を没収すること。また,その土地。
(続く)
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

秋葉街道似多栗毛14  小奈羅安泊り(1)

(庭の鉢のビオラ)

秋葉街道似多栗毛の解読を続ける。似多栗毛も残すところあと4回、実際にはすでに読み終えた。次の古文書は「宗祇終焉記」を選んだ。短いもので、くどかった似多栗毛の口直しといった気持である。

ほどなく、田能の村、信濃茶屋にいたる。日も西山に傾き、夕暮れ近くなるに、この茶やの床机に、年の頃はたちばかりの女、風呂敷包みを持ち、休み居りける。弥次、見付けて「これ女中さん、おめいは何所へ行きなさる」女「はい、わたしはふもとまで参ります」
※ ふもと-秋葉山のふもとのこと。
弥二「おいらも、行きていが、今日は行けめえ」
女「はい、わしもこの先に泊りて行くつもりでござります」

弥二「それなら、わっちらも泊るから、晩まで一つ所に参りましょう」と、ここを出、段々四方山の話をして行くと、この女、坂下より森までの旅籠屋へ奉公に出ていたる、おなべと云う者にて、やぼでなければ、この女を手に入れんと、祝いながら行くともなく、はや小奈羅安に付きければ、
宿引「御泊りなら、御宿を御頼み申します」と付いて、「さあ、旦那方、この内でござります。おたこ、御泊り様だ。御茶を持ってこい。」
※ 祝いながら - 少し違和感があるが、意味としては、「めでたい物事を喜びながら」でよいと思う。

両人「御世話に成りましょう」と腰をかける。女茶をくんで来る。足の湯を出す。二人、足を洗い奥へ通る。連れの女、勝手へより、何やら咄して居る。下女、座敷へ火を持ち来て、「風呂が宜しくござります」という。弥二、湯へ行き入りて帰る。喜太八、また湯へ行くと、女来りて湯を聞く。

北八「これ女中さん、頼みたい事がある。外の事でもないが、今夜ここに泊るというも他生の縁とやら。おめえ、どうかしてくれる気はねいか。そのかわり只は頼まぬ。わっちのとこへ来てくれねいか」と云う。
下女「わしは御寝間へは行かれぬで、わしが寝所ならお出で」という。喜太八
「ありがてい、必ず」と約束をする。下女「宜しくござります」と笑いながら行く。

北八、湯より上り座敷へ帰る。弥二「何か話したな」喜太八「ちゃんと咄し合いを付けておいた」と、その内に膳も出る。夕飯も喰いしもうと、女、膳を引く。

最前の女、来る。北八「弥二、何んと酒でも呑むまいか」と亭主を呼び、酒の肴を調いて、酒を呑み、おたこ来りて酌をする。段々四人にて、さいつおさいつ呑む内に、両人もいろ/\しゃれ、一夜つき合い、恥のかき捨て、荒々相談も決まると、酒もつきると、それより床を延べ、二人とも寝る。連れの女、次の間に床を敷きて寝る。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

鳴り物御免の儀 - 駿河古文書会

(蕾をもたげる、庭のクリスマスローズ)


去る頃、御中陰明け。その砌、所作に致し候、鳴り物御免遊ばさせられ候。これは先格にて御触れに御座候。慰みに致し候鳴り物御免の儀、
先年より御座なく候。盆中に至り候ても、子ども等おどりなど、
御座なく候。慰みの鳴り物までも苦しからず候。右の段、御当番様より、
年行持心得を以って相触れ候様に仰せ付けられ候、以上。
     申七月十五日        年行持

※ 中陰(ちゅういん)- 人の死後、次の生を受けるまでの間の状態。また、その期間。日本では四十九日とする。
※ 所作(しょさ)- 仕事。職業。
※ 先格(せんかく)- 先のきまり。


正徳六年(1716)四月三十日、七代将軍家継が八歳で早世する。3ヶ月後、年号が改まって、享保元年八月に八代将軍吉宗が就任する。この御触れは家継の四十九日の喪が明けた後に出されたもので、鳴り物を自粛はそれを生業としているものに限っており、盆踊りなど子供たちの楽しみにしているものまで自粛したわけではないと、弁解がましい御触れである。おそらく盆踊りの実施について問い合わせがあったために出したものと思われる。どちらにしても既に喪が明け、自粛期間は終っている。

この御触れを写した部分に、19年後の享保十九年(1735)に、以下の付け紙がされている。(付け紙は、別紙に書いて、文書の上に上辺を張り付けておくもの)

書き添え差し上げ申し候
廿日會、内触れの義、前々の通り、拙者どもより差し出し申し候。御番所様よりかつて仰せ付けられ候儀にては御座なく候。家臺(屋台)にても出候町も御座候えば、早速相伺い候ため、触れ書差し出し申し候。殊に、去年は格別の世柄(よがら)にて、余り麁末なる義にて、町方衰徴仕り候間、何とぞ先々の通り、練り物などにても、宜しき御座候えば、所々より人も入り込み申し候に付、潤(うるおい)にも罷り成り候間、兼々惣丁頭ども申し合いにて御座候。則ち内触れ写し、右の通りに御座候、以上
  享保十九年寅二月廿四日        両替町四丁目
                       年行持  吉右衛門
                      同 五丁目
                       年行持  与兵衛
                      同 六丁目
                       年行持  清兵衛
     御番所様


享保十九年に音曲自粛をするべき何かがあったので、過去の資料を探し出して、この付け紙がされたのだろう。「去年は格別の世柄」とは何の事を示しているのか。まだ吉宗の治世が続いており、喪に服するようなことは発生していない。調べてみると、享保十七年、十八年と凶作で、享保の大飢饉と呼ばれて、一揆なども頻発していた。このような「世柄」に、駿府の町衆のお祭り、廿日會について、自粛の議論が起きたのであろう。音曲自粛は、いまだかつて、役所の指示で行ったことはなく、あくまでも年行持の判断で行ってきた、そんな経緯を改めて確認している。

東日本大震災後の平成の庶民たちの自粛の反応を見ていると、江戸時代と何も変わっていないと思う。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

鐘楼と鐘撞き居宅修繕のこと(続き) - 駿河古文書会

(散歩道の白梅)

昨日の続き、かねつきに関わる覚書三通である。

       覚え
一 先日相触れ申し候、かねつき堂、並び、かねつき居宅修覆の義、取り掛り申し候。これにより、右入用金、壱軒役に付、三十壱銭ずつの積り、明五日より八日までの内、年行事当番、呉服町四丁目惣十郎方へ、持たせ遣わさるべく候。前方、申し進じ候通り、重き集銭、別して御世話に御座候へども、何とぞ丁頭衆御働きにて、右の日限、相違なく遣わされ候様に、頼み入り申し候。以上。
     申三月四日        年行司

       覚え
一 かねつき堂、並びかねつき居宅修覆に付、惣町中、家壱軒より三拾壱銭集め、町数合わせて九拾三町、家数合わせて弐千弐百弐拾壱軒半、この集銭〆て七拾壱貫七百丗五文。
       この払い方
              銭相場三貫百六拾四文替え
一 金弐拾壱両三分と五匁 右両所修覆請負金高払い
        この代、弐百五拾文
一 銭壱貫六百五拾文  仕用帳の外入用
一 五百文       撞木、柳 壱本代
一 五百文       同つりなわ代、かねつき両人へ渡す
             但し右撞木一代、請負候
〆て、金弐拾壱両三分、銭弐貫九百文
  指し引き三拾七文不足、これは右請負方へ引
  払い、惣躰出入これ無く候。

右品々請け取り證文、並び集帳ともに封印仕り、年行持箱へ入れ、次へ相渡し申し候、以上
  正徳六年申年三月    札之辻町
              呉服町四丁目
               同 五丁目

       覚え
例年の通り、鐘つき給、壱軒役に八文ずつ集め、鐘つき方へ遣さるべく候、以上
     申六月廿一日


「一軒役」とは何か、という疑問が担当より出された。常識的にはその名前から一軒に付きいくらの負担をするという意味で、我々の町内でもそれに近い負担は幾つかある。ただ、駿府の町の一軒役とは、そういう一軒毎の負担とは違うという。

おそらく、駿府の町を区割りしたところまで遡ると思うが、一軒ごとの区割りが決まり、当初、それが一軒役の基本となったらしい。それから時代が移り、勢いのある商家は周りを買い取って大きくなるから、一つの商家で何軒役も持つことになるし、屋敷を半分に分けると半軒役の家も出来る。なお、一軒役を負担するのは、家持ちの商人だけである。長屋住まいの職人などはこの負担はしない。なお、丁頭をすると一軒役の一部が免除される。

先日まで読んできた、駿府商人、松木新左衛門始末聞書には「丁役は十一軒役なり。内二軒は手前丁頭を勤むるゆえ、丁役を除く」という記述があった。この丁役が一軒役に当たると思われる。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 前ページ 次ページ »