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お袋七回忌の法事に帰郷(7)

(温泉寺本堂/左にロープウェイ中間駅が見える)

午前中、U氏が見えて、牛尾のU氏の御本家にお邪魔した。U氏の兄嫁さんに当るおばあさんが一人で見えた。この一月に亡くなられたU氏の実兄が祀られた仏壇にてを合わせて、しばらくお話して帰った。生きていれば、古いことを色々お話出来ただろうと、おばあさんは残念がる。

午後、静岡市南部学習センターから電話があり、この4月から新任のセンター長と話す。話が今一つよく通じないので、来週火曜日に、センターに打ち合わせに行くことにした。

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3月27日朝、チェックアウトして、宿からサービス券をもらい、初めて登るという長兄の要望で、城崎ロープウェイに乗った。たちまち、城崎の街を眼下へ見下ろす山頂に着いた。大師山からは、城崎の街の先に川幅一杯に水を湛える円山川河口付近が見えた。その左に、気比の浜あたりが僅かに見える。反対側には来日山が間近に迫り、尾根伝いに歩けば、すぐにでも行けそうに見えた。事実、山頂近くまで、道は悪いが車で行けるらしい。

山頂には温泉寺の奥の院がある。参詣に行くと、住職と逢った。奥の院の見廻りに見えたのであろう。温泉寺住職の小川祐泉氏であった。保護司をされていて、次兄とは保護司仲間で、懇意にさせてもらっているらしい。下りのロープウェイの中間駅まで、住職と一緒に降り、次兄が頼んだらしく、本堂を案内していただいた。

本堂の御本尊は十一面観音像で、身の丈六尺三寸(約2メートル)、秘仏として厨子に収められている。この4月より、1000日間御開帳され、厨子から前に出されて、参拝者の手が触れんばかりの側で、公開されると聞いた。期間が3年あるから、何とかその間に参拝に来なくてはなるまい。


(温泉寺多宝塔)

そのあと、境内の中に建つ美術館に行く。途中、石段を少し登った先に、多宝塔がある。但馬に多宝塔は珍しいから、塔好きなら見逃してはならない。美術館は以前は、城崎町から出土の土器なども飾られていたが、今は寺宝だけが展示されていた。夥しい数の仏像が館内狭しと並んでいる。中でも、一ヶ所のガラス棚に、寺に残された古文書が山と積まれていた。古文書愛好家の自分としては、垂涎ものであった。

次兄に聞けば、本堂も美術館も拝観料を取ってくれなかったというので、住職が編集発行された「温泉寺誌」を一冊購入した。ハードカバーで、箱入の立派な本であった。中興の祖から数えても、700年にも及ぶ温泉寺の歴史が、記されていた。あの夥しい古文書をつぶさに読めば、まだまだ新しい発見があるのだろうと思った。

下山して、やや疲れの見える長兄に合わせ、タクシーで城崎温泉駅まで向い、電車に乗った。
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島田市の神社 21 菊川の菊川神社

(菊川神社)

今日は節分、夕方思い付いて、恵方巻を買ってきた。宣伝に踊らされて、節操なく、何にでも乗っかるのは、日本人の悪いくせだが、そんなことで季節を感じるのも悪くない。太巻きを丸のままでは、年寄りにはきついので、輪切りにして頂いた。もちろん、豆まきも小声で行った。

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1月31日の島田の神社巡りの続きである。菊川坂を菊川に下る。間の宿菊川の往還を西へ歩く。菊川神社は間の宿の往還から直角に左へ折れて、小夜の中山への登り口(旧東海道)の右側にある。すぐ背後に、工事中の国道473号線バイパスと国一を結ぶ、連絡路の高架橋脚の工事が進んでいた。ここ菊川の集落も、この連絡路に上空を跨がれて、国一バイパスが通った時よりも、さらに騒々しくなるのだろうと思った。

菊川神社の本殿前にある案内板によると、

 菊川神社
鎮座地 金谷町菊川711
御祭神 須佐之男命(すさのおのみこと)・木俣大神(きまたのおおかみ)
    仁徳天皇(にんとくてんのう)・応神天皇(おおじんてんのう)
由緒  従来菊川地内に産土神として祀られてあった、菊川550番地鎮座の村社宇佐八幡神社、菊川711番地鎮座の村社若宮八幡神社、佐夜鹿217番地鎮座の駒形神社、菊川1472番地鎮座の津島神社の四社を合併して、現在地に菊川神社を創立、昭和35年11月15日宗教法人法による神社を設立登記した。



(2基の庚申供養塔)

神社右手奥には菊川稲荷神社があり、その右手には、庚申供養塔が2基並んでいた。右の供養塔が大正三年(1914)のもの、左が文化九年(1812)のものである。大正のものが100年前、文化のものが200年前のものである。


(元禄地蔵堂)

菊川にはもう一ヶ所、鳥居マークがあった。もと来た道を戻って、山沿いに南へ歩く。なだらかな斜面にその建物はあったが、神社ではなかった。帰ってからよく調べると、元禄地蔵堂と呼ばれているお堂であった。このお地蔵さんは、元禄七年(1694)に出現と伝わる、等身大の地蔵尊である。地蔵堂の裏手に、無縁仏の墓碑が無数に草に埋もれ、その脇では昔、野場焼の火葬場があったという。


(イノシシの罠)

今日の予定は終ったが、最後に松島の秋葉灯籠を見て、牧之原へ斜めに戻りながら登った。途中で、イノシシの罠を道路脇に見たり、国道473号線バイパスの工事中の架橋を潜ったりして、原へ登った。茶畑を横切って、石畳の道を下り、金谷駅に戻った。コミュニティバスには少し時間があったので、家まで歩いて帰った。今日は四時間、16キロほど歩いた。
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島田市の神社 20 諏訪原の諏訪神社

(菊川牧之原の氏神、諏訪神社)

諏訪神社は諏訪原城跡を入ってすぐ、「二の曲輪大手馬出」にある。つまり、諏訪原城正門(大手門)前とでもいう場所である。

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1月31日、珍しく続いた寒さもやや緩んで、風もなく、天気は快晴。これは歩かねばならない。この日、10回目の島田の神社巡りに出掛けた。前もって時間を調べて置いたコミュニティバスに乗る。定員7人、内一名は車椅子である。自分は5人目の乗客で、途中一人乗り、車いすを除いて満席になった。駅まで200円。

午前10時半、金谷駅から歩き始めた。たどったのは、旧東海道である。自分にはなじみの道だが、今日は見る所を変えて見よう。坂道の入口で不動川を渡る。この橋は今は不動橋と呼ばれるが、旧東海道の頃は「金谷大橋」と呼ばれながら、長さわずか10メートルの土橋だった。橋の手前の左手奥、石段を登ったところに大橋不動堂がある。これが、不動川、不動橋の名前の由来であろう。


(不動橋、旧金谷大橋)

角に石の秋葉灯籠があった。金谷でたくさんの鞘堂型の秋葉灯籠を見慣れてきたので、石の灯籠は珍しく見えたが、よく見る秋葉灯籠である。旧東海道は坂道を登って、国道473号線を横切って、石畳となる。坂道の途中に、もう一つ、秋葉神社の小さな祠があった。

上りの石畳に、三つのお地蔵さんがある。「仁誉地蔵尊」「南向延命地蔵尊」「すべらず地蔵」の三つである。


(仁誉地蔵尊)

石畳茶屋のすぐ先、右手に「仁誉地蔵尊」のお堂がある。別名「お足地蔵」ここ、坂町で足の悪かった仁一さん、毎日手を合わせる坂の入口のお地蔵さんが、夢に現れて、地蔵堂を建て、行き交う旅人のお足の無事を祈願するように告げる。お告げの通りにしたところ、いつの間にか、仁一さんの足も直っていた。それ以来、旅人たちの無事を見守る地蔵尊として知られるようになった。歩く足とともに、「お足」にも不自由しないお地蔵さんとうわさを呼んだ。うわさを広めたのは、どこのヤジさんだろう。

その先、右側に、日本左衛門の庚申堂や鶏頭塚などと同じ段に、「南向延命地蔵尊」があり、そのしばらく先には、この季節、大にぎわいの「すべらず地蔵」がある。真っ赤な幟りが年々多くなる。但し、今の時間はお参りする人もいない。

さて、石畳の金谷坂を上り切って、右へ少し行くと、国指定史跡の諏訪原城跡がある。諏訪神社は諏訪原城跡の中にある。金谷町史によると、

 諏訪神社
金谷町菊川牧之原1185番地にあり、祭神は建御名方神(たけみなかたのかみ)
由緒は、社殿に云う。天正元年秋、武田勝頼、諏訪原城を築くにあたり、城内に所領信濃の総鎮守諏訪明神を勧請して、鎮守として祀ったことに創り、城落ちて後は付近住民産土神としてこれを祀り、明治12年9月村社に列せられ、昭和21年5月25日宗教法人令による神社を設立し、同28年7月8日宗教法人法による神社を設立登記した。


諏訪神社は何度も訪れているが、城内にあって、徳川方に諏訪原城が落ちたにも関わらず、諏訪神社がどうして残されたのか。「家忠日記」にも、諏訪神社に触れた記述は全くなく、そういう意味では小さな祠で、気に止めることもなかったのだろうか。10年以上経って、廃城となってから、地元住民の産土神として大切にされてきたのであろう。
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島田市の神社 19 八軒屋の水神社

(八軒屋の水神社)

年が明けて早くも一週間が過ぎた。ようやく幕末の武士の文書を解読終えた。但し、一ヶ所だけ未解読部分を残した。講座の次の課題にしたいが、それまでに未解読部分をつぶして置かねばならない。

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二日の三社初詣での続きである。

宇布賣神社から金谷の町の南の新道を歩いて、大井川鉄道の新金谷駅を高架から眺めた。青く塗られた蒸気機関車のトーマス号が点検修理に入っているらしく、その頭の部分が見えた。前方には富士山を見ながら(2日のブログ写真)、その横に見える樹叢を目指して歩く。

新堀川に架かった水神橋を渡ったすぐ右が水神社である。川に沿ってクスノキやイチョウの巨木が作る小さな杜に、大小の祠やお堂、社が並んでいる。はじめ、どれが水神社か判断に迷い、近くに車を止めたおじさんに尋ねた。あれ、この人、どこかで見たことがあると思ったが、どこであるか思い出せない。おじさんはここの人ではないので、分らないという。家に帰ってから、このおじさんは、「駿遠の考古学と歴史」講座で顔見知りの人だと思い出した。そのおじさんとは、何年も同じ口座を受けているが、まだ言葉を交わしたことがない。

後で調べてみて、それぞれの堂社が何なのか解明できた。手前から馬頭観音堂、七番の観音堂、社務所、そして一番奥が、前に鳥居が立つ水神社である。馬頭観音堂だけが北を向いていて、他は東向きなのは理由があるのだろうか。


(七番の観音堂)

七番の観音堂には案内板があった。それによると、文政十一(1828)年夏の洪水により、七番出しで亡くなった僧を地元の人が埋葬し、観音様を祀ったという。次の社務所が建物としては最も大きく、かつては何かの御堂として造られたような建物であった。中に天井画も描かれているらしい。

水神社から新堀川に沿って水神公園が旧東海道往還まで続く。時期の桜並木はきっと見ものだろうと思う。往還に近くなって、赤く塗られた屋根が目立つお稲荷さんの祠に続いて、義人仲田源蔵の石像、東関紀行の歌碑、金谷宿川越し場跡の案内板へと続く。(この辺りはかつて、このブログの2011-09-26の項に書いている)往還には八軒屋橋が、今はコンクリートの橋で架かっている。

これで、三社初詣では終わるが、帰りに、日限地蔵に参ったことは、すでに4日のブログに書いた。
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島田市の神社 18 宇布賣神社

(宇布賣神社の境内/玉石を積んだ土台が御旅所)

流し台の銅パイプより水漏れで、修理を頼んだ。しまりの悪い蛇口まで変えてもらった。

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二日の三社初詣での続きである。

八雲神社、巌室神社と巡って、金谷駅から下って来る途中、少し道草して、八雲神社が元あったという、大覚寺近くの「字南山」へ立寄ってみようと思った。手持ちの地図でその辺りを調べると、それらしい所に鳥居マークが記されている。駅の近く、一里塚跡に立つ案内板の金谷宿古地図にも、同じ辺りに「牛頭天王社」と記されていた。八雲神社は牛頭天王社と呼ばれていたから、間違いないように思えた。

金谷宿の通りの半ば辺りから右折して、天王町へ進む。やがて、右手に広い石段が見えた。石段を登った先に境内らしきところがあったが、社はなく、建物の土台だけが残っていた。その先、小道を斜めに登った先に、小さい祠が祭られていた。あれが、元、牛頭天王社があった名残りなのだろうか。


(宇布賣神社の祠)

石段の登り口の石灯籠には、「宇布賣神社」と刻まれていたと刻まれていたのが気になった。多分「うぶめ」と読むのだろうが、「産女」とか「姑獲鳥(うぶめ)」といえば、昔から妊婦の妖怪を示す。産褥で死亡した妊婦が、産めなかった子供に、思いを残して妖怪となる。

ここの「宇布賣神社」は調べてみると、安産と子供の健やかな成長を叶えてくれる神様で、毎年、4月4日の桜の季節にお祭りがあり、これから生まれる家と、無事生まれた家から、それぞれ紅白の餅のお供えがあって、祭典が終ると、町内全家庭にお餅とお札を配るという。

さらに、調べてみると、建物の土台のように見えた石積みされた場所は、巌室神社の御仮屋だという。「御仮屋」とは、お祭りで御神輿の巡幸の途中に、御神輿が休憩または宿泊する御旅所が置かれる場所である。とすれば、どうして、街道から外れたこの地に、御神輿が巡幸して来るのだろうか。

以下は想像であるが、地元の信仰も厚かった牛頭天王社は、明治の初めに、地元民の意向を無視して、河原町の氏神(八雲神社)として持ち去られてしまった。問題はお金で解決されたものの、地元の氏神さんは巌室神社と替って、随分遠くなってしまった。せめて、お祭りの時だけでも、氏神さんをその地に巡幸させようと、御旅所が出来たのではないか。勝手な想像であるが、もう少し調べてみよう。

さて、目的の牛頭天王社の跡地は「金谷宿史跡案内」によれば、もっと西の山中のようだが、山が東海道線と大井川鉄道の線路を通すために大きく削られてしまい、今ではその礎石の一部が残るだけらしい。つまり、目的の牛頭天王社の跡地までは行くことは出来なかった。


(牛頭天王社が、最初にあった場所という、秋葉神社)

ところで、八雲神社のもとになった牛頭天王社が、最初にあった場所は、川越し人足の番宿の外れで、現在、秋葉神社がある所だというので、後日、写真を撮ってきた。
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島田市の神社 17 巌室神社

(巌室神社/本殿は、この小さな山の上にある)

かなくん一家が正月の帰郷を終えて、午後名古屋へ帰って行った。毎度のことながら、久し振りに我が家は静けさを取り戻した。落ち着いて、古文書の解読が出来るようになった。今、読んでいるのは、幕末の武士の文書で、禁門の変、天狗党の乱、第一次長州征伐などの事件が出てくる。

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二日の三社初詣の続きである。八雲神社から沢川に沿って遡り、巌室神社に至った。沢川に架かった赤い橋は「姫宮橋」という。境内右手に社務所があり、本殿は石段を登った上にある。腰の曲がった爺さんが石段の前でしきりに足腰の運動をしていたが、やがて手すりに掴まりながら石段をゆっくり登って行った。

金谷町史によると、
 巌室神社
金谷町金谷一番地にあり、祭神は瓊杵尊(ににぎのみこと)、木花咲耶姫(このはなさくやひめ)、金山彦命(かなやまひこのみこと)の三柱で、例祭日は十月十日である。特殊神事として十月二十八日夜に鎮火祭(町指定文化財)があり、この時神饌として五菜を供える。社殿によれば正治二年(1200)頃、当時の住家三戸の氏神として現在地に三柱を勧請したのが始まりという。また金谷の地名もこの祭神・金山彦命の名に由来するというが定かではない。金谷の産土神・氏神として信仰され、天正二年(1574)再建され、現在の社殿は文久元年(1861)の改築であり、慶長六年(1601)、伊奈備前守忠次の神領寄進黒印状を有する。除地高四石。境内社として、稲荷神社、水神社、幸神社、金刀比羅神社がある。


「姫宮橋」の由来は「木花咲耶姫」なのだろう。古図によれば、「若一王子」と「姫宮」が別々に記され、合祀されていなかったようだ。境内や石段の周りに境内社が五社ほどあった。合祀の名目で各所から集められた祠であった。順に見て行く。それぞれに名板が貼られて親切である。神社に行くと小さな祠をよくみるが、名板が貼られているものは少ない。出来るならば、すべてに名板が欲しいと思った。

ぐるりと岩室神社を巻くように流れる谷川に近い場所に水神社、その反対側に庚申社、水神社の上手に金比羅社、さらにその先に秋葉社が二社、右側には「田町」の文字が見える。もう一社、幸神社は見逃した。「幸神社」は才の神をまつる社なのだろう。


(巌室神社本殿)

石段を登り切ったところが本殿であった。本殿に参拝後、すぐ右手に見えた稲荷神社にも参った。山際の岩の下に小さい祠があった。

読書:「さまよう人 父子十手捕物日記13」 鈴木英治 著
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島田市の神社 16 八雲神社

(河原町の氏神、八雲神社)

恒例の新年会を我が家で行う。娘たち家族と、義弟夫婦を交えて、総勢13人。お昼を挟んで4時ごろに御開きとなる。少し食べ過ぎた。

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以下、昨日の話である。

正月ももう二日目、今日も快晴だが、風が少しあり、やや寒い。昨日(元旦)出掛けようと思って、手袋と財布を持たずに出かけてしまったことに気付き、郵便局だけに寄って帰宅した。今日改めて初詣での散歩に出掛けた。島田の神社巡りとしては9回目である。八雲神社、巌室神社、八軒屋の水神社と、三社巡って、「三社詣で」とする。

まず、八雲神社へ詣でる。栄町の街灯に日の丸の小旗が掲げられ、正月らしい。しかし、歩く人は全く見掛けない。車は通るから、移動は近くても車なのだろう。旧国一と交わる直前、右手に八雲神社がある。昨日は賑わったのだろうが、今日はひっそりと参拝する人もいなかった。

案内板のよると、
   八雲神社
鎮座地 静岡県榛原郡金谷町金谷河原79番地
御祭神 素盞鳴尊(すさのおのみこと)
例祭日 7月15日(近い日曜日)
由 緒 当神社の創立年代は詳かではない。慶長八年以前は単に金谷宿といい、金谷宿下の産土神として素盞鳴尊を河原町字松原上に奉斎し、牛頭天王社と称した。
その後、水害にあい、寛文元年六月十日字南山に社殿を造営して遷座奉斎した。
明治二年十二月二十七日除地田の現在に遷宮し例祭を祇園祭という。同三年三月八日八雲神社と改称し、同六年三月村社に列せられ、三十九年四月神饌幣帛料供進社に指定された。
昭和二十一年六月十八日宗教法人令に神社を設立し、同二十八年七月八日宗教法人法による神社を設立登記した。



(八雲神社本殿/「川越拾組中」の玉垣が見える)

玉垣の柱に「川越拾組中」という文言を見付けた。また石灯籠にのも「川方七番組」の文字が見える。八雲神社が、金谷側の川越し人足たちの信仰を集めていたことが分る。

帰ってから幾つかの本で、八雲神社の部分を拾い読みしてみた。「金谷宿史跡案内」という本に、八雲神社の成り立ちに付いて、実に人間臭い話が記されていた。

八雲神社の始めは、河原町の氏神として、市子島(市ヶ島)字松原上(現在の八軒屋秋葉神社敷地)に牛頭天王社として祀られた。現在の八雲神社の境内は、その天王社領として寄進されたもので、天王田と呼ばれていた。

「その後、水害にあい、字南山に遷座」とあるが、その実は、山伏、市子などの流浪の民に混じり、不穏な牢人どもがたむろするようになり、苦々しく思った寺社奉行により、水害にかこつけて、大覚寺領内にあった、大覚寺の守護神の牛頭天王社へ、合祀されて遷座させられた。その後、牛頭天王社は賑わうようになり、現、天王町の辺りは「天王前」と呼ばれ、天王町の町名の由来ともなっている。

明治元年、神仏分離令が布告され、一村一社が推奨され、氏神を町内に持たない河原町の氏子たちが、再び河原町に天王社を迎えようと、大覚寺と交渉した。当時牛頭天王社は商売繁盛、厄除けなどで、参詣人が絶えなかったため、大覚寺との話は付かなかった。

明治二年十二月、夜陰に乗じて、河原町の屈強な待川越(まちかわごし)たちが、六尺四方の本殿を、現八雲神社の王子田へ担ぎ込むという暴挙に及んだ。石灯籠、手洗い鉢、玉垣、土台石まで持ち去る徹底したものであった。(その後、河原町氏子から大覚寺へ金百円納めることで和解)

八雲神社の成り立ちには、案内板には到底書けない、以上のようなドラマがあったという。
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島田市の神社 15 下志戸呂の大井八幡神社

(下志戸呂の大井八幡神社)

朝から雪が降ったり、日差しが出たりのこの冬一番の寒い天気であった。今朝、年賀状を出して来た。何とか元旦に間に合うだろうか。

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昨日午前中に、8回目の島田市の神社巡りに出掛けた。時間が無くて、一ヶ所だけ、一時間ほどの予定であった。天気は晴れであるが、風が冷たい。散歩には少し厳しい寒さであった。

目標にしたのは、下志戸呂の大井八幡神社である。栄町のスーパーの四つ角を西へ真っ直ぐ西原の山へ向う。やがて住宅地で道路が複雑になり、お手上げ状態で、脇の民家で庭木の剪定をする男性に、お宮の場所を尋ねた。この道を境に、隣りの地区(多分、根岸)だから、この何十年も行ったことがないと、それでも、おおよその方向を教えてくれた。




(下志戸呂の神社参道)

山に向かってそれらしい道をたどる。民家の脇の山道の先に、祭りの幟りの、立派な鉄製のポールが二本立っていた。確信して更に山道を進むと、いきなり真っ直ぐの石段が現われた。百段以上続く石段も、ひび割れが入り、山の斜面で、始めは竹林の中を登る。その後、うっそうとした照葉樹の中で、大木の何本かが中途半端に伐られ、その周りにだけ日差しが入っていた。何となく獣の栖む森に感じ、下草が生えていないからよいけれども、イノシシなどには遭いたくないと思った。石段を登り切ると、鉄板葺きの粗末な拝殿があり、すぐ背後の上空に国一の金谷バイパスが通って、車の騒音が絶え間ない。辺りに荒涼とした雰囲気がただよっていた。

金谷町史によると下志戸呂の大井八幡神社は、
金谷町志戸呂1181番地にあり、祭神は誉田別尊(ほんだわけのみこと)、弥都波能売神(みずはのめのかみ)の二柱で、例祭日は10月16日である。正保四年(1647)、持塚氏所有の山林に社殿を造営し、二柱の神を勧請し、明治五年(1872)社殿を修築した。

帰りに、再び、庭木剪定の男性に会ったので、お宮まで行ってきたことを報告し、車でそばまで行けないためだろうが、全体に荒れていたと、率直な感想を話した。

さて、前回の神社巡りでも思ったが、合祀をしたはずの神社が、今も地元に残っている疑問について、ネットで調べてみた。

神社の合祀は、1906年(明治39年)に出された勅令により、一村一社を基本に、氏子崇敬者の意を無視して行なわれた。当然のことながら、生活集落と行政区画は一致するとは限らず、ところによっては、合祀で遠い場所に移されて、氏子が参拝に行けなくなった地域もあった。

南方熊楠ら知識人が強い反対を示した。南方は、合祀によって、
  ①.敬神思想を弱める。
  ②.民の和融を妨げる。
  ③.地方を衰微する。
  ④.民の慰安を奪い、人情を薄くし、風俗を害する。
  ⑤.愛国心を損なう。
  ⑥.土地の治安と利益に大害がある。
  ⑦.史跡と古伝を滅却する。
  ⑧.天然風景と天然記念物を亡滅する。
と真っ向から批判した。こうした反対運動によって、急激な合祀は一応収まった。

戦後になると、戦前の神社非宗教体制は解体され、すべてが宗教法人となった。一度合祀され、のちに復祀された神社も少なくなかった。名目上合祀された後も、社殿などの設備を残したところもあり、そうしたところでは復祀が行なわれ易かった。

なるほど、そういうことかと思った。明治政府はやはり革命政権であった。バーミアンの石仏破壊や文化大革命ほどではないけれども、廃仏毀釈など、日本の文化に大きな爪痕を残した。神社の合祀も、その暴挙の一環だったのだろうと思う。
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島田市の神社 14 大代の高根神社

(栗島の高根神社)

国土交通省中部地方整備局、静岡河川事務所の、平成の瀬替えの資料を見ていて、天正の瀬替えの説明の中に、以下のような記述があるのに気付いた。

強固な岩盤の切り割りは、難工事であったと考えられます。かって、この地域を治めていた武田氏によりもたらされた甲州流の金堀技術が工事に活かされたと伝えられています。

この情報はどこからでたのか。大変興味深い記述である。詳しくは後日、よく検討してみようと思った。

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(大代白山神社の続き)
拝殿前、石の鳥居には「日露戦役為紀念」と刻まれていた。また、脇に、「上知払下げ紀念碑」があった。読んでみると以下の通りであった。

宮内省告示、第拾壱号に依る
明治四十三年五月六日
上知払下げ紀念碑
右払下げ代表者、兼、造林主任
大正元年十月十日 孕石銀平


上地(あげち)とは、江戸時代、幕府が大名・旗本・御家人から、また大名が家臣から、それぞれの知行地を没収することである。

明治四年と明治八年の、2回の上知令により、江戸時代に認められていた寺院と神社の領地(寺社領)が没収された。廃藩置県に伴い、寺社領の法的根拠も失われ、全ての土地に地租を賦課する原則を打ち立てるための上地であった。

ここでは、一度は上知された山林を、改めて払下げを受けたものと思われる。「造林主任」とあるから、その頃に造林された林が残っていれば、100年経つから、立派な林になっているはずであるが、間に大東亜戦争もはさんでいて、そのままで残っていることは、まずないであろう。

白山神社の前から、栗島の大代川の南側、一段高い所にある集落へ上って行った。そこに、手持ちの地図上で、お寺があったので、そこへ寄って行こうと思った。道は人家がパラパラと続く中を進んで、山の尾をU字型に廻る所に、小さなお社があった。

赤い鳥居に「高根神社」と表示されていた。先程の白山神社の案内板に、合祀した神社として、「高根神社は白山比咩神を勧請して、高根神社と称して祭祀したが、勧請年月は不詳で、享保十一年午十一月再建、除地高七斗二升、明治八年、祭神同一なるにより、白山神社に合祀した」と記されていた。正式には合祀されているのだが、こちらのお社も、最近の建材で補修されて、維持管理されていることが知れる。


(栗島の安養寺/無住)

山の尾を右に回った所にお寺があった。安養寺という曹洞宗のお寺で、無住のようであった。

少し先へ行くと、山へ登る道を分ける三叉路で、目があった農業青年に、この道から安田へ行けないかと尋ねると、あの山の電波塔までの道で、行きどまりだという。あの山は何という山かと聞くと、よく判らないらしく、草刈りをしている母親を呼んだ。「たけやま」だという。字は「岳山」ないしは「嶽山」と書くらしい。これではっきりした。おそらく、御嶽山から「御」を省いた形で、御嶽信仰から来た山名なのだろうと思った。白山神社、高根神社も修験者との関わりが感じられる。

立派なお寺があるけれども、無住のようですね。安養寺というが、今は下の法昌院に移ってしまった。こちらは寺で、向うは院で隠居所だから、こちらの方が格が上だったのだが。檀家が少なくて維持できない、と問わず語りに話す。「院」が隠居所だとは初めて聞いた。


(降りたところがジャンボ干支)

道をだらだらと下って、谷間の道に合流する手前に、河村家住宅があった。そして、下った所にジャンボ干支があった。ちょうど一回りしてきたことになる。

約3時間の歩きで、自宅へ戻った。
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島田市の神社 13 大代の白山神社

(大代の白山神社)

朝、年賀状用の巨木を撮りに、川根本町へ行った。田野口津島神社の五本杉と徳山浅間神社の鳥居杉をデジカメで撮ってきた。どちらも、迫力のある巨木であった。どちらを選ぼうか。

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昨日、ジャンボ干支をあとにして、農作業をしていたおじさんに、風が無くてよい日ですねえと声を掛けると、今朝は霜が降りて真っ白だったという。そういえば途中、大代川の流れが切れている辺りは凍っていました、と相槌を打った。

栗島の集落で、大代川の対岸に山裾に張り付くように、白山神社はあった。対岸に渡って詣でた。

案内板によると、
白山神社
鎮座地 金谷町大代2584番地
御祭神 白山比咩神(しろやまひめのかみ)
例祭日 十月十七日
由緒 当社は元弘元年未八月、白山比咩神を勧請して、白山神社と称した。その後貞享四年十一月再建、除地高三石六斗一升五合、合祀、高根神社は白山比咩神を勧請して、高根神社と称して祭祀したが、勧請年月は不詳で、享保十一年午十一月再建、除地高七斗二升、明治八年祭神同一なるにより、白山神社に合祀した。昭和二十一年宗教法人令による神社を設立、同二十八年七月宗教法人法による神社を設立登記す。


この神社には、県指定の鰐口と、島田市指定の経筒、銅鏡、仏像がある。それらの案内板があった。以下へ写し置く。

県指定文化財 昭和三十一年十月十七日
工芸 鰐口
この鰐口は、応永二十一年(1414)以来、白山神社に伝承されたもので、時代の特徴をよくあらわしています。直径19センチメートル、厚さ7センチメートルで、小型ながら形の美しい優れたものです。銘文は「質呂庄栗島 応永二十一年午十月一日 沙弥行一」と記されています。

市指定文化財 昭和六十年二月二十三日
工芸 白山神社内経塚出土品(経筒・銅鏡)
昭和二年十月九日、白山神社の神殿改築の際、敷地を広げるため新田裏山の土地を削ったところ、地中から経筒と銅鏡が発掘されました。
  経筒
この経筒は、陶製円筒形で、高さは約二十センチメートル、直径は底部十一~十二センチメートル、上部十三~十四センチメートルで上部に向かってやや開いた形となっています。銅鏡とともに掘り出されたものですが、銅鏡に書かれていた墨の文字から、おそらく平安時代に経塚に納められたものと思われます。
  銅鏡
この銅鏡は、前記経筒とともに発掘されました、合わせて三枚ですが、いずれも直径十センチ程度の手鏡サイズです。このうち一枚は「芦花双鶴鏡」とよばれるもので、水辺の芦のまわりで翼を広げる二羽の鶴が彫りこまれています。発掘当時、この銅鏡の表面には墨で「保延丙辰正月十八日勧心進伯鱗秀時奉納法華如宝経心泉院(志所者)当山繁盛」と書かれていました。保延丙辰は保延二年で1136年です。このことから、県内ではかなり古い部類に属する和鏡であると考えられます。

市指定文化財 昭和六十年二月二十三日
彫刻 白山神社仏像
この仏像は、かつて経筒、芦花双鶴鏡が発掘された山上の社殿におさめられていました。この仏像の造られた年代は、十一世紀後半ごろの中央の新しい技法が部分的に用いられていることや、芦花双鶴鏡の墨書銘から考えて、十二世紀ごろから十三世紀の間に造立されていたことはたしかであるようです。いまは、山腹に新建された堂の厨子内に安置されていますが、本尊は聖観世音菩薩立像です。像高173センチメートル。
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