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志太の杜見学会6

(静居寺の経蔵(輪蔵))

六つの式内社の見学を終えて、日が傾き、市のバスを帰す時間が迫っていたが、最後に島田市旗指の静居寺(じょうこじ)を訪れた。春の牡丹で有名なお寺だが、NT氏がこのお寺を選んだのは、珍しい経蔵(輪蔵)を見せたかったからだという。


(静居寺の華鬘)

気さくな住職に迎えられて、本堂の奥まで案内して頂いた。裏にあった位牌堂が左手に増築されて、元位牌堂は開山堂になって、何体かの僧像が並んでいた。その入口に金色の華鬘(けまん)がつるされてあった。住職に「華鬘ですね」と聞くと、よく知っているねという顔をされた。前回の「古文書に親しむ」講座で、写真付きで説明したばかりだから、記憶に新しい。とはいうものの、自分も実物を目にするのは初めてであった。
※ 華鬘(けまん)- 仏前を荘厳 (しょうごん) するために仏殿の内陣や欄間などにかける仏具。金銅・牛革製の円形または楕円形のものに、唐草や蓮華 (れんげ) を透かし彫りにして、下縁に総状の金物や鈴を垂らすもの。

本堂を出て、本堂左手から裏へ回る。住職は、この夏の台風で、二層になった屋根の上層から瓦が飛び、下層に落ちて下層の瓦も割って、大被害だった、瓦が一般より大きいから衝撃も大きかったと話す。瓦にブルーシートが見え、破片が地面にまだ転がっていた。

経蔵(輪蔵)は、右手奥の少し高いところにあり、八角形のお堂であった。昔、見学に来た時、そばの石碑を読んで、このお堂が「説夢堂」といわれることを知った。その時は格子窓から覗いただけであったが、今日は扉が開けられ、中に入ることが出来た。内部には人の手で回すことが出来る六角の経蔵(輪蔵)が収まっていて、中にお経がぎっしりと、今も収められているという。これを廻すことで、万巻の経を読んだことになる。中の経の状態が気になったので、時々は虫干しをされるのかと聞いたところ、中々出来ないので、今はナフタリンを入れてあると住職が答えた。

これで今日の予定は総て終わり、帰途に付いた。どうにか、バスを帰す時間には間に合ったようである。

帰り道に、参加者から様々なPRがあった。それぞれに興味深い活動をされているようで、以下へ紹介してみる。

一 古民家一棟貸しの宿「熊のや」
島田市高熊で、使われなくなった古民家を改装して、一棟貸しをする宿である。島田市では民泊として初めてのケースらしいが、自炊だとすると、そこへ宿を取る目的がほしい。大井川の釣り、八高山の登山、‥‥、なかなか難しい。

一 島田近代遺産学会講座。島田学習センターで全6回の講座があるという。旧海軍島田・牛尾実験所の調査・発表を機会に、島田金谷史蹟保存会の中に出来た分会らしい。興味はあるが、土曜日の午後というのは、他の講座などのゴールデンタイムで、自分には行けそうにない。

一 土屋誠一氏の石のお地蔵さん展。場所は浜松市天竜区横川の百古里庵という蕎麦屋さんで、11月後半、半月ほど展示され、本人もそこでお地蔵さんを彫っていると聞いた。渋柿を買いに行く序でに寄って見ようかと思う。

今回の見学会、意外と好評だったようで、皆さん、帰りを惜しむように見えた。さっそく次回の企画を望む人もいた。発案・準備から、建築ガイドまですべてやって頂いたNT氏には、一日大変御苦労様でしたと、お礼を述べたい。
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志太の杜見学会5

(御会式の正応院と多宝塔)

次に訪れたのは、岡部の旧東海道に近い、正應院という日蓮宗のお寺であった。NT氏が「志太の社」ならぬ、お寺を選んだのは、この地域には珍しい多宝塔があるからである。社寺建築に詳しい建築設計士としては、見逃せない建物であったようだ。

正應院はその日(11月1日)、御会式と呼ばれる法要の日と重なり、住職の案内はして貰えなかった。「御会式」は、宗祖日蓮聖人の御報恩の法要で、幟や五色の吹き流しが掲げられ、本堂には檀家が集り、今しも読経が始まった所であった。

正應院の多宝塔は小規模ながら、本格的なもののようだ。パンフレットによれば、篤信家の発願で、静岡の名工に推挙された、宮大工松浦茂治氏の手により、昭和54年に建立された、駿河路唯一の多宝塔だという。(正應院の多宝塔については、当ブログ、2007-07-10に詳しい)

五重塔、三重塔、多宝塔など、建てるには大枚のお金を要し、しかも建物としてはほとんど用をなさない、いわばお寺のシンボル、あるいは飾り的な建物で、どこにでも建てられるものではない。余程羽振りの良いお寺か、檀家の中に成功者が居て、多額の寄付があった場合に建てられるもので、正應院の多宝塔も篤信家の発願(寄付)によったものであった。

見学する間に、本堂の読経が終り、中年の女性が縁側に出て来たので、法要は終ったのかと聞けば、まだ途中だという。反対に、見学に来た人達はどういう集まりか、など次々に質問が出て、根掘り葉掘り聞かれてしまった。

正應院を後にして、六つ目、今日最後の式内社である、藤枝の飽波神社に向った。


(飽波神社拝殿)

飽波神社では禰宜さんに案内して頂いた。御祭神は少彦名命(すくなひこなのみこと)、創建は古墳時代まで遡ると云い、藤枝一円の鎮護の神として祭られてきた由緒ある神社だという。拝殿には大きな絵馬が数枚掛っていたが、藤枝大祭りの踊りの師匠筋辺りが、演目を絵馬にして奉納されたものだと聞いた。本殿は夏の台風で壊れたと云い、現在足場が組まれて補修中であった。


(飽波神社の動物たち)

境内で目を引いたのは、置かれた10体ほどの動物の造り物であった。コンクリート工事に使う鉄筋を短く切って、滑らかに溶接し、お馴染みの動物が造形されている。彩色も巧みになされて、大きさを無視すれば本物に近い。地元の町工場の人が趣味で造られたものと聞いたが、中々造形心を持った人と思われる。龍などもあって、干支が揃っているのかと思ったが、キリンやゾウなども混じって、そういうわけではなさそうだ。大人が跨っても壊れないように頑丈に造ってあって、七五三の子供たちが乗って喜びそうで、この期間限定で置かれていると聞き、納得した。早速、見学会参加の女性たちが跨った。
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志太の杜見学会4

(那閇神社、背後に虚空蔵山が見える。境内に三つの鳥居があるのは珍しい。)

神社の本殿の形式について、ガイド役のNT氏から案内があったのは、焼津神社の手前だったか、後だったか。

本殿形式は、

   唯一神明造り        伊勢神宮正殿
   住吉造り          住吉大社本殿
   大社造り          出雲大社本殿
   八幡造り          宇佐八幡宮
   春日造り(見世棚造り)   春日大社
   日吉造り(ひえつくり)   日吉大社
   楼造り(浅間造り)     富士浅間大社

そして、神社の七割は、一間社流れ造りだと聞いた。

四つ目の式内社の、焼津市浜当目にある那閇神社へは10分足らずで着いた。浜当目の浜沿いの道を一番奥まったところまで、バスは入った。すぐ東側へ、虚空蔵さんの小山がある。那閇神社は変わった名前であるが、一説には波辺(なみべ)から付いたともいわれる。それほど海のすぐそばで、防波の土手のすぐ内側にあった。背後が虚空蔵山だから、元は虚空蔵山が御神体であったのかもしれない。


(那閇神社の扁額)

扁額を見ると、「閇」は、「閉」の書き方の違いだとよく分る。お昼になって、海辺でそれぞれ持参の昼食を摂った。浜からは虚空蔵山に隠れているが、釣り人がいる防波堤の先まで行けば、富士山がよく見えただろう。今日はそんな穏やかな天気であった。


(三輪神社拝殿)

続いて、五つ目の式内社、岡部町三輪の、神(みわ)神社へは20分ほどで着いた。社寺建築の様々な装飾的部品について説明があったのは、どの辺りであったか。

斗栱(ときょう)、懸魚(げぎょ)、蟇股(かえるまた)、木鼻(きばな)、これだけ覚えておけば、寺社参りに優越的な立場になれそうである。

神(みわ)神社の紋章は三ツ輪である。大和の大神神社から分霊して祭られた神社で、大神神社の三輪山に当る、御神座として祀られる山は高草山だという。その昔、高草山は三輪山と称していたようだ。この地の名前も岡部町三輪という。


(神神社本殿と三ッ鳥居)

神社の背後の神域に三ッ鳥居(三輪鳥居)という、三つ重なった鳥居があった。これは三輪系の神社にしかない珍しい鳥居だという。


(水屋の懸魚)

また、水屋にも懸魚や蟇股が施されていて、早速NT氏から説明があった。懸魚に刻まれた猪の目という透かし彫りはハート型をしていて、若いカップルなど、それを探して喜んでいるようである。神社巡りも様々である。

読書:「草原のコック・オー・ヴァン 高原カフェ日誌Ⅱ」 柴田よしき 著
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志太の杜見学会3

(焼津神社拝殿、もう七五三のお参りが始まっている)


(焼津神社、左から拝殿、幣殿、本殿)

三社目の焼津神社までは、30分ほど掛かる。その間、ガイド役のNT氏から、日本の社寺建築について案内があった。

日本の社寺建築には大きく分けて、

   ① 大仏様(天竺様)
   ② 禅宗様(唐様)
   ③ 和様

の三様式があり、各社寺はそのどれかか、あるいはその折衷様式に分類される。

【大仏様】源平の戦いで焼失した多くの大寺が、鎌倉時代に入り復興されたが、採用された南宋から取り入れた建築様式は、合理的な構造法により、最小限の材料で大建築が出来、また力強さを印象づけるもので、東大寺南大門や、当時の大仏殿などが造られ、それ以前の和様と区別して、大仏様(天竺様)と呼ばれる。(構造上の特徴の案内もあったが、難しくここでは割愛)

【禅宗様】東大寺再建の同時代、宗から禅宗と共に伝わった建築様式で、全体に木割りが細かく、小さな斗(ます)や肘木(ひじき)を積み上げ、周囲に幅の狭い裳階(もこし)を巡らし、全体的に背丈の高い外観を作り出している。功山寺仏殿、円覚寺舎利殿、永保寺観音堂と開山堂などが禅宗様としてあげられる。禅宗様の寺院は、禅宗のみならず、鎌倉時代に興隆した諸宗にも共通した建築様式で、「唐様」とも呼ばれる。(構造上の特徴割愛)

【和様】大仏様や禅宗様より古くからの建築様式で、法隆寺東礼院堂、蓮華王院本堂、興福寺北円堂などが代表的建築物であるが、和様の建築でも、部分的に大仏様や禅宗様の特徴が、取り入れられいるものも少なくない。

【折衷様】浄土寺本堂、鶴林寺本堂、観心寺金堂などは、大仏様と禅宗様の構造と意匠が、積極的に和様に取り入れられた、新しい感覚の寺院建築とされる。

焼津神社では、若い禰宜さんが案内に付いて下さり、案内して頂いた。祭神は日本武尊。本殿の案内後、右手、少し離れた所へ、焼津の漁業に功績のあった三翁の顕彰碑の前に、導いて案内があった。焼津にとって漁業は欠かせないもので、焼津神社の立派な社は、焼津漁業者からの寄進が欠かせないものだったことは想像が付くが、この顕彰碑への案内にはどういう意味があったのだろう。

その後、案内を受けた境内社の一つ、「郷魂祠」は、先の大戦中、南方に第二の生産地を求めて雄飛した、鰹節加工船団の殉職者三百柱を祀る社だという。現地で鰹節の生産直前までこぎつけたが、米軍の攻撃に頓挫したという。何とも焼津らしい逸話である。 
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志太の杜見学会2

(敬満神社の拝殿扁額)

敬満神社の杜は、杉、ヒノキ、クス、シイなど針葉樹や常緑樹の大木が林立して、いつ見ても昼なお暗い森であるが、この夏の台風で、倒れた木があったのか、本殿にはブルーシートが掛かっていた。この夏の台風では強風による被害が思った以上に大きかったようだ。

敬満神社拝殿の扁額、「敬満神社」の文字の中に、よく見ると鳩が少なくとも六羽見える。こういう扁額のことを「鳩字の額」と呼び、長野の善光寺山門に掲げられている額は有名である。鳩字は八幡神社などで使用されるという。八幡宮と鳩の関係については、伝承として、前九年の役において、八幡神の霊験が鳩の飛来として示され、源頼義を勝利に導いたという「霊鳩の奇瑞」などがある。

熊野神社の八咫烏(やたのからす/三本足のカラス)、日吉神社の猿、春日大社の鹿、稲荷神社の狐など、神の使いとして、選ばれているが、八幡神社のハトもその類いのものなのだろう。

想うに、扁額の中に鳩が隠れていると聞けば、皆でそれを探そうと扁額を見つめる。結果、否が応(いやがおう)にも、「敬満神社」の名前が焼き付いてしまう。そんな効果を期待して、遊び心のある古え人が、発明した鳩字なのではないだろうか。

敬満神社の御祭神は、古くは「敬満神」とされる。「敬満」を、秦氏の遠祖、功満王に比定する説がある。この功満王は、仲哀天皇8年に渡来したという渡来人だという。「続日本後紀」遠江国蓁原郡の人として見える「秦黒成」の存在から、当地一帯に居住した渡来系氏族の秦氏が、その氏神を「敬満神」として祀ったものと考えられている。




(大楠神社の拝殿(上)と本殿(下))


一度、バスに乗って少し下ったところに大楠神社がある。明治の終り頃にあった、一村一社制により、敬満神社に合祀され、今はその境外末社となっている。小さな神社だけれども、延喜式に載る式内社である。

案内板によると、
昔、大井川の洪水で、楠の大木(太さ十抱え)が流れ着き、川の曲角に止った。里人はこのことを、国司を通じて朝廷に報告し、ただちに、倭直吾子篭が派遣され、里人と共に立派な船を仕上げ、 駿河湾から難波津(大阪)に廻して、 御用船となったという。里人は感激して、 船の御霊を祀り社を建立した。欽明三年(542年)の創祀と言われ、「延喜式神名帳」(927) に、敬満神社と共に榛原郡の五座に数えられる。(以下略)

大楠神社の足下には田んぼが広がっているが、かつてはこの境内近くまで、大井川の流れが来ていたのかもしれない。
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志太の杜見学会1

(島田市阪本の敬満神社拝殿)

午後、駿河古文書会で静岡へ行く。今日の課題はマイクロフィルムから再現した古文書で、大事なところが飛んでいて、多くの部分の解読を諦めて、出席した。講師はマイクロフィルムから解読して、講義をしてくれた。

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昨日、志太の杜見学会を開催したことは述べた。しばらく「竹下村誌稿」を休載して、志太の杜見学会の様子を書く。

「みんくる」前に集合して、運転手付の市のバスをお借りして、9時過ぎに出発した。参加者は全部で24人、補助席まで入れて26人乗れるバスだから、ほぼ満席である。参加費300円を集め、主催者としての挨拶はバスに乗る前に済ませた。あとはガイド役のNTさんにお任せである。自分は乗車時の人員確認を確実にやろうと最後に乗る。年齢の高い人が多いから、十分注意が必要である。

順路は、

 ① 敬満神社(榛原郡延喜式)
 ② 大楠神社(榛原郡延喜式)
 ③ 焼津神社(志太郡延喜式)
 ④ 那閇神社(志太郡延喜式)
 ⑤ 神神社 (志太郡延喜式)
 ⑥ 正應院 岡部 多宝塔
 ⑦ 飽波神社(志太郡延喜式)
 ⑧ 静居寺 伊太 経蔵

以上のコースを地図上で頭に描いて、地元の金谷、島田が、すっぽり抜けていることに気付いた。その辺りは大井川の扇状地で、大井川はかつて好き放題に流れて、瀬を変え、洲を作り、とても人の永く住める地ではなかった。人が安心して住めるようになったのは、江戸時代の初めの大洪水の後、瀬替えが本格化し、堤防が築かれて、金谷側では五和の地(横岡新田、牛尾、竹下、番生寺、島)と金谷河原の広大な土地が出来て、1615年頃から、入植開拓が始まった。それは島田側も同様で、大洪水のあと、北へ引っ越していた島田宿も元に戻り、大井川の河原だった周辺土地も開けていった。

ということは、つまり、辺りの歴史は高々400年で、10世紀に出来た延喜式(律令時代の法体系)に、その名が載るような社があったはずがないのである。それどころか、当時は海が内陸に深く入り込んでいて、志太の浦と呼ばれていた話もある。延喜式の社は、ちょうど志太の浦を囲むように点在しているように見える。

牧之原に上って、最初の延喜式内社は、島田市坂本の敬満神社である。途中、ガイド役のNT氏は、延喜式には2861の社が載っていること、また神社には社格があると話す。式内社には大と小の社格がある。上記式内社6社の内では、敬満神社だけが大社で、他は小社だという。外にも、一宮、二宮、三宮という社格があり、明治になってからは、官幣社、国弊社などがきめられた。ただし、社格の高い社が繁栄しているかというと、そうばかりではない。最初に訪れた敬満神社も、うっそうとした大樹に覆われた森の中にあるが、参詣に来る人は少なく、何時来ても静かな境内である。(つづく)

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医王寺薬師堂見学会に参加

(医王寺薬師堂の永村茜山の天井絵)

午後、掛川古文書講座に出席した。伊能忠敬が測量して、掛川地区を回ったことを示す、興味深い文書を読んだ。

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昨日、医王寺薬師堂見学会に参加した。老住職が薬師堂の板戸を開けてくれて、内陣まで自由に見てくれてよいといわれた。堂内でST教授から、一時間近く、この薬師堂について歴史から建築様式、解体工事について、さらに永村茜山の天井絵まで、詳しく説明があった。それをなぞって記しても意味がないと思われるので、ここでは、自分の興味を引いた点と、通常の案内では出ない話を重点的に記そうと思う。

西方極楽浄土の阿弥陀如来に対し、東方浄瑠璃界の薬師如来として対比される。阿弥陀如来には来世への成仏を願うに対して、薬師如来には現世の病気の平癒と延命を願う。つまりは、現世利益を願う仏として、薬師如来は7世紀頃から信仰されてきた。薬師を本尊とする寺の山号に、浄瑠璃山、瑠璃光山、瑠璃山、薬王山、東光山などが多いのも、そんな所からである。

虎は薬師如来の化身とされ、この薬師堂にも、二頭の優し気な虎の彫刻がある。「目のお薬師さん」として知られる、大井川対岸の、鵜田寺の薬師堂のすぐ近くに、虎御前の碑(島田髷発祥地の碑)があり、島田髷祭りでは、行列の最後に、虎御前の菩提寺でもある鵜田寺にて、髷供養感謝祭が行われる。虎御前は東海道の大磯の遊女なのだが、これを島田まで引っ張って来たのは、薬師如来とその化身(虎)の関係が尾を引いていたのではないか、というST教授の新説を面白く聞いた。

1月8日の初薬師(新暦では2月8日)の日には、この医王寺でだるま市があると云う。内陣に大きな白い、片目のだるまが安置されていた。片目は何時目を入れるのだろう。また内陣の厨子前に、左に白、右に赤の蝋燭が立っていた。実際に火を付けるようで、半分位が燃え残っていた。この紅白の蝋燭には意味があるのだろうか。

永村茜山の天井絵をよく見ると銘が入っていて、「歳在庚申仲春冩 茜山永邨(村)寛」と読める。「歳、庚申に在り、仲春に写す」とでも読むのだろう。「庚申」は安政七年(1860)。「仲春」は、陰暦二月である。最後の「写す」は何を意味するのだろう。見本帳を写したのか。どこかの龍図をスケッチしてきて、ここへ写したのか。自分の小さい絵を大きく引き伸ばしたのか。堂々と写すと書いてあるから、自分の絵を引き延し写したということなのだろうと思うが、疑問は残る。

薬師堂の屋根は、解体保存修理前は瓦屋根であった。元は杮(こけら)葺きだったと思われていたが、一部、茅が残っていたので、元は茅葺だったことが解り、修覆は茅葺き型の金属板に替えて葺かれたという。金属板であれば、半永久的に持つから、今さら、葺き替えを繰り返さねばならない茅葺きには、戻せないのだろう。その修覆で県指定にも影響しないようだ。

見学者から、昔はすぐ前に国道一号線が通り、しかも長く砂利道で、薬師堂内は埃だらけで、茜山の天井絵も、護摩でも焚かれたからか、ススだらけであった。いまはきれいに修復されて、制作時に飛んだ墨の跡まで見える。是非一度見学されることを勧める。
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お袋七回忌の法事に帰郷(7)

(温泉寺本堂/左にロープウェイ中間駅が見える)

午前中、U氏が見えて、牛尾のU氏の御本家にお邪魔した。U氏の兄嫁さんに当るおばあさんが一人で見えた。この一月に亡くなられたU氏の実兄が祀られた仏壇にてを合わせて、しばらくお話して帰った。生きていれば、古いことを色々お話出来ただろうと、おばあさんは残念がる。

午後、静岡市南部学習センターから電話があり、この4月から新任のセンター長と話す。話が今一つよく通じないので、来週火曜日に、センターに打ち合わせに行くことにした。

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3月27日朝、チェックアウトして、宿からサービス券をもらい、初めて登るという長兄の要望で、城崎ロープウェイに乗った。たちまち、城崎の街を眼下へ見下ろす山頂に着いた。大師山からは、城崎の街の先に川幅一杯に水を湛える円山川河口付近が見えた。その左に、気比の浜あたりが僅かに見える。反対側には来日山が間近に迫り、尾根伝いに歩けば、すぐにでも行けそうに見えた。事実、山頂近くまで、道は悪いが車で行けるらしい。

山頂には温泉寺の奥の院がある。参詣に行くと、住職と逢った。奥の院の見廻りに見えたのであろう。温泉寺住職の小川祐泉氏であった。保護司をされていて、次兄とは保護司仲間で、懇意にさせてもらっているらしい。下りのロープウェイの中間駅まで、住職と一緒に降り、次兄が頼んだらしく、本堂を案内していただいた。

本堂の御本尊は十一面観音像で、身の丈六尺三寸(約2メートル)、秘仏として厨子に収められている。この4月より、1000日間御開帳され、厨子から前に出されて、参拝者の手が触れんばかりの側で、公開されると聞いた。期間が3年あるから、何とかその間に参拝に来なくてはなるまい。


(温泉寺多宝塔)

そのあと、境内の中に建つ美術館に行く。途中、石段を少し登った先に、多宝塔がある。但馬に多宝塔は珍しいから、塔好きなら見逃してはならない。美術館は以前は、城崎町から出土の土器なども飾られていたが、今は寺宝だけが展示されていた。夥しい数の仏像が館内狭しと並んでいる。中でも、一ヶ所のガラス棚に、寺に残された古文書が山と積まれていた。古文書愛好家の自分としては、垂涎ものであった。

次兄に聞けば、本堂も美術館も拝観料を取ってくれなかったというので、住職が編集発行された「温泉寺誌」を一冊購入した。ハードカバーで、箱入の立派な本であった。中興の祖から数えても、700年にも及ぶ温泉寺の歴史が、記されていた。あの夥しい古文書をつぶさに読めば、まだまだ新しい発見があるのだろうと思った。

下山して、やや疲れの見える長兄に合わせ、タクシーで城崎温泉駅まで向い、電車に乗った。
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島田市の神社 21 菊川の菊川神社

(菊川神社)

今日は節分、夕方思い付いて、恵方巻を買ってきた。宣伝に踊らされて、節操なく、何にでも乗っかるのは、日本人の悪いくせだが、そんなことで季節を感じるのも悪くない。太巻きを丸のままでは、年寄りにはきついので、輪切りにして頂いた。もちろん、豆まきも小声で行った。

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1月31日の島田の神社巡りの続きである。菊川坂を菊川に下る。間の宿菊川の往還を西へ歩く。菊川神社は間の宿の往還から直角に左へ折れて、小夜の中山への登り口(旧東海道)の右側にある。すぐ背後に、工事中の国道473号線バイパスと国一を結ぶ、連絡路の高架橋脚の工事が進んでいた。ここ菊川の集落も、この連絡路に上空を跨がれて、国一バイパスが通った時よりも、さらに騒々しくなるのだろうと思った。

菊川神社の本殿前にある案内板によると、

 菊川神社
鎮座地 金谷町菊川711
御祭神 須佐之男命(すさのおのみこと)・木俣大神(きまたのおおかみ)
    仁徳天皇(にんとくてんのう)・応神天皇(おおじんてんのう)
由緒  従来菊川地内に産土神として祀られてあった、菊川550番地鎮座の村社宇佐八幡神社、菊川711番地鎮座の村社若宮八幡神社、佐夜鹿217番地鎮座の駒形神社、菊川1472番地鎮座の津島神社の四社を合併して、現在地に菊川神社を創立、昭和35年11月15日宗教法人法による神社を設立登記した。



(2基の庚申供養塔)

神社右手奥には菊川稲荷神社があり、その右手には、庚申供養塔が2基並んでいた。右の供養塔が大正三年(1914)のもの、左が文化九年(1812)のものである。大正のものが100年前、文化のものが200年前のものである。


(元禄地蔵堂)

菊川にはもう一ヶ所、鳥居マークがあった。もと来た道を戻って、山沿いに南へ歩く。なだらかな斜面にその建物はあったが、神社ではなかった。帰ってからよく調べると、元禄地蔵堂と呼ばれているお堂であった。このお地蔵さんは、元禄七年(1694)に出現と伝わる、等身大の地蔵尊である。地蔵堂の裏手に、無縁仏の墓碑が無数に草に埋もれ、その脇では昔、野場焼の火葬場があったという。


(イノシシの罠)

今日の予定は終ったが、最後に松島の秋葉灯籠を見て、牧之原へ斜めに戻りながら登った。途中で、イノシシの罠を道路脇に見たり、国道473号線バイパスの工事中の架橋を潜ったりして、原へ登った。茶畑を横切って、石畳の道を下り、金谷駅に戻った。コミュニティバスには少し時間があったので、家まで歩いて帰った。今日は四時間、16キロほど歩いた。
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島田市の神社 20 諏訪原の諏訪神社

(菊川牧之原の氏神、諏訪神社)

諏訪神社は諏訪原城跡を入ってすぐ、「二の曲輪大手馬出」にある。つまり、諏訪原城正門(大手門)前とでもいう場所である。

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1月31日、珍しく続いた寒さもやや緩んで、風もなく、天気は快晴。これは歩かねばならない。この日、10回目の島田の神社巡りに出掛けた。前もって時間を調べて置いたコミュニティバスに乗る。定員7人、内一名は車椅子である。自分は5人目の乗客で、途中一人乗り、車いすを除いて満席になった。駅まで200円。

午前10時半、金谷駅から歩き始めた。たどったのは、旧東海道である。自分にはなじみの道だが、今日は見る所を変えて見よう。坂道の入口で不動川を渡る。この橋は今は不動橋と呼ばれるが、旧東海道の頃は「金谷大橋」と呼ばれながら、長さわずか10メートルの土橋だった。橋の手前の左手奥、石段を登ったところに大橋不動堂がある。これが、不動川、不動橋の名前の由来であろう。


(不動橋、旧金谷大橋)

角に石の秋葉灯籠があった。金谷でたくさんの鞘堂型の秋葉灯籠を見慣れてきたので、石の灯籠は珍しく見えたが、よく見る秋葉灯籠である。旧東海道は坂道を登って、国道473号線を横切って、石畳となる。坂道の途中に、もう一つ、秋葉神社の小さな祠があった。

上りの石畳に、三つのお地蔵さんがある。「仁誉地蔵尊」「南向延命地蔵尊」「すべらず地蔵」の三つである。


(仁誉地蔵尊)

石畳茶屋のすぐ先、右手に「仁誉地蔵尊」のお堂がある。別名「お足地蔵」ここ、坂町で足の悪かった仁一さん、毎日手を合わせる坂の入口のお地蔵さんが、夢に現れて、地蔵堂を建て、行き交う旅人のお足の無事を祈願するように告げる。お告げの通りにしたところ、いつの間にか、仁一さんの足も直っていた。それ以来、旅人たちの無事を見守る地蔵尊として知られるようになった。歩く足とともに、「お足」にも不自由しないお地蔵さんとうわさを呼んだ。うわさを広めたのは、どこのヤジさんだろう。

その先、右側に、日本左衛門の庚申堂や鶏頭塚などと同じ段に、「南向延命地蔵尊」があり、そのしばらく先には、この季節、大にぎわいの「すべらず地蔵」がある。真っ赤な幟りが年々多くなる。但し、今の時間はお参りする人もいない。

さて、石畳の金谷坂を上り切って、右へ少し行くと、国指定史跡の諏訪原城跡がある。諏訪神社は諏訪原城跡の中にある。金谷町史によると、

 諏訪神社
金谷町菊川牧之原1185番地にあり、祭神は建御名方神(たけみなかたのかみ)
由緒は、社殿に云う。天正元年秋、武田勝頼、諏訪原城を築くにあたり、城内に所領信濃の総鎮守諏訪明神を勧請して、鎮守として祀ったことに創り、城落ちて後は付近住民産土神としてこれを祀り、明治12年9月村社に列せられ、昭和21年5月25日宗教法人令による神社を設立し、同28年7月8日宗教法人法による神社を設立登記した。


諏訪神社は何度も訪れているが、城内にあって、徳川方に諏訪原城が落ちたにも関わらず、諏訪神社がどうして残されたのか。「家忠日記」にも、諏訪神社に触れた記述は全くなく、そういう意味では小さな祠で、気に止めることもなかったのだろうか。10年以上経って、廃城となってから、地元住民の産土神として大切にされてきたのであろう。
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