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放鳥コウノトリはベビーラッシュ

(庭のクンシラン)

久し振りにふるさとのコウノトリの話である。去年、全国民が注目する中で一羽のヒナが巣立った、感動的な映像を見た。

今年、ゲージの外に居る20羽のコウノトリのうち5つがいが巣作りをして現在おそらく4羽のヒナが育っている。これからさらに増えるかもしれない。ヒナが育っている現在の様子を新聞などから情報をまとめてみた。

① 昨年、唯一1羽のヒナ鳥が巣立った豊岡市百合地の雌9歳、雄7歳のつがいに3月になって5個の産卵が確認され、3月半ば過ぎに3羽のヒナが確認されたが、内1羽は育たずに死んだが、2羽は元気に育ち、5月下旬の巣立ちが期待されている。

② 昨年、3個産卵したものの無精卵で孵化することがなかった雌3歳、雄3歳のカップルが、一時雌が別の雄と交尾するなど、ふらふらと一夫一妻を保つという定説を覆しかねない状態もあったけれども、豊岡市福田の巣塔に巣作りを始め、3月の末に産卵、4月半ば過ぎに一羽の孵化が確認された。

③ コウノトリの郷公園から最も遠い豊岡市城崎町戸島の巣塔で、雌7歳、雄3歳のペアが4月初旬に産卵が確認され、卵が孵ったことを示す親鳥の吐き出し行動が観察されている。2、3日中にはヒナも確認できると思われる。

④ 豊岡市出石町三木の囲いの中に昨年放された雌19歳、雄18歳の子育てベテラン夫婦は5個を産卵したが、子孫が多いため孵化させず、ゲージ内で産卵した別ペアの卵と入れ替えるべく、現在は擬似卵を抱かせている。生まれたヒナをこの囲いから飛び立たせようという狙いである。

⑤ 豊岡市出石町伊豆の巣塔で雌7歳、雄3歳のペアが4月初旬産卵した。産卵が確認された5組目となる。雌は2006年に別の雄と産卵を経験しているが雄が感電事故で死に、今年3月下旬に新たな相手を見つけて繁殖行動を続けていた。

すべてのコウノトリは血統が明確にされており、生年月日を何時とするのか良くわからないが、春の間に一つずつ歳を取る。新聞を見ていると後の記事では年齢が一つ加わっているのに気付く。また血統が偏らないように孵化させないという、昔であれば贅沢な処置もされている。

ここへ来て十和田湖で鳥インフルエンザで死亡した白鳥が見つかったりして、にわかに放鳥コウノトリに伝染することがないか、心配ごとが増えた。放鳥した以上保護しようもなく、幸運を祈ると共に全滅を防ぐためには出来るだけ広い地域に生育させることであろう。

ともあれ、今わが故郷はコウノトリのベビーラッシュである。
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川根町の八垂の滝

 
(「八垂の滝」左-上部、右-下部)

日曜日、童子沢を後にして、大代ダムのある谷から馬王平に登る林道に向かったが、こちらも営林署の施設から先が通行止めになっていた。理由が林道を横切る溝に設置した金属製の溝蓋が盗まれたためと書かれていた。

残された道は家山から前山に登って林道を行く道しかないだろう。30分掛けて家山に来た。ついでに「八垂(やだる)の滝」を見ようと話す。女房は同級生たちとボランティアに案内してもらい、滝を見たという。その記憶によって家山川の左岸を遡った。一つ無名の滝を右手に見てさらに進むと、家山川が支流と合流するところに、山から注ぐ沢があった。その沢に「八垂の滝」があった。八段に落ちてくる滝を総称してそう呼ばれるらしい。ただ八垂橋から見えるのは上に2段、下に2段の4段である。


(「井台の滝」?)

家山川はここで三方から注ぐ二つの川と一つの沢をまとめて一本になる。山が険しければ十字峡とでも呼ばれそうな地形である。戻り道で往路で見た無名の滝を、車を停めて見物した。水量は「八垂の滝」よりはるかに少ないけれども落差はある。渡る橋を「井台橋」というから、この滝も橋の名を採って「井台の滝」と言っておこう。せっかくハイキングコースの途中にある滝なのだから、名前を付けて、邪魔になる木も2、3本切らせて頂いて、良く見えるようにすれば、ハイカーの楽しみが増える。写真は邪魔になる灌木の枝を女房が引っ張ってくれて撮った。

昼食後、前山から八高山を目指した。林道が荒れているというのが印象だった。冬の間に崩れた土砂がしっかり処理されていないように思えた。掛川へ下る道と、八高山馬王平へ通じる林道の分岐で、八高山への道のゲートが閉まっていた。これで馬王平への道はすべて閉ざされた。この林道の先に「大垂の滝」があると記憶していたので、女房に「大垂の滝」まで歩くと話す。八高山にまだ熊がいるとどこかで聞いたらしく、出会ったら困るという。それは出会いたくないが、めったなことは無いから大丈夫だという。女房は熊除けの大きな鈴を鳴らして付いてくる。30分も歩いただろうか。なかなか滝に出くわさない。後ろでまだかまだかと女房がうるさいので諦めて戻った。(後で地図を確かめたところ、もう200~300mも歩けば滝に行き着いた)

この行き帰りに今日の目的であった、少しばかりのタラノメとフキを採りながら歩いた。帰りは掛川市黒俣から井尻へ出た。

ゴールデンウィーク前なのに、山道は通行止めのままだったり、整備もされていない。ガソリン税の撤廃の影響が利用度の少ない道路の補修などに出始めているのかもしれない。今月末でとにかくもとに戻すようだが、山道のこういう状態はしばらく続くのだろう。
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童子沢の地名由来伝説

(童子沢で見つけたミスジチョウ)

日曜日、近くの山に山菜を取りに入ろうと女房に話し出掛けた。八高山の馬王平まで車で行けば、あの辺りならまだワラビぐらいあるかもしれない。また狙いはタラノメやフキである。まあ取れなくても山中を歩くだけでも気分がよい。

行くならば通ったことのない童子(わっぱ)沢から登る道を通ってみようと車を進めた。ところが童子沢の登り口に災害復旧工事中で通行止めという標識が出ていた。(後で考えて、童子沢から登る林道は八高山へ通じていると思い込んでいたが、どこへ通じているのか、本当には確認した訳ではない。昔、大代から神尾山-経塚山を通って尾根伝いに八高山へ縦走したことがあるが、道が造れるような尾根ではなかった気がする。)

せっかく来たのだから、「童子沢親水公園」を少し散策しようと、車を駐車した。沢の左岸の散策路には、童子沢のいわれに関する伝説が「童子沢物語」として、看板5枚に別けて掲示されていた。散策しながら読み進むように20m位の間隔を空けて立てられていた。

童子沢物語は家山の「野守の池」の伝説に呼応する物語である。看板に書かれていた童子沢物語を以下に要約する。

京の高僧、夢窓国師の説法を聞き、国師を尊敬から恋い慕うようになった遊女「野守」は、修行の旅に出た国師を追ってはるばる金谷の大代の里までやってきた。野守は家山の池の畔に草庵を結ぶ国師までもう少しというこの地で、遊女の頃に身ごもった赤子を産んで、里人の援助を受け育てた。

その後、野守は国師を思い切れずに子供を里人に託し家山に向かった。しかし険しい山道に途方にくれた。その時、思いが天に通じたのか、突然野守の姿が鯉に変わり、沢を遡って、沢が切れたら空を飛び、山を越えて家山の里にある池へ入った。山を越えるとき、頂きにある松の木に背びれが触れ、切れてしまったが、その松を「ひれ切れの松」、鯉の入った池を「野守の池」と呼ぶ。池には今も背びれの無い鯉が棲息しているという。

大代の里で野守の子供は育てられ、産湯にも使い母親の思い出も残るこの沢で好んで遊ぶようになり、病気もせずにたくましく育っていった。不思議なことにこの沢で遊ぶ子供たちは皆健やかに育ったといい、いつの頃からかこの沢を「童子(わっぱ)沢」と呼ぶようになった。


地名由来の伝説であるが、同時に「童子沢」が親水公園として整備された意義も述べているようで面白い。その後の国師と野守がどうなったかは不詳として、家山の伝説の領域を侵さないようにしている辺りも、伝説でありながら、現代の人たちの配慮が顔を出している。ところで「野守」は現代ならば立派なストーカーだねえ。


(ひげの長い小虫-白いのは軍手の人差指)

散策の間にミスジチョウとひげの長い小虫(名前は調査中)を見つけ写真に撮った。虫は人の魂に喩えられるからという訳ではないが、「童子沢」にはこんな美しい伝説ではなくて、もっと悲しい伝説があったのではないかと、ふと思った。
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長野のオリンピック聖火リレー

(庭の斑入りのアマドコロ)

昨日、喧騒の中で聖火リレーは終わった。長野を走りながら、沿道には長野県民は目立たなかった。動員された中国の留学生たちが、大きな中国国旗を振りながら沿道を埋めた。少数ながら、チベット国旗を持ったチベットの亡命者たちも集まった。両者が小競り合いを起こし、警察官が中に入るが流血の騒ぎになった。

そんな中で、聖火リレーはスポーツウェアの機動隊や警察官に両側を二重に守られて、前方の移動車のテレビカメラに向けてゆっくり走る。正面のテレビカメラの映像を見ている限り、一応順調に聖火リレーが続いているように見えた。うまい方法を考えたものである。

しかし実際には物を投げつけられてショックな欽ちゃん。行列に飛び込もうとした台湾の男性に驚く愛ちゃん。カメラはそれらもとらえていた。長野県民に大迷惑をかけて、聖火は夜に韓国に空路移動して行った。まあ、その程度の騒ぎで済んで良かったというべきであろう。

よその国に来て騒ぎを起こし、何も反省なく、聖火は日本人に大歓迎されたと、臆面も無く放映する中国という国、その沿道の画像には動員した中国の留学生しか映っていなかった。長野に動員された留学生たちは何を感じたのであろう。中国国内のように報道は統制されていないから、日本では裏も表もすべての情報を知ることが出来る。ここまで来たらオリンピックは成功させたい。それが愛国心を目覚めさせたことは理解できる。しかしどこかおかしいと思うはずである。

日本は聖火リレーの安全対策の見本を見せたのかも知れない。今後の聖火リレーは中国国内に移る。どこまで正確な報道がされるか知らないが、愛国心に目覚めた若者たちを煽り立てて、国内の聖火リレーは乗り切るであろう。しかし、心配なのはオリンピック本番である。

オリンピック本番ではよもや報道規制することは出来ない。規制を受けるようなオリンピック報道では世界の目が許さないだろう。テレビカメラの前で色々な妨害行為も起こるだろう。しかし、それよりも恐ろしいのは、中国政府が煽り立てて、愛国心に目覚めた若者たちである気がする。「愛国無罪」の名のもとに彼らがどんな行動に出るかである。

日本で聖火リレーの沿道を埋めた留学生たちは、それでも原因の一端がチベット暴動とその鎮圧の方法にあったという報道に接しているから、行動も控えめだった気がする。中国に住む若者たちは事情を良く知らされていないから、見えているのはオリンピックの成功を邪魔しようとする世界の国々の姿だけである。オリンピックの本番で、若者たちの中国の常識による行動がとんでもない形になって現れて、オリンピックに泥を塗るようなことにならなければ良いがと、他人事ながら心配をしている。
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吉田町「林泉寺の長藤」

(「林泉寺の長藤」)

朝、出産まで一ヶ月余となった下の娘が来た。幼稚園を辞めてから随分暇そうである。亭主は今日も出勤のようだ。島田市図書館から予約した本の用意が出来たと電話があった。夜中に予約したばかりなのに、もう準備できたという。これは早い。“みんくる”に行くと話が少しおかしい。よくよく調べてもらうと、金谷ではなくて島田の図書館からの電話だった。受取指定を島田に間違えたようだ。島田に保管されているものを島田で出すなら即日にできるわけである。仕方なく島田まで取りに回った。

お昼前に「熊野の長藤」を見に行こうと、女房と下の娘で出掛けた。途中で昼食中、雲行が怪しくなって雨になった。先ほどのカーラジオでは名古屋に雷雲が発生して、竜巻注意報が出たと話していた。「竜巻注意報」というのがあることを初めて知った。日本の家屋は地震や台風の対策はされているが、竜巻対策はほとんど無いだろう。そういえば掛川や袋井で竜巻の被害を受けたというニュースの記憶もある。

竜巻を恐れたわけではないが、熊野の長藤は断念した。代わりに吉田町の小山城の近くの「林泉寺の長藤」を見にいくことにした。菊川から牧之原を越えて、榛原を抜け吉田町に至った。林泉寺は藤色の幟旗を道しるべに進むと小山城の尾根続きの山裾にあった。

雨の中、傘をさして見物する。ここの長藤は「熊野の長藤」の孫になると、案内板にあった。昨年4月29日、榛原の「東光寺の長藤」を見に行っている。「東光寺の長藤」は大正4年に「熊野の長藤」の芽を別けてもらったものといい、ここ「林泉寺の長藤」はその東光寺から芽を別けてもらって接木したもので、樹齢は40年という。つまり、「熊野の長藤」-「東光寺の長藤」-「林泉寺の長藤」という系譜が繋がっていることになる。去年の「東光寺の長藤」も雨であったが、今日も雨になって、どうも長藤は雨にたたられていると思った。


(鯉のぼりの吊るし雛)

林泉寺の十王堂では長藤の写真展、本堂では押し花と吊るし雛の作品が展示されていた。吊るし雛の中で鯉のぼりの吊るし雛はアイディアだと思った。女房は作ってみたいと思ったようだ。


(雨に濡れた牡丹)

帰りに島田の「静居寺の牡丹」を見に行った。ここも昨年「東光寺の長藤」を見る前に立寄っていた。盛りを過ぎていて残念な思いをした。今日は今が盛りであったが、あいにくの雨に、花びらが濡れたティッシュのようになって、これも思いを残すことになった。花を見るのはなかなか難しい。
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「動くとき、動くもの」を読む

(庭のパンジー)

今月11日の夜、桜島で少し大きい噴火があった。火柱が上がり噴煙は2200メートルに達した。噴石は6合目まで飛んだという。現在も桜島は噴火警戒レベル「3」(入山規制)になっている。

日本列島は常時動いている。火山だけでなく、地震や水害による崩壊が列島の形をわずかずつながら変えている。形が変わると、その近辺に住んでいる人々に大きな被害を与える。崩れようとする自然と懸命に闘い、被害を最小限に防いでいる人々がいる。崩れを防ごうとする営みを「砂防」という。横文字の「SABO」という言葉は国際語になっており、世界のどこでも通じる。それだけ日本は「砂防」を必要とする崩落地が多く、「砂防」に予算をかけているといえる。

(注)砂防とは、山地・海岸・河岸などで土砂の破壊・流出・移動などを植林・護岸・水制・ダムなどにより防止すること。

その「砂防」にたずさわっている人々にとって、災害が起きない間は「砂防」が大きな役割を果たしているのだが、賞賛の声を聞くことはない。いったん災害が起きてしまえば、役に立たなかった「砂防」が注目され、その立ち遅れの指摘を受ける。注目されるときは糾弾されるときで、役に立っている間は誰にも注目されない。日の当らない縁の下の仕事である。

その「砂防」の活動を正面から取り上げた、青木奈緒著「動くとき、動くもの」を読み終えた。著者の祖母は幸田露伴の娘、幸田文で、最晩年に日本各地の崩壊地に興味を懐き、老いた弱い足腰で山の中を取材して回った。死後「崩れ」という本にまとめられている。それから四半世紀経ち、その孫が再び祖母の歩いた後をたどって、崩壊地の現状と「砂防」の状況を取材した。

桜島、六甲山、立山カルデラ、小谷村、有珠山、日光・足尾、雲仙普賢岳、大谷崩れ、富士大沢崩れ、と著者が足を運んだ場所は、いずれもかつて崩れが新聞紙上をにぎわした場所である。

中で、大谷崩れは安倍川奥の梅ヶ島とは一つ西の谷筋をさかのぼった奥にある。日本三大崩れの一つといわれている。昔、今で言えばの国交省の現場事務所主催で、安倍峠から八紘嶺、大谷嶺を縦走して、大谷崩れに降りてくる登山の会に参加したことがある。山の奥の奥に一見自然破壊に見紛う、ダムのような砂防施設が連なっているのを見た。人の目に触れることがほとんど無い、しかし下流地域に土石流の流れ出るのを防ぐ重要な施設である。この登山の会も砂防の重要性を知らせる広報活動の一貫として催されたものであったのだろう。

砂防に携わる人達にとって、幸田文、青木奈緒の二人の作家の活動は大きな励みであったと思う。
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デジカメを買い替えた

(新しいデジカメ CASIO EX-Z200)

先月末、九州出張のホテルでジャンパーを椅子にかけて置いたところ、何かの拍子に椅子をバタンと倒してしまった。そのときは何気なく椅子を起こして置いた。次の日、ジャンパーのポケットで金属のかけらが手に触れた。すべてを出して並べてみると、デジカメの皮ケースのストラップを留めていた金具が壊れ、ストラップが取れてしまった。椅子を倒した時、ポケットにデジカメを入れたままだったと気付いた。ストラップは無くてもいいと残骸を捨てて口をぬぐった。

そのまま半月ほど忘れていた。ある時デジカメを見ていて気付いた。シャッターの下、表側の鉄板がペコリと凹んでいた。何だこれは? デジカメを凹ますほどの力がかかったとすれば、九州のホテル以外には思い付かない。あの時、ストラップだけではなく、カメラも傷つけていたのだ。しかし、機能的にはどこも損傷を受けていないから、問題ないかと見なかったことにした。

ところが昨夜、デジカメを使おうとして、画面を出すと直に画面が消えてしまう症状が出た。被写体にレンズを向けようとすると画面が消えてしまう。何度やっても同じである。とうとう壊れてしまった。女房に話すと、子供たちが退職のお祝いにくれたお金が手付かずに残っているから、それで新しいものを買えばいいと言ってくれた。デジカメは「かさぶた日録」の必需品でもあるから欠かすわけにはいかない。

そんな訳で、今日、女房と藤枝のノジマに出掛けてデジカメを購入してきた。

      CASIO EXILIM EX-Z200 10.1 MEGA PIXELS

1ギガの媒体、予備の電池、皮ケースなどを含めて42,000円。

古いデジカメを購入したのは2006年1月だから、2年4ヶ月使った。ノジマの女店員にこの後継機種はどれになるかと古いデジカメを示したが、後継機種がこれと決められないという。選んでくれたものと古いものがどれだけ違いがあるかを並べてみよう。

          新             旧
     広角28mm         広角無し
     光学4倍ズーム        光学3倍ズーム
     10.1 MEGA PIXELS     7.2 MEGA PIXELS
     手振れ補正          手振れ補正なし

広角とズームの範囲が増えるのは嬉しい。手振れ補正はうまく使えるだろうか。何よりも機能設定が大変楽になっている。今まで使わなかった機能も使えるようになるかもしれない。

新しいデジカメの写真をブログに載せようと思って、はたと困った。新しいデジカメの写真を何で撮ればいいのか、難問である。そこで壊れたデジカメを取り出し、画面を出してみた。すぐに落ちる。しかしひょっとして画面に出ないだけで、写真は撮れるのではないのか。シャッターが押せて、確認すると写真は撮れていた。難問は解決した。さらに色々といじくっていると、あれっ、画面が落ちなくなった。ということは直ってしまった? 本当に直ったのなら、古いものは女房に譲ろう。
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「大往生の島」を読了

(佐野眞一著「大往生の島」)

先日、予約して借りた本の一冊、「大往生の島」を読み終えた。平成9年の時点で全人口に占める65歳以上の人口、いわゆる高齢化率71%、ダントツの日本一であった、山口県の周防大島に金魚の糞のようにくっ付いている沖家室(おきかむろ)島に取材したノンフクションである。

沖家室は段々畑を作っても、昔から多くの人口を養うことは難しかった。若者たちは瀬戸内海から玄界灘、朝鮮、中国まで、漁業、大工、瓦製造などの技術をもって移り、各地で活躍していた。明治になると、たくさんの人がハワイへ出稼ぎ移民した。つまりは沖家室島は昔から若い人は皆んな出稼ぎで出て行き、高齢化率の高いのは今始まったことではなかった。もう何百年も続く高齢化社会なのである。

これからどの国も経験したことのない急速な高齢化社会を迎える日本の、沖家室は一つのモデルである。沖家室のお年寄りたちが、皆な生き生きと生きている様は、我々の未来に大きな参考になると思う。

沖家室には若い人は居ない。介助の居るお年寄りをまだ元気なお年寄りが支えている。肉親ではなくて近所のお年寄りが支えている。お年寄りがお年寄りを支える巧みな仕組みが作られている。一人暮らしの老人が多いけれども、孤独死は一件もない。都会に出ている子供たちが一緒に住もうというけれど、部屋でテレビだけがお友達の生活に耐えられない。呼ばれて行ったお年よりはたちまちぼけて入院し亡くなったという。

沖家室ではお米以外は自給自足、皆んな死ぬまで働いている。寝たきり老人が少なく長寿の島である。

人間の肉体のあらゆる部分は使われなくなるとたちまち退化してしまう。それは筋肉のような部分だけではないと思う。脳も使わなくなればすぐにぼけてしまう。多分そうなのだろうと思う例を幾つも見ている。ボケないで長生きし、寿命が尽きたらぽっくり逝く、そんな理想の一生が沖家室にあったのである。だから「大往生の島」である。

これから迎える高齢化社会を乗り切るためには、元気な高齢者が介護を必要とする高齢者を助けていくということしかないのだろう。年金を貰っている人達だから、給料をたくさん出す必要はない。出来るだけたくさんの高齢者が自分が出来る部分を少しずつ引受けていく。元気なお年寄りは生きがいを見つけていよいよ元気で医者要らずになるであろう。介護の必要なお年寄りも身内の世話を受けるのではなくて他人の世話になる方がいいと思う。ボケてきても他人の方が事実を冷静に受け止めることが出来る。そんなことを考えさせられた。

ただ、この本の取材は10年前である。10年経った現在も同じ状態が維持できているのかどうか、すでに集落も消滅しているのかもしれない。その点が心配である。
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李明博大統領の初来日

(庭のプランターの苺)

20日に、韓国の李明博(イミョンバク)大統領が、就任後初来日した。21日、公式行事の間に、民放が企画し収録した大統領と日本の民間人との対話番組が「ニュース23」の枠で一時間余り放映された。韓国の大統領に興味を抱くことは無かったのだが、李大統領は実業家出身の経済に強い大統領として注目していた。

李大統領は大阪に生まれ、戦後すぐに両親と帰国、貧窮の中で苦学して大学に進学した。学生運動も経験し、大学を出たけれども、就職難で、就職できたのが現代建設という中小企業であった。しかし、そこで頑張り、36歳で社長に抜擢され、会長職を経て、その間に現代建設を大企業に発展させた。その後、国会議員、ソウル市長、そして大統領へ上り詰めることになる。韓国の立志伝中の人物である。その半生が韓国のテレビドラマにもなったという。

「コンピューター付ブルドーザー」とあだ名されていた点は、田中角栄元首相を思い起こす。見た目には、細身で温和なニコニコした表情を絶やさない優男にしか見えないが、これだけのし上がってきたパワーを内に秘めているのであろう。

質疑応答が始まった。若い人の質問に、目標は有名大学・大会社である必要はない。自分のいる場所で一生懸命になることが大切であると、何度か形を変えて述べた。このあたりは自分がそうしてきた経験に基づいたものであろう、説得力がある。

盧武鉉(ノムヒョン)前大統領の時代、対米、対日との関係がギクシャクしていた一方、対北朝鮮には太陽政策で融和策を進めてきた。李大統領は経済発展を最優先の公約に上げているように、経済を最優先において、対米、対日の関係改善を目差し、北朝鮮とはまず北朝鮮が核の放棄をすることが前提で、それが出来れば援助が出来るという原点に戻った対応である。北朝鮮がいらつくのも無理はない。

対話は通訳を通して行われた。しかし、李大統領は日本語が判っているように思えた。通訳に聞き返すこともなかったし、質問側が要点を得ないような質問をしても、その受け答えには、的を外したりはぐらかしたりしているところは見られなかった。質問をしっかり分析し、その一つ一つにていねいに答えていく点など、さすがに大会社を背負って立ってきたと思わせるものがあった。

短い対話集会のパフォーマンスで、どこまで本音が出たかは判らないが、発想的には日本人に近いものも感じられ、日韓外交は今後進展することが期待される。ただ、まだまだ大統領の秘められた部分がたくさんありそうで、どこかの棚ぼた首相ではとても太刀打ちできない大統領だと思った。
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中国の反仏デモ

(庭のオダマキソウ)

19日、20日と中国の武漢で反仏デモが起った。チベット問題での対中批判や聖火リレーの妨害に抗議したデモである。武漢を皮切りに西安、ハルビン、済南、青島、大連、昆明、合肥などでデモや集会が相次いだという。4月12日の書込で自分は次のような危惧を書き込んだ。

人為的報道統制の怖さは、たとえば、チベットの暴動を報道せずに、世界の聖火リレーの妨害だけを報道すると、中国が行う国家的行事に世界の国々が妨害しようとしている構図に写るであろう。中国人民を大きくミスリードすることになる。ミスリードが大変な事態を起こすことは、何年か前に起きた排日デモが証明している。

まさに危惧したことが始まったと思った。しかし、各社の報道に接しその後の沈静化の動きを見ていると、2005年4月の反日デモのような荒れ方は無く、平穏なままに収束に向かっているようにみえる。写真を見てもデモをする若者たちに切実感は無い。ニコニコ笑っている若者も多かった。チベットの若い僧侶たちの思いつめた顔とは対照的であった。一説には19日のデモは公安当局と話し合いって行った官容認のデモであったという。ヤラセに近いデモである。外交で行き詰ったとき、中国が良く使う方法である。つまり13億の人民を使う手である。国内のガス抜きをしながら海外にプレッシャーを掛ける。

反日デモでも始まりは同じようなものだったが、「愛国無罪」の名のもとに失業者や出稼ぎ労働者などの不満分子が加わり、放っておけば反政府運動に発展しかねない状況にまで進んだ。今回はその学習効果も有り、早めに鎮静化につとめているように見える。

どうして反仏なのか。西欧のどの国もチベット問題への抗議で聖火リレーは妨害を受け、コースを変えるなど苦慮してきた。オリンピック開会式への首脳の参加を取りやめる国もある。客観的に見てフランスだけ対応が違っているようには思えない。ただ違っていたのは、フランスのサルコジ大統領だけが中国政府が相手にしないとするダライラマとの対話を始めなければ、オリンピック開会式への出席を取りやめると、はっきり言った。まさに小泉首相が靖国には参拝するとはっきり宣言した反日デモの時と同じ状況である。中国政府の意図がみえみえで、ヤラセの疑いを濃くする所以である。

しかし中国政府はこんなことをやっていると、オリンピックで大恥をかくことになると思う。中国国民を情報誘導して愛国心を発露させる。いま中国人の中で起きている反発心がオリンピックの本番で出てしまうと、世界が注目する中でとんでもない事態を引き起こしかねない。オリンピックまであと4ヶ月を切っている。
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