goo

「四戦紀聞」を読む 8




(大洞院の紅葉)

昨日、小国神社の後、森の石松の墓がある大洞院の紅葉も見に行く。ここもこの秋最後だろうことを感じさせる紅葉であった。御朱印をいただきに寺務所へ行くと、石松の扮装一式を借りられるとかで、高齢の女性が扮装に苦労していた。身に付けるものが中々思うようにならない。最後は草鞋の履き方に苦労していた。カメラ担当の若い人は息子さんだったのだろうか。伴なって、境内の隅に撮影に行った。

今日の午後、「駿遠の考古学と歴史」講座に出席した。今日は台風で中止になった分の講座であった。

********************

「四戦紀聞」の解読を続ける。「遠州味方ヶ原戦記」の項の続き。

信長の近臣、長谷川橋助、佐脇藤八郎良之、山口飛騨、加藤弥三郎など、この頃、故あって信長の勘気(かんき)を得て浜松へ来たり。神君に食を受けるが、今度の軍(いくさ)を幸いと悦んで、一番合戦に高名を遂(と)げ、四士終(つい)に討死(うちじに)す。この時、尾州清州の具足師(ぐそくし)、玉越三十郎、右四士の方へ来たり。その序(つい)でに具足を商いけるが、則ち、四人と共に戦場に赴(おもむ)き、勇を励まし命を殞(おと)す。
※ 勘気(かんき)➜ 主君・主人・父親などの怒りに触れ、とがめを受けること。また、その怒りやとがめ。
※ 具足師(ぐそくし)➜ 鎧や兜を作ったり、修理したりする職人。


小山田高重、山家三方衆の勢を合わせて、突き蒐(かか)る。その外、武田左馬助信豊、穴山信良、内藤修理昌豊を始め、甲陽(こうよう)の勇将、兵を進め、散々(ちりぢり)に戦う。味方の二の備え、小笠原与八郎長忠ら奮戦す。御旗本の前備え榊原小平太康政及び大久保七郎右衛門忠世ら、横鎗を入れて奮い撃ちければ、小山田再び敗し、築手(作手)、段嶺、長篠の勢も壊散(かいさん)す。敵にも、山縣また盛り返し、その外甲信の兵、雲霞(うんか)の如く馳せかかる。
※ 甲陽(こうよう)➜ 甲斐の国のこと。
※ 壊散(かいさん)➜ やぶれ散ること。
※ 雲霞(うんか)➜ 雲と霞。大ぜいの人が群がり集まるたとえ。


神君、白旄(はくぼう)を採り給い、諸卒を励まされしかば、御旗本の鉾先を揃え、山縣が陣を破る。小栗又一忠政、冑首(かぶとくび)二級を得る。柴山小兵衛正和(十八歳)、首一級並び太刀と共に分捕(ぶんど)す。松平三郎太郎康元(十三歳)、水野藤十郎忠重、西郷孫九郎正員(十六歳)、杉浦八郎五郎鎮貞、筧又蔵、服部半蔵、渥美太郎兵衛友吉、山田十大夫重利、本多八蔵、山上彦左衛門、佐橋乱之助吉久(後改め甚兵衛)、浅井道之助忠次、神谷与次右衛門清次、原田佐左衛門、安松矢之助、鷹見新八郎、群卒(ぐんそつ)に抽(ぬき)んで、功を顕(あら)わす。
※ 白旄(はくぼう)➜ 白いからうしの尾をさおの先につけた旗。軍隊の指揮官が指揮をするときに用いる。
※ 分捕る(ぶんどる)➜ 中世、戦場で敵の武器、武具または首などを取ることをいう。
※ 群卒(ぐんそつ)➜ 多くの兵士。

(「遠州味方ヶ原戦記」つづく)
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

「四戦紀聞」を読む 7




(小国神社の紅葉)

朝、小国神社の紅葉ももう終わりだろうと、思い付いて小国神社の紅葉を見に行った。小溪に沿って、数多の紅葉が、この秋最後の紅葉を見せていた。日が当たらない道は寒く、紅葉も見栄えしないが、日の差すところは輝いて見えた。

********************

「四戦紀聞」の解読を続ける。「遠州味方ヶ原戦記」の項の続き。

ここに於いて、大久保治右衛門忠佐、柴田七九郎康忠、吾々斥候(せっこう)せんと、声々に詈(ののし)りて駈け行く。渡辺頻(しき)りに留めれども、耳聞かざる如く、敵陣に向かうゆえ、渡辺も(さく)を揚げて馳せ行く。この間に、早や武田が先隊小山田右兵衛、軽卒を出し、偽引(ぎいん)しかば、味方の魁将石川伯耆守数正、競い蒐(かか)る。外山小作正重、一番鎗を合わす。相手は小山田が手より、黒具足著(き)たる武者出でて戦うを、渡辺半蔵守綱、馳せ着き、脇より突き伏しけるが、軍(いくさ)急にして首はとらず。石川相備えの諸将、勇敢を励まし相戦うゆえ、小山田突き立てられ、敗軍に及ぶ。
※ 策(さく)➜ むち。つえ。

時に山縣、兵を進め、さしも勇名(ゆうめい)の聞こえある孕石源右衛門、諸士に抽(ぬきん)で、一番に鎗を合わす。二番鎗は辻弥兵衛盛昌なり。味方には本多忠勝、大須賀康高、相戦う。忠勝が家人、荒川甚太郎、河合又五郎、多門越中、忠死(ちゅうし)す。桜井庄之助勝次、能(よ)く戦いて首を得たり。大須賀が属兵(ぞくへい)、小笠原治右衛門正次、能き武者を討ち捕って、黄の四半(しはん)の先に赤根(あかね)吹貫(ふきぬき)出したる捺物(おしもの)を、首級に取り添え、上覧(じょうらん)に入る。参遠の猛卒(もうそつ)ら、これを破られじと粉骨を尽くすゆえ、山縣、遂に利を失い敗走す。馬場氏勝、入れ替りて戦う。
※ 勇名(ゆうめい)➜ 勇ましい名声。勇気があるという評判。。
※ 忠死(ちゅうし)➜ 忠義のために死ぬこと。
※ 属兵(ぞくへい)➜ 付属している兵士。また、手下の兵。
※ 四半(しはん)➜(幟半とも書く)武具の指物の一。幅と長さを二対三の割合にしたのぼり。半のぼり。
※ 赤根(あかね)➜ あかね色。茜草の根で染めた暗い赤色。
※ 吹貫(ふきぬき)➜ 吹流し 本来は矢戦などのための風見であったもの。
※ 捺物(おしもの)➜ 獲得品。戦利品。
※ 上覧(じょうらん)➜天皇や将軍など、身分の高い人が御覧になること。
※ 猛卒(もうそつ)➜ 勇猛な兵卒。

(「遠州味方ヶ原戦記」つづく)

読書:「待ち人来たるか 占い同心鬼堂民斎3」 風野真知雄 著
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

「四戦紀聞」を読む 6

(散歩道のカシワの黄葉/11月23日撮影)

散歩途中の農家の門口、春新芽が出るまで落葉しないカシワの葉が、秋にこんなに見事に黄葉するとは、知らなかった。

今朝から一日雨、干柿のカビが心配で、昨夜から女房が廊下で除湿器を廻している。

********************

「四戦紀聞」の解読を続ける。「遠州味方ヶ原戦記」の項の続き。

信玄即ち、室賀甚四郎入道を、上原に加え重ねて、これを見せしむ。両士、浜松方の陣近く進み、頓(やが)て馳せ帰り、敵微勢なれども、その勇気(するど)にして、鉾(ほこ)を揃え待ち受ければ、この方より卒爾(そつじ)にかかりなば、味方却って敗亡に近し。ただ暫(しばら)猶予(ゆうよ)して、敵を欺(あざむ)くに於いては、必ず堪(た)えかねて蒐(かか)るべし。その時、味方、(し)を発し、頻(しき)りに撃(う)たば、何ぞ利あらざらんと、委細に信玄へ達しければ、信玄この言を甘心(かんしん)して、山際へ寄せ、小山田高重、山縣昌景を魁(さきがけ)として、四郎勝頼、馬場氏勝を始め、十余列に備えを堅くし、馬の馳せ場を前になし、浜松勢の蒐(かか)るを待ち居たり。
※ 尖(するど)➜ 心を突き刺すような気迫があるさま。勇ましくてつよいさま。また、必死なさま。
※ 卒爾(そつじ)➜ 軽率なこと。また、そのさま。かるはずみ。
※ 猶予(ゆうよ)➜ 実行の日時を延ばすこと。
※ 師(し)➜ 兵士の集団。軍隊。
※ 甘心(かんしん)➜ 納得すること。同意すること。


時に、 神君は鳥居四郎左衛門忠広(異本に信元に作る)を召して、突戦(とつせん)あるべきや、また兵を収めらるべきや、敵軍の形勢を伺(うかが)うべき由、命ぜらる。鳥居、即時に徃(ゆ)きて馳せ帰り、言上(ごんじょう)して曰く、今日の合戦は然るべからず。敵猛勢にして、段々に備えを設け、頗る堅陣なり。味方は微勢にして、ただ一重に備えて薄し。加之(しかのみならず)魁兵(かいへい)の旗色、例に違うて悪し。幸い敵は引き取らんと欲す。急ぎ軍使を以って先鋒の勢(ぜい)を引き皈(かえ)さるべし。
※ 突戦(とつせん)➜ 急戦。(持久戦に対して)
※ 魁兵(かいへい)➜ 先陣の兵。


若し有無(うむ)会戦を遂げらるべくは、敵、堀田辺りまで引き取る刻(とき)の跡(あと)を蹈(ふ)んで、一戦あるべしと申しければ、神君曰く、汝、日来(にちらい)至剛(しごう)なりしが、今日は臆(おく)せるや。戦場へ臨んで一戦もせずして引き取るべきや、と叱(しか)り給う。鳥居が曰く、その剛臆(ごうおく)は存ぜず。君は勝敗を弁(わきま)え給わざる将なり。今見給え、敗軍たるべしと詈(ののし)る。渡辺半蔵守綱も斥候として赴きけるが、馳せ帰りて言上する旨、趣(おもむき)鳥居が述べるに同じ。
※ 有無に(うむに)➜ どうあっても。何が何でも。
※ 日来(にちらい)➜ ふだん。平生。
※ 至剛(しごう)➜ 人の性質がこの上なく剛健であること。
※ 剛臆(ごうおく)➜ 剛勇と臆病。

(「遠州味方ヶ原戦記」つづく)
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

「四戦紀聞」を読む 5

(滝沢不動峡の紅葉/一昨日撮影)

午前中、床屋へ行く。3900円の理髪料が4000円になっていた。消費税が上がったからやむを得ない。

夕方、御前崎のSさんご夫妻が春の花々の苗をたくさん持って来て下さった。もう何年も続いていて、その花々が、わが家の春を華やかにしてくれる。いつもありがとうございます。

夜のテレビで、日本の企業で海外から日本へ生産拠点を移す動きが始まっていると聞いた。自分も勤めていた会社で、中国に生産の一部を移そうとした経験から、いつかこういう動きが出ると感じていたが、それを今、耳にするのは感慨深い。

********************

「四戦紀聞」の解読を続ける。「遠州味方ヶ原戦記」の項の続き。

また浜松に於いて、神君命じて曰く、先年信玄、兵を東州(とうしゅう)に発し、小田原の蓮池門まで乱入せしめ、恣(ほしい)まゝに武威(ぶい)を振うこと、氏政、武名の瑕瑾(かきん)、当世の誹謗(ひぼう)たり。今、我れ微勢(びぜい)なりと云えども、城外を蹈(ふ)み通る敵に、大軍なればとて、矢一つ射(い)ざらんは、頗(すこぶ)本意(ほんい)に非ざる由、仰せければ、佐久間信盛、瀧川一益など、信玄は老武者、殊に若干(そこばく)の大軍なり。渠兵(きょへい)を本国に班(かえ)さん時に、 徳川殿一戦を遂(と)ぐべき由、宣(のたま)うとも、強いて諌(いさ)め奉るべき旨、信長兼ねて下知し給う。今度は信長に対し、是非兵を発せらるべからずと、頻(しき)りに抑留(よくりゅう)し奉る。
※ 東州(とうしゅう)➜ 東方の国。関東。東国。
※ 瑕瑾(かきん)➜ きず。恥。辱め。名折れ。
※ 誹謗(ひぼう)➜ 他人の悪口を言うこと。
※ 本意(ほんい)➜ 本来の望み。本当の考え。
※ 若干(そこばく)➜ 程度のはなはだしいさま。たいへん。非常に。
※ 渠兵(きょへい)➜ たくさんの兵。
※ 抑留(よくりゅう)➜ おさえとどめること。一定の場所にとどめておくこと。


翌日は極月廿二日也。信玄既に軍を班(かえ)さんために、浜松の北、大菩薩を押し通り、刑部(おさかべ)へ赴(おもむ)かんとて、四郎勝頼、山縣昌景を後殿(しんがり)として士卒を繰り出す。浜松勢、この由を聞きて、敵の引き取るを見物せんとて、或るは五騎、十騎宛(ずつ)馳せ出で、或るは二十騎、三十騎宛(ずつ)、思い思いに抜け出て、雑卒に礫(つぶて)を打たせけるが、程なく千人に及びければ、神君も止(とど)まることを得(え)給わず、浜松を御出馬あり。魁将(かいしょう)は石川数正、大須賀康高、榊原康政にて、その外、大久保忠世、本多広孝、松井忠次、本多忠勝、酒井忠次など、総て八千を九手に(とん)せらる。かつ信長勢も九手に備う時に、甲州の小山田高重が従兵、上原能登、味方原へ乗り出し、犀が碊(がけ)の方よりみれば、浜松方九手に備え、ただ一重なり。信長衆も旗色(すみ)やかならずして、敗軍の気ある由、申しける。小山田、馬場と共に、信玄の握奇(はたもと)に到り、この趣きを述べる。
※ 大菩薩(だいぼさつ)➜ 大菩薩坂。本坂通にかかる宇藤坂の北側にある、平野から三方原大地に上る勾配の強い坂道。
※ 魁将(かいしょう)➜ 先陣の将。
※ 屯する(とんする)➜ 集めとどめる。守りのために集める。
※ 澄やか(すみやか)➜ 明瞭であるさま。

(「遠州味方ヶ原戦記」つづく)
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

「四戦紀聞」を読む 4

(滝沢不動峡の紅葉/昨日撮影)

夕方、岡部氏より電話。山陰旅行に食中りしたのか、腹痛で大変だった話を聞く。ノロウィルスにでもあたったのか。今も話すに力がないというが、いつもの口調で、そんな風には感じられなかった。

********************

「四戦紀聞」の解読を続ける。「遠州味方ヶ原戦記」の項の続き。

これらを初め、味方の城々を、信玄これを攻め、浜松まで押し詰めんとする由、風説(ふうせつ)しければ、神君の長臣(ちょうしん)ら、この微勢(びぜい)を以って大敵、防ぎ難(がた)かるべし。織田信長へ援兵を請わるべき旨、言上(ごんじょう)すといえども、神君は信長へ援兵を請わんこと、最も口惜しかるべし。願わくば分国(ぶんこく)の勢いを以って、敵を拒(ふせ)ぐべき由、釣命あり。
※ 風説(ふうせつ)➜ 世間にひろまっているうわさ。とりざた。
※ 長臣(ちょうしん)➜ 組織の中の長となる家臣。重臣。
※ 微勢(びぜい)➜ わずかな軍勢。
※ 言上(ごんじょう)➜目上の人に申し上げること。 申し述べること。
※ 分国(ぶんこく)➜ 室町・江戸時代、守護や大名の領国。自分(家康)の領国。
※ 釣命(ちょうめい)➜ 御言いつけ。「釣」は尊称の語。「御」と同じ。


諸臣重ねて申しけるは、抑(そもそも)信長は数箇(か)国を領し、数万の兵有るといえども、御当家へ援助を請うこと数回に及ぶ。また信玄は、駿甲信を領し、猛威頗(すこぶ)る、上野(こうずけ)、飛騨に及んで、大軍なりといえども、北條より援兵来たると云えり。君は僅かに参遠の両国を領し給い、武田と兵を締(むす)るゝこと、既に三、四年に及べども、信長へ一度も加勢を請われしことなし。豈(あに)大切ならずや。今、援兵を請うるとも、何ぞ世の嘲(あざけ)りあらんと。頻(しき)りに諌(いさ)め奉りしかば、即ち御使を以って信長へこの事を告げらる。
※ 兵を締ぶ(へいをむすぶ)➜ 兵を構える。

信長、則ち、佐久間右衛門尉信盛、瀧川伊予守一益、(又左近将監とも云う)平手監物汎秀(初め甚左衛門と云う)、以下九頭。十一月下旬、尾州を発し、遠州荒井(新居)、本坂に著(着)す。かくて信玄、味方原の前山と云う地に屯(とん)し、極月廿一日、諸将を集め評議しけるは、抑(そもそも)浜松へは尾州勢来著(着)し、軍兵凡そ一万許(ばか)り、殊に地戦(じだたかい)にして兵疲れることなし。味方は大軍なれども、客戦(きゃくせん)にして、人馬労す。一端の勝(かち)を競(きお)いとし、村里(むらざと)を放火し、引佐郡刑部(おさかべ)村まで軍を収めんと、云々。
※ 屯す(とんす)➜ 集めとどめる。守りのために集める。
※ 極月(ごくげつ)➜ 十二月の異称。
※ 地戦(じだたかい)➜ 自分の土地、領内で行なわれる戦争。
※ 客戦(きゃくせん)➜敵の領土で戦うこと。
※ 労す(ろうす)➜ はたらく。ほねおる。苦労する。
※ 競い(きおい)➜ 強い勢い。気勢。

(「遠州味方ヶ原戦記」つづく)

読書:「女難の相あり 占い同心鬼堂民斎2」 風野真知雄 著
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

「四戦紀聞」を読む 3

(滝沢不動峡の紅葉)

午前中、女房と今年最後になるであろう渋柿22個1200円を買いながら、藤枝の滝沢不動峡の紅葉を見に行った。昨日は混みあっていただろうが、月曜日の今日は、駐車場に何とか駐車できた。紅葉はもう盛りは過ぎた感じであった。けれども、光が当たった紅葉は何とも美しかった。午後は渋柿の加工を行った。

********************

「四戦紀聞」の解読を続ける。「遠州味方ヶ原戦記」の項の続き。

信玄は江台島に備えを設け、 神君の後援を禦(ふせ)ぐべきために、四千余を遊兵(ゆうへい)とす。(馬場が兵七百、小田原の加勢千余、且つ信言旗本勢を加う)偖(さて)、勝頼、典厩、穴山をして、二股城を取り囲んで、火急(かきゅう)にこれを攻める。城中には、味方中根平左衛門正照、青木又四郎貞治、援将、大草の松平善兵衛正親(善兵衛正親を編年集成に善四郎康安に作る。注に後改め、善兵衛石見守に任ずとあり)楯籠(たてこも)り、微勢なりといえども、(あ)えて屈せず。矢砲を発し、拒(ふせ)ぎ戦い、敵近付けば突いて出で、勇を奮いこれを撃ち、走らしむ。時に 神君は後援として天龍川を越え給い、笠懸山まで御旗を進め給う処に、この事、城中には未だ知らず。最も初めより、神君の後援を頼んで防ぎ闘うといえども、敵計策(けいさく)を以って水の手を取り切りければ、城兵遂に渇(かつ)を忍ぶことを得ずして、城を避け渡し(さけわたし)浜松に帰る。(武田の三将、これを受取りて、芦田下総幸成を入れ置く)
※ 江台島(こうだいじま)➜ 磐田市国府台か?。
※ 遊兵(ゆうへい)➜ 遊軍の兵。また、遊軍。
※ 火急(かきゅう)➜ 火のついたように、さし迫った状態にあること。緊急。
※ 敢えて(あえて)➜ まったく。少しも。
※ 計策(けいさく)➜ はかりごと。計略。策略。
※ 避け渡す(さけわたす)➜ 所領している土地を他に譲り渡す。


当春より東参河の味方、作手の奥平美作貞能、長篠の菅沼新九郎正貞、段峰の菅沼刑部貞吉、この輩、山家三方衆と称しけるが、信玄に属しけれども、設楽郡野田の菅沼新八郎貞盈は、節を変ぜず、味方として野田の城を守りければ、秋山信友以下の甲州勢、遠州井平に陣を取る。ここに同州宇都山の砦は要枢(ようすう)の地にして、敵に近し。勇将にあらずんば守り難し。誰かこの砦に籠(こも)るべきやと、十月廿七日、神君、諸将を召して、その沙汰ある処に、各(おのおの)擬議(ぎぎ)して、御請けに及ばざる折節(おりふし)、松平備後守清善(初め玄番という)、当時は、竹谷の家督を嫡男玄番清宗に譲りて、退隠(たいいん)の身として有りけるが、進んで所望しければ、神君大いに御感(ぎょかん)有りて、則ち、かの宇都山を守らしめ、友長村千貫(せんがん)の地を賜る。
※ 要枢(ようすう)➜ 物事のもっとも大切なところ。
※ 擬議(ぎぎ)➜ 躊躇すること。ためらうこと。
※ 退隠(たいいん)➜ 職を退き、暇な身分となること。
※ 御感(ぎょかん)➜ 貴人が感心なさること。おほめ。
※ 千貫(せんがん)➜ 一貫の千倍。また、非常に重いことや高価なことのたとえ。
※ 貫(かん)➜ 中世、土地面積の表示に用いた単位。一定の広さではなく、租税となる米の収獲高を銭に換算して表したもの。

(「遠州味方ヶ原戦記」つづく)
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

「四戦紀聞」を読む 2

(掛川三の丸広場のヒメキンギョソウ/11月21日撮影)

掛川の娘に干柿を届ける。一年生の孫のえまちゃん、持久走で5番とか、3番とか、けっこう頑張ったと聞く。今、娘の家ではゲーム禁止で、広い庭で兄弟、いとこで遊び回っているという。この上ない環境である。

********************

「四戦紀聞」の解読を続ける。「遠州味方ヶ原戦記」の項の続き。

その時、甲州勢二手に分かれ、両道よりこれを慕う。山縣昌景は赤地に白桔梗(ききょう)の旗を靡(なび)かせ、右の方に廻る。従軍には、屋代安藝勝正、山本土佐清頼、魁(さきがけ)す。また馬場氏勝は白地に黒、山道の旗を靡かせ、早川豊後行憲、同弥三右衛門行宗、前島和泉則弘、同加賀則盛を先鋒として、左の方に廻り追い来たる。味方梅津某、岩石を乗り下(おろ)し、後殿(しんがり)して拒(ふせ)ぎ戦う。

その時また、本多忠勝、轡(くつわ)を班(かえ)せば、大久保治右衛門忠佐、同勘七郎忠正、同荒之助忠直、渡辺半蔵守綱、同半十郎政綱、同半六真綱、本多三弥正重、都筑藤一郎、及び忠勝が属兵、桜井庄之助勝次、三浦竹蔵、大原作右衛門(或る書に作野右衛門と記す)、同物右衛門、柴田五郎右衛門、梶金平など、鎗を作りて、中にも大久保勘七郎忠正は火砲を飛(と)ばせ、都筑は矢を放って防ぐゆえ、敵に、騎に、中(あた)りて落命す。
※ 鎗を作る(やりをつくる)➜ 鎗衾を作る。衾のように、すき間なく一面に槍の穂先をそろえて突き出す。

ここに於いて、敵慕うことあたわず。すでに味方見付の町に入らんとするに、敵早くも上の台に充満(じゅうまん)たり。忠勝、従士大兼彦助に下知して、商屋(あきうどや)に火をかけ、煙に紛れ引き退く。敵猶(なお)も道を替えて、一ツ橋に到りて邀(むか)え撃(う)たんとせしかども、忠勝少しもひるまず、乗り廻り、下知して、味方一騎も討たせず、小天龍まで引き取りける。
※ 小天龍(しょうてんりゅう)➜ 現在の馬込川辺り。

今日の働き、忠勝は人間に非(あら)じと、敵味方共に歎美(たんび)しけり。神君は真籠(馬込)植松辺りに御旗を立てられ、成瀬吉右衛門定好を以って、汝が武略、八幡の変じてなし給うやと思し召す旨、釣命(ちょうめい)あり。かくて各兵を浜松へ返す。信玄の近臣小杉右近、俚語(りご)を書いて見付の台に立て、大いに忠勝を称美(しょうび)す。

  家康に 過ぎたるものが 二つある 唐の頭と 本多平八

※ 歎美(たんび)➜ 感心してほめること。
※ 釣命(ちょうめい)➜ 御言いつけ。「釣」は尊称の語。「御」と同じ。
※ 俚語(りご)➜ 俚言。俗間で使われる言葉。また、土地のなまり言葉。俗言。
※ 称美(しょうび)➜ ほめたたえること。賛美。

(「遠州味方ヶ原戦記」つづく)

読書:「毒飼いの罠 口入屋用心棒19」 鈴木英治 著
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

「四戦紀聞」を読む 1

(散歩道で鮮やかなイチョウの黄葉)

岡部氏関連の解読は、今日より5本目に入る。同戦役異説を読み重ねて行くと、自ずから真に起こった事実が浮かび上がって来そうである。それが岡部氏の手法なのであろうか。

午後、女房と童子沢まで、散歩の足を延ばして、紅葉の様子を見て来ようと思って出掛けたが、予想以上に遠くて、途中で帰ってきてしまった。

********************

今日より「四戦紀聞」の解読を始める。もっとも、読むのは、「四戦紀聞 二 三方原」の巻のみである。

  四戦紀聞 二 三方原
     遠州味方ヶ原戦記
                        根岸直利  編輯
                        木村高敦  校正


元亀三壬申(みずのえさる)(1572)十月、武田大膳大夫、従五位下兼信濃守源晴信入道信玄、遠参二州の諸城を攻め抜(ぬ)かんと欲し、相州小田原へ使節を以って、北條左京太夫、従四位下平氏政へ援兵を請う。氏政許諾(きょだく)して、清水太郎左衛門正次、大藤左衛門高直、近藤出羽助真(すけざね)、中山勘解由家範を部将として、一千余兵を甲府に遣わしければ、信玄この勢を合わせて四万余人(或るは三万五千)を率いし、甲陽を発して、遠州乾(いぬい)に到り、城主天野宮内右衛門景貫(かげつら)郷導とし、山縣三郎兵衛昌景に五千余兵を添えて、神君の御領内、多々羅、飯田の両城を攻め(ほふ)、久野三郎左衛門宗能が久野の城に手遣(てづか)し、山名郡木原、西島、袋井に(とん)を設(もう)く。
※ 甲陽(こうよう)➜ 「甲斐の国の輝く様」を表す。甲は「甲州」の甲、陽は「陰陽」の陽で明るく輝く様子を意味する。
※ 郷導(きょうどう)➜ 人々の先頭に立って導くこと。
※ 屠る(ほふる)➜ 敵を破る。打ち負かす。
※ 手遣い(てづかい)➜ 配下の者をつかわすこと。
※ 屯(とん)➜ 軍隊の陣営。


神君、内藤三左衛門信成をして、敵軍を窺わしめ給う。信成帰り報ぜんと欲する所に、敵、軽卒をかけて喰い留めたり。 神君は浜松に於いて仰せけるは、嚮(さき)に信成を大斥候(ものみ)に遣わす所、もし敵に慕われ困(くるし)むことや有るべき、見届けよとて、本多平八郎忠勝、大久保七郎右衛門忠世などを三賀野(みかの)の台に赴(おもむ)かしめらる。内藤信成、この援兵に気を得て、三頭(かしら)の兵合わせて、千二百余、敵を追い却(しりぞ)けて引き取らんと欲し、頻(しき)りに戦うて、一言坂まで退き去りぬ。敵には、山縣昌景、馬場氏勝、強(し)いて喰い留める時に、本多平八郎(二十五歳)、黒絲(くろいと)の鎧を著(ちゃく)し、鹿角打ちたる冑(かぶと)に、(から)の頭(かしら)掛けたるを被(こう)ぶり、黒の駿馬(しゅんめ)に乗り、敵味方の真ん中へ屑(もののかず)ともせず馳(は)せ入り、縦横に馳せ廻り、下知(げち)すること七、八度に及べば、大久保忠世、内藤信成、諸軍を指揮(しき)し、一言坂の下まで引き退(しりぞ)く。
※ 慕う(したう)➜ 逃げる相手を追う。
※ 唐の頭(からのかしら)➜ 兜(かぶと)の上につけるヤクの尾で作った飾り。

(「遠州味方ヶ原戦記」つづく)
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

「武徳大成記」を読む 15

(焼津小泉八雲記念館/昨日)

昨日の文学散歩の続きである。焼津サカナセンターで昼食。同行してきたYさんと海鮮めし屋へ入って注文を選んでいたところ、店員さんが同席をと言われ、文学講座のW先生が受講生の一人と入って来られた。注文の来る間、色々とお話を聞く。何度かお話はしたことがあるが、自分の話をして親しくなれたのはラッキーだった。その後、喫茶店でも一緒になった。

小泉八雲記念館の後で、隣りの焼津歴史民俗資料館に入った。それまで、六丁櫓しか許されていなかったところ、家康の鷹狩りに世話をしたとの理由で、焼津の漁師に八丁櫓が許されたとの説明がされて、その模型を見学した。八丁櫓は六丁櫓よりも断然スピードが速いという。何か一つ質問をして見ることを心掛けているので、家康さんは20回以上鷹狩りに田中城を訪れているが、駿府から船で来たのだろうかと聞いてみた。たぶん船で来ることが多かったのだろうと、少し自信なげであった。その代わりのように、焼津にも鷹狩り場が幾つかあったと、説明を加えた。

一日、穏やかな天気で、のんびり出来た。何よりも、講座の先生と色々お話が出来て、有意義な一日であった。

********************

「武徳大成記」の解読を続ける。「神君、信玄と味方ヶ原に戦い給う事」の項の続き。

本多豊後守廣孝もまた、兵を反(かえ)して勁戦(けいせん)すること数回、その子彦次郎康重、及び、家丁高部屋架助、首級を獲ったり。榊原康政が部下、原田権左衛門、安松矢之助、神谷助右衛門、鷹見新八郎、苦戦して斬獲(ざんかく)あり。松平左近、家丁、五味元保、戦死す。その兄岡田元次、弟の仇を報(むく)うと称して、翌日真古目(馬込)堤に於いて、敵の首を斬る。河合久次郎、敵に囲まれて危うし。松平源治郎真乗、馳せて救うて敵を撃ち却(しりぞ)く。
※ 勁戦(けいせん)➜ するどい戦い。
※ 斬獲(ざんかく)➜ 敵を、きり殺すことと、生け捕ること。


安倍四郎五郎忠政、長坂源二郎重信、敵三騎を射殺(いころ)す。戸田九右衛門勝則、数人を射殪(たお)す。武藤孫之丞もまた能く敵を射る。坂部又十郎正定、斬獲して、創(きず)を被(こうむ)る。土屋平八が馬を取りて帰って、その馬を献ず。菅沼定政、騎を反(かえ)して力戦す。神君これを制すれどもきかず。

本多作左衛門重次殿後(しんがり)たり。馬殪(たお)れて徒歩にて、奮戦の敵、数騎競い来る。重次鑓を揮(ふる)いて、駿馬(しゅんめ)の士を刺し落してその馬に騎(の)りて帰る。神君これを称す。重次予(あらかじ)守城(しゅじょう)の備えを設けてたり。兵粮を儲(もう)く。神君甚だ感悦(かんえつ)し給う。天野康景、麾下(きか)に在りて、馬甲(ばこう)せしむの士と鑓を合わせて、撃ち却る。神君、浜松に入らせ給いて、康景及び植村庄左衛門正勝に命じて、正門を警衛(けいえい)せしむ。その外の死傷、斬獲、枚挙(まいきょ)すべからず。
※ 駿馬(しゅんめ)➜ 足の速い優れた馬。
※ 守城(しゅじょう)➜ 城を守ること。
※ 感悦(かんえつ)➜ 非常に感動してうれしく思うこと。
※ 麾下(きか)➜ 将軍じきじきの家来。はたもと。
※ 馬甲(ばこう)➜ 馬のよろい。
※ 警衛(けいえい)➜ 警戒し護衛すること。
※ 枚挙(まいきょ)➜ いちいち数え上げること。一つ一つ数えたてること。

(「武徳大成記」の解読終り)
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

「武徳大成記」を読む 14

(柏屋、大戸としとみ戸の説明/喜多八さんの人形が覗いている)

朝から、掛川文学講座、志太文学散歩に参加する。コースは、岡部宿柏屋-田中城下屋敷-焼津サカナセンター(昼食)-焼津小泉八雲記念館-焼津歴史民俗資料館の順であった。いずれも一度は訪れたことのある所であるが、各所で案内が付いて、個人的に訪れたのでは聞けない話が聞けた。

柏屋では、隣りの本陣からあふれた武士が泊ったという二タ間続きの部屋で、折から暖かな日差しが入って、日永、そこで過ごしたい気分になるなあと、語り合った。お茶でもよばれながら、と誰かが相槌を打つ。

田中城下屋敷では、田中城の主について、今川が築城し、武田、徳川と主が変わった話があり、駿府に隠居した家康が、鷹狩りのために、20回以上田中城に足を運び、田中城で食べた鯛に食中りして亡くなった話に及んだ。明治になって、三舟の一人、高橋泥舟が田中城を預かっていた話にまで及んだが、今自分が注目している、中村一氏の家臣、横田内膳正が入っていた10年間の話は欠落していた。(明日へつづく)

********************

「武徳大成記」の解読を続ける。「神君、信玄と味方ヶ原に戦い給う事」の項の続き。

この戦いに、吾が兵、甚だ力戦の労あり。死傷もまた多し。所謂、石川小大夫、野々山藤兵衛政安、安藤木工助基能、小笠原新九郎安廣、山田甚五郎重吉、同角之丞、服部源兵衛保正、原田藤左衛門種友、近藤宮内吉成、長谷川藤九郎正長、小川傳九郎、宇野三十郎政秋、斎藤宗林、志村弥左衛門秀次、中根市左衛門尉正直、門奈善三郎真友、大河原源五左衛門、渡辺十右衛門永、同新九郎、牧右衛門四郎長正、鈴木伝八郎、弟又六郎、米津十郎左衛門、大村弥三郎、荒川甚太郎、権田久助、小笠原三郎兵衛、大橋刑部など戦死す。

細井喜三郎勝宗、騎を反(かえ)して敵のために殺さる。弟喜八郎、その仇(かたき)を斬りて、兄の首を奪いて還る。山下喜兵衛もまた、その兄七郎右衛門が敵(かたき)を撃ちて、二つの首を併せ獲ったり。鳥居元忠、本多三弥正重、健闘して傷つけり。小笠原小五郎安勝、杉原弥一郎親次、戸田七内光定、森川金右衛門氏俊、大岡傳蔵清勝もまた、力戦して創(きず)を被(こうむ)る。

水野藤十郎忠重、西郷孫九郎正員(十六歳)、杉浦八郎五郎勝吉、渥美太郎兵衛友吉、大河原正勝戦功あり。山田十大夫重則、本多八蔵、秋元甚兵衛吉久、浅井道之助忠次、神谷与次右衛門清次、原田佐左衛門首級を獲ったり。松平善兵衛康安、小笠原金平と同じく鑓(やり)を合わす。康安奮戦(ふんせん)して、傷を被ること数所。松平三郎康元(十六歳)、戦功あり。家士、金田靭負(ゆげい)宗房、戦死す。
※ 靭負(ゆげい)➜ 令制の左右衛門の和名。宮城の警衛にあたり、宮城門を守る衛門府を靫負司という。

(「神君、信玄と味方ヶ原に戦い給う事」の項、つづく)

読書:「当たらぬが八卦 占い同心鬼堂民斎1」 風野真知雄 著
コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )
« 前ページ