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第21番 観音寺、第20番 慈眼寺 - 駿河百地蔵巡り 3回目

(普門山観音寺本堂)

強力な台風17号が真っ直ぐに静岡県にやってくるとニュースで聞いた。東海地方でも瞬間風速で60メートルなどと脅かされて、午前中に自宅周りの風仕舞いをしっかりとした。夕刻から嵐が始まった。午後7時に豊橋付近に上陸、猛スピードで北東へ抜けて、午後10時ごろにはすっかり静かになった。それからムサシのミニ散歩をさせた女房から、空のポリバケツ(ゴミ箱)が1個、裏の畑まで飛んでいたと、我が家の唯一の被害の報告があった。

   *    *    *    *    *    *    *

駿河百地蔵の続きである。次は第21番普門山観音寺である。旧藤枝宿の外れの水守で、旧東海道は国道1号線と斜めに交わる。しばらく来ない間に、その辺りがすっかり変わって、郊外型大型商業施設が出来ていた。旧東海道筋がズタズタになり、たどるのに苦労する。旧東海道歩きの人たちも苦労するのではないかと思う。

旧街道は仮宿で再び国1と斜めに交差するが、その直前、葉梨川の向い側に普門山観音寺があった。ここでも「駿河一国百地蔵尊第廿一番」の板が本堂に張られていた。観音寺の由緒は以下のとおりである。今川氏没落後、旧臣安達氏は武士を止め、この下当間村に住みついた。安達家十四代盛宗は、先祖から受け継いだ念持仏の観音菩薩像を安置するために、村人の協力を得て堂宇を建立した。これが観音寺の始まりである。その後、近隣から「当間の観音様」と呼ばれ、尊崇された。だから本尊は観音菩薩である。どこにも地蔵尊が出て来ない。たぶん本堂に観音菩薩と並んで祀られていると思うのだが。


(横内あげんだい)

国1を渡って、旧岩村藩領の横内を行く。岩村藩は美濃にあるが、ここは岩村藩の飛び地であった。岩村藩は飛び地の横内を大変に優遇したという。横内橋を渡った左手に横内の案内板の脇に「横内あげんだい」があった。大きな竹箒を立てたようなもので、毎年、8月16日、この「あげんだい」に松明のように火を付けて、送り火の行事が行われる。


(西了山慈眼寺本堂)

横内の北の外れの手前に、第20番西了山慈眼寺がある。ここも本堂に「駿河一国百地蔵尊第廿番」の板があった。御本尊は阿弥陀如来だが、堂内に「抱地蔵」と呼ばれる地蔵尊が祀られている。案内板によると、願いごとが叶うときは、軽く抱き上がるとある。


(代官地蔵)

もう一つ、境内には番外の代官地蔵尊が、六角石柱の上に乗っている。美濃国岩村藩横内陣屋、三代目の名代官だった田中清太夫を祀った地蔵尊である。時代劇には悪代官しか出て来ないが、名代官といわれた代官も数多くいた。


(橋向地蔵)

本日の駿河百地蔵巡りはこれまでとする。西焼津駅まで戻る途中、朝比奈川の土手に小さな地蔵尊の祠を見つけて、参りに行った。標柱に「橋向地蔵尊」と書かれ、「川除地蔵、子授地蔵」と記されていた。地蔵の名前は人々の願いの数だけあるようだ。

本日の歩数は34,010歩、あちこち道に迷って、20キロほど歩いた。
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第23番六角庵、第22番向善寺 - 駿河百地蔵巡り 3回目

(第23番六角庵)

次は第23番六角庵である。藤枝大手の交差点を左折して、一度は行過ぎてしまった。戻ってうろうろ住宅地を歩くうちに、市部延命地蔵堂に行き着いた。迷って、番外の地蔵堂を一つ見つけられた。堂内を覗いてみる。壇上に六地蔵が並んでいるが、垂れ幕に顔が隠れてよく見えない。地蔵堂の外に、藤枝市指定有形文化財の標柱が立っていた。「彫刻 市部延命地蔵堂の石造六地蔵像」と書かれていた。この六地蔵は延命地蔵だと知れる。また6体は石像であった。


(市部延命地蔵堂)

藤枝大手の交差点近くまで戻り、改めて東高を目標に進む。勝手口を出て来たおばあさんに、東高の方角を聞いて進んだ。200メートルほど進んだ正面に、六角堂があった。第23番六角庵というのは、この六角堂のことだとすぐに判った。「駿河一国百地蔵尊第廿三番」の板が六角堂に張られ、確認出来た。板の上部に、どういう意図か、観音像の頭部のレプリカが掛けられていた。六角堂の内部を覗くと、岩の上に半跏坐した地蔵像がどっしりと鎮座していた。


(六角堂の子育地蔵尊)

地蔵尊と六角堂の由来は不明であるが、古くからこの地にあった。堂宇が老朽化したため、藤枝市大手の源昌寺四世佛州玉頴和尚の弟子、智岩妙高尼が再建を志し、文政二年(1819)、六角堂の再建と本堂の新築にとりかかり、高齢のため、その志しは弟子の慧林法春尼に引き継がれ、文政三年に完成した。そして、源昌寺の佛州和尚を開山に仰ぎ、尼僧寺になった。開基は妙高尼である。

代々尼僧が住職をつとめてきたが、昭和40年代に無住となり、昭和53年に地元で本堂などを取り壊し、六角堂の補強工事を行った。現在は、六角堂は、子育地蔵尊として、地元の人々と源昌寺で守られている。

お参りを済ませて、戻ろうとしていると、先ほど道を聞いたおばあさんが自転車でやって来て、教え方がいい加減だったので、心配で追いかけてきたという。藤枝東高と聞いたけれども、行きたかったのは六角堂だったので、役立ったことを話す。始めから六角堂の場所を聞いた方か良かったと思った。道を教そわった人が、心配で追いかけてくることは、お遍路でも経験をしたが、地元でも起きた。少なからず感動的で、何度もお礼を言って別れた。

次の、第22番の向善寺はさらに困難を極めた。地図に印をする時に、東高の近くで記すべきところ、国道端の藤枝北高のそばに印をしていた。北高そばまで行くが、もちろん見つからないため、通りかかった年配の郵便配達の男性に尋ねた。かなり離れているから方向だけ教えてくれたが、あとは近くで尋ねるようにという。最もな話で、旧東海道筋に戻ったところで、道路を渡ってきたおじいさんに聞いた。おじいさんは向善寺を知らないようで、お役に立てなくて申し訳ない、という。この言葉、自分も使うことがあるが、気持ちの良い言葉だと思う。

次に通り道の洋装店前のベンチで、地図を出して確かめていると、店の女性がきて、どこか探しているのかと声を掛けてくれる。こういう声掛けはお遍路でも度々受けた。旧東海道筋には、東海道歩きの人も多く、道を聞かれ慣れているのであろう。涼しい店に入るように言い、もう一人の女性と二人して評定が始まり、凡その場所は判った。


(向善寺本堂)

最終的には、通りの交番に入り、住宅地図で最終的に教わった。向善寺は旧東海道筋から北へ少し入った、藤枝東高正門に近い所であった。「駿河一国百地蔵尊第廿ニ番」の板は本堂に付いていた。ご本尊が延命地蔵菩薩であった。

結局は、向善寺は六角庵の前に参れば最も効率的で、無駄が無かった。けれども、色々な人に道を聞き、それぞれに精一杯教えようとしてくれて、そんなふれあいがあっただけでも、迷った甲斐があったというものである。(つづく)
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第24番 満蔵寺/延命地蔵 - 駿河百地蔵巡り 3回目

(暁居山満蔵寺本堂)

今週の月曜日に続いて、駿河百地蔵巡りの3回目である。今日も日差しが強く、快晴の空は陰ることが無かった。前回は藤枝駅で終わっているから、今回は藤枝駅から歩き始めた。今日の予定は藤枝の旧市街にある、第24番暁居山満蔵寺/延命地蔵、第23番妙高山六角庵/子育地蔵、第22番牛頭山向善寺/延命地蔵、第21番普門山観音寺、第20番西了山慈眼寺/抱地蔵の5地蔵を巡る予定である。例によって番外の地蔵も積極的に巡ろうと思う。


(興福寺の地蔵堂の内部)

藤枝駅から真っ直ぐ北へ歩く。前回から四日目だが、足に違和感はなく、快調に歩が進む。国道を渡る青木の交差点の少し手前で、右手の道路奥にお堂らしきものが見えた。確認に行くと、感が当って地蔵堂であった。番外の護国山興福寺の延命地蔵堂である。格子の引戸を開けて入りお参りした。


(満蔵寺三仏堂)

青木の交差点を越すと、かつての藤枝宿に向かう旧東海道を進む。途中から1本東側の道路を進み、瀬戸川に架かった、歩行者と自転車専用の橋を渡った先に、満蔵寺の屋根が見えてきた。今日最初の駿河百地蔵である。これも延命地蔵で、「駿河一国百地蔵尊第廿四番」の板が本堂に張られていたので、御本尊なのであろう。本堂左脇に文殊、勢至、普賢の3菩薩が祀られた、三仏堂がある。

本堂前の由来碑によると、元弘元年(1331)春、京都より児島中将範長の三男、児島七郎高久が駿河国に来て、稲川の森に住み、29歳の時、宝楽寺(焼津市田尻)五世知然法師の密法を受け、延元二年(1336)暁居和尚と改名し(35歳)、延命地蔵菩薩を本尊として、草庵を創建した。これが暁居山満蔵寺の始まりである。

同様に、三仏堂の由来も記されている。応仁の乱が続いていた頃、楠木正成の子、正行は家宝の三尊仏が戦火に焼失することを恐れ、それを奉持して焼津の浜に上陸した。正平二年(1347)秋の真夜中、その内、文殊菩薩と普賢菩薩を唐櫃に納め、家山に上る途中、満蔵寺の山門を叩き、二仏を奉納して去った。住職は別堂を建て、後に勢至菩薩を合祀し、三尊仏として祀った。

応仁の乱は、応仁元年(1467)に始まり、文明九年(1477)に終わる、およそ10年続いた戦乱である。上記記述には時代の錯誤がある。楠木正行は貞和四年(1348)四條畷の戦い(大坂)に敗れて自害している。100年以上ずれている上に、戦死する前年に、家山に来る用があったというのも、何か変である。


(養命寺地蔵堂)

旧藤枝宿の通りに戻って、しばらく歩いた。藤枝大手の交差点の手前で、右側路地に地蔵堂を見つけた。番外の養命寺の延命地蔵尊が祀られた地蔵堂であった。 

延命地蔵が3ヶ所続いた。地蔵尊の中で、延命地蔵尊が最もたくさんある。かつては、何十年かに一回は、冷害で作物が採れず、餓死者が出ることが何度もあった。人々の願いは、長生きすることよりも、こういう冷害で食糧難になっても、何とか命を長らえることであった。延命地蔵はそんな切実な願いを受けていた。(つづく)
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「佐束紙」を掴まえた

(未使用の佐束紙)

昨日、大東図書館長さんから電話をいただき、昔「佐束紙」を作っていたお宅と連絡が取れた。聞いたところでは明治時代まで佐束紙は作られていたと聞く。

それなら是非御本人にお会いして、直接話を聞いて来なければならないと思い、電話番号を調べて電話し、訪問を約束して、午後一番に訪れた。掛川市高瀬の鵜藤さんというお宅である。高瀬は佐束郷の一村で、そこで造られた楮紙が、佐束紙と呼ばれたことに矛盾は無い。

鵜藤さんのお宅は、昔は庄屋をしていた旧家である。鵜藤満夫氏は現在80代で、大学を卒業した20代始めから、農業のかたわら、郷土史を勉強され、幾つかの本も執筆された、名のある郷土史家である。


(佐束紙を使った年貢割付帳)

訪問すると、御本人が数冊の古文書とわずかに残った未使用の佐束紙を出して、準備していただいていた。古文書は年貢の各戸への割付帳で、3センチほどの厚みがあり、こういう割付帳が毎年三部作成され、一部が御役所へ、一部が郷倉へそれぞれ渡し、一部がここに残ったという。宝永六年、天明元年、延享弐年の標題が見える。毎年の、これらの書類作成だけでも、庄屋というのは大変な職務だと思った。


(楮を生産した裏山)

佐束紙はこれらの文書を作成するために必要で、すぐ裏手の小笠山の一部を藩から借りて楮(コウゾ)を育て、鵜藤家で自ら紙漉をした。江戸から明治にかけて作っていたことは判っている。但し、製法など、書き残されたものは全くない。家業の一部として、親から子へ、子から孫へと引き継がれてきたものである。鵜藤氏は秘伝だったと表現された。紙漉に使われた道具類もとっくの昔に処分されているようで、鵜藤氏も見たことがないという。

佐束紙は当初は自家用だったため、丈夫な紙を必要とする庄屋のような限られた家でしか作られておらず、近辺でも3軒ほど佐束紙を作っていた旧家があったと聞いている。(明治の頃まで)

佐束紙はその品質の良さが評判になり、藩御用達の紙となった。納めた紙の一部は商人に渡り、流通したと思われる。この地区は、江戸時代の初めは横須賀藩の所領であったが、途中から掛川藩の所領となった。納めたのも、始めは横須賀藩で、後には掛川藩になる。(鵜藤家の御先祖は藩の物産所の教授をしていたという)

品質の高い佐束紙がこの地で生産された理由は、小笠山の地味がコウゾに合っていて、収穫するコウゾの品質が良かったことと、小笠山の水が自宅裏に湧き水になっていて、その水が紙漉に欠かせなかったことが上げられる。佐束紙は大変丈夫な紙として珍重されることになった。

他の村から出る古文書の紙はミツマタで作った紙が多く、ミツマタは育てるのに楽で、紙も白く出来て良いのだけれども、紙の強度で劣る。だから、年数が経つと痛みがはげしい。

江戸から明治にかけての、佐束紙の生産地の様子は判ったけれども、疑問な点が幾つか残った。一つは、佐束紙が文献に出てくる最初は、16世紀の中半の「言継卿記」だという。その佐束紙と、鵜藤家の佐束紙が同じかどうかの確証がない。二つは、鵜藤家の佐束紙が、井川の海野家の周辺でやり取りされた佐束紙なのかどうかである。

二つ目の疑問は、佐束紙はもともと自家用で、後に藩御用達として、藩に限って納められていた。その量も限られたもので、高価なものだったと思われる。とても駿府の町でやり取りされるほどの供給は出来なかったはずで、志太郡や安倍郡で生産されていたとする情報が信憑性を帯びる。そんな話を鵜藤氏にすると、まがい物はたくさんあったでしょうね、と言われてしまった。

佐束紙の紙漉は、コウゾの繊維、のり、水、の三つの材料があれば出来る。しかし、良質な佐束紙には、伝わっていないけれども、その製法には秘伝があっただろうと語る。「のり」は米のりだったのか、葛からも「のり」が取れたと聞いたこともあるが、判っていないという。

紙漉の「のり」としては、本格的にはトロロアオイなどが有名だが、趣味で紙漉をするには洗濯のりが使われることが多い。「海野弥兵衛信孝日記」に「のり」の購入の記述が何度かあったことを思い出した。あの「のり」は食べる「のり」ではなくて、紙漉用の「のり」ではなかったか。「くず紙」をくれたとの記述もあったから、井川で再生紙としての紙漉が行われていたことは、間違いと思われ、そこに足らないものは「のり」である。井川で「のり」の需要は多かった。もし、米のりが使われたとすれば、井川では生産が難しい材料である。

鵜藤氏のお宅で、2時間ほど、佐束紙以外にも、鵜藤氏が今興味を持っている郷土史などについて、色々お話を聞いて、大変に勉強になった。
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第26番 鏡池堂 六地蔵 - 駿河百地蔵巡り 2回目

(鏡池堂)

第25番延命寺延命地蔵尊から、国道1号線に戻り、渡って旧東海道筋に出た。ゴルフ練習場の東、街道脇に小公園があって、延命地蔵尊が祀られた小さな地蔵堂がある。かつてはこの辺りには、瀬戸山という山があったが、東名高速道路建設のために土取りされ、山が無くなった。現在はその後に国道1号線が通り、商業施設が出来、ゴルフ練習場となっている。


(瀬戸山延命地蔵堂)

その昔、瀬戸山の中腹にあった地蔵堂は、現在地へ移築された。格子の中には身の丈1メートルほどの石のお地蔵さんが安置されていた。瀬戸山にはたくさんの古墳があったようで瀬戸古墳群と呼ばれていたが、土取りにより失われ、地蔵堂のすぐ隣りに、瀬戸古墳群供養塔が建てられている。事前に発掘などもされたのであろうが、日の出の勢いの日本が国の威信を掛けて建設した高速道路に、歴史的な景観を壊す、強引な土取りだったように思う。

昔、大井川は山峡から平地に出てくると大きく暴れて、東は瀬戸山の裾まで流れが来た時代もあった。岸という地名が名残としてあったり、ここから南へ「千貫堤」が築かれた跡も残っている。これより200メートルほど南に、千貫堤・瀬戸染飯伝承館という施設がある。ここまで来たから覗いてみたら、あいにく月曜日でお休みだった。ちなみに、瀬戸染飯は江戸時代、この地の名物であった。

旧東海道を500メートルほど東へ進んだ三叉路の角に、駿河百地蔵、第26番 鏡池堂 六地蔵がある。鏡池堂の鰐口の後ろに隠れるように、「駿河一国百地蔵尊第廿六番」の板が張ってあった。

案内板によると、鏡池堂の六地蔵尊は神龍が棲んだ鏡ヶ池から出現したと伝わる。東海道筋にあって、名所として旅人が立ち寄り道中の安全を祈願した。正徳三年、当地支配の大草太郎左衛門は御嗣子がなかったため、この六地蔵尊に祈願したところ、お子様を授かった。そこで手代向坂仁右衛門を普請役として、鏡池堂の堂宇を寄進されたという。


(鏡池堂 六地蔵石碑)

六地蔵の本像は知証大師の自作とされ、30センチばかりの金色に彩色された木仏で、厨子の中に納まっている。ご開帳は33年目毎に行われるという。境内鋭角地に六地蔵を浮き彫りにした石碑があるが、上部2地蔵分が壊れて失われ、残った像も剥落が進み、そのため、新しい六地蔵の石碑が手前に建てられていた。

この後、藤枝駅まで歩き、本日の巡拝を終えた。駿河百地蔵3ヶ所、番外4ヶ所を巡った。朝8時20分に歩き始めて、午後1時半には歩き終えた。約5時間、歩数29,909歩で、20キロ弱の歩きであった。
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第25番 長古山 延命寺 - 駿河百地蔵巡り 2回目

(長古山 延命寺山門)

はなみずき通りの娘婿の実家、O氏宅の前を通ると、O氏は前の畑で農作業中であった。少し立ち話をした。O氏は早朝、毎日散歩で白岩寺公園(白岩寺山 H160)に登っている。毎日10人位、散歩で登っている人がいる。あのレシャードさんにもよく会う。白岩寺公園の先には、少し下って登らなければならないけれど、お地蔵さんのある地蔵山があると話す。レシャードさんは近くで開業する、アフガニスタン人の医師で、有名人である。自分の気持が次の地蔵山に反応した。通り道だから白岩寺公園に登り、地蔵山まで足を伸ばそうと思った。

白岩寺公園に登る途中に、白岩寺がある。大きな本堂ながら、屋根の棟瓦が崩れて、本堂周囲が立入禁止になっていた。案内板によると、白岩寺は黄檗宗を日本に伝えた隠元禅師の法統を継ぐ、宝山最頂禅師が、元禄7年(1694)、島田代官、長谷川藤兵衛、及び島田宿の小塩孫十郎真之の助力によって建立開山した。正徳四年(1714)、火災に遭って全焼したが、彦根城主井伊侯により再建され、現在に至るという。


(白岩寺公園からの眺望)

放置茶園の斜面を一登りで白岩寺公園に出る。広い草地の山頂から、島田市が広い範囲で眺望できる、絶好の展望台であった。途中で数人の散歩する熟年の人たちに会った。わずかな登りだったが、運動不足に鈍った身体にはきつい登りだった。


(地蔵山の地蔵)

それより少し下って登り返したところが地蔵山であった。途中の登り道にはまだ夏の小虫たちがいて、肌を刺したり、うるさく集(たか)る。薮山にはまだ登る季節ではないと思った。山頂に新しい祠が建ち、石のお地蔵さんが安置されていた。登山道はこの先、話に聞いていた「阿知ヶ谷アルプス」に続くようだ。もう少し季節が移ったら「阿知ヶ谷アルプス」をたどってみるのも楽しそうである。白岩寺公園に戻って景色を眺めながら、自宅から持参のおにぎりを食べた。


(香橘寺の地蔵と六地蔵)

白岩寺山の東側に、香橘寺がある。県指定天然記念物の大南天を見に来たことがあるが、今日はお地蔵さんである。境内には見つからず、道路を横切った先の旧参道に、一体のお地蔵さんと、六地蔵がそれぞれ別の屋根の下に並んであった。

日差しがじりじりと暑い中、藤枝市に入り、光洋台団地の東側に延命寺を探した。古い道路が迷路のようで、方向感覚を失い、聞きたくてもお昼時分になって聞くべき人が誰もいない。ようやく自転車の中年男性を捕まえ聞いた。延命寺は有名なお寺ですよねえ。あそこではないですか。山裾の小高い所に見える屋根を示したが、自信はなさそうであった。近くまで行くと延命寺ではなく、光明寺であった。しかしおかげで自分のいるところがわかり、延命寺はすぐ先であった。


(延命寺の延命地蔵)

「南無延命地蔵菩薩」と、赤地に白抜き文字の幟がたくさん出ていて、すぐにそれと判った。山門に「駿河一国百地蔵尊第廿五番」の板が打ちつけてあり、間違いないと確認した。まずは東司(トイレ)を借りた。水分が汗で出てしまうので、トイレを借りるのはここが初めてだった。幟に導かれ、山門左手の地蔵尊に参った。延命地蔵尊を真ん中に、右手に、浮き彫りにした六地蔵(地蔵部分が剥落を始めている)、その右には庚申塚がある。見ざる、言わざる、聞かざるの彫刻でそれと判る。左側の石像は馬頭観音であろう。左端の石像は何の像か判らない。(つづく)
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第27番 旗指地蔵堂 恐山地蔵尊 - 駿河百地蔵巡り 2回目

(旗指地蔵堂)

駿河百地蔵巡りの2回目である。前回から20日近く経っている。前回、余りにも暑くて往生したので、しばらく期間を取った。今日は最高気温で5度ほど下がっているから、凌ぎやすいと思いきや、なかなか日差しは暑かった。

今日は、第27番旗指地蔵堂/恐山地蔵、第25番長古山延命寺/延命地蔵、第25番鏡池堂/六地蔵(延命地蔵)の3地蔵を巡り、藤枝駅から電車で戻る予定である。道中で見つければ、幾つか番外のお地蔵さんにも参るつもりである。

前回、地図も持たずに出かけてきて、第27番旗指地蔵堂まで行き着かず、次回に回した。最初に旗指地蔵堂を目指して歩く。前回、自宅まで歩いて戻ったから、今回も自宅から歩いて行くことになる。トレースを繋いで行くためである。


(慶福寺晦地蔵)

旗指地蔵堂の途中で、伊太の入口にある慶福寺に寄った。前に来たとき、お地蔵さんがあったような記憶があった。石段を少し上って、山門を潜ると左側にお地蔵さんは祀られていた。板に墨で御詠歌が書かれているが、ほとんど判読出来ないほど薄れてしまっている。ただ標題は「晦地蔵御詠歌」と何とか読めた。はじめは「梅地蔵」と読んで、ここ伊太地区は梅の産地であるから、それに関連した名前かと思ったが、近付いてよくみると違った。

「晦」は「つもごり」とか「暗い」の意。旧暦では月末は新月で暗いわけである。月末が縁日なのか、あるいは暗い闇を照らすお地蔵さんなのか。そばを通った熟年の夫婦に意味を聞いてみたが、判らないという。脇に意味ありげに長い男性シンボルが奉納されていた。通常なら五穀豊穣のシンボルなのであろうが、別の意味があるのかもしれない。

国道1号線、旗指インターの近くに、第27番旗指地蔵堂はあった。お堂の扁額の右脇に「駿河一国百地蔵尊第廿七番」と刻まれ、文字が白く彩色された板が掲げられていた。駿河一国百地蔵尊には同じ板がどこかに張られているのだろうと思った。前回の関川庵では確認しなかったが、百地蔵尊すべてに同じ板が掲げられているのだろうと思い、必ず確認しようと思った。


(旗指地蔵堂 恐山地蔵尊)

縁起を書いた石碑があった。碑文によると、このお地蔵さんは明治の中頃、旗指に疫病が流行して村の人々が苦しんでいた。往時この地にあった伝心禅寺の住職が、疫病平癒と村内平安を祈念して、同郷の知僧、奥州円通寺住職に頼み、御本尊地蔵菩薩の御分躰を請うた。御分躰の運搬は、鉄道が青森まで開通していたにもかかわらず、住民信者が二百数十里(1130キロ)を背負って運んできたという。奥州円通寺は名高い恐山のお寺である。そのため、この地蔵尊は「恐山地蔵」と呼ばれている。(つづく)
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「佐束紙」を追って

(掛川市大東図書館)

駿河古文書会で、「海野弥兵衛信孝日記」を読んでいて、「佐束壱状」というものが頻繁にやり取りされている。伊勢参宮のお土産だったり、年頭のお年玉であったり、ちょっとしたお遣い物として使われている。これは何なのかという説明に、掛川の佐束で作られた紙だと説明があった。丈夫な楮紙で、昔の帳簿などに使われた。どこの家でも必需品だったのであろう。

商家にとっては帳簿類は大変大切である。だから火事になると、帳簿類は井戸に放り込めといわれたという。丈夫な和紙に墨で書かれた帳簿は、燃えさえしなければ、水に濡れても駄目になることはなかった。「佐束紙」はそれほど丈夫な和紙であった。

ある会員から、この「佐束紙」について、掛川市佐束の地元の人に聞いても誰も知らないという。ブログを見ていると、当会員に掛川の古文書講座へ出席している方がいるから(このブログは「かさぶた日録」のことである)「佐束紙」について調べてもらいたいと、話が暗に自分に振られた。

そこで、今日、掛川中央図書館へ行って、「佐束紙」について聞いてみた。それなら、大東図書館に行くようにと、館長さん(女性の方)を紹介され、大東図書館に出向いた。館長さん自ら「佐束紙」について調べはじめていただいており、確かに「佐束紙」は広辞苑にも載っている。しかし館長さんも今まで聞いたことがないという。旧佐束村に関連する郷土史の資料を出してもらい、色々に当ってみるが、「佐束紙」については全く手掛かりがない。広辞苑に載るような「佐束紙」について、地元で何も判らないことに、大変恐縮された。一つだけ、地元の郷土史家のお宅で、昔、紙を漉いていたという話を聞いたことがあるので、後日聞いてみると約束してくれた。

帰宅後、ネットでさらに見ていくと、「佐束紙」が文献に最初に出てくるのは、16世紀の中半の「言継卿記」であるが、その後の「駿河国新風土記」では安倍川流域で産するとあり、渡辺崋山の「金楽堂日録」では、志太郡岡部・藤枝に産すると書かれており、もともと佐束で作られていた楮紙が消費地府中に近い志太・安倍両郡で量産されるようになり、佐束では早いうちに廃れてしまったのではないかと想像した。

帳簿に利用された丈夫な楮紙のことを、原産地の地名から「佐束紙」と呼んできたが、産地がより消費地に近い志太・安倍両郡に移り、早い時代に原産地の佐束では廃れてしまい、呼び名だけが残った。この後、新しい情報があるまでは、そのように考えておこうと思った。

「海野弥兵衛信孝日記」には、「かぞ掛け改める、拾九貫百目」「かぞ相送り申しべき段、申し遣わす」など、「かぞ(楮)」の記事が出てくる。あるいは、井川でも材料を取り寄せて「佐束紙」が漉かれていたのではないか。これは憶測で根拠は無い。
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海野弥兵衛信孝日記(15) - 駿河古文書会

(ブロックと砂利の間から花を咲かせたサフランモドキ)

昨日に続いて、海野弥兵衛信孝日記の続きである。弥兵衛さんはもう一月近く難波屋に滞在している。

二月朔日
一 文四郎認め候書面、得と勘弁いたし、兄へも右書面、一見に入れ申し談じ候事
※ 勘弁 - 物事のよしあしをよく考えること。
 但し地脇の者来たる
一 嶋津様よりの御返翰、落手いたす
 但し、過日替り来たり候に付、森惣左衛門方まで、その段相咄し、差し出し置き候処、取り替え来たり候事

二日
一 羽鳥藤兵衛様、難波屋へ来たり候由、自分留守にて、逢い申さず候事
 但し岡孫之進殿よりの年始状、御持参の由、もっとも落手いたし候事

三日
一 二十四文、莨

四日
一 文四郎呼び寄せ候、もっとも書面へ、今一日、相掛け居り候事
一 七拾三文、茶菓子代

五日
一 十六文、梳油代
一 金弐朱と弐百五文、未(ひつじ)年分、木村惣左衛門へ払う
 但し、扇子箱、状箱代なり
一 紀州海野兵左衛門殿よりの書状、到来落手致す
 但し、年始状なり

六日
一 丗(文)、乳母風(風邪)薬代

七日
一 文四郎呼び寄せる、もっとも書面へ、今一日相掛け居り候事
一      茶菓子代
一 二十四文、莨
一 草深町吉蔵来たる、もっとも口坂本村与四兵衛よりの手紙、持参受け取り候
一 金壱両壱分、井川養父へ差し向き相送る、使い草深町吉蔵
※ 差向(さしむき)- さしあたり。今のところ。当面。
 但し、井川にて養父へ引き合い置き候、無尽掛け金不足分なり、もっとも書付添え遣わし候事

八日
一 休日

九日
一 十八文、大半紙
一 百五十文、清兵衛雇い賃払う
 但し、羽鳥より丸子まで参られ候節の分
一 五十文、小遣い
一 百文ろうそく奉納分、使い巳之助
一 十二文、小遣い遣わす
一 三十弐文、使い賃払う

十日
一 羽鳥藤兵衛様、難波屋へ来たる、もっとも面会相咄し候
 但し、安部家への書面、一見に入れ候事
一 藤兵衛様、難波屋へ泊まる

十一日
一 羽鳥藤兵衛様、御帰り成られ候、もっとも御同人、来たる十四日、御出で成られ候由
 但し、品々相咄し候事
一 二十四文、莨

十二日

十三日
一 自分儀、文四郎方へ罷り出で候
 但し、藤兵衛様書面の儀、申し談じ候、もっとも自分書面の儀も、品々申し談じ候事

十四日
一 昼八つ時過ぎ、文四郎難波屋へ来たる
 但し、羽鳥藤兵衛様、書面持参致され、一見いたし候、もっとも右書面預り置き候、その外、自分書面、種々申し談じ、相直し候事、もっとも七つ時過ぎ、文四郎帰られる
一 四十八文、茶がし代
一 千代惣市様、難波屋へ来たる、もっとも面会いたし候
 但し、御同人様、江戸表より帰られ、初めて面会相咄し候事
一 今朝、草深利右衛門、荷持ちの者来たる、もっとも兼て申し遣わし置き候事
 左の通り、相渡し遣わし候
  一 米三斗弐升、井川上屋敷へ相送り候
    この賃
 但し、賃銭この次一所(一緒)に相渡し候つもりにて、渡し申さず候事
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海野弥兵衛信孝日記(14) - 駿河古文書会

(今年の巨人は強かった - 本日リーグ優勝)

午後、駿河古文書会へ出席した。引き続き、「海野弥兵衛信孝日記」を読む。

二十四日
一 自分儀、文四郎殿方へ罷り越し候
 但し、書類持参、文四郎殿へ面談いたし、書面の儀、品々申し談じ、相頼み置き候事、もっとも佐束壱状、これまた持参相渡し置き候

二十五日
一 十八文、大半紙
一 認めものいたし候
一 羽鳥村藤兵衛様、難波屋へ来たり候由、もっとも直ぐに帰られ候由、自分逢い申さず候事

二十六日
一 五十六文、油壱本
一 百文、菓子弐
一 六文、小遣ひ
一 百文、菓子壱
一 十文、草り(草履)
一 千代兵蔵様、難波屋へ御出来、御目に懸かり候事、もっとも品々相咄す
一 自分儀、羽鳥村より千代村まで、年始礼に罷り越し候、もっとも左の通り、持参ものいたし罷り出で候事
   一 佐束壱状
     汐見まんじゅう壱箱 藤兵衛様方への年玉
   一 扇子壱つい(対)   久左衛門様方への年玉
   一 花おこし壱箱     久兵衛様方同断
   一 同            平四郎様方同断
   一 菓子壱箱       千代惣一郎様方同断
  但し、供清兵衛召し連れる
一 途中にて藤兵衛様に御目に懸かり候事
一 藤兵衛様方にて馳走に相成り候事
  但し、好斎様へ安部家への願い一条、申し談じ置き候事
一 藤兵衛様方へ、安西四丁目安右衛門来たり、同道帰り候事
一 書状箱入壱通
  右は紀州海野家への年始状なり、兼て認め置き候処、今二十六日、丸子宿御詰所への頼み手紙相添え、使い清兵衛を以って差し出し候事、もっとも日付は前日なり
一 嶋津式部様よりの御返翰、難波屋方まで来たる
  但し、披見いたし候処、右御返翰、間違い来り候に付、早速、森惣左衛門殿へ右の段、品々相咄し、右御返翰、同人へ相渡し置き候事、もっともついでこれ有り、自分、同人方へ立寄り、かくの如し
※ 返翰 - 返事の手紙。返書。
※ 披見 - 手紙や文書などを開いて見ること。


二十七日
一 羽鳥村久左衛門様方より、自分へ赤飯到来候
  但し、昨年同所祝いの砌、肴壱籠差し進じ候儀ニ付、右の通り取計われ候様、相見え候事
一 拾弐文、らを竹
※ らを竹(羅宇竹)- キセルの火皿と吸い口をつなぐ竹の管。
一 弐文、のり壱
一 草深町利右衛門、荷持ちの者来たる、左の通り
 一 米三斗弐升、井川下屋敷へ相送り候分、渡し遣わす、
   この賃銭、八百文
   外に過日分、賃銭八百文
   二口合わせて壱貫六百文、右の者、請け取りたき段、申す事に付、相渡す、皆済なり
かます弐つ代
※ かます(叺)- わらむしろを二つ折りにし、縁を縫いとじた袋。穀類・塩・石炭・肥料などの貯蔵・運搬に用いる。
一 米壱斗、買い入れ候事
  代
一 二十四文、莨
一 文四郎殿、難波屋まで来たる、もっとも書面持参、一見いたし、なお又申し談じ置き候事

二十八日
一 四十八文、あんま
一 十八文、大半紙

二十九日
一 四十八文、ようかん代
一 四十八文、菓子代
一 文四郎来たる
 但し、書面持参、一見いたし、品々申し談じ候事
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