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「松平記 巻五」の解読 1

(散歩道のアジサイ その1)

南九州で、今日梅雨入りした。こんな年でも、季節は確実に移っている。しばらくは、色々なアジサイの写真を載せる。それぞれに名前があるのだろうが、調べるのが大変なので、ナンバーを振って行こう。

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「松平記 巻五」の解読を始める。

  松平記 巻五
一 家康の惣領、竹千代を信長の聟になされ、互いに御入魂(じっこん)にて、御合力(ごうりき)と聞こえし。
※ 入魂(じっこん)➜ 親密であること。昵懇。
※ 合力(ごうりき)➜ 力を貸すこと。助力すること。


一 元亀元年(1570)四月廿日、信長、近江路より若狭に懸り、同廿五日、越前敦賀へ働き、手筒山の城を攻め落し、金崎城を攻め落す時分、浅井(あざい)備前守、逆心起し、跡を取り切ると聞き、早々家康を跡に置いて、同廿七日、(よい)の間に引き取り給う。家康これをば知らず。木下藤吉を御同道成られ、静かに退(の)かせ給えども、御運や強かりけん、北国の敵、さのみ(した)申さず。信長は朽木越しにかかり、同晦日(みそか)京着(きょうちゃく)ありしなり。
※ 霄(よい)➜ 宵。よる。
※ さのみ ➜ それほど。さほど。
※ 慕う(したう)➜ 逃げる相手を追う。
※ 京着(きょうちゃく)➜ 京都に到着すること。


同六月九日、信長、浅井(あざい)追討のために、近江へ出張。同廿一日、小谷(おだに)へ押し寄せ、城下に放火して引き取り給う。また横山城に野村肥後守、同兵庫、双(なら)び篭(こも)りしを攻め給う。酒井(坂井)父子一万騎にて後詰(ごづめ)有り。朝倉も加勢し、大寄山に向いて対陣。同廿七日夜、戦(いくさ)評定有り。越前衆に向いて、一番柴田、明智、二番家康、三番稲葉一鉄。浅井衆に向いて、一番坂井右近、二番池田。横山城主押えに、丹羽五良左衛門と定められ、家康聞(きこ)し召(め)し、一番合戦ならば向き申し候。二番には如何(いかが)と、相論じこれ有り。信長聞し召し、もっとも、一番合戦、家康成され下さり候え。北国の一番、家康衆に定めらるゝ。
※ 後詰(ごづめ)➜ 先陣の後方に待機している軍勢。予備軍。

廿八日早天に、越前衆、姉河を越えて、家康と競り合いを初め、本田平八衆、大久保治右衛門衆、両人一番掛かり、三番に、家康旗本を、かくべしと(も)み立て給うゆえ、越前衆、悉(ことごと)く討ち負け、虎御前山まで追い討ちになされ、この時、敵二人紛れ入り、家康へ近付き申し候を、天野三兵、組討ちに致し、類無き高名有り。一人、敵は退(の)き申し候。
※ 早天(そうてん)➜ 早朝。
※ 揉み立てる(もみたてる)➜ 激しく攻めたてる。

(「松平記 巻五」の解読、つづく)

読書:「彦四郎奮戦 剣客春秋 9」 鳥羽亮 著
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「松平記 巻四」の解読 14

(散歩道のイカダカズラ、一昨日撮影)

「松平記 巻四」を今日で読み終えるが、時代が遠州が舞台の元亀、天正の時代にならないので、もう少し先、「巻五」を引き続き解読しようと思う。

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「松平記 巻四」の解読を続ける。

一 花沢落城しければ、大原肥前守子息、三浦右衛門佐は高天神の小笠原、日比(日頃)、駿河へ出仕申し候時分、大原が手につき、奏者(そうしゃ)に頼み、万事かれを頼(たよ)りし(ちな)ありしかば、大原父子、これを頼り、真虫塚(蝮塚)へ来たりて、家康へ出仕(しゅっし)申したきと、妻子まで同道致し、参り候えば、小笠原美作守如何(いかが)思いけん、大原父子を討ち殺し、その首を取り候て、家康へ進上申し候。これは、家康と氏真の、先年不和に成り給いし時、この大原父子が仕方悪しきと、家康腹立てありしを存じ候て、かくの如く致し候えば、家康は、さりとては、小笠原情(じょう)なしと仰せられ候なり。
※ 奏者(そうしゃ)➜ 武家で、取り次ぎをする役。また、その人。
※ 因み(ちなみ)➜ 関係があること。ゆかり。因縁。
※ 出仕(しゅっし)➜ 勤めに出ること。仕官すること。
※ さりとては ➜ そうかといって。それにしても。


一 氏真はまたぞろや、岡部が心替わり致し候故、御舘を信玄に取られ、是非に及ばず、小田原を頼り候て、小田原へ入り給う故、早河に屋敷を構え、氏真を置き申さる処に、信玄、三増の合戦に勝ち、その勢いに御舘を取り返し、その上、手を入れ、小田原と御無事に御成り候間、小田原の信玄に負け、則(すなわ)ち、(あつか)相済み、信玄と一味成され、剰(あまつさ)え信玄、小田原を頼み候て、氏真を討ち申すべく由謀(はか)り、信玄より、忍びて追々に人数を小田原へ越し候由、申され候間、氏真の御前は氏政の姉にて御座候、大いに腹を立て、小田原に在り合い候譜代衆を集め、早河より船を出し、白昼に小田原を退き、遠江国へ上り、家康を頼み給う。
※ 是非に及ばず(ぜひにおよばず)➜ どうしようもない。しかたがない。やむを得ない。
※ 無事(ぶじ)➜ とりたてて事のないこと。平穏であること。平和であること。また、そのさま。有事に対していう。
※ 扱う(あつかう)➜ ある身分・役割・状態にあるものとして遇する。
※ 御前(ごぜん)➜ 近世、大名・旗本、また、その妻を敬っていう。ここでは氏真の妻。


家康、数度の約束これ有り候上、また氏真御座候えば、今河家の侍、遠州、駿河の人々、いよ/\家康へ親しみ、また北国の輝虎と氏真、入魂(じっこん)筋目(すじめ)有り建てしかば、氏真を、浜松に屋形を立て、御舘(たち)と名付け、家康しきりに賞翫(しょうがん)ありしかば、諸人、家康義理の達したる大将なりと、弥(いよいよ)親しみけるとぞ聞こえし。
※ 入魂(じっこん)➜ 親密であること。昵懇。
※ 筋目(すじめ)➜ その筋の方面。関係のある方面。縁故。
※ 賞翫(しょうがん)➜ 重んずること。尊重すること。

(「松平記 巻四」の解読終り。引き続き「巻五」の解読に入る。)

読書:「青蛙の剣 剣客春秋 8」 鳥羽亮 著
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「松平記 巻四」の解読 13

(夕方6時の虹)

午後3時頃から、夕立で冷気が入って、半袖では肌寒い天気であった。当地の上空だけ、黒い雲に覆われて、南、東、北の空には青空が見える。夕方には雨も止み、西の空にも青空が見え、太陽が顔を出した。同時に、南東の黒雲をバックに虹が出現した。よく目を凝らすと、外側にうっすらともう一重(ひとえ)の虹が見えた。

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「松平記 巻四」の解読を続ける。

信玄中々手をとり、鉄山和尚という僧を頼み、岡部方に色々と(あつか)。今河衆、岡部を初めとして、篭る侍を皆な三十倍の加増を出し、信玄へ罷り出、御舘(たち)を渡し、岡部次良右衛門、三百貫取りしを、信玄三千貫給わり候の間、岡部兄弟、大欲(だいよく)にふけり、主の御名代に、御舘にありながら、信玄と一味の事、寔(まこと)に無念の次第なり。
※ 扱う(あつかう)➜ ある身分・役割・状態にあるものとして遇する。
※ 大欲(だいよく)➜ 強い欲望。


さて、信玄山面(やまつら)の花沢へ出られ、城を相渡し候えと申し越し候えども、中々聞かずして、城を堅固に持ち候間、則ち、岡部次良右衛門先懸けして、正月廿六日、信玄、花沢に於いて合戦す。然る処に、信玄の内、名和無利之助と申す者に、先手をせよと云えば、中々鉄炮きつくて、先手は叶い難しと申す間、その時或る者、無利之助方へ申し送る。
  無理之助 道理之助に 名はなれや 無理なる事を する身でもなし

一 城中より、大原が甥、大原源之丞。大平久右衛門、大原権右衛門、奥原作太輔、井伊弥五良、松森豊三など云う者ども、討って出て、甲州衆と鑓を合わせ、終日合戦。この時、今河殿同朋(どうぼう)、伊丹権阿弥と申す者、代々今河家の者なるが、法師なれども武篇(ぶへん)よく心得、甲州衆を切り立て候故、この城落ちて後、信玄方へ侍(さむらい)になし、伊丹大隅(守)と申す。先手の大将仕り候なり。今河家には、かようの法師まで武勇ありしかども、氏真運尽き、家を失い給う事、是非なき次第なり。
※ 同朋(どうぼう)➜ 同朋衆。室町幕府以降の職名。殿中の雑役に従事、芸能関係についての将軍の顧問的な役も務めた。阿弥名を用い、僧体。相阿弥、世阿弥など。
※ 武篇(ぶへん)➜ 武道・武術に関する事柄。武事。

(「松平記 巻四」の解読、つづく)

読書:「初孫お花 剣客春秋 7」 鳥羽亮 著
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「松平記 巻四」の解読 12

(裏の畑のムラサキカタバミ)

午後、女房と散歩に出る。日限地蔵や放光神社に詣でる。祈願はもちろん、「コロナ退散」である。

NHKの心旅の正平さんが、畦でノビルを掘って、これは都会では高級食材だと語るのを見た。ノビルといえば、裏の畑に、昔、大代川の土手で採取して植えたものが、あちこちに種を飛ばし、増えているのを思い出した。植えたけれども、今まで食べたことがなかった。さっそく一本採ってきて、丸い根をから揚げにして、塩を振って食してみた。ゆり根のような触感と味で、これはいけると思った。明日、もう少し採取してみようと思った。

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「松平記 巻四」の解読を続ける。

一 駿河をば信玄取りしが、程なく取り返し無く、無念に存じ、小田原へ寄せ申し候。然れども、八王子口はかたく守り候間、押し通る事ならず、碓氷(うすい)より人数を越し、武蔵を押して小田原へ来たり。一色、酒匂(さかわ)の宿を焼き候えども、小田原より人数を出さずして様子を見申し候処に、頓(やが)て引き返し、八王子海道を甲州へ皈(かえ)り候処に、小田原衆、信玄を押し留めんと、跡より我ましに懸り候を見て、三増と申す山に、信玄(さぶら)掛り、小田原衆ばら/\に掛り来るを見済まして、山より一面に懸り候えば、小田原衆悉(ことごと)く崩れ、先手皆追い討ちに討たれ候。氏政も大勢にて、萩野と申す処まで御出成られ候の処に、信玄早々八王子まで引き入れ候故、氏政御皈り成られ候。八王子の戦いも信玄攻め候えども、北條陸奥守、突いて出、合戦いたし候間、叶(かな)わず引き払い、甲州へ退き申し候。
※ 侍う(さぶらう)➜ 様子をうかがい、好機の到来を待つ。

一 小田原家老衆申すは、氏真へ御加勢として、関東の衆、皆な駿河へ過半参り、人数なく候を存じ、信玄、小田原へ寄せ申し候処もっともなりとて、駿河の城々を明けて、皆な小田原へ皈り候。これを聞きて、信玄頓(やが)て駿河へ押し来たり候。然れども、蒲原城には未だ小田原衆残り、大将は北條新三良とて、見庵の御(そく)五百人ほどにて固め給う。信玄、府へ通りを遮(さいぎ)り、道に突いて出て、晴れなる合戦成られ候時分、城中に降参の者出来る。敵を後ろの山、観音堂道より引き入れ介る間、新三良ここにて討ち死に成され候故、信玄、府中へ通り候なり。府中、普請最中にて、岡部次郎右衛門兄弟、普請奉行として、今河衆五十人篭(こも)り候えども、信玄の大勢押し来たり御舘とらんと一日一夜攻め候えども、中々持ち堪(こら)え、少しも取らるゝ事なし。
※ 息(そく)➜ こども。むすこ。
※ 晴れなる(はれなる)➜ 晴れがましい。表向きである。

(「松平記 巻四」の解読、つづく)
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「松平記 巻四」の解読 11

(裏の畑のウツギの花)

花盛りなのに、名前が判らないので、ネットで探しまくって、漸く、ウツギの花だと知れた。気が付けば散歩の途中、あちこちに咲いていた。植えたのか、種が落ちたのか、不明だが、随分と大きく育ち、突如、その存在を主張し始めたといった所である。

テレビにはもともと見たい番組はほとんどなかったのだが、最近はコロナと再放送ばかりで、つまらないことこの上ない。それで、この頃、NHKラジオの「聴き逃し」で、ラジオドラマ、朗読、文化講演会などを探して聞いている。これが結構面白い。このブログの最後に、その記録を採ってみようと思う。

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「松平記 巻四」の解読を続ける。

一 家康、三河勢を以って堀河の一揆、御退治なされ、このかき上げ堀は塩(潮)の差したる時は、船にて自由に出入り、塩(潮)引きには唯、一方口にて出入叶わず。しかるに、彼ら運尽き、塩(潮)大干(だいかん)にて、出ずべきようなし。一揆ども残らず討ち捕らるゝ。三河衆も、平井甚五良、大久保勘十良、小林平太輔らを初め、能き侍十六人、討ち死に致すなり。
※ 大干(だいかん)➜ 大引き潮。

一 この返りに、家康、山本帯刀に仰せ付けらる。見付に縄張り仰せ付けられ、御城取り立て候えども、悪しき城なりとて、引間の城、浜松に御城御移しなされ、御普請なされ候なり。

一 その年巳正月、京には、六条本国寺と申す法花宗の寺に、義昭卿御座候を討ち申すべくとて、三好山城守笑岩斎、同下野守釣閑斎、同日向守、同為三、斉藤右衛門太由(右兵衛太夫)、松永弾正等勝の家原の城を攻め落し、同五日、本国寺を取り巻き、その勢一万余騎、公方衆小勢なりといえども、身命を捨て防ぎ候間、三好方の随分の侍十八人討ち死に、同六日に伊丹、池田、和田伊賀守、三好左京太由(太夫)、公方の御方として、後詰めのために、上西岡桂河にて合戦し、三好方敗北して、能き侍三千程討ち死。

一 同十一日、信長、大きに驚き、上落有り。

一 同年卯月六日、室町殿御所、普請出来(しゅったい)し、公方御移り、仍って御祝儀、また去年より御座候六條本国寺中の坊中まで残らず破り、近衛殿へ御遣し、義昭卿御座候御座敷も、近習衆の屋敷に下され候。この寺久しく御宿を仕り、御感に預かるべくと、諸人存じ候えども、法花宗行義(行儀)良からず。何事にか、上意に背き、かように成られ候や、審(つまびら)かならず。但し、この寺、松永崇敬の寺なればにや。
※ 崇敬(すうけい)➜ あがめうやまうこと。尊崇。

(「松平記 巻四」の解読、つづく)

読書:「武士の流儀 1」 稲葉 稔 著
NHKラジオ文化講演会:「今時の日本語」 講師 金田一秀穂
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「松平記 巻四」の解読 10

(散歩道のヤナギハナガサにモンシロチョウ、5月24日撮影)

静岡の駿河古文書会から郵便が届き、講座の再開が10月になると連絡があった。年配者が多いので慎重になられていることはわかるが、半年間の中止は少しつらい。同様の思いは多くの会員にあるのではなかろうか。決まったことはしようがない。当分は金谷とハリハラの講座に集中しようと思う。

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「松平記 巻四」の解読を続ける。

小倉内蔵助、家康へ参り、御起請(きしょう)申し受け、御和談に成り、駿府へ御皈(かえ)りの後、永代、御無沙汰申すまじくとの儀にて相定め、懸河をば、家康へ御渡しなされ、小田原と二旗(にはた)にて、駿河府中の敵を追い出し申すべくとの儀にて、この由、小倉を御使にて、三島に御座候、氏政へ仰せ越さる間、御迎えに参る。
※ 起請(きしょう)➜ 自分の言動に偽りのないことや約束に違背しないことを、神仏に誓って書き記すこと。また、その文書。
※ 二旗(にはた)➜ 徳川と北條の旗。ここでは、両者が協力することを示す。


五月廿六日に、掛塚より御船にめし、家康より松平若狭守(これは、東條殿家老、松平弥左衛門が父なり)を付けて、伊豆の戸倉へ氏真を送り奉る。朝比奈備中守は、家康へ召し出さる。さてまた、御約束の如く、小田原より御出張成され、氏政と信玄、薩埵山にて百日対陣成され、日々足軽競り合いの処に、家康の先手、駿府へ攻め来たり。山縣三郎兵衛が留主に罷り在り候を、追い落とし候間、信玄この由を聞きて、両方より敵を請けて、中々叶(かな)いまじきとて、甲州へ山越しに引き入れける。

一 氏真は、小田原と家康、両人御願い故に、二度駿府へ皈(かえ)り給う。然れども、御舘(たち)焼ける間、阿部大蔵少輔、森河日向守、久能弾正、小倉内蔵助に、御普請を仰せ付けられて、その出来(しゅったい)する間は、戸倉の城に御座有るべく由にて、また御船にて戸倉へ御座候。その後、岡部二良右衛門、同弟治部右衛門、兄弟普請奉行に御舘(たち)へこし、小倉内蔵助などは戸倉へ参るなり。

一 その年の四月、家康も御皈(かえ)り成られ候処に、大沢左衛門尉が内衆ども、去年より浪人して居たりしが、尾藤主膳、村山修理大将にて、堀川の城に一揆を起し、家康の御皈りを待ち掛けたり。家康、夢にも知らずして、七騎にて御通り成られ候。一揆ども定めて雑兵と存じ、おめ/\と通り、御跡に石河伯耆守通るを見て、さては先のが、家康にてありし。安く討ち捕るべきものをと、後悔すれども叶わず。兎角(とかく)、家康、御運強くありし故なり。
※ 定めて(さだめて)➜ 必ず。きっと。まちがいなく。
※ おめおめと ➜ 恥ずべきことと知りながら、そのままでいるさま。また、恥とも思わないで平気でいるさま。
※ 兎角に(とかくに)➜ いずれにせよ。何はともあれ。

(「松平記 巻四」の解読、つづく)

読書:「ラストライン」 堂場瞬一 著
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「松平記 巻四」の解読 9

(裏の畑のアマリリス)

気が付いたら、アマリリスの上に刈った草が被さっていて、それを退けたら花が咲き出した。花が傷だらけなのはその所為であろう。

夕方、緊急事態宣言の全面解除の発表があった。と言っても、すぐに、元の生活に戻れるわけではない。

今日、はりはら塾の「古文書解読を楽しむ」講座再開の通知を郵送した。6月の講座から再開できることになった。無聊の慰みのために、「尾張者異国漂流物語」のコピーも同封した。

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「松平記 巻四」の解読を続ける。

一 永禄十二年(1569)正月十六日、家康衆、懸河城御攻め成され候。青田山に付城(つけじろ)を構え、小笠原与八良一党、高天神衆にこれ在り。二藤山には岡崎衆、番手(ばんて)にこれ在り。金丸山には久野三良左衛門一党者なり。同十八日、天王山城より日根野備中守、同弥三右衛門、同弥吉、大将にて出合い、終日の競り合いこれ有り。家康方、久野三良左衛門衆先手(さきて)にて、悉(ことごと)く討ち負け、岡崎二の手にて盛り返しけれども、これも崩れ、林藤右(左)衛門、加藤孫平次、松下新助、小林勝之助、その外、随分の侍を、駿河衆の方へ討ち捕るなり。
※ 付城(つけじろ)➜ 攻撃の拠点として敵城の近くに築いた城。向かい城。
※ 番手(ばんて)➜ 城にいて警護に当たる兵士。城番。


一 袋井口川端に、小倉内蔵助、斉藤弾正忠へ語る。これもその日の競り合いに、高天神衆と合戦、数多(あまた)討ち取らるゝ。家康大いに怒り、同廿一日押し寄せ、合戦を初め給う。駿河衆討ち負け、数百人討ち捕るなり。同廿三日、天王山の競り合いに、駿河衆、伊藤武兵衛、日根野弥吉、近松丹波守、由比美濃守、悉皆、岡崎衆に討たれ候なり。

一 三月七日、朝比奈備中守、三浦将監、笠原出羽、城際にて競り合い、敵に喰い付き出で、伊東治部、同左近、同掃部助、笠原七良兵衛、菅原帯刀、朝比奈小隼人、その外随分の侍百十八人、岡崎衆に討ち捕られ申し候。城方へも、良き首六十討ち捕るなり。

一 巳三月八日、家康より朝比奈と申す者、御使にて、小倉内蔵助方へ仰せらるは、其方(そなた)こと、義の御取り立ての者にて候えば、更に今河殿へ(かたき)を仕るべくとは存じず候。その上、敷(式)通り、誓詞進上申し候とも、讒言(ざんげん)の族(やから)これ在り、この間、通ぜず仕り候。それを御免(ゆる)しなされ、遠江国を一国下され、永代誓詞を以って、御無沙汰申すまじく候。遠州の儀、家康取り申さず候わば、信玄に、心御取られ有るべく候。左様に候わば、信玄に取られ給わんより、この方へ下され、御和談候わば、小田原と申し合わせ、信玄を追い払い、駿河へ氏真を返し奉るべき由、仰せ越され候間、小倉この由、氏真へ申し上げ、則ちその時、御合点(がってん)成さる。
※ 敵(かたき)➜ 戦争の相手。敵対者。
※ 讒言(ざんげん)➜ 事実をまげ、いつわって人を悪く言うこと。
※ 無沙汰(ぶさた)➜ なおざりにすること。ほうっておくこと。
※ 合点(がってん)➜ 同意すること。承知。

(「松平記 巻四」の解読、つづく)

読書:「里美の涙 剣客春秋 6」 鳥羽亮 著
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「松平記 巻四」の解読 8

(散歩道の鯉のぼりの一家)

近頃は、一家で揚っている鯉のぼりを見るのも、珍しくなった。川を横断して、団体で揚がるのは良く見る光景だが。当地は旧暦で祝うことが多いから、鯉のぼりが大空を泳ぐのは、まさに今の季節である。

どうやら、緊急事態宣言は明日全面的に解除の模様である。今、解除しないと、時期を逸すると判断されたような気がする。政府が、何となく事を急いているように感じるのは、自分だけであろうか。

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「松平記 巻四」の解読を続ける。

一 永禄十二年(1569)正月、家康は懸河の城を攻め落し、遠州平均に治めるべきよしにて、掛川へ出張の処に、遠州久野城に、右の久野一党、久野佐渡守、同日向、同弾正、同淡路守、本間十右衛門、御談合しける。家康懸河城を攻めらるゝとも、かの城、左右(そう)なく落ち難し。我ら一揆を起さしめ、跡よりつゝみ、家康を討ち捕り、氏真へ忠節を尽し、遠州一円に、この名字中拝領し、三河、岡崎をも取るべしと談合し、大将の三良左衛門にこの事を云う。
※ 左右なし(そうなし)➜ 無造作だ。あれこれ考えるまでもない。簡単だ。
※ 名字(みょうじ)➜ 家の名のこと。法律上は氏と呼ばれ、一般には姓ともいう。


三良左衛門思案して申すは、方々(かたがた)異見(よろ)し。然れども、去年より氏真を背いて、一旦家康と和談し、主従の好(よし)みをなし、誓詞をいたし、程なく何の恨みもなきに、それを無にして、家康をひる返し立身せん事、侍の本意にあらず。左様に非道の立身は、何としても叶わざるものと聞く。縦(たとい)、一旦は本意を遂(とげ)たりとも、家(いえ)滅すべき瑞相(ずいそう)なりと云えり。譜代の主(あるじ)を捨て、家康に附きたる事さえ口惜(くちお)しきに、また主を殺す事、更に思い寄らずと云う。
※ 異見(いけん)➜「意見」と同じ。
※ 瑞相(ずいそう)➜ 前ぶれ。前兆。きざし。


家久しくとも、(すじ)を立てざらば、三良左衛門を討ち捕りて、そし(素志)の安房守を取り立てよと談合する処に、佐渡守と本間十右衛門、また三良左衛門方へ返忠(かえりちゅう)をし、この由を三良左衛門に聞かす。三良左衛門驚き、この由、家康に告げ申して、御加勢を乞う。本丸へ三河衆を篭め置き、我が身は二ノ丸にぞ有りける。これにより、重ねて久野一類を、家康より御退治ありしなり。
※ 腱(すじ)➜ 筋(すじ)。
※ 返忠(かえりちゅう)➜ 主君に背いて敵方に通じること。裏切り。

(「松平記 巻四」の解読、つづく)

読書:「イギリスは愉快だ」 林望 著
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「松平記 巻四」の解読 7

(散歩道のハコネウツギ、5月18日撮影)

午後、はりはら塾から、講座再開の連絡が郵送されてきた。6月の講座から再開できることになった。少しずつ、日常が戻って来つゝあって大変嬉しい。願わくば、再度中止にならないことを祈るばかりだ。

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「松平記 巻四」の解読を続ける。

一 岡崎、家康は永禄十一年(1568)四月に遠州を大方手に入れ、堀江の大沢右衛門尉、二股の二股左衛門尉、高薗の浅原、頭陀寺(ずだじ)の松下、皆な家康に降参なり。久野城主久野三良右衛門も同じく、家康へ付くなり。所々皆なしたがえ、同十一月には、今泉四良兵衛、菅原新八郎、案内者として、井谷へ御出で、菅原二良右衛門、鈴木三良太輔、近藤石見、三人を手に入れ、十二月十三日、已(すで)に井谷へ馬入り有り。井谷城落ちて本坂に至り、刑部の城を攻め落とし、菅沼新八郎内の者、菅沼亦左衛門篭り、頓(やが)て浜松城攻め落とし、酒井左衛門尉を篭(こ)めらるゝ。

一 高天神の小笠原与八郎、真虫(馬伏)塚の小笠原美(作)守も、氏真へ忠を致すか、信玄へ忠を致さんかと、更に心を落しつけぬ躰なり。然れども、榊原、小笠原主膳、同伊予守才覚にて、家康へ両人随うなり。

一 信玄の内、秋山伯耆守、信濃の伊奈より人数を連ねて、遠州愛宕山へ出で、見付に陣を張り、奥平道文(定勝)、菅沼伊豆守、同新九良、田嶺新三郎、家康と一味して合戦、然れども討ち負け候間、秋山伯耆守、遠州引間へ人数を出し、遠州を手に入れんとす。然れども、扨(さて)に、大井河を切りと成し、駿河は信玄へ渡し、遠州は家康へ渡し申すべく由、約束せしめ、秋山は山科へ引き入れ置くに、高原へ上りて、京の谷を通り、佐夜の中山へ出て駿河へ入る。岡崎衆、今少し、秋山を謀(たばか)り留めて討ち取り、美濃衆をも、皆なこの方へ手に入れべきものをと、後悔すれども甲斐も無し。

一 今度、駿河没落の時、家康一腹(いっぷく)の弟、松平源三良と酒井左衛門尉が女(むすめ)を、先年吉田城を大望(たいもう)と成され、和談、三河平均(へいきん)に御退治(たいじ)の時、家康と左衛門尉、誓詞並び人質を以って氏真と和談にし、駿河へ越し給う時、三浦与一と云う者、預け置きけるが、今度、三浦、信玄へ別心(べっしん)して甲州へ行くとて、かの人質も、則ち甲州へ進上申しけるに、かの源三良、若人(わこうど)なれども、さすが家康の弟にて、心はやき人なれば、大雪降り、多き番衆油断しける中に、雪を踏み分けて、家康の方へ、その歳の内に皈(かえ)り給うに、ゆゝしきと諸人申しける。されども、雪に焼けて両足の指、皆な落しけるとぞ聞こえし。
※ 一腹(いっぷく)➜ 同じ母親の腹から生まれること。同腹。
※ 大望(たいもう)➜ 大きな望み。たいぼう。
※ 平均(へいきん)➜ 平定すること。統一すること。
※ 退治(たいじ)➜ 仕事などを一気に処理する。
※ 別心(べっしん)➜ そむこうとする気持ち。ふたごころ。
※ 心はやし(こころはやし)➜ 心の働きが機敏である。勘が鋭い。
※ ゆゝしい ➜ 程度がはなはだしい。容易ならない。

(「松平記 巻四」の解読、つづく)
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「松平記 巻四」の解読 6




(番生寺公園のセンダンの花)

特別定額給付金、郵送で手続きを終えた。

島田のOさんより、新タマネギを頂く。自家菜園で丹精込められたものである。

金谷宿大学、「古文書に親しむ」の二講座、来月から開始の案内を郵送した。時間つぶしにと、「尾張者異国漂流物語」のコピーを同封した。

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「松平記 巻四」の解読を続ける。

一 然れども、頓(やが)て天罰あたり、三年も過ぎざるに、葛山は駿河を約束の通り下さるの由、信玄へ申せば、信玄其方(そなた)参らすべくは、甥の氏真にこそ取らすべけれとて、さらに加恩(かおん)も無かりしは、甲州にて謀叛(むほん)を起し、小田原を引き入れ、甲府を傾けんとす。この事顕われ、信濃、諏訪にて、一門五人張り付けにせられける。瀬名殿も、父は頓(やが)て無言の煩(わずら)いをして果て、子息は甲州を押し出されて、小田原に牢篭(ろうろう)し、有るも無きかの躰に成り、朝比奈は後に駿河に永らえけるが、勝頼滅亡の砌(みぎり)、家康に切られ、皆な主人の罰当(ばちあた)り一生の中に、その家を亡ぼしけるぞ、不思議なる。
※ 参らす(まいらす)➜ さしあげる。
※ 加恩(かおん)➜ 禄などを増し与えること。
※ 牢篭(ろうろう)➜ 引きこもること。人前に出ないこと。


一 信玄は駿河の降参の人々の妻子を人質に取り、甲州へ遣わし、江尻の井上の近所に、山城のかき揚げを致し、我が身は久能に野陣(のじん)して駿河を平均に治めんとす。然れども、駿河衆はなお、残る人々、浅原、由比、斉藤は、いく見(伊久美)の山に篭り、大原肥前守子息、右衛門佐は組侍並び与力、日比(日頃)肥前守混成の人々相備(あいぞなえ)し、花沢城に篭る。これは氏真の近習なれば、御供申し、懸河(掛川)に篭るべきが、懸河の城主備中守と右衛門佐、不和にて、日比(日頃)、組の衆まで割れ/\にありし故、花沢に篭り、是非とも甲州衆と一合戦と心がけ候なり。
※ かき揚げ(かきあげ)➜ 土をかきあげて、手軽く城を築きあげること。
※ 野陣(のじん)➜ 野に設けた陣営。野営。
※ 平均(へいきん)➜ 平定すること。統一すること。
※ 相備(あいぞなえ)➜ 軍団がそれぞれ陣を張るときに、 隣り合わせた陣を互いに呼ぶ称。
※ 備中守(びっちゅうのかみ)➜ 掛川城主、朝比奈泰朝。


一 藤枝に、長谷河二良右衛門、大将にて、彼が一党、長谷河名字廿一人篭る。都合三百余人これ在り。
※ 長谷河二良右衛門 ➜ 長谷川次郎右衛門尉正長。

(「松平記 巻四」の解読、つづく)

読書:「受け月」 伊集院静 著
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