平成18年に60歳を迎える。六十と縦に書くと傘に鍋蓋(亠)を載せた形である。で、「かさぶた(六十)日録」
かさぶた日録
「竹下村誌稿」を読む 21 大井川 10
2017年12月29日午前6時4分57秒、田貫湖からの富士山。(撮影、息子)
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「竹下村誌稿」の解読を続ける。
然るに、何れの時代より舟筏を廃して、徒渉することとはなりしにや。この下流は流域極めて広く、川瀬あまたの小流に分れ、従いて、水底も浅く、霖雨(長雨)洪水の時に非ざるよりは、蓋し(確かに)、裳を褰(かか)げて徒渉することを得たるものなるべし。
※ 裳(も)- 古代、腰から下にまとった衣服の総称。
かの万葉集に、「利根川の 川瀬も知らず ただ渡り」と歌える如く、その徒渉なることは、利根川ならず、この大井川にも、応用せらるべき状態なりしなるべし。
※ 利根川の川瀬も知らずただ渡り - 万葉集、巻14-3413東歌。
利根川の 川瀬も知らず ただ(直)渡り 波に遭うのす 逢える君かも
※ のす - のように。
元政上人身延行記に、「大井川浅(あ)せて、徒歩(かち)より渡るもの多し」と、また宗祇方角抄にも、「大井川という川、北より流れたり。底は石など流れ、水はにごりて瀬早く、舟渡りもなく、徒歩にて渡るなり」と云えるが如く、中世已(以)降は舟筏なく、徒渉せしものと見えたり。
※ 元政上人 - 江戸時代初期の日蓮宗を代表する高僧、詩人、文人。36歳の時父を送り、翌年母と共に、父の遺骨を奉じて身延に詣でた。この旅行記が「身延道の記」。
※ 宗祇 - 室町後期の連歌師。「名所方角抄」は宗祇著。
慶長庚子後、徳川氏兵馬の権を握るに及びて、この川は天嶮を利用し、防守の設備として、渡船橋梁を禁じ、金谷、島田の両岸に津驛を置き、往来の人馬を制せり。故に関所川の唱(とな)えもありしなり。徳川氏の政策として、大井川の渡渉に重きを置き、架橋渡船を許さざるを以って、人馬皆これを徒渉せり。
※ 慶長庚子 - 慶長5年(1600)、この年、関ケ原の戦い。
※ 兵馬の権(へいばのけん)- 軍隊を統帥する権力。
※ 天嶮(てんけん)- 地勢がけわしくなっている所。自然の要害。
※ 津驛(つうまや) - 川越しの宿場。
掛川志(掛川誌稿)に、
慶長拾年(1605)正月、台徳大君上洛。東海道大河に、みな船橋を設(お)く。されど御気色宜しからざりしゆえ、掛川着御の夜、大井川の船橋を毀(やぶ)る。それより以来、上流の山林より出ずる栰(いかだ)など、金谷・島田の間を通ることを得ず。もし公用の材木を下す時は、御代官所より川役所に切手を遣して通さしむ。
※ 台徳大君(たいとくたいくん)- 二代将軍徳川秀忠。この上洛は将軍に受任のため。
※ 気色(きしょく) - 風や雲の動きに表れる大気のようす。お天気。
とあり。
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「竹下村誌稿」を読む 20 大井川 9
掛川のまーくん一家が来る。野球を始めたという、まーくんとキャッチボールをした。けっこう、様になっている。将棋を覚えたばかりのかなくんにせがまれて、60年振りに将棋をする。一蹴した。まだまだ初歩の初歩という段階である。思い起こせば、将棋をやったのは、縁台将棋で近所のおじさんに教わったように記憶している。
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「竹下村誌稿」の解読を続ける。
されば俗謡に、「箱根八里は馬でも越すが越すに越されぬ大井川」と云う嘆声あるも、理(ことわ)りなり。
また駿河風土記、大井川の条にも、
四時洪水、霖雨の時は往き返り馬を控え、笠蓑杇破、月を渉り、その水流、未だ治まらず。もっとも辺要のため、その急ぎ馳せる、官使国奏の人は、藤縄を編み、修竹を横たえ、その波に任せ、その瀬を浴び、二、三町。大碇を下し、海船を待ちて、金峡の岸に着く。多くの者その命を損ない、その駄(荷物)を沈める。
※ 霖雨(りんう)- 何日も降りつづく雨。ながあめ。
※ 杇破(おは)- 泥だらけで破れること。
※ 辺要(へんよう)- 辺境の要地。国境の要害。
※ 修竹(しゅうちく)- 長くのびた竹。
と云えり。
掛川志(掛川誌稿)にこれを弁じて、
東海道中、大井川を第一の難所とす。然るに古えより徒渉にして、船筏を以って渡りたることなし。駿河風土記に「海船を待ちて、金峡の岸に着く」と云えるは、官使国奏急馳の人のみ、なるべし。按ずるに、島田驛の南は、古え入江なれば、大井川水深きときは、その入江の船を待ちて渡りしと見えたり。
この金峡は、蓋し(思うに)今の金谷付近のことなるべし。按ずるに、大井川下流は、古えにありては、金谷の南までは、一面の入り海なりしと見えたり。金谷の南に湯日村あり。古えは由比浦の称あり。而(しか)も、その対岸なる島田驛の南までは、古えの志太乃浦湾入りし。その付近に大津と云い、瀬戸と云う地名の存するのみならず、井田の浦の名さえ遺れり。懐中抄に、「志太の浦を 漕ぎ出づる船の 目もはるに いや遠ざかる 旅のわびしき」とあるは、この辺りのことなるべし。また駿河風土記、大津郷の条に、「食塩・諸鮮魚を貢ず」とあるを見るも、往古海岸なりしこと、疑うべからざるが如し。
※ 懐中抄(かいちゅうしょう)-「古今集素伝懐中抄」鎌倉時代中期の文永年間頃成立した古今集の注釈書である。
※ 目もはるに(めもはるに)- 目の届く限りはるかに。
されど、古えは大井川に渡船の設備ありしことは、古史にも見えたり。
類格、承和二年(835)六月の官符に、
遠江、駿河両国堺、大井川渡船四艘。元二艘、今二艘を加う。右岸、涯崖広遠、橋を造り得ず。件の船を増す。
※ 涯崖(がいがい)- 岸のがけ。
とあり。これ従来より二艘の渡船ありしを、なお二艘増したるを証するに足るものなり。
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「竹下村誌稿」を読む 19 大井川 8
12月9日、夕方、息子が牧之原公園で撮影した一枚である。
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「竹下村誌稿」の解読を続ける。
この川は東海道中、名に負う急流にして、大雨ある毎に濁水矢の如く奔流す。この場合には、官使国奏急馳の人と雖(いえど)も、容易に渉ることを得ず。然るに、古えより徒渉にして、橋もなく船もなし。動(やや)もすれば出水ありて、川止めとなること珍しからず。故に海道一の難所とす。その河流の激しきことは下の記事に見るべし。
※ 官使(かんし)- 太政官の使者。
※ 国奏(こくそう)- 国家の大事を天子に申し上げること。
※ 急馳(きゅうち)- 馳(は)せ参ずること。
遠江風土記云う。
その河流、その瀬、礫(れき)飛び、岩轟き、車勢。往返ここに至り、汗馬の汗を添え、鞋底(くつぞこ)の砂を加う。死生ここに極まり、運衰自己の業に在るべからず。
※ 車勢(しゃせい)-「勢車」は弾み車のこと。よって、ここは「弾み車の勢い」と解すか。
※ 往返(おうへん)- ここでは、東海道の行き来のことをいう。
※ 汗馬(かんば)- 1日に千里を走るような名馬。駿馬(しゅんめ)。
※ 死生ここに‥‥‥‥ - 生死のどちらへ転ぶかはあなた任せである。(大井川の徒歩渡りの危険の表現。)
編年集成云う。
天正八年七月廿三日、駿州田中城近辺、八幡山に御陳(陣)を居(すえ)らる。同廿五日、松平主殿助家忠、小山辺の刈田に赴く神君御出馬の告ありければ、勝頼後援として甲陽(甲州)を発す時に、松平周防康親が臣、岡田竹右衛門元次、神君を諌めて曰う。当時(現在)洪水の時なり。大井川の水は一夜に暴漲す。勝頼は血気の勇者、卒爾に出陣することあらん。苅田終らば、早く川を越えて、兵を班(かえ)し給えと。
※ 編年集成(へんねんしゅうせい)-「武徳編年集成」徳川家康の伝記。成立年は元文5年(1740)、著者は幕臣木村高敦。
※ 刈田・苅田(かりた)- 他人の田畑の作物を無断で刈取ること。収穫を兵糧にし、合わせて、敵の兵糧を奪う目的があった。
※ 暴漲(ぼうちょう)- 激しい勢いで水がみなぎること。
※ 卒爾に(そつじに)- にわかに。
神君元より敏にして、下聞を恥じず。諌めを拒(ふせ)ぎ給わざるゆえ、これを許容し、忽ち川を越えて牧野の城(諏訪原城)に入り給う。果たしてその夜、暴雨にて、大井川大いに漲(みなぎ)る。廿六日、勝頼駿陽(駿州)の諸砦を巡見しけるが、神君田中に働き給う由を聞いて、馳せ至る所、神君疾(と)く兵を牧野に収めらる。かつ河水洪溢して渉ることを得ず。大いに臍を噛む、云々。
※ 下聞(かぶん)- 目下の者に物事を尋ねること。下問。
※ 洪溢(こういつ)- 大水が溢れること。
※ 臍を噛む(ほぞをかむ)- 後悔する。くやむ。
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「竹下村誌稿」を読む 18 大井川 7
寒い年末に、早くもロウバイが花を付けていた。ロウバイだけに、モウロウと写っている。それを世の人はピンボケともいう。
名古屋のかなくん母子が来る。パパは仕事で後から電車で来るという。早速掛川のまーくん一家がやってきて、久し振りに孫の声で満ちた。
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「竹下村誌稿」の解読を続ける。
志太郡誌云う。
慶長元和の頃、岸村貢租(年貢)割付書を見るに、「本高四百七石三斗余の内、三百二十五石七斗余、年々川成り引、とあり」を見れば、全村ほとんど荒廃したるを知るべし。
また云う。大井川河口、即ち飯渕、川尻の間、川の中央に曽根新田と云える村落ありて、元和年間(1615~24)の御代官帳に、鮎川村(今の相川村)の次に、弐百弐拾壱石二斗二升、曽根新田とありて、寛永年間(1624~44)までは明らかに知られたれども、その以後、何時の頃にか、海中へ押し流されて形を止めず。住民の多くは何れに転ぜしか、詳(つまび)らかならず。あるは云う、今の吉永村中島に移ると。同地に曽根姓多きより見れば、あるは然らん。今やその地名をも知るものなし。
また云う。大井川最後の変遷遺跡は、歴然存して、堙滅せざるものあり。即ち、現今の河状を為せる以前の下流は、島田町地域の下より、大洲村、源助、善左衛門、相川村、上新田、静浜村、上小杉、下小杉の北方を流下して、海に入りし証拠これなり。現に、これら諸の境界の北方を回って、一帯に川成り、新田多し。思うに、この遺跡が現今の河状を為せる最後の変革なりしや疑いなし。
※ 堙滅(いんめつ)- うずもれて跡形もなくなること。すっかりなくしてしまうこと。
由来、洪水のため河道を変じ、田園を荒廃に皈(かえ)せしめたることは、前記の如く、近古に於いて然るのみならず、古代に在りてもその例に乏しからざるものゝごとし。
※ 由来(ゆらい)- もともと。本来。
三代実録、仁和元年(885)四月の条に、
拾七日辛未、勅(みことのり) 遠江国榛原郡、百姓口分田、三百六拾七町六反三拾八歩の代りに、不堪佃田を授く。最初は、水災に遭い、流損、崩れ埋る。元慶四年(880)、使いを遣し、検校訖(おえ)る。その後、国宰頻々申請、ここに至り詔(みことのり)これを許す。
※ 三代実録(さんだいじつろく)- 日本三代実録。平安時代に編纂された歴史書。清和,陽成,光孝天皇三代の編年体の正史。
※ 不堪佃田(ふかんでんでん)- 律令制下、自然災害や農民の逃亡などにより、耕作(佃)に堪ええなくなった田地。
※ 検校(けんこう)- 調べ考えること。調査し考え合わせること。
※ 国宰(こくさい)- 国司。(国司の唐名)
※ 頻々(しきしき)- しばしば。
とあり。
読書:「天に遊ぶ」 吉村昭 著
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島田市の神社 15 下志戸呂の大井八幡神社
朝から雪が降ったり、日差しが出たりのこの冬一番の寒い天気であった。今朝、年賀状を出して来た。何とか元旦に間に合うだろうか。
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昨日午前中に、8回目の島田市の神社巡りに出掛けた。時間が無くて、一ヶ所だけ、一時間ほどの予定であった。天気は晴れであるが、風が冷たい。散歩には少し厳しい寒さであった。
目標にしたのは、下志戸呂の大井八幡神社である。栄町のスーパーの四つ角を西へ真っ直ぐ西原の山へ向う。やがて住宅地で道路が複雑になり、お手上げ状態で、脇の民家で庭木の剪定をする男性に、お宮の場所を尋ねた。この道を境に、隣りの地区(多分、根岸)だから、この何十年も行ったことがないと、それでも、おおよその方向を教えてくれた。
(下志戸呂の神社参道)
山に向かってそれらしい道をたどる。民家の脇の山道の先に、祭りの幟りの、立派な鉄製のポールが二本立っていた。確信して更に山道を進むと、いきなり真っ直ぐの石段が現われた。百段以上続く石段も、ひび割れが入り、山の斜面で、始めは竹林の中を登る。その後、うっそうとした照葉樹の中で、大木の何本かが中途半端に伐られ、その周りにだけ日差しが入っていた。何となく獣の栖む森に感じ、下草が生えていないからよいけれども、イノシシなどには遭いたくないと思った。石段を登り切ると、鉄板葺きの粗末な拝殿があり、すぐ背後の上空に国一の金谷バイパスが通って、車の騒音が絶え間ない。辺りに荒涼とした雰囲気がただよっていた。
金谷町史によると下志戸呂の大井八幡神社は、
金谷町志戸呂1181番地にあり、祭神は誉田別尊(ほんだわけのみこと)、弥都波能売神(みずはのめのかみ)の二柱で、例祭日は10月16日である。正保四年(1647)、持塚氏所有の山林に社殿を造営し、二柱の神を勧請し、明治五年(1872)社殿を修築した。
帰りに、再び、庭木剪定の男性に会ったので、お宮まで行ってきたことを報告し、車でそばまで行けないためだろうが、全体に荒れていたと、率直な感想を話した。
さて、前回の神社巡りでも思ったが、合祀をしたはずの神社が、今も地元に残っている疑問について、ネットで調べてみた。
神社の合祀は、1906年(明治39年)に出された勅令により、一村一社を基本に、氏子崇敬者の意を無視して行なわれた。当然のことながら、生活集落と行政区画は一致するとは限らず、ところによっては、合祀で遠い場所に移されて、氏子が参拝に行けなくなった地域もあった。
南方熊楠ら知識人が強い反対を示した。南方は、合祀によって、
①.敬神思想を弱める。
②.民の和融を妨げる。
③.地方を衰微する。
④.民の慰安を奪い、人情を薄くし、風俗を害する。
⑤.愛国心を損なう。
⑥.土地の治安と利益に大害がある。
⑦.史跡と古伝を滅却する。
⑧.天然風景と天然記念物を亡滅する。
と真っ向から批判した。こうした反対運動によって、急激な合祀は一応収まった。
戦後になると、戦前の神社非宗教体制は解体され、すべてが宗教法人となった。一度合祀され、のちに復祀された神社も少なくなかった。名目上合祀された後も、社殿などの設備を残したところもあり、そうしたところでは復祀が行なわれ易かった。
なるほど、そういうことかと思った。明治政府はやはり革命政権であった。バーミアンの石仏破壊や文化大革命ほどではないけれども、廃仏毀釈など、日本の文化に大きな爪痕を残した。神社の合祀も、その暴挙の一環だったのだろうと思う。
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「竹下村誌稿」を読む 17 大井川 6
午前中、下志戸呂のお宮まで散歩。
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「竹下村誌稿」の解読を続ける。
この川は往昔、堤防の設(もう)けを欠ける時代に在りては、大雨ある毎に、激流四辺に氾濫して、所を撰ばず。飛鳥川にあらねど、淵を瀬となし、瀬を淵となすこと稀なりとせず。随って、古来河状の変動は、最も甚だしきものあり。下流に在りては、志太郡六合村、道悦島の辺より分流して、数流となり、その一流は同郡(志太郡)和田湊に入りしことあり。また一流は本郡(榛原郡)川崎町細江の辺りを流れたることもありしと云う。
※ 飛鳥川にあらねど - 古今集、詠み人知らず。
世の中は 何か常なる 飛鳥川 昨日の淵ぞ 今日は瀬になる
それは、掛川誌(掛川誌稿)云う。
大井川は川尻、飯淵の間に至り、海に入る。白根ヶ岳の源より八日、路(みち)人家なく詳(つまび)らかならず。川尻まで凡そ九拾里と称す。下流は沿岸多し。古えは、横岡と牛尾山の間より、質侶(しとろ)五ヶ村の中を流れ、今の金谷驛河原町を経て、東南、島田驛の南を流れ、本州(遠州)小杉と駿河一色の間を経て、田尻浜に至りて海に入りたり。故に大井川を以って駿遠の界とす。
天正中より牛尾山と駿河相賀の間を流れ、また何れの時にか、その下流、大日村より、一筋西南に流れて、上吉田、小山の辺を経て川崎に至りて海に入り、また一筋、寛永十年(1633)の頃、色尾より下川尻、飯渕の間を流れて海に入る。今の川筋これなり。それより後、東西に大堤を築かれ、小杉、一色の間の一流と川崎に至りし一流は絶えたり。然れども、小杉、一色の間に今に細流あり。古え大井川の流れたる跡存す。因ってこの細流を以って両国の境とす。また云う。古えの駿遠の境を流れたる一道はあせて、万治(1658~61)の頃は芝場となり、島田の南に堤を築きて新田多く出来る云々。
相川村誌云う。
大井川、昔はその水路のしばしば変更したるのみならず、数派に分流したることありたるなり。その最も西に流れたるものは川崎港に入り、最も東に流れたるものは和田港にて、海に入りたるものなるべし。元亀、天正の頃(1570~93)は、堤防工事の備わらざりしを以って、川崎と和田の範囲内に於いて、河身は常に変遷するを免れざりしならん。
※ 河身(かしん)- 幹川のほぼ中心を通る線。
されば、所謂(いわゆる)新志太の如きも、ある時は河流の西となり、ある時はその東となり、またある時は支流の間に挟まれたることも、ありしなるべし。享保拾七年(1732)製の川図に徴すれば、その川筋の数派に分かれたることを認むべし。
※ 徴する(ちょうする)- 照らし合わせる。
地名辞書、島田の条に言う。
慶長九年(1604)大井川の洪水に、島田驛家(うまや)を東へ押流し、激浪白岩寺山に迫り、岸村を過ぎ、青島を経て海に入る。これ近世の一大変なり。この時、西北の丘上に仮驛を立られ、数年の後、旧地に復す。
※ 大変(たいへん)- 重大な事件。大変事。一大事。
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「竹下村誌稿」を読む 16 大井川 5
大代を歩いていて見つけた南天の実。葉っぱまで赤く染まっている。我が家にも南天はあるが、こんなに真っ赤ではないし、稔るとともに、鳥に食べられてしまう。
一昨日の話、夕方、テロップで、東海道線金谷-菊川間不通、と流れた。夕方の忙しい時に不通とは大変だけれども、雨風や地震などの情報はなく、人身事故でもあったのかと、やがて忘れた。
昨日の朝刊に、「イノシシ衝突、走行不能」と見出しがあって、午後5時50分ごろ、金谷-菊川間上りで、普通電車にイノシシが衝突、電車は自力走行が出来なくなり、上下線とも4時間半にわたり運転を見合わせた、と報じていた。近辺もイノシシの横行は茶飯事で、車との衝突はよく聞くが、電車をこれだけ長時間停めたのは、多分初めて聞く。まあ、イノシシに負けるような、やわな電車でも困るが、このイノシシがどうなったかは記事に書かれていない。
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「竹下村誌稿」の解読を続ける。
掛川誌(掛川誌稿)牛尾村の条云う。
潮山は昔、相賀村より続きたる駿河方の山なり。昔は大井川、この山に衝当たり、西に折れ、山と横岡の間を流れ、南、金谷の河原町を経て、東南、島田の方に流れしを、直に北より南に流さんために、この山を切り割りて、遠江方に属せり。それより山と横岡の間に堤を築き、大井河の跡を開鑿(かいさく)して、遂に五ヶ村の田地となせり。
或る云う、この山を切り割りたるは、天正十八年の事なりと。按ずるに、この年八月、東照宮、江戸の城に移らせ給い、豊臣家の中村式部少輔一氏、駿府に移り住して、大いに外堀を広うし、また種々力政を勤む。因って、意にこの山の切り開きは、中村氏の手に成りし故に、その府城に移りし年を以って、云い伝えたるなるべし。
吉永村誌云う。
大井川は往古相賀山の西を流れしが(中略)天正十九年に至り、豊臣氏の臣、中村一氏、相賀山を開鑿し、横岡に堤を築き、流路の迂回を直流せしと云う。
※ 吉永村(れい)- 静岡県志太郡にあった村。旧大井川町の中心部。
地名辞書云う。
地勢を按ずるに、大井川は天正中まで、横岡牛尾の間を経て、今の金谷驛(うまや)川原町に流れたり。その後、牛尾山と駿河相賀村の間より、大井川を流し、西南山本の田地を開墾し、それより田額次第に増加し河原町も遂に人家となる。
※ 田額(でんがく)- 田圃の面積。
榛原小地誌云う。
抑(そもそ)も相賀山の開鑿は大井川の流域に非常の変動を与え、河西沿岸の村落を一洗し去りたり。寛永十年(1633)八月の洪水には、君島を流亡し、幡島、高島を崩壊し、直線海に注入せり。
読書:「道標 東京湾臨海署安積班」 今野敏 著
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「竹下村誌稿」を読む 15 大井川 4
大代を歩いていて、カシワの葉の紅葉をよく見かけた。カシワの葉は枯れ葉のまま、来年の春に新芽を出すまで、その枯れ葉が落ちないといわれ、葉を切らさないで次世代につなぐという意味で、縁起がよいと農家の庭に植えられることが多い。もちろん新しく出た葉は柏餅にも使われる。中々重宝な葉でもある。
今日は賀状を印刷した。今年はいつもより少し早くできた。明日は宛名印刷をする予定である。
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「竹下村誌稿」の解読を続ける。
天正十八年、中村(式部少輔)一氏、駿河国を領するに当り、この低窪(ていわ)なる所を開発して、全く河流を山東に通ぜしめ、堤防を築きて、その流域を開拓せり。この時、山内(対馬守)一豊、掛川藩に封せられ、遠江の東半国を領せしかば、横岡と牛尾山の間に堤防を築き(これを志戸呂堤という)て新開を拓きたれば、人烟次第に増益して、竹下、牛尾、島、番生寺、横岡新田及び金谷河原の町村となりて、往時河流の痕跡を存せざるに至る。
※ 人烟次第に増益して - 段々人が住むようになって。「人烟」は「人家から立ち上る煙」。
また、徳川頼宜(遠江宰相)、駿遠二州を領するに当り、元和中、その臣水野正重(城趾初倉にあり)をして、疏水堤防の修理に当らしめしより、河道の面目を改め、現時の川形となりて、洪水氾濫の害を免がるゝに至れりとぞ。
※ 徳川頼宜(よりのぶ)- 徳川家康の十男で、紀州徳川家の祖。常陸国水戸藩、駿河国駿府藩を経て、紀伊国和歌山藩の藩主となった。母は側室のお万の方。
※ 疏水(そすい)- 灌漑・給水・発電などのため、土地を切り開いてつくった水路。
また、この山を切り開きたるは、永禄中、軍略上武田方の手に成りしものにて、今、牛尾山に鎮座する熊野神社の石磴(石段)は、武田方がこの山を開鑿せし時の石材を用いしものなり、との口碑も伝うれど、考うべきものなし。
この牛尾山は、元来、駿河志太郡に属せし事は前記の如し。按ずるに、日本総風(日本総国風土記)、止駄(志太)郡の条に、「東、岩田山を限り、西、八十間山を限る」とあり、この岩田山は藤枝の北にあり、八十間山は遠江方の牛尾山なるべしと、掛川誌に註せり。されば古えはこの山を八十間山と称したるものと見えたり。また、この山を裁断せしことは左の記事を援用して考証に備うべし。
読書:「町方燃ゆ 父子十手捕物日記12」 鈴木英治 著
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島田市の神社 14 大代の高根神社
国土交通省中部地方整備局、静岡河川事務所の、平成の瀬替えの資料を見ていて、天正の瀬替えの説明の中に、以下のような記述があるのに気付いた。
強固な岩盤の切り割りは、難工事であったと考えられます。かって、この地域を治めていた武田氏によりもたらされた甲州流の金堀技術が工事に活かされたと伝えられています。
この情報はどこからでたのか。大変興味深い記述である。詳しくは後日、よく検討してみようと思った。
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(大代白山神社の続き)
拝殿前、石の鳥居には「日露戦役為紀念」と刻まれていた。また、脇に、「上知払下げ紀念碑」があった。読んでみると以下の通りであった。
宮内省告示、第拾壱号に依る
明治四十三年五月六日
上知払下げ紀念碑
右払下げ代表者、兼、造林主任
大正元年十月十日 孕石銀平
上地(あげち)とは、江戸時代、幕府が大名・旗本・御家人から、また大名が家臣から、それぞれの知行地を没収することである。
明治四年と明治八年の、2回の上知令により、江戸時代に認められていた寺院と神社の領地(寺社領)が没収された。廃藩置県に伴い、寺社領の法的根拠も失われ、全ての土地に地租を賦課する原則を打ち立てるための上地であった。
ここでは、一度は上知された山林を、改めて払下げを受けたものと思われる。「造林主任」とあるから、その頃に造林された林が残っていれば、100年経つから、立派な林になっているはずであるが、間に大東亜戦争もはさんでいて、そのままで残っていることは、まずないであろう。
白山神社の前から、栗島の大代川の南側、一段高い所にある集落へ上って行った。そこに、手持ちの地図上で、お寺があったので、そこへ寄って行こうと思った。道は人家がパラパラと続く中を進んで、山の尾をU字型に廻る所に、小さなお社があった。
赤い鳥居に「高根神社」と表示されていた。先程の白山神社の案内板に、合祀した神社として、「高根神社は白山比咩神を勧請して、高根神社と称して祭祀したが、勧請年月は不詳で、享保十一年午十一月再建、除地高七斗二升、明治八年、祭神同一なるにより、白山神社に合祀した」と記されていた。正式には合祀されているのだが、こちらのお社も、最近の建材で補修されて、維持管理されていることが知れる。
(栗島の安養寺/無住)
山の尾を右に回った所にお寺があった。安養寺という曹洞宗のお寺で、無住のようであった。
少し先へ行くと、山へ登る道を分ける三叉路で、目があった農業青年に、この道から安田へ行けないかと尋ねると、あの山の電波塔までの道で、行きどまりだという。あの山は何という山かと聞くと、よく判らないらしく、草刈りをしている母親を呼んだ。「たけやま」だという。字は「岳山」ないしは「嶽山」と書くらしい。これではっきりした。おそらく、御嶽山から「御」を省いた形で、御嶽信仰から来た山名なのだろうと思った。白山神社、高根神社も修験者との関わりが感じられる。
立派なお寺があるけれども、無住のようですね。安養寺というが、今は下の法昌院に移ってしまった。こちらは寺で、向うは院で隠居所だから、こちらの方が格が上だったのだが。檀家が少なくて維持できない、と問わず語りに話す。「院」が隠居所だとは初めて聞いた。
(降りたところがジャンボ干支)
道をだらだらと下って、谷間の道に合流する手前に、河村家住宅があった。そして、下った所にジャンボ干支があった。ちょうど一回りしてきたことになる。
約3時間の歩きで、自宅へ戻った。
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島田市の神社 13 大代の白山神社
朝、年賀状用の巨木を撮りに、川根本町へ行った。田野口津島神社の五本杉と徳山浅間神社の鳥居杉をデジカメで撮ってきた。どちらも、迫力のある巨木であった。どちらを選ぼうか。
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昨日、ジャンボ干支をあとにして、農作業をしていたおじさんに、風が無くてよい日ですねえと声を掛けると、今朝は霜が降りて真っ白だったという。そういえば途中、大代川の流れが切れている辺りは凍っていました、と相槌を打った。
栗島の集落で、大代川の対岸に山裾に張り付くように、白山神社はあった。対岸に渡って詣でた。
案内板によると、
白山神社
鎮座地 金谷町大代2584番地
御祭神 白山比咩神(しろやまひめのかみ)
例祭日 十月十七日
由緒 当社は元弘元年未八月、白山比咩神を勧請して、白山神社と称した。その後貞享四年十一月再建、除地高三石六斗一升五合、合祀、高根神社は白山比咩神を勧請して、高根神社と称して祭祀したが、勧請年月は不詳で、享保十一年午十一月再建、除地高七斗二升、明治八年祭神同一なるにより、白山神社に合祀した。昭和二十一年宗教法人令による神社を設立、同二十八年七月宗教法人法による神社を設立登記す。
この神社には、県指定の鰐口と、島田市指定の経筒、銅鏡、仏像がある。それらの案内板があった。以下へ写し置く。
県指定文化財 昭和三十一年十月十七日
工芸 鰐口
この鰐口は、応永二十一年(1414)以来、白山神社に伝承されたもので、時代の特徴をよくあらわしています。直径19センチメートル、厚さ7センチメートルで、小型ながら形の美しい優れたものです。銘文は「質呂庄栗島 応永二十一年午十月一日 沙弥行一」と記されています。
市指定文化財 昭和六十年二月二十三日
工芸 白山神社内経塚出土品(経筒・銅鏡)
昭和二年十月九日、白山神社の神殿改築の際、敷地を広げるため新田裏山の土地を削ったところ、地中から経筒と銅鏡が発掘されました。
経筒
この経筒は、陶製円筒形で、高さは約二十センチメートル、直径は底部十一~十二センチメートル、上部十三~十四センチメートルで上部に向かってやや開いた形となっています。銅鏡とともに掘り出されたものですが、銅鏡に書かれていた墨の文字から、おそらく平安時代に経塚に納められたものと思われます。
銅鏡
この銅鏡は、前記経筒とともに発掘されました、合わせて三枚ですが、いずれも直径十センチ程度の手鏡サイズです。このうち一枚は「芦花双鶴鏡」とよばれるもので、水辺の芦のまわりで翼を広げる二羽の鶴が彫りこまれています。発掘当時、この銅鏡の表面には墨で「保延丙辰正月十八日勧心進伯鱗秀時奉納法華如宝経心泉院(志所者)当山繁盛」と書かれていました。保延丙辰は保延二年で1136年です。このことから、県内ではかなり古い部類に属する和鏡であると考えられます。
市指定文化財 昭和六十年二月二十三日
彫刻 白山神社仏像
この仏像は、かつて経筒、芦花双鶴鏡が発掘された山上の社殿におさめられていました。この仏像の造られた年代は、十一世紀後半ごろの中央の新しい技法が部分的に用いられていることや、芦花双鶴鏡の墨書銘から考えて、十二世紀ごろから十三世紀の間に造立されていたことはたしかであるようです。いまは、山腹に新建された堂の厨子内に安置されていますが、本尊は聖観世音菩薩立像です。像高173センチメートル。
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