平成18年に60歳を迎える。六十と縦に書くと傘に鍋蓋(亠)を載せた形である。で、「かさぶた(六十)日録」
かさぶた日録
「竹下村誌稿」を読む 214 竹下村 74
昨日、「月岡」と読めて、残った疑問、何と云う旗本の陣屋であるのか。名前の出てくる、板沢村、杉谷村、亀甲村の三村が、その旗本の知行地なのかどうか、という二つの疑問の解決のため、菊川市立図書館菊川文庫に出掛けた。窓口で「月岡」のことを調べたいと相談すると、今KT先生がいらっしゃるから、聞いて下さいと言われた。KT先生は掛川の図書館で、古文書講座をされていて、この10年ほど、出席しているから、よく知っている。
しばらく待って、KT先生としばらく歓談した。聞いたところ、月岡陣屋は旗本井上志摩守の陣屋で、その三村はその知行地に間違いないと思う。明治になって、初代静岡県知事の関口隆吉が、月岡陣屋の跡地に居宅を構えたことで知られていると聞いた。月岡の場所を教えてもらい、その後、立ち寄った。今は小高い場所に八幡神社がある。そこから南側に広がる茶畑に、どうやら月岡陣屋はあったようだ。
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「竹下村誌稿」の解読を続ける。
因って云う。この時(御蔭祭りの時)、編者、年十三。偶々(たまたま)愚妹、不幸にして明を患う。父は患者を伴い、眼医に投じて、治療を受けつゝあり。しかも、父母は竊(ひそか)に薬師に願を掛けて、日夜眼疾の平癒(へいゆ)を祈りしが、一夜、十一時過ぎとも思ぼしき頃、あわただしく家の妻戸を叩くものあり。呼んで曰く、札を授(さず)くべければ、清浄の火を点ずべしと。因って、祖父は神仏に灯火を点じて、戸外に出でたり。
※ 妻戸(つまど)- 両開きの板戸。
編者は何者ならんと、祖父に尾行して見れば、身の丈け六尺にも余るべく、雲突くばかりの大の男、仁王立ちになり、声もまた荒(あら)らかに謂うて曰く、予は秋葉山に住する天狗なり。当家は平常薬師を信仰すること厚ければ、薬師の札を授くべしとて、右の手に持ちたる札を祖父に手渡し、かつ曰く、若し苟(いやし)くも疑念あらば、証左を示すべしとて、左の指を開けば大豆大の火の玉、忽ち二、三尺の猛火となりて、四辺、白昼の如く輝き、その指を握れば、猛火は忽ち元の如く掌中に潜みて、更にその光を見ず。言い終りて、一と足飛ぶかと見る間に、彼は驀地(まっしぐ)らに虚空をさして、掻き消す如く飛び去りたり。
※ 証左(しょうさ)- 事実を明らかにするよりどころとなるもの。証拠。
祖父は戦々として家に入り、その札を展覧すれば、即ち、城東郡中村、吉長山満勝寺薬師の札なれば、これを仏壇に安置して、一同礼拝せり。間もなく、前の天狗、復た来たり。庭前を東西に翺翔せり。(何故なるを知らず)その響音の凄まじきこと、謂わん形なく、恰(あたか)も暴風の襲い来りしが如く、妻戸はがた/\と東西に響き渡りて、已に破れしかと怪しまる。編者はその物音に胆を潰し、為す術(すべ)を知らず寐に入りたり。実に九月二十三日の夜なり。その翌日より、例の御蔭祭りとて、村内上を下へと大騒ぎをなしたり。
※ 戦々(せんせん)- 恐れおののくさま。
※ 翺翔(こうしょう)- 鳥が空高く飛ぶこと。
この事、今日より推考すれば、殆んど荒誕不可思議なる怪事にして、幕末に於ける社会状態の側面の出来事とも見るべく、心あるものは苦笑するの外なしといえども、編者は幼年の事とて、神心未熟とは云え、これを眼前に演出し、天狗より手渡しされたる薬師の札も、そのまま保安しあり。しかも天狗の火を握り、また庭前を翺翔せし時の響きの如きは、身の毛も弥立(よだ)つ怖るべきものにて、到底人力の為し能(あた)うべきものに非ず。何ぞ好んで怪を語るものならんや。
※ 荒誕(こうたん)- おおげさで、でたらめなこと。
※ 神心(しんしん)- 心神。こころ。精神。
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「竹下村誌稿」を読む 213 竹下村 73
たった、これだけの文字が読めなくて、数ヶ月悩んでいた。「片岡」「行岡」「向岡」等々、色々考えたが、答えが見つからなかった。それが今日閃いた。答えは「月岡御役所」。菊川市に月岡という地名があり、近隣に知行地を持つ旗本の陣屋があったようだという所までは分った。旗本の名前を今調査中である。古文書を解読していると、一文字がこのように読めないで悩むことが多々ある。しかし、何度も眺めていると、突然に閃くものである。
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「竹下村誌稿」の解読を続ける。
文久三年(1863)、これより先、外使来舶以来、攘夷の声、囂(かまびす)しく、二月、将軍家茂、東海道より上洛す。
元治元年(1864)正月、将軍再び上洛す。京師騒擾し、人心恟々たり。この時に方(あた)り、幕府の紀綱、漸く弛(ゆる)み、従いて地方の政事、殆んど挙がらず、所謂(いわゆる)強きもの勝ちとなり、不安の飛語流言多く、水戸牢(浪)人襲い来るとのことを伝え、各々自防禦のため、村内毎戸、その竹槍を作り、これに備え、自衛の道を講ぜり。これまた止むを得ざるに出でしものなるべし。
※ 京師(けいし)- みやこ。帝都。京都。
※ 騒擾(そうじょう)- 集団で騒ぎを起こし、社会の秩序を乱すこと。騒乱。
※ 恟々(きょうきょう)- 恐れおののくさま。おどおど。びくびく。
※ 紀綱(きこう)- 国家を治める上で根本となる制度や規則。綱紀。
※ 飛語流言(ひごりゅうげん)- 事実とは異なる伝聞。確かな根拠のないうわさ。デマ。
慶応元年(1865)五月、将軍東海道より進発し、長州征伐となり、伏見の戦争となり、戊辰の役を醸成せり。
※ 醸成(じょうせい)- ある気運・情勢などを次第に作り上げてゆくこと。
同三年(1867)八月、神社仏閣の配り札、尾張、三河辺に天より降ることあり。御下りと称し、また御蔭祭りと云う。このこと東漸し、近傍所々に神仏の札、空中より降る。人々豊年の前兆、家門繁栄の吉瑞なりとし、檀を設けてこれを祭り、酒餅を供えこれを祝いたり。御下りあれば、村内の人々は勿論、近村のもの奉祝参詣と称し来るもの、日夜引きもきらず。
※ 吉瑞(きちずい)- めでたいしるし。吉事の前兆。
或るは礼参りと称し、白手拭いにて後ろ鉢巻きをなし、神仏に裸参りをなし、或るは男女互いに扮装を換え、天狗に擬し、妊婦に似し、或るは大名行列を仮装し、各々思い思いに滑稽の粋を尽くし、或るは遽(にわ)か踊りを催し、練(ね)りだすあり。歌うあり。金銭を撒くあり。かく業務を捨てゝ浮かれ歩くこと、十余日、その挙動殆んど名状すべからざるものあり。当時、左の数え謡(うた)流行せり。
一つとせ 人々喜こぶお下りに、笹や幟(のぼり)を立ち並べ
二つとせ 不断(平生)に始末な人までも、夢中で金銭撒き散らす
三つとせ 見る人来る人呼び込んで、勧める御神酒の限りなし
四つとせ 夜る昼寝ずに神参り、夢中で唱える六根清浄
五つとせ 一番繁昌が酒屋店、続いて呉服屋肴店
六つとせ むざむざ黒髪切り揃え、島田くずして大銀杏
七つとせ なかにも真面目な人たちが、自然に浮かれて踊り出す
八つとせ やたらに振舞酒と餅、国々お蔭で伊勢参り
九つとせ この世も平らに治まりて、御番所関所も手形なし
十とせ 年寄小供に至るまで、餅やらお酒で大騒ぎ
以って戯態の一班を知るべし。編者は現にこの御蔭祭りを目撃せしが、附近至る所、数え謡の如し。九月、本村八木為三郎氏に太神宮の札降る。
※ 戯態(ぎたい)- たわむれる様子。
読書:「それからはスープのことばかり考えて暮らした」 吉田篤弘 著
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「竹下村誌稿」を読む 212 竹下村 72
台風は西へ去り、未明に伊勢市に上陸した。お昼時、「洗濯物」という女房の声に、シャワーのような驟雨の中、庭へ出て洗濯物を取り入れた。洗濯物はびしょ濡れで、自分もぐっしょり濡れてしまった。気が付けば、雨は嘘のように上がっていた。逆走する異常な台風で、台風一過とはならなかった。
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「竹下村誌稿」の解読を続ける。
安政二年(1855)六月二十七日、本村領主太田資始(すけもと)(備後守、号道淳)再び老中となり、専ら外交、財政の機密に参与す。始め資始、天保中(1831~1845)、老中となり、議協(かな)わず辞職し、弘化中(1845~1848)、寺社奉行となりしが、近時世間、物騒がしきを以って、幕府簡拔して、また老中に挙げると云う。これより先、幕府砲台を品川に築き、諸侯に軍艦を造ることを許す。この年、講武所を新設し、兵勇を用意し、海岸に備え、天下の梵鐘を潰して、大砲を造る。
※ 簡拔(かんばつ)- 選び出すこと。よりぬくこと。
※ 講武所(こうぶしょ)- 江戸時代末期に設けられた幕府の軍事修練所。
※ 兵勇(へいゆう)- 勇猛な兵士。
この時、五畿七道諸国司に下したる太政官符に、
諸国寺院の梵鐘を以って、大砲、小銃を鋳造するに応じること。
とし、頃年外舶来航により、海防は国家の急務なりとし、梵鐘を以って大砲、小銃を鋳造し、海国の不虞に備うべき所以(ゆえん)を宣布せらる。水戸藩率先してこれを鋳造す。
※ 頃年(けいねん)- ちかごろ。近年。
※ 不虞(ふぐ)- 思いがけないこと。不慮。
※ 宣布(せんぷ)- 政府などが公式に広く知らせること。
世間、異数とするものあり。落首に、
※ 異数(いすう)- 他に例がないこと。異例。
仏法を 鉄砲にする 水戸つ方 四方八方 公方貧乏
以って当時の情況を知るべし。
万延元年(1860)三月三日、水戸浪人、佐野竹之助外十余人、大老井伊直弼を桜田門外に刺す。この日、大風雪あり。咫尺を弁せず、直弼箯輿に乗じ、従者七十人喝道して行く。たちまち数人路傍より出て、前駆を襲う。従者、これに赴く。また数人あり、間に乗じて輿丁を斬る。従者返り救う。互いに死傷あり。一人跳(おど)り出て、直弼を刺し、首を提げて大呼して曰く、有村治左衛門、井伊直弼を獲(と)ったりと。数人高吟して、日比谷門に至り自殺す。その余、或るは死し、或るは去る。
※ 咫尺(しせき)- 距離がきわめて近いこと。
※ 箯輿(あんだ)- 負傷者・罪人などをのせてかつぐ粗末な駕籠。大老が粗末な駕籠に乗るわけはないが、ここでは、大老糾弾のため、囚人駕籠をイメージして表現したものと思われる。
※ 喝道(かつどう)- 昔、貴人の通行の際、先駆の者が道行く人々を大声で制した、先払い。
※ 輿丁(よてい)- 輿(こし)を担ぐ者。
※ 大呼(たいこ)- 大声で叫ぶこと。
初め外交条約訂盟以来、物議紛々。直弼、幕府の権威を張らんとし、その政策に反抗するものを処罰し、所謂安政の大獄を起し、道路目を以ってし、遂にこの挙を見るに至る。この時の落首に、
※ 訂盟(ていめい)- 締盟。同盟や条約を結ぶこと。
※ 道路目を以ってす - 西周時代の暴君・厲王は自分を非難した者を次々と処罰。誰もがものを言うことをはばかり、民は道で会うと目で互いの気持ちを伝えあったという逸話。
初雪に いい(井伊)立花も 散りにけり(井伊家紋章立花を用ゆ)
この事、直接本村に関わりあらずといえども、攘夷の与論が澎湃せしを知るに便せんとし、特に掲ぐるのみ。
※ 澎湃(ほうはい)- 物事が盛んな勢いでわき起こるさま。
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「竹下村誌稿」を読む 211 竹下村 71
台風12号の接近を気にしながら、午後、金谷宿大学、古文書に親しむ(経験者)の講座に行く。二日続けて、二時間の講師をこなした。さすがに少し疲れた。台風は夜に入って、静岡県の沿岸を東から西へ進んで行った。いつもとは逆の動きである。最近の気候には、驚かされることばかりである。
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「竹下村誌稿」の解読を続ける。
十一月四日、遠、駿、参の地、大地震あり。この日曇天、午前八時より午後一時に至る、強震数回あり。上を下へと混乱し狼狽して、戸外に出でしも、歩行すること能わず。ただ地上に転輾するのみ。
大地裂け、泥水を噴出し、家屋倒潰し、火災を起こし、壁崩れて黒煙を揚げ、人畜圧死するものありて、物凄く、その余震も五十余回に亘り、轟々(ごう/\)として地鳴り、或るは三十分、或るは一時間毎に震動せしを以って、家屋内に住するものなく、皆な竹林内に掘立て小屋を結び、数十日間、老幼相擁(よう)してこれに住せり。実に目も当てられぬ惨鼻と云うべし。
※ 惨鼻(さんび)- 酸鼻。むごたらしくいたましいこと。
幸いに本村に死傷なし。されど瓦を崩し、柱を摧(くじ)き、戸障子を破りし位の家は、その数を知らず。今なお編者の家にも、その前年新作せしと云う、破れし中戸の存せるを見るも、推想し難きに非ず。
※ 中戸(ちゅうこ)- 中位の大きさの家。
※ 推想(すいそう)- あれこれと想像をめぐらすこと。
郡志、安政地震の条に載せたる詩あり。一読して当時の惨况を知るべし。
※ 惨况(さんきょう)- むごたらしいありさま。いたいたしい状態。惨状。
地震 大草水雲
※ 大草水雲(おおぐさすいうん)- 幕末から明治期の画家。文化14年生まれ。東海道金谷駅の西照寺の住職・木村円海の第二子。画は西京にいる時に山本梅逸の門に学び、のちに椿椿山に師事した。
嘉永の歳、摂提格在り
至る後、朝送り、夜来たる客
醉面、勁風に驚く
昏黒、咫尺に迷う
※ 摂提格(せっていかく)- 十二支の寅の異名。
※ 勁風(けいふう)- 強く吹く風。強風。
※ 昏黒(こんこく)- 日が暮れて暗くなること。日没。
※ 咫尺(しせき)- 距離がきわめて近いこと。
一声、何物、地動き来たる
棟と梁、摧(くだ)け折れ、万雷、轟(とどろ)く
屋瓦散り、秋葉を飛ばすに似たり。
臂(ひ、腕)折れ、頭砕ける、真(まこと)に悲しむべき
※ 屋瓦(おくが)- 屋根がわら。
水立ち、甫(はじめ)に高し
山裂け、泥水迸(ほとばし)る
門外に、弟兄号す(大声をあげる)
岐路(分かれ道)に、母子哭(な)く(泣き叫ぶ)
地脈絶え、山岳傾く
刧灰溢(あふ)れ、天柱崩(くず)る
潜む龍、窟を逃げ、波上を跳ねる
老狐、巷(ちまた)に出で、白昼鳴く
※ 刧灰(ごうかい)- 劫火によってできる灰。
黒気(黒雲)天を衝(つ)き、日色昏(くら)し
地振れ、未だ止まず、海遷(うつ)り飜(ひるがえ)る
大涛(なみ)高く、江津樹に似たり
老幼、声々呼び、かつ奔(はし)る
※ 日色(ひいろ)- 日の色。また、太陽。
近隣、招き待ち、山に逃げ来たる
身を託す地無く、財を愛(おし)む
捨て去る、多年蔵して畜(た)めた宅(住居)
満天霜露、青苔に臥(ふ)す
読書:「完全犯罪の死角 刑事花房京子」 香納諒一 著
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「竹下村誌稿」を読む 210 竹下村 70
この酷暑に、健気に花を咲かせているのはサルスベリぐらいであろうか。我が家のサルスベリは白だが、聞くところによると、この辺りでは薄紫のサルスベリが多く、白のサルスベリは珍しいという。我が家のサルスベリはどこから我が庭にやってきたのであったか。
午後、南部センターの古文書講座の講師で、静岡へ行く。今日は思いの外進んで、これなら残された2回で最後まで読め終えそうである。しかし、2時間、しゃべり続けるのは、何とも疲れる。明日は金谷宿の講座だが、台風が近付いているようで、心配である。
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「竹下村誌稿」の解読を続ける。
これより大勢一変し、諸大名、沿海を警備す。遠州の諸藩、浜松、掛川、横須賀、皆な沿岸領地を警戒す。時に外船、御前崎に来ると聞き、世評大いに騒がしく、中泉代官(林伊太郎、号鶴梁)また急に兵を募り、赴き警す。外船去ると聞きて還る途中、詩あり。これに徴するも、当時攘夷の精神の溢(あふ)るゝを知るべし。
墨夷船、前岬に到り、警を聞き馳せ赴く。夷去りて還る途中、口占。
時に、嘉永甲寅正月十一日なり。 鶴梁老人
※ 墨夷(ぼくい)- アメリカ。
※ 前岬(まえさき)- 御前崎。
※ 夷(い)- 異民族を侮蔑していう語。蛮夷。
※ 口占(こうせん)- くちずさむこと。
剣を揮(ふる)い、長蛇を斬る由無く、
旆(はた)を還し、春風一路に賖(ゆる)む。
日暮れ、河東村外の月、
戦袍、馬を駐(と)め、梅花を看る。
※ 河東村(かとうむら) - 現、菊川市の南部にあった村。
※ 戦袍(せんぽう)- 戦闘の際に着る衣服。
時に沿海警備の状態は旧式にて、自然陣容も今時と同じからず。皆な陣笠を被り、羽織袴を着し、双刀を帯び、銃を肩にしたり。大草水雲の題せし、左の詩に見るも、略ぼ想像し得らるゝものあり。
正月十四日、帰陳(陣)を見る。
忽(たちま)ち聞こゆ、亜墨理加(アメリカ)船、
已来、御前の鼻の先(御前崎)、
小勢の陣屋仰天太く(はなはだしく)、
大変、厥(その)軍、評判専ら、
潮風、面に吹き、奉行黒く、
朝日に笠映えて、足軽鮮やか、
慄々(おづ/\)浜に出て幕を張る処、
帆影見えず、手を振りて還る。
この時、太田藩(掛川)、時局のため、領内より壮丁を募り(高百石に付、凡そ一人)、兵事を調錬す。これを農兵と称す。本村より、募(つの)りに応ずるもの二人あり。金原七五郎、八木惣吉とす。今の鶴吉、才次郎、二氏の父なり。この農兵は明治革新の際、解散せらる。
※ 壮丁(そうてい)- 成年に達した男子。
※ 調錬(ちょうれん)- 調練。兵士を訓練すること。
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「竹下村誌稿」を読む 209 竹下村 69
今日は一日猛暑も一休みで、気温も30℃までは上がらなかったのではないだろうか。一日、むしろ爽やかな風が吹いていた。
明日は南部センターの講義であるが、予習をしていて、漢文は読む度に読み方が変わって行く。なかなか定まった読み方に納まらない。
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「竹下村誌稿」の解読を続ける。
同六年六月、亜米利加(アメリカ)合衆国水師提督ペルリ、兵艦四艘を引き、浦賀に来たり。国書方物を奉(ほう)じて、通親互市を請う。幕府、大問題にて即答する能わず。物を与えてこれを皈(かえ)し、諸藩に命じて沿海を警備す。この時の狂歌に、
※ 水師提督(すいしていとく)- 海軍を統率した武官。海軍の総指揮官や船団の長。
※ 互市(ごし)- 互いに物を売買すること。貿易。交易。
太平の 眠りをさます 上喜撰(蒸気船)
タッタ四杯(四隻)で 夜も眠むれず
※ 上喜撰(じょうきせん)- 緑茶の銘柄。宇治の高級茶。本来の銘柄名は喜撰で、その上等なものを上喜撰(あるいは正喜撰)と呼んだ。
翌、安政元年(十一月廿七日改元す)(1854)正月、ペルリ再び兵艦七艘を以って浦賀に来たり。仮条約を訂盟す。これ我が国外交条約の始めとす。時に、井伊直弼(掃部頭)大老たり。阿部正弘(伊勢守)老中の首班にあり。鎖国の旧制に反するものとし、頗る物議を招く。落首に、
※ 訂盟(ていめい)- 締盟。同盟や条約を結ぶこと。
※ 時に井伊直弼大老たり - 直弼が大老に就任したのは、安政五年(1858)四月。
アベ川は 黄な粉をやめて 味噌をつけ
古えの 蒙古の時と アベこべで 波風たゝぬ 伊勢ノカミ風
など云えり。この時、流行歌に、
※ この時、流行歌 -「大津絵節」に、雨の夜の歌詞が残って居り、一名「アメリカ大津絵節」。内容は少し違うが、大筋は同じ。「大津絵節」は、江戸時代後期から明治時代にかけて全国的に大流行した、三味線伴奏の娯楽的な短い歌謡で、宴席の座興や寄席で歌われた。
あめの夜に、日本近く、
惚(とぼ)けて、流れ込む毛唐人、
黒船に乗り込み八百人、
大筒小筒をずらりと打ち並べ、
羅紗猩々緋の筒っ袍襦袢着て、
黒ん坊は水底仕事する、
大将軍は部屋へ構えて真面目顔、
中にも髭の長い、じゃがたら唐人が
海を眺め、キクライ/\キンニョーヨー、
貰いし大根土産に、亜米利加さして皈(かえ)りゆく。
※ 毛唐人(けとうじん)- 外国人を卑しめていう語。古くは中国人を、のちには欧米人をいった。
※ 羅紗(らしゃ)- 紡毛を密に織った、厚地の毛織物。
※ 猩々緋(しょうじょうひ)- 色の名。わずかに黒みを帯びた、あざやかな赤。
※ 筒っ袍(つつっぽ)- 和服で、袂たもとの部分のない筒形の袖。
※ 襦袢(じゅばん)- 和服用肌着、下着、ときには合着。
※ じゃがたら - インドネシアの首都ジャカルタの古称。また、近世、ジャワ島から日本に渡来した品物に冠したところから、ジャワ島のこと。
以って当時の景況を見るべし。因みにこのアメノヨは「雨の夜」にはあらず。「飴の様」に流れ込むと云うことなりと、ある雑誌に弁ぜり。
※ 景況(けいきょう)- 時とともに移り変わってゆく、その場のありさま。
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「竹下村誌稿」を読む 208 竹下村 68
夕方、激しい雨で、JR東海道線も一時不通になるほどの降りであった。随分長く雨を見なかったような気がする。これで酷暑も少しは和らぐのであろうか。それはともかく、夕方、外気はみるみる下がったようである。
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「竹下村誌稿」の解読を続ける。
嘉永二年(1849)、幕府、西洋文物の移入を嫌悪し、民間に令して、洋書の購入を禁じ、殊に医員の西洋医術を修むるを厳禁せしを以って、当時洋学を修めんとするものは、その研究に必要なる原書を得るに困難なりしが、安政五年(1858)に至り解禁せり。これより、原書を繙(ひもと)くもの、少なからざるのみならず、和蘭(オランダ)、独逸(ドイツ)などに、留学するものあるに至る。
同(嘉永)三年(1850)九月、本村出身にて、太田藩江戸屋敷奉公人、欠落に付、代官所へ出せし一札あり。
※ 欠落(かけおち)-戦乱・重税・犯罪などを理由に領民が無断で住所から姿を消して行方不明の状態になること。
差し上げ申す一札の事
遠州榛原郡竹下村百姓
平右衛門
戌三十二才
右の者、去る申年十二月、江戸御屋敷、新夫御仲間御奉公、相勤め罷り在り候処、当二月二十九日、御奉公先より欠落仕り候旨、仰せ渡され、恐れ入り、即ち同月二十九日より三十日ずつ六切、都合百八十日尋ね方仰せ付けられ、遠近(おちこち)所々油断なく相尋ね候えども、一向行方相知り申さず。この段御訴詔候処、私ども儀、平右衛門行方、度々日延べの上、尋ね出さざる始末、不埒に付、急度御叱り置かれ、平右衛門儀は、帳外れ仰せ付けられ候段、仰せ渡され、承知畏まり奉り候。これにより、連印一札差し上げ申す処、くだんの如し。
※ 仲間(ちゅうげん)- 中間。江戸時代、武士に仕えて雑務に従った者の称。
※ 帳外れ(ちょうはずれ)- 宗門人別帳からその名を削除すること。帳外れされた者は無宿人となった。
嘉永三年庚戌九月 竹下村親類惣代 次郎右衛門 ㊞
組合惣代 平助 ㊞
村役人惣代 忠兵衛 ㊞
東手御代官様
右の者ども、仰せ渡され候趣、私一同罷り出で承知仕り候に付、奥印仕り差し上げ申し候、以上。
郷宿肴町 与次右衛門 ㊞
(渡辺氏記録)
同五年五月より八月まで、大旱、大井川水渇(かっ)し、下流にては田畑の灌漑に窮せりと云う。(古老物語)
※ 大旱(たいかん)- ひどいひでり。おおひでり。
読書:「山小屋の灯」 小林百合子 著
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「竹下村誌稿」を読む 207 竹下村 67
(向敷地の徳願寺のアヒル/鳴き声が何ともけたたましい。)
あれ、くれないみたいだよ
行ってしまった
午後、昨日の続きで、静岡市のお寺を四ヶ寺、車で巡った。向敷地の徳願寺、坂本の清源寺、日向の陽明寺、諸子沢の吉祥寺の四ヶ寺である。
最後の吉祥寺は無住のお寺だったが、そのすぐ直下に、町から移住してきた若い高橋さん一家が住んでいて、毎月第一日曜日に、縁側カフェを開いているから、来てほしいと誘われた。
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「竹下村誌稿」の解読を続ける。
同十三年(1842)、幕府、令を下し、奢侈(しゃし)を厳禁す。当時世上、永く太平に慣れ、奢侈に耽(ふけ)るを以って、これを警(いまし)め、諸事、質素倹約を守らしむ。この時、水野忠邦(浜松、越前守)老中たり。将軍家家慶(いえよし)に信任せられ、施為を専らにし、寛政の遺策を学び、勤倹制度を単行し、所謂(いわゆる)天保の改革を行い、奢侈品の製造並び使用を禁じ、風俗治安を害する著作絵画の出版を停め、女髪結を停止し、私娼を放逐し、市中の劇場を僻地に移し、士気を鼓舞し、武芸を奨励し、官吏の私曲を撓(た)むるなど、凡ての方面に亘り革政を布き、流弊を矯正す。
※ 施為(しい)- 行為。
※ 寛政の遺策(かんせいのいさく)- 寛政の改革。江戸時代に、松平定信が老中在任期間中の1787~1793年に主導して行われた幕政改革。享保の改革、天保の改革とあわせて三大改革と呼ばれる。
※ 勤倹(きんけん)- 勤勉で倹約なこと。仕事にはげみ、むだな出費を少なくすること。
※ 士気を鼓舞す(しきをこぶす)- やる気を高め、奮い立たせること。
※ 私曲(しきょく)- 不正な手段で自身だけの利益をはかること。
※ 撓むる(たむる)- 悪い性質・習慣や癖などを改めなおす。矯正する。
※ 流弊(りゅうへい)- 以前からの悪い習慣。
その細目は煩雑にして、尽くし易からず。更に外国の事情にも注意し、文政八年の異国船打払いの令を改め、穏便の処置を採らしむ。然れども、制令峻酷に過ぎたるを以って、上下の不平を招き、謗毀四方に起こりし程の事なれば、その成績、寛政の如くならず。世に越州様の御旨意と云う。
※ 峻酷(しゅんこく)- 非常に厳しく、情けも容赦もないこと。
※ 謗毀(ぼうき)- けなすこと。そしること。
※ 旨意(しい)- 考え。意図。
弘化二年十月、太田藩(藩主)より准国主の祝賀として、本村へ酒及び鎌を交付せらる。当時、国持以外の諸藩にして、入部後百年を経たるものは、国主に准じ移封せらるゝ事なしと、幕府の内定ありしと云うを以ってなり。
※ 准国主(じゅんこくしゅ)- 江戸時代、国持大名に次ぐ家格の大名。国持並み。
※ 国持(くにもち)- 国持大名。江戸時代、一国以上を領有する大名。また、家格の高い大名の称。前田(加賀)・毛利・島津・伊達など18家(または20家)がその代表格。
読書:「続 岳物語」 椎名誠 著
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「竹下村誌稿」を読む 206 竹下村 66
八月三日に、駿河古文書会の当番で、お寺に関する古文書が課題である。そこに出てくるお寺を、今日と明日の二日で回って置こうと思った。
カーラジオは熊谷で日本の観測史上最高の気温、41.1℃を記録したとのニュースが何度も流れている。人の命に係わる気温だと、繰り返し熱中症への注意を呼びかけている。後で聞くと、今日は「大暑」だという。
今日、午後から廻ったのは、藤枝市谷稲葉の心岳寺、島田市大草の天徳寺、島田市相賀の養徳寺、島田市身成川口の清源寺の四ヶ寺である。心岳寺、天徳寺は由緒ある大寺で、養徳寺、清源寺は小寺で無住かもしれない。特に養徳寺では、境内に入ると警報装置が作動して、びっくりさせられた。
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「竹下村誌稿」の解読を続ける。
また、明治元年以来、米価の変動を五年毎に、附近市場の価格によりて、記すれば、
明治 元年(1868) 金六円八拾銭
同 六年(1873) 金四円九拾銭
同 十一年(1878) 金六円六拾八銭
同 十六年(1883) 金六円九拾八銭
同 二十一年(1888) 金五円弐拾五銭
同 二十六年(1893) 金七円八拾八銭
同 三十一年(1898) 金拾五四円参拾銭
同 三十六年(1903) 金拾五四円弐拾弐銭
同 四十一年(1908) 金拾六円八拾五銭
大正 二年(1913) 金弐拾参円
同 七年(1918) 金参拾弐円六拾銭
同 八年(1919) 金四拾五円五拾銭
また、参考として、明治以降、日用品の価格を十年目毎に略示せば、左の表の如し。(銭以下四捨五入)(いずれも1升の直段)
年次\品目 玄米 大麦 大豆 食塩 醤油 酒
明治 元年 7銭 3銭 4銭 1銭 7銭 8銭
同 拾年 6 3 4 2 8 13
同 弐拾年 8 4 5 3 10 17
同 参拾年 13 6 8 4 14 30
同 四拾年 19 10 12 6 23 48
大正 元年 23 12 15 8 25 65
同 八年 46 24 28 13 75 1円80
天保八年(1837)二月、与力大塩平八郎、乱を大阪に作(な)す。
事発して、与党数十人、磔殺せらる。この事、直接本村に関せずといえども、一時世人の耳目を聳動せしめしものなれば、特に記せるのみ。
※ 大塩平八郎(おおしおへいはちろう)- 江戸後期の陽明学者。大坂生。町与力として活躍し、数々献策する。また家塾洗心洞で子弟を教育する。のち天保の飢饉に際して、民衆救済の乱を起こした。天保八年(1837)歿、44才。磔殺の前に、役人に囲まれて自焼自尽した。
※ 磔殺(たくさつ)- はりつけにして殺すこと。
※ 聳動(しょうどう)- 驚かし動揺させること。また、恐れ動揺すること。
四月、本村領主太田資始(備後守)老中となる。
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「竹下村誌稿」を読む 205 竹下村 65
この暑さの中、我が家の庭には花も絶えたとみえたが、どっこい、ペチュニアが半ば雑草化して、花を咲かせていた。それにしても暑い。といっても、当地はおそらく33~34℃ぐらいであろう。まだ体温よりわずかに低い。
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「竹下村誌稿」の解読を続ける。
(「氷川清話」のつづき)
当時幕府では、上野広小路へ救い小屋を設けて、貧民を救助したが、餓莩路に横たわると云う事は、この時実際にあったよ。また幕府は浅草の米庫を開いて、籾を貧民に頒けたが、その時、もっとも古いのは六十年前の籾で、その色が真っ赤だったよ。それより下りて五十年前位のは、随分あったっけ。赤土一升を、水三升で溶いて、これを布の上に厚く敷いて、天日に曝し、乾いてから、生麩の粉などを入れて団子を作り、また松の樹の薄皮を剥いで、鯣(するめ)のようにして、食物にしたのもこの時だ。おれもこの土団子を喰って見たが随分喰われたよ。しかし、余り沢山食うと、黄疸(おうだん)のような顔色になると云うことだった。
※ 餓莩(がひょう)- うえること。うえじに。
また、さし搗きというものもやった事がある。これは一番米が減らないよ。元来おれは貧乏だったから、自分で玄米を買って来て、そしてこのさし搗きをやったのさ。この頃は妻と二人暮らしだったから、妻が病気でもした時には、おれは味噌漉しをさげて、自分で魚や香の物を買いに行ったこともあるよ。今の若い者が時におれの処へ来て、無心をいうから、その時はおれの昔話をして聞かせるとの。それでは飯が食えませんというよ。まあ、呆れるではないか。
※ 味噌漉し(みそこし)- 味噌をこして、かすを取り去るために使う道具。みそこしざる。この場合は買い物に行くときのざるとして使った。
※ 無心(むしん)- 人に金品をねだること。
それより三年後、天保十年(1839)に至り、田穫豊穣、米価下落し、一升六拾文となる。その翌年より慶応三年まで米価表が郡誌に見えたれば、隔年に抜抄すれば、
金拾両に付、
天保十一年(1840) 米弐拾七俵四分八厘
天保十三年(1842) 米弐拾五俵
弘化元年(1844) 米拾九俵
弘化三年(1846) 米弐拾壱俵
嘉永元年(1848) 米弐拾壱俵
嘉永三年(1850) 米拾三俵
嘉永五年(1852) 米拾参俵八分
安政元年(1854) 米弐拾一俵
安政三年(1856) 米弐拾俵弐分
安政五年(1858) 米拾参俵
万延元年(1860) 米拾俵七分
文久二年(1862) 米拾三俵五分
元治元年(1864) 米七俵九分
慶応三年(1867) 米弐俵八分六厘
右の如し。
読書:「古事記異聞 鬼の棲む国、出雲」 高田崇史 著
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