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「当代記 巻一」を読む 17

(散歩道のキャットテール、10月21日撮影)

名前は「猫のしっぽ」、日本では差し詰め、赤い猫じゃらしである。

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「当代記 巻一」の解読を続ける。

越後国主、長尾景虎という人あり。後、上杉照(輝)虎謙信と号す。半俗の躰なり。常に病者(にて)、他人対面、輙(たやす)からず。然れども、時に猛将たり。信州村上を相拘(こだ)わり、常に武田信玄と対陣、永禄三庚午(1560)九月廿一日、信州川中島に於いて合戦、双方さして勝劣(しょうれつ)なく、退陣の時分(じぶん)故、謙信は越後へ皈国(きこく)となり。その後、景虎、河中島へ出でず。然れども、かの表は荒野のため、この景虎、関東に於いて(い)を振う。小田原城門外まで、数度相動くといえども、終に、氏康父子と合戦を遂げず。然るといえども、景虎仕置(しおき)、正しからざるの間、越後へ皈陣の後、小田原へ関東の諸士一味(いちみ)すること、度々に及び、終に氏康父子、関東を平均し給う。
※ 勝劣(しょうれつ)➜ すぐれていることと劣っていること。優劣。
※ 威を振う(いをふるう)➜ 勢威を示す。勢力のあることを見せつける。
※ 仕置(しおき)➜ 取り締まって秩序を保つこと。
※ 一味(いちみ)➜ 同じ目的をもって寄り集まった仲間。同志。また、そのような仲間に加わること。
※ 平均(へいきん)➜ 平定すること。統一すること。


かの謙信、始め信長と入魂(じっこん)、天正三乙亥(1575)、三州長篠に於いて、武田四郎敗軍の後、往々(ゆくゆく)は我が身の上とや思いけん、信長の命に背き、北国能登へ発向し、かの国を平均せば、天下へ上るべきの由、企(くわだ)つの処に、天正六戊寅(1578)、俄かに年四十九にて病死す。その頃、氏康息、養子といえども、謙信甥、景勝のため討(う)たれ、越後国、景勝平均し、後、秀吉公に従い、近年伏見に在り。その後、慶長三戊戌(1598)春、奥州の会津へ国替えなり。

永禄十一年戊辰、去年より氏直(今川氏真の間違い?)(おど)を好まれ、一門衆、同家老衆、一手/\に風流(ふうりゅう)にせしめ、躍りの間に能(のう)これある衆もあり。この費(つい)勝計(しょうけい)すべからず。
※ 躍り(おどり)➜ 踊りを好んだのは、今川氏真である。その「風流踊り」は、盆踊りの元になったという。
※ 風流(ふうりゅう)➜ 中世芸能の一。華やかな衣装や仮装を身につけて、囃し物の伴奏で群舞したもの。のちには、華麗な山車の行列や、その周りでの踊りをもいう。民俗芸能の念仏踊り・雨乞い踊り・盆踊り・獅子舞などの源である。
※ 勝計(しょうけい)➜ 一つ一つあげて数えること。とりたてて数えること。多く「勝計すべからず」の形で、数えきれない意に用いる。

(「当代記 巻一」の解読、つづく)

読書:「剣術長屋 はぐれ長屋の用心棒 23」 鳥羽亮 著
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「当代記 巻一」を読む 16

(散歩道のシロバナサクラタデ)

午後、女房と散歩。シロバナサクラタデの群落を見る。そこにだけ、夏の草刈をした後に咲く。右手の赤い花は、イヌタデで、これはどこにでも見られる。

駿府の町の御觸を読んでいて、町の共同作業に、道具をもって集まれとある中に、鍬や鎌などに混じって、「雀觜」という言葉が出てきた。「スズメのくちばし」と呼ばれる作業道具を探して図書館まで行って調べたが、分らない。静岡には「ちょんちょん鍬」と呼ばれるものがあるが、それだろうか。スズメのくちばしに似てないこともない。一晩寝て、土木道具なら「つるはし」は「鶴嘴」と書く。もしかして、「雀」と読んだが、「寉」とも読めないこともない。ついに漢和辞典で「寉」を「つる」と読むことを見付けた。つまり、「雀觜」ではなくて「寉觜」、つまり「つるはし」を持参するようにと書かれていたのであった。鶴には「鳥」が欠かせないとの思い込みが誤読を呼んだ。

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「当代記 巻一」の解読を続ける。

然る処、天正十八年庚寅(1590)三月、関白秀吉、動座(どうざ)有り。同四月、小田原へ打ち寄せ、七月城中落去(らくきょ)(お)わんぬ。この躰、氏直、父命に背き、秀吉陣中へ走り入るの間、身命を助(たす)く。父氏政、同弟陸奥守は、城中において生害なり。この氏直の消息、専(もっぱ)ら岩付の十郎、仕立(したて)つるに依って、かくの如し。この氏直、並び十郎仕立、見る者これ悪(にく)み、聞く者これを(はじ)。かの岩付十郎は氏直弟、氏政の二男なり。氏政弟、阿房守、美濃守、左衛門助、右衛門介、氏直、岩付十郎、以下上洛せしむ。関白秀吉より国々の大名へ預け置かれ、氏直並び十郎は翌年病死、氏政弟衆、何れも三ヶ年中に残り無く病死し畢(お)わんぬ。
※ 動座(どうざ)➜ 大将の出陣。
※ 落去(らくきょ)➜ 落ち去ること。
※ 仕立(したて)➜ 準備して調えること。
※ 指を弾く(ゆびをはじく)➜ 爪弾(つまはじ)きといわれ、嫌悪や排斥の気持ちを表す。


先祖宗(早)雲、子孫繁昌を為(な)す。無間鐘(むげんのかね)(つ)かれけると言い伝うべし。奇特(きとく)と謂うべしか。この氏直は家康公、聟たり。この女(むすめ)(督姫)、後、池田三左衛門(池田輝政)に嫁す。これ池田庄入(池田恒興)二男なり。この氏政、酒を好む事、人を超えたり。常に長座(ながざ)して大酒なり。酒の中に座を立つことは法度たるの間、大小便も不自由、毎度見苦しきこと多し。氏政これを見て快気(かいき)、云々。
※ 無間鐘(むげんのかね)➜ 静岡県、佐夜の中山にあった曹洞宗の観音寺の鐘。この鐘をつくと現世では金持ちになるが、来世で無間地獄に落ちるという。
※ 奇特(きとく)➜ 非常に珍しく、不思議なさま。
※ 長座(ながざ)➜ 長時間いること。長居。
※ 快気(かいき)➜ さっぱりして気持ちがよいこと。

(「当代記 巻一」の解読、つづく)

読書:「永代橋の乱 剣客船頭 19」 稲葉稔 著
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「当代記 巻一」を読む 15

(干柿作り始めました)

ようやく天候が安定して、干柿の季節になった。島田のまんさいかんに行くと、気に入った渋柿が無く、それでも一袋買い、そのまま藤枝のまんさいかんに廻った。こちらの方が、手ごろな渋柿がたくさんあったので、購入してきた。全部で29個で1650円、少し割高な感じがあったが、午後、早速加工した。ちょうど伊勢の長兄から電話があった。いよいよ、スマホを買って、今、それを使って電話しているが、固定電話より、声が不安定な感じがするという。しばらく近況を話して、干柿が出来たら送ると約束した。

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「当代記 巻一」の解読を続ける。

永禄十一戊辰(1569)、武田信玄、駿府へ発向の刻(とき)、氏真退き、遠州懸川の城に篭らるゝ。時に家康公も遠州へ出張有り。懸川城廻りに陣取り、攻めらるゝの間、翌年の春、落去(らくきょ)し、今川氏真をば、相州小田原へ送らしむ。これより遠州平均(へいきん)なり。見付国府に普請有り、在城なり。かかる処に、信長公異見せしめ給う間、翌年春、浜松へ移らせしめ、在城なり。これに因り、遠三の国人、浜松に在らしむ。
※ 落去(らくきょ)➜ 落ち去ること。
※ 平均(へいきん)➜ 平定すること。統一すること。


武田信玄、駿河に発軍の時分、人数信州より遠州へ、秋山伯耆守、物主(ものぬし)として打ち入るといえども、家康公、当国に於いて権威輝くの間、秋山その(せん)なし。駿州の信玄旗本へ行き、然る処、元亀三壬申(1572)、信玄、遠州へ発向、この時、信長公歴々(れきれき)の衆、家康公へ加勢有り。かの信玄女(むすめ)(松姫)、信長息(むすこ)(信忠)縁辺(えんぺん)の契約有るといえども、年来、家康、別(べつ)して信長と子弟同然の間、贔屓(ひいき)のための沙汰、かくの如し。信長真実の心底は、家康滅亡されれば、定めて信玄、信長を討つ。天下を取るべき企て、これ有るべしの由、兼ねてこれを推察せしめ給うの間、なお以ってかくの如し。
※ 物主(ものぬし)➜ 戦陣での部隊の長。
※ 詮なし(せんない)➜ 何かをしても報いられない。かいがない。
※ 歴々(れきれき)➜ 地位・身分などの高い人々。 その方面の一流の人々。
※ 縁辺(えんぺん)➜ 結婚すること。また、縁づかせること。


永禄十一戊辰年(1569)、義昭征夷将軍に任ず。

京都、伊勢守一族の内、(北条)早雲と云う人、駿河国へ相下り、今川用山氏親の父、氏輝を頼み、関東を望む。先ず伊豆国へ打ち入り、計略を以って小田原を取る。これより氏綱、氏康、氏政、氏直、五代相続き、関東に権威輝く。時にこれを北条家と号す。右五代の内、纔(わずか)九十六年に及ぶ小田原繁栄、云々。

(「当代記 巻一」の解読、つづく)
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「当代記 巻一」を読む 14

(晩秋のカマキリ)

午後、女房に呼ばれて、玄関まで行くと、出た所にカマキリが居た。全長10センチはあろうかという、メスのカマキリである。冬になる前に卵を産んで、一生を終えるのであろう。オスはどこにいるのだろうと女房が聞くから、オスは交尾の時、メスに食べられてしまうからと答えた。あとで調べたら必ずしも食べられるわけではなく、生き延びるオスも多いという。少し安心した。ただ、ゲージなど、限られた環境下では、逃げ場がなくて食べられてしまう。それを目にして、必ず食べられるという、都市伝説?が生まれたらしい。

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「当代記 巻一」の解読を続ける。

永正三丙寅(1506)(牧野)古伯、相果てらるゝ砌、一男(いちなん)伝蔵(時に五歳)、富田と云う臣下、桶に入れ、川向う下地へ伴い、かの郷百姓を相頼み、月花(つきはな)(月扁に花)も百姓請け取り、尾州智多郡大埜へ送る。その後、田原の城を孫四郎代物(しろもの)に売り、馬屮(馬草)へ引き入り、閉口(へいこう)す。伝蔵また成人の、吉田へ本意(ほい)して、数ヶ年、吉田城主とす。然(しこう)して、岡崎と鉾楯(ほこたて)の間、清康相動かせしめ給う。伝蔵、合戦有るべしとて、川を越え打ち出づ。この時、益岡に在城の牧野伝兵衛、伝蔵親類たるなり。この已前(いぜん)より調略(ちょうりゃく)有り。清康へ一味せしむるの間、伝蔵人数敗北し、伝蔵兄弟、則ち討ち死に。(享禄二己丑(1529)五月廿八日のことなり)
※ 月花(つきはな)➜ 非常に寵愛・賞翫するもののたとえ。幼児の伝蔵を指すか?
※ 代物(しろもの)➜ 代わりとなる物。代金。代価。
※ 馬屮(まぐさ)➜ 馬草。田原市野田町にあった馬草城。
※ 閉口(へいこう)➜ 口を閉じて言葉を発しないこと。黙ってしまうこと。
※ 条(じょう)➜ …のこと。…の件。
※ 本意(ほい)➜ もとからの考え。本来の望み。本懐。
※ 鉾楯(ほこたて)➜ 争い。合戦。戦闘。 
※ 調略(ちょうりゃく)➜ 策略をめぐらして敵をまかしたり内通させたりすること。


これより吉田城には、牧野伝兵衛在城す。その後、天文六丁酉(1537)、田原より計略せしめ、伝兵衛家中、戸田新二郎、同宗兵衛、田原に属し、伝兵衛退城なり。これより吉田城は、天文十五丙午(1546)迄、田原戸田金七在城なり。この年、また駿州より、吉田城責め落す。これより永禄八乙丑年(1565)まで、駿河よりこれを持す。

(「当代記 巻一」の解読、つづく)

読書:「疾風の河岸 はぐれ長屋の用心棒 22」 鳥羽亮 著
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「当代記 巻一」を読む 13

(散歩道の西洋アサガオ、昨日撮影)

午前中、磐田のO氏から電話があった。一言坂の戦いを中心に、戦国時代の磐田を描いた本を出すことが目標という。信玄が3万の兵を率いて東から来て、浜松の家康は斥候を出す。一言坂で両雄がぶつかる。三方ヶ原の戦いの前哨戦である。その時、家康はどれくらいの兵を出したのか、家康本人はどこまで陣を進めたのか、天竜川を越えたのか。戦国時代の遠州を描いた戦史を10冊ばかり、その抜粋の解読に協力している。だが、本によって内容がバラバラで、そこから結論を出すのはなかなか難しいという。その電話では言葉に出さなかったが、O氏には地の利があるのだから、出来るだけ現地を踏査して、戦況を想像してみてはどうだろうか。現場百遍という言葉もあるのだから、と思った。

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「当代記 巻一」の解読を続ける。

昔年(せきねん)、右、田原の弾正少(三河田原城主、戸田康光)息女(そくじょ)を、道閑(松平広忠、家康の父)これを娶(めと)り給う。家康公の御母臺(だい)、離別される。この田原腹に道閑息女二人これ有り。また竹千代御袋は西三川あぐい(阿久井)へ移られ、久松佐渡守と嫁(か)し給う。男子女子多くこれ有り。あぐい(阿久井)は前腹の息(むすこ)へ譲り、佐州(久松佐渡守)も後は岡崎へ引っ越し居住し給いき。

また先年、田原と吉田の城主牧野古伯(これは牛久保城主牧野しゅんこう弟なり)、間柄(あいだがら)甚だ快からず。両所共に駿州を頼み、殊に古伯は駿州氏親と歌道の朋(とも)たり。古伯、永正二年(1505)、駿河へ下るの時、初時雨(はつしぐれ)の発句にて、連歌興行有りし。かようの間柄成りけれども、田原は大身、古伯は小身なる間、大に付き、小を捨つる故か、田原の荷担(かたん)として、翌年氏親三河に出張せしめ、吉田を取り詰め、緊(かた)く攻めらるゝの間、古伯終に腹を切らるゝ。城は田原へ出され、弾正二男金七、これに在城せしむ。彼(小伯)籠城中、去年駿河に会の日、時雨(しぐれ)たりしに、今また時雨したれば、古伯一首の歌を詠じ、氏親へ献ず。

  あいにあいぬ 去年(こぞ)も昨日の 初時雨 定めのなきは 人の世の中

古伯、素(もと)より過(あやま)ちなく罪受け、城知行をこそ、田原へ出さると云えども、この歌に感じ、命ばかり助けられたらんは、末代までの物語たるべきものをと、時の人申しけるとなり。
※ 荷担(かたん)➜ 仲間に加わって助力すること。

この古伯、宗長とも別して、相談じられける間、宗長、この歌を後聞(こうぶん)して、「時雨は定め有る世成りけり」と詠まれなば、なお以って然るべきを、と判じられけるとなり。
※ 宗長(そうちょう)➜ 室町時代後期の連歌師。号は柴屋軒。駿河国島田の出身。宗祇に師事して連歌を学び、その後、駿河に戻って今川氏親に仕える。
※ 後聞(こうぶん)➜ あとで聞くこと。

(「当代記 巻一」の解読、つづく)

読書:「黒鞘の刺客 八丁堀剣客同心 4」 鳥羽亮 著
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「当代記 巻一」を読む 12

(出そろった大代川のススキ)

夕方、女房と散歩。大代川のススキの穂が出そろって、傾いた日に映える。めっきり涼しくなった。最低気温が8度以下の日が続くと、いよいよ紅葉に季節になる。まだ街中ではそこまで下がらない。山の方ではそろ/\であろう。

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「当代記 巻一」の解読を続ける。

去々年(きょきょねん)一男(いちなん)家康公(時に四歳、竹千代と号す)、信州へ人質として差し越さる(一腹(ひとはら)舎弟男女両所有りけれども、二歳にして何れも早世)処、田原の主、戸田弾正少弼(しょうすけ)、一男孫四郎、竹千代主(ぬし)を押し置き、尾州熱田の神主図書に、百貫文に売られ、その頃清須に竹千代主御座(ござ)す。竹主六歳の時、父道閑卒去(そつきょ)し給う。その後、駿河氏親より西三川へ出張あり。安條の城を取り詰め、これを攻めらる。城主は弾正忠二男(織田信広)(信長、弟なり)、これに竹千代主を替え取りて、駿河へ同道せしめ、駿府に居住せしめ給う。
※ 去々年(きょきょねん)➜ おととし。一昨年。
※ 一男(いちなん)➜ いちばん上の息子。長男。
※ 一腹(ひとはら)➜ 同じ母親の腹から生まれること。ひとつばら。
※ 卒去(そつきょ)➜ 身分のある人が死ぬこと。


漸く成人の間、義元(氏親遺跡)の一族、関口刑部少輔女(むすめ)(後の築山殿)を以って、これを嫁(か)し給う。この腹に男女の息(そく)これ有り。義元、尾三境(桶狭間)に於いて討死の後、家康公、岡崎へ移らしめ給う。時に妻女、息女は三川岡崎へ移らるゝ。一男(これを竹千代主と云う。後に三郎信康と号す)は駿府に人質として居住なり。さて、尾州信長と入魂(じっこん)有り、駿府へ敵対し給う。その後、三川西の郡鵜殿城を攻落、城主子供に、竹千代主を替えられ、岡崎へ引き取り給う。
※ 入魂(じっこん)➜ とりわけ親密であること。また、そのさま。昵懇。

その頃、西三川に本願寺門徒、一揆を蜂起して、片時も安き事なし。家康公近習の輩、昨日も五人、今日も十人、一揆、同意せしむ。かくの如くの間、岡崎の體(てい)、安否定まらず。この時、苅屋、水野下野守(これは御袋の弟、家康公の伯父(叔父)なり)、岡崎手衆の如く相挊(はたら)かる。家康公、素(もと)より勇将なり。竟(つい)に一揆を平らげらるゝ。また永禄七甲子(1564)、吉田の城を取り詰め、所々付城(つけじろ)これ有り。翌年三月落去(らくきょ)、城主大原肥前守(三浦右衛門大夫父、江州甲賀の者)懇望(こんもう)に依り、東へ送り遣さるゝ。これより、東三川も大概以って随順(ずいじゅん)す。
※ 落去(らくきょ)➜ 落ち去ること。
※ 懇望(こんもう)➜ ひたすら願い望むこと。

(「当代記 巻一」の解読、つづく)

読書:「熾火 勘定吟味役異聞 2」 上田秀人 著
読書:「爺子河岸 剣客船頭 18」 稲葉稔 著
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「当代記 巻一」を読む 11

(稲刈りも今年はもう終わりだ、21日撮影)

今年も残す所、2ヶ月。コロナ、コロナに明け暮れて、何とも不思議な一年であった。コロナ以後、病院へ行く人が減って、病院が経営危機だという。コロナが怖くて、重篤でなければ、みんな病院には行かない。コロナ対策が、すべての病の予防にもなっている。おそらく、今年はインフルエンザの流行もないのではなかろうか。通院の患者が減るのは当然である。飲食店のように、行政が自粛を要請したわけでもない。客が減れば不況になるのは、実業の世界では当然で、それを税金で保証するのは筋違いかもしれない。まさか、go to hospitalのキャンペーンをするわけにもいかない。 

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「当代記 巻一」の解読を続ける。

その後、元亀三壬申、信玄、遠州へ発向の砌(みぎり)(氏政)加勢に及ぶ。十二月廿二日、浜松野に於いて、徳川家康と合戦(三方ヶ原の戦い)、信甲衆勝ちに乗ず。また先年、信玄の嫡男、武田太郎幸信をも生害し給(たま)いき。その故は、幸信、父を討ち家督を取るべしの由、陰謀の処、信玄これを聞き、遮(はば)みて幸信を籠者(ろうしゃ)に行ない、終に鴆毒(ちんどく)を以って相果てさせられる。然れば、父を追い出し子を殺し、甥の氏真、国を奪取の条、大悪行たるの由、これを思うや、何者の支態(しわざ)にや。落書(らくしょ)あり。

  子を殺し 親に添えてぞ 追い出(いだ)だす かかる心を 武田とや云う

また信玄、後は十年に及び精進潔斎し、叡山より袈裟衣(けさころも)申し下し、法性院阿闍梨(あじゃり)と号し、常に看経三昧(かんきんざんまい)なり。それ故にや、その頃、所々陣中に於いて、不思議瑞(ふしぎずい)も有るとかや。
※ 籠者(ろうしゃ)➜ 牢に入れられている人。囚人。
※ 鴆毒(ちんどく)➜ 毒物の総称。
※ 落書(らくしょ)➜ 政治・社会や人物などを批判・風刺した匿名の文書。人目に触れやすい所に落として人に拾わせたり、相手の家の門・塀に貼りつけたりした。中世から近世にかけて盛行。落首。
※ 袈裟衣(けさころも)➜ 袈裟と衣。本来、袈裟も衣であるが、袈裟のほかに法衣を着るところから、この称が生じた。
※ 申し下す(もうしくだす)➜ お願いして下げてもらう。お願いして受ける。申し受ける。
※ 看経三昧(かんきんざんまい)➜ 経を黙読することに、熱中すること。
※ 不思議瑞(ふしぎずい)➜ ふしぎなめでたいしるし、吉兆。


三州国、松平家康と云う人有り。新田徳川三郎後胤なり。(後、天下主、征夷大将軍・右大臣に改む)この祖父、松平二郎三郎清康に、三河国漸く随順(ずいじゅん)と云々。天文四乙未(1535)冬、尾州森山へ相動き、同十二月四日、彼、陣中において不慮に臣下のため、橫死(おうし)を被(こうむ)る。(年丗三)清康一男(松平広忠、家康の父)相継ぎ、岡崎主となる。廿五にして逝去。これを道閑と号す。
※ 随順(ずいじゅん)➜ おとなしく従うこと。従って逆らわないこと。
※ 横死(おうし)➜ 思いがけない災難で死ぬこと。非業の死。

(「当代記 巻一」の解読、つづく)
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「当代記 巻一」を読む 10

(散歩道の渋柿畑、21日撮影)

散歩道で渋柿畑を初めて見た。10本ほど植わっている。実が生らないと気付かないものだが、植えたのはそれほど昔ではなさそうである。今年もいよいよ干柿の季節が到来した。天候も安定したみたいで、そろそろ始めようかと思う。

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「当代記 巻一」の解読を続ける。

甲斐国の主、武田大膳大夫晴信と云う人有り。入道(にゅうどう)の後、信玄と号す。これは源新羅三郎義光(伊予守頼義の三男)の後胤(こういん)なり。この人、若輩の時、父信虎快(こころよ)からずして、晴信弟左馬頭に、信虎遺跡(いせき)を譲るべしの由、内々思い立つの間、晴信遮(はば)みて信虎を追い出さる。信玄廿一歳。この時、晴信信州、西上州を取りて、その後大勢(たいせい)たるの間、天下を取るべき内心有り。まず永禄十一年戊辰(1568)十二月十三日に、駿州へ発向。時に当国の主、氏真、一戦に及ばず、遠州掛川へ退去了(おわ)んぬ。かの氏真は信玄甥なり。この頃、間柄常に快からず。氏真より慮外(りょがい)の企てさるゝの間、無拠(よんどころなく)出馬と称す。
※ 入道(にゅうどう)➜ 仏道にはいって修行すること。また、出家・剃髪ていはつして仏道にはいった人。
※ 遺跡(いせき)➜ 先人ののこした領地・官職など。
※ 大勢(たいせい)➜ 大きな権勢。強い勢力。
※ 慮外(りょがい)➜ 無礼であること。また、そのさま。


この時、氏真舅(しゅうと)(関東の主)氏康、同息氏政、加勢として、駿州に陣を進めらるといえども、終(つい)に以って、信玄、駿河を静謐(せいひつ)になされ、この意趣(いしゅ)を以って、元亀元年庚午(1570)、信玄関東へ相動き、氏康、氏政居城、小田原惣門(そうもん)まで押し詰め放火し、退散の期(とき)に臨み、敵相(した)の間、築井の近所、三増(みませ)峠にて、信玄人数返し合い、一戦に及ぶ。小田原衆敗軍、数百人討ち捕り、甲州へ皈陣(きじん)。然(しこう)して、氏康逝去の後、氏政、信玄と和睦せしめ、この氏政は信玄の聟たるといえども、父氏康の命に従い、近年は鉾楯(ほこたて)
※ 静謐(せいひつ)➜ 世の中がおだやかに治まること。また、そのさま。
※ 意趣(いしゅ)➜ 他人の仕打ちに対する恨み。遺恨。
※ 惣門(そうもん)➜ 外構えの大門。また、城などの外郭の正門。
※ 慕う(したう)➜ あとを追う。
※ 鉾楯(ほこたて)➜ 争い。合戦。戦闘。

(「当代記 巻一」の解読、つづく)

読書:「おしかけた姫君 はぐれ長屋の用心棒 21」 鳥羽亮 著
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「当代記 巻一」を読む 9

(宇嶺の滝)


(対岸のがけ崩れ)

藤枝市瀬戸ノ谷の奥から登った蔵田の先に、宇嶺の滝がある。落差70メートル、別名、お君の滝と呼ばれることで想像できる、悲恋の伝説が残る滝である。コスモスを見に行った20日、久し振りに行ってみた。ところがあたりはがけ崩れで、対岸が大きく崩れ、遊歩道のある側も複数個所でがけ崩れがあり、遊歩道を行けるところまで降りて撮ったのがこの写真である。滝は被害は無いようだが、遊歩道が下まで降りられないので、やや迫力に欠ける写真になった。がけ崩れのひどさから、昔の状態まで復旧するのは難しいかもしれない。

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「当代記 巻一」の解読を続ける。

その後、秀吉公、慶長三戊戌年(1598)八月十八日、(みまか)れ了(おわ)んぬ。年六十二。天下を持(たも)つこと十七年なり。その間、秀吉、(そく)三歳にして早世の間、甥の孫七郎秀次(後、右大臣、関白になる)を、天正十九年辛卯、京都の聚楽を相譲り、我が身は(太閤と号す)大坂に居住なり。それ以後、秀吉にまた息、出来(しゅったい)の間、秀次を内々長久(ちょうきゅう)あらざる様にとの心中有りけるに、秀次行跡、常篇(じょうへん)に絶(た)たる際、逆心有るの由披露し、文禄四乙未七月八日に、京都を退散せしめ、高野山において生害せしめ給う。かの秀次息、一、二歳の孩児(がいじ)、同近習の女房三十余輩、洛中に渡り、切り棄てらる。哀(あわ)れなりし事どもなり。秀次家中侍、或いは生害、或いは改易(かいえき)なり。
※ 薨る(みまかる)➜ 貴人が死ぬ。(身が現世からあの世へまかり去る意)
※ 息(そく)➜ むすこ。子息。
※ 早世(そうせい)➜ 早く世を去ること。早死に。若死に。
※ 常篇に絶ゆ(じょうへんにたゆ)➜ 普通の状態から大きくかけ離れている。常識を絶した異常な状況である。
※ 孩児(がいじ)➜ 幼児。おさなご。
※ 改易(かいえき)➜ 中世、罪科などによって所領・所職・役職を取り上げること。


元来太閤秀吉公、心操(しんそう)人に勝ち、金銀に限らず、諸宝物人に施し給うこと、勝計(しょうけい)すべからず。只、人の嫌事(いやこと)とては、余り普請を好み給う間、上下このため迷惑す。然るといえども、この普請に付、日本国中、上下の人、伏見、大坂に居住の間、京、堺井(堺)の町人、売買に利を得る事、近代超過(ちょうか)せりと云々。
※ 心操(しんそう)➜ 心のみさお。心構え。心がけ。
※ 勝計(しょうけい)➜ 一つ一つあげて数えること。とりたてて数えること。
※ 嫌事(いやこと)➜ (大阪弁)嫌な事。
※ 近代(きんだい)➜ ちかごろ。このごろ。当世。
※ 超過(ちょうか)➜ 他よりまさっていること。

(「当代記 巻一」の解読、つづく)

読書:「だいこん」 山本一力 著
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「当代記 巻一」を読む 8

(掛川城公園の馴れ馴れしい鳩)

午後、掛川の図書館に、古文書講座で出かける。早く着いたので、そばの掛川城公園を散策した。池の端のベンチに鳩が寄っていたので、そっと近づくが逃げない。同じベンチに座って間近で写真を撮った。馴れ馴れしい鳩だと思っていると、バイクが来て、一斉に飛び立ち、そちらへ二、三十羽の鳩が集まった。おじさんが袋からエサを取出して鳩に与え始めた。中にはおじさんの手のひらの餌をつついている。これが目的かと納得した。

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「当代記 巻一」の解読を続ける。

これに依り、その舎弟義昭(よしあき)(時に、奈良の一乗院なり)、江州佐々木に憑(つ)いて、入御(じゅぎょ)の処、情けなく、追い出し奉るの間、越前へ御下降有り。朝倉また御請け申さず。然る間、岐阜へ御下り有り。信長を頼み、御入洛有るべしとの儀なり。信長これを奉じて、永禄十一戊辰(1568)九月、出馬有り。先ず、近江国主佐々木を攻め破り、則ち上洛せしめ給う。これより天正十年壬午年まで、信長、天下の主なり。その間、纔(わずか)十五年なり。かの源(足利)義昭将軍は、五、六年中に牢篭(ろうろう)給う。その故は、信長の勲功を忘れ、武田信玄と内通有り。信長を討つべしの由、陰謀露顕して天下を退き、中国へ下国(げこく)給う。
※ 義昭(よしあき)➜ 足利義昭。義秋とも。室町幕府第十五代(最後の)将軍.
※ 入御(じゅぎょ)➜ 天皇・皇后などが内裏(だいり)に入ることの尊敬語。のちには摂政・関白など貴人にもいう。
※ 牢篭(ろうろう)➜ 衰えること。落ちぶれること。
※ 下国(げこく)➜ 都から国元へおもむくこと。


然る処、天正十年壬午(1582)六月二日、明智と云う逆臣、信長(年四十九)並び一男(いちなん)信忠(年廿六)を討ち奉り、(この信長一代中、敵国を撃(う)ち取り、則ち人に施(ほどこ)し給う事、前代未聞と云々)羽柴筑前守秀吉(後、太政大臣関白に改む。これは信長取立ての人なり。孤なる小身一僕(いちぼく)の人なり。素(もとより)器用(きよう)に依り、大身としたまう)並び堀久太郎、中国より上(のぼ)り、摂州に於いて合戦に及び、同月十三日、明智を討つ。これにより秀吉天下の主なり。信長二男信雄(時に勢州主、後、尾州主)、暫し仰ぎ奉るといえども、天正十八年庚寅年(1590)、下野国那須へ牢籠(ろうろう)なり。
※ 一男(いちなん)➜ いちばん上の息子。長男。
※ 一僕(いちぼく)➜ 一人の下男。一人の召使い。
※ 器用(きよう)➜ すぐれた才能のあること。また、その人。

(「当代記 巻一」の解読、つづく)
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