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遠州高天神記 巻の参 1 遠州横須賀城築き給ふ事

(すっかり整備が済んだ横須賀城跡)

「遠州高天神記 巻の参」の解読を今日より始める。これより再び嘉永三年(1850)に書き写された版に戻る。この方が時代は古いけれども、はるかに読み易い。

高天神記巻の三
   遠州横須賀城築き給う事



(撰要寺山門-横須賀城の城門を移設したという)

天正六寅年(1578)春、横須賀に御城取り、同国馬伏塚城主、大須賀五郎左衛門尉康高に命じ、御自身御縄張り普請、三月十一日より初める。前は石津八幡山に当座の掻き揚げの砦を成され、今の撰要寺の山も然るべきかと有けれども、公の御見立てにて、この城に成され、これは高天神の城、甲州へ取られて、浜松まで、浜筋の道の抑えなく、馬伏塚は引っ込み過ぎて、殊に海辺の道筋へ、出悪き城なる故、用に立たずと有りて、かくの如く、この横須賀へ張出城を築き給う。高天神と浜松の間の仕切りなり。高天神より浅羽村まで、夜々甲州のすっぱ者、盗賊入り妨取故、かの防ぎのためなり。
※ 城取り - 城を築くこと。また,その設計・構造。城構え。
※ 掻き揚げ - 土をかきあげて、手軽く築きあげた城や砦。
※ 張出(はりだし) - 建物などの外側へ出っ張らせてつくること。また、その部分。
※ すっぱ(素っ破、透っ波)- 戦国時代、武家が野武士や野盗であった者を取り立て使った間者。乱波(らっぱ)。忍びの者。
※ 妨取(ぼうとり)- 乱妨取り。乱取り。戦国時代から安土桃山時代にかけて、戦いの後で兵士が人や物を掠奪した行為。



(遠州横須賀城図-案内板より)

この城取は四方海へ入り込み、または深沼の池、山に相入りて、前左右の脇にも
大渕と云う深沼の渕多く有り、水多き城故、長蛇の備えを思し召し、山へ寄る故、両頭の蛇に形どり、西大手、東追手と呼び給う。追手を両方に開き、敵東西より掛るとき、自由能きと命ぜられ、山に並ぶ沢に付、水に添う故に、長蛇の備え能き心地なりと、上意有り。これ深き慮(おもんばかり)有りて、御工夫の御城取りと云々。
※ 長蛇の備え - 陣形の一。兵を隊ごとにほぼ一列に並べる陣形。縦方向に敵陣を突破する場合には、非常に有力な陣形である。ただし横方向からの攻撃に全く対応できないため、谷などの特殊な地形でのみ用いる。

この城は重ねて高天神を御取り返し有るべき時、御本陣に成さるべき御志とぞ聞くなりける。則ち大須賀五郎左衛門尉康高を城主として、先年、高天神落城の節、馬伏塚へ来り、今川家より当国に知行処有りて、住居する小身の国士、あるいは在郷へ引っ込み、山林に身をかくし有る者どもを呼び出させ給い、大須賀が組付に命ぜられ、篭め置き給う、皆々武勇の名高き者どもなり。

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遠州高天神記 巻の弐 17 遠州小山城攻め、勝頼後巻きに出る事(後)

(散歩道の菊の花)

「遠州高天神記」の解読を続ける。

浜松方、この躰を見及び、早々小山城を巻き解きし、一騎蒐(しゅう)に諏訪の原へ引き取り給う。この時、(小山)城中より岡部忠兵衛、鈴木弥右衛門、朝比奈金兵衛など切って出んと、二、三百騎、三段に進みけれども、酒井左衛門、大久保七郎右衛門、城戸の左の方、四、五町脇に退き備え、兵切って出れば、跡を取り切るか、さては付け入りにせんと、控えたる備え立てを見、鳥井長太夫、頻りに止めける故に、敵の引くを詠(なが)め居たり。その後、酒井、大久保も手早く繰り引きにして、急ぎて公に追い付きけり。
※ 城戸(きど)- 城の門。

さてまた、信康公は小山より井良(色尾)までは、家康公より御先へ御退かせ給いて、井良(色尾)より御跡に退かせ給う。その時家康公に先へ御退かせ給えと有り。公には信康に、退かせ給え、ここは大事の退き口なり。御心元なきなり。再三御使い走らせ、少時を違(たが)え果さず。敵はその内に近々と押し来り。川を阻てたるばかりなり。終には家康公先へ御退き給い、牧野の城にて諸勢を御待汰(そろ)え掛川へ入らせ給い、それより浜松へ御帰城なり。

その内に、敵は早や大井川を過半渡り、段々近付く所に、信康公は御後殿(しんがり)武者あげ、応答寂々として、敵に威氣もなく、退き給う。武者揚げ天晴れ、若御大将かなと、末頼もしき/\と、敵味方ともに詠(なが)め見物す。
※ 寂々(じゃくじゃく)- ひっそりとしたさま。
※ 威氣(いき)-人を恐れさせ従わせる強い気。
※ 武者揚げ(むしゃあげ)- 兵の退却。

誠に武功の老士も舌を巻いて、誉めまたは話し、小山の城より井良(色尾)までは、敵に向いて退く道なり。井良(色尾)より敵を後ろにして逃げる様に見える故、信康公御止まり御もっともなり。この所にては公の御辞退なり、退かせ給う場なりと、その下々にて風聞有りし事なり。勝頼も長篠にて大負け有りて、軍の取り廻し何とやらん、弱く成る故、この退き口を心安く引き取らせ給うとなり。

さて勝頼は小山の城に入り、諸士を呼び出し、今度篭城堅固に持つ事、偏えに皆々心を一にて、武功を照らす事珎重なりと、諸士に感状を給わり、この度の働きを厚く褒美して、睦まじく諸士を撫馭なり。また諏訪の原落城の諸氏を呼出し、今度、わが後詰め延引故に、落城の段、是非に及ばざる所なり。然れども両月を保って大軍を引き請ける条、日頃の名を得る程有り。全く諸士の咎に非ず。この上は当城に居りて、随分軍忠有るべしと宣(のたま)いて、兵を練(えら)びて甲州に帰り給うなり。
※ 感状(かんじょう)- 主君などが部下の戦功を賞して出した文書。のちに恩賞の証拠となり、また家門の名誉誇示のため、大切に保存された。
※ 撫馭(ぶぎょ)- なだめるおさめる。
※ 両月 - 諏訪原城は落城までに天正三年七月八月の二ヶ月かかった。


以上で、高天神記 巻の弐を解読終わる。これでようやく半分読み終えたことになる。明日からは「高天神記 巻の参」。もう少し「高天神記」に御付合い願いたい。
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遠州高天神記 巻の弐 16 遠州小山城攻め、勝頼後巻きに出る事(前)

(近所の田圃の稲刈も終り、稲木が並ぶ)

「遠州高天神記」の解読を続ける。

    同国(遠州)小山城攻め、勝頼後巻きに出る事
一 家康公、牧野の城に入らせ給い、余り御悦びの上に、いざや、この競い抜かざる間に、小山の城を攻め落さんと上意有り。その時、酒井左衛門尉、諌め申すは、勝頼と申すは若大将、血気の勇将、猪武者と申して候へば、縦え長篠にて大負け仕り、力を失うと申すとも、強い大将にて、甲州にて、死に残りを集め作り、勢いを致し、この表へ後詰めに出ん事、鏡に掛けて覚えて候。
※ 酒井左衛門尉 - 酒井忠次(さかいただつぐ)。戦国時代から安土桃山時代にかけての三河の武将。徳川氏の家臣。徳川四天王の筆頭とされ、家康第一の功臣として称えられている。
※ 猪武者(いのししむしゃ)- 思慮を欠き,向こう見ずにがむしゃらに突進する武士。


さあらん時は、取巻きたる城を巻き来たり候はんこと、如何(どう)見若く候えば、先ずこの度は御馬を入れ、御両殿にも御気御補養ましまし、諸卒をも御休め、重ねての御事に成られ、御もっともに候と、達って申し上げれども、御悦びに勇ませ給い、勝頼が憶病神さめぬ間に、両城を攻め落し、高天神と堺の城を蒸し落しにせん事、この縁を外す時あらず。勝頼この表へ出ん事、思いもよらぬ事、五、三年は面(つら)出し成るまじきと、飛び立つ様に勇ませ給えば、酒井左衛門も是非なく御跡につき、しぶしぶ御供申すなり。
※ 御両殿 - 家康、秀康のの親子。
※ 憶病神(おくびょうがみ)- 臆病な心を起こさせるという神。


さて、小山の城には鳥井長太夫、蒲原小兵衛、朝比奈金兵衛、望月七郎左衛門、朝倉、松山、岡部、鈴木、随分名有る勇士を篭め置かれける。甲州へ飛脚を以て申しけるは、諏訪の原城落城、次に大軍当城へ攻め寄せ候。急ぎ後巻き有るべく、何程厳しく攻め申すとも、十二、三日は持ち申すべく候えども、御出馬これ無く候わば、終には落城有るべく覚え候。この筋の城々、皆力なき様に候えば、是非御出馬在るべきと、注進、櫛の歯を引くが如し。
※ 櫛の歯を引く -(櫛の歯は、一つ一つのこぎりでひいて作ったところから)物事が絶え間なく,次から次へと続く。(ここでは)次から次へと頻繁に注進に及んだことを示す。

勝頼大いに驚き、取る物も取り敢えず、生まれ替えの若者ども、或いは百姓の内よりも撰出し、二万騎にて蒐出給い、早や田中に着き給う。先手は瀬戸川原より、井良(色尾)筋へ取り続き満々たり。大井川を渉り、小山の寄手の後ろを取り切らんと急ぎけり。
※ 田中 - 藤枝の田中城。
※ 井良(いろう)- 島田市阪本の色尾(いろお)のこと。
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遠州高天神記 巻の弐 15 遠州諏訪の原城、浜松へ御攻め取り給う事

(ちっちゃな文化展で、その2
細かい竹細工のナガサキアゲハ)

「遠州高天神記」の解読を続ける。明治二十五年に書き写された「遠州高天神記」では、今日の分より下巻に入る。巻の弐は、あと二日分残っている。

遠州高天神記下
    遠州諏訪の原城、浜松へ御攻め取り給う事
一 天正三乙亥の年(1575)に、上様には三州長篠の御合戦に御勝利在りて、三州、遠州の内、甲州方城々、皆御手に入れらるべしとて、遠州山家筋へも御手遣い成られ、それより諏訪の原の城攻めらるべしとて、小夜の中山より菊川へ下る。南の方、山に御旗を立てられ給い、鳥井彦右衛門元忠に案内仰せ付けられ、これ元忠家来の、この所案内知りたる者有る故、今度、彦右衛門望むに依ってなり。
※ 長篠の御合戦 - 天正三年、三河の長篠城を包囲した武田勝頼の軍と、織田信長・徳川家康の連合軍が、設楽原で行った戦い。鉄砲の使用により、連合軍が圧勝した。

公の仰せにこの城と小山城を攻め取り候へば、高天神と瀧境の城は蒸し落しにすべし。高天神は急に責めては味方多く損ずべき故に、これは緩々と蒸し落したるべしと命ぜられ、甲州より後詰めは成るまじく、万一後詰めも有るべきか、田中、小山の城より加勢も有るべきかとて、信康公御大将にて攻め給い、松平左近忠次を先陣と定め給い、家康公には金谷の宿より南の原に御本陣を御居(す)え、方々へ物見を遣され、御用心有りて、上意には一刻も早く雅攻めにして、たとい甲州より後詰めに出ると云えども、その内に攻め落すべきと、諸勢に命ぜられ、昼夜の境もなく攻め給う。
※ 蒸す - 戦陣で、かがり火を焚いて攻撃の気勢を敵に示す。
※ 蒸し落し - 城の周囲を取り囲む兵糧攻め。
※ 雅攻め(がぜめ)ー 我責め。兵員の損傷を度外視した正面作戦。


初めは城主今福丹後守、諸賀、小泉、初手には五百ばかりの人数にて、諸賀を大将にて、菊川の東の原へ出張りして支えけるが、次第に大勢にて城の北の原に取巻きを見て、跡を取り切られんことを恐れて、弓鉄砲の迫め合いして、城中へ引っ込み、門を堅めて防ぎけり。大勢の寄せ手、荒手を入替々々、息をも吹かず操(さわ)ぎ立て/\、切るにも槍にも、楯を携えず、竹束を突き立て/\押し込み、無躰にも乗り込みければ、鳥居彦右衛門も深手を負い、危く見ゆる。松平左近忠次、比類なき軍功有り。城兵も或いは討たれ、或いは手負い多く有りければ、残る者纔かに成りければ叶わず、是非なく夜に紛れ、城主今福丹後守、諸賀、小泉以下、八月廿三日の夜、小山の城へ落ち行き、一所に籠りける。

さて、諏訪の原の城を乗っ取り、生け取りの者ども切り捨て、七月、八月の間に終に御手に入れ、御感悦限りなし。味方の手柄、高名の甲乙、明白に御吟味有り、御褒美等下され、諏訪原を名を替え、牧野の城と名付け賜い、松平左近将監忠次を城番として、同国樽木村、並びに川尻を御加恩有り。忠次を改め、御諱の字を下され、周防守康親と仰せ下され、これ今度の軍功と云々。
※ 加恩(かおん)- 知行などを増し与えること。

また御城預り給う故なり。牧野右馬亮康成も康親と同じ牧野の城に籠るべき旨、命を蒙る。これ故に牧野の城と名付け給うとなり。武王の牧野より発と云う古例とかや。然らば武田が城、初に御手に入ると限りなき御悦びなり。武田も五頭、この城に籠り置きけれども磚(せん)なく落城なり。
※ 武王の牧野より発 - 古代中国の紀元前十一世紀、殷の帝辛と周の武王を中心とした勢力が争った「牧野の戦い」。武王は勝利して殷王朝は倒れ、周王朝が天下を治めることになった。
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遠州高天神記 巻の弐 14 高天神落城の事(三)

(横須賀のちっちゃな文化展で)

「遠州高天神記」の解読を続ける。今日解読の分も、明治二十五年に書き写した際に、書き加えられたものと思われる。

 これより後の見聞事、書き記す。
○小笠原与八郎は甲州へ参り、駿河富士の下方にて、一万貫文下され、弾正少弼と成る。八、九年相勤め、甲乱以後小田原へ出仕して関東にこれ有ると云々。

○斎藤宗林は駿河へ浪人して引っ込み有りけるが、富貴成る故、金銀にて大に珠数(じゅず)の玉を拵え、鎧の上に、首に掛けて合戦に出る事、その隠れなきものなりと、我が祖父語りしを聞くなり。然らば浪人後、駿河宇津の谷にて、野伏に闇打ちに成ると云う説在り。余り金銀たくさんに持つ故、奉公にも出ずして害と成ると、昔老人の取沙汰、数度承る。これは実正故、跡絶えてなし。この事、ある老人の存じ知りたりと。しかも宗林とゆかりたる者、斎藤、予につぶさに語るなり。また曰く、近頃、名君大成集と云う古記を見れば、その後に遥かに過ぎて、合戦勢揃いに、二、三所に、斎藤宗林と記録、浜松方に入りて有ると云々。不審。また宗林が墓、浜松近在郷の小寺に有り。由緒はこれ有り。なおいぶかし。後に闇打ちに逢うが候や。これも二説なり。
※ 野伏(のぶし)- 野武士。中世、山野に隠れて、追いはぎや強盗などを働いた武装農民集団。
※ 不審(ふしん)- はっきりしない点があって、疑わしく思うこと。


○中山是非之介は甲州へ行く。甲乱後関東へ行き、小田原に勤め、小田原没落以後、程過ぎて、三州岡崎へ来たり、浪人にて老衰の上病死すと、岡崎住居の老人、予に具に語るなり。かの老人、是非之介と年頃に出会い、一生不仕合わせの咄を語り、笑う事有りしと云々。

○右の外、馬伏塚へ退くも有り、浜松へ参るも有り、また浪人して在郷へ引っ込み住居する者も有り。今に在郷にその子孫在り。勝頼の証文所持する者、所々にこれ有るを見たり。

○馬伏塚へ退き来たり候者は、上意にて大須賀五郎左衛門に御預け、大須賀の組付と成る。横砂の城に籠城して、数度合戦働き在り。その後、大須賀出羽守殿に付き、後に紀州へ参らる由、またその内、御旗本へ召し出さる方もこれ有る由。

○高天神落城の時、勝頼公の大文字の大旗、中村の内、公文と云う所に立て給う。その所を今にその村の者ども、大旗と所の名に云い伝えるなり。高天神大手より弐十町程南なり。その筋を今、陣海道と云々。下々の者はヂンガドウと云う。惣勢は中村の内、毛森山の嶺に陣取り給う所を、今に所の者、惣勢鼻と云い伝えるなり。高天神城より十町余東、の方に当るなり。若し後詰め有らば、この山へ引き上げ、本陣に成るべき心当てと聞えたり。遊軍も一切の惣勢を備え置き給うなり。
※ 巽(たつみ)- 南東の方角。
高天神記上終


明治二十五年に書き写された「遠州高天神記」は、上下に分かれていて、ここでその上巻が終わる。巻の弐は残り二項目で、あと三日分残っている。
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遠州高天神記 巻の弐 13 高天神落城の事(二)

(水窪ダム周辺の紅葉)

午前中、雨の降る前に、横須賀のちっちゃな文化展に女房と行く。

「遠州高天神記」の解読を続ける。今日の分は明治二十五年に写した際に、書き加えられたものと思われる。

右の節、諸士に勝頼公より御下し御直判、御朱印文、今、所々に子孫所持する所、予拝見致し候分これを写すものなり。

 (朱印)  定
一 遠州城東郡中村郷       百五十貫文
一 同郡内田郷          百五十貫文
一 同郡岩滑郷           五十貫文
右かくの如く徳川家康時より抱え来たりの由候条、自今以後も弥々御相違あるべからず候。畢竟武具を嗜み、戦功の忠を抽くべき趣、仰せ出されるものなり。よって件の如し。
 天正二甲戌七月九日          跡部大炊介これを奉る
        斎藤宗林
追って、申し掠められ有る旨、後日訴え人出来ならば、重ねて聞こし召され、合わせて御下知さるべき便、また当知行の内、先ず忠在るを以って抱え置く人は、自余の地を以って、これを掲げらるべきものなり。
※ 自余(じよ)- それ以外。そのほか。

   また御判形の文に曰く、
       定
一 遠州山名郡山名庄何村     何百貫文
一 同州何郡何村         何十貫文
一 同州左野郡何村        百五十貫文
右かくの如く、徳川家康時よりこれを抱え来たる由候の条、自今以後も弥々相違あるべからず候。畢竟疎略なく武を嗜み、具(つぶさ)に戦功の忠を抽くべきものなり。よって件の如し。
 天正二甲戌七月九日        御書判
        何之誰殿

       定
一 駿河国富士の下方において、一万貫文の所、遠州城飼郡に引き替え、これを下し置く。永く相違有るまじく候。畢竟疎略なく武を嗜み、具に戦功の忠を抽くべきものなり。よって件の如し。
 天正二甲戌七月九日        御判
        小笠原与八郎殿
右の通り残らず御証文下され、或いは御朱印或いは御直の書判なり。中にも御判形は別けて有難き説(よろこび)なり。
※ 書判(かきはん)- 昔の文書の末尾に書いた署名。特に草書体で書かれたものを草名(そうみょう)とよび、さらに図案化された書体のものを花押とよぶ。花押が一般的になってからは、書き判が花押の別称とされることがある。

  《雲龍なり》 御判者  (花押)


(武田勝頼の花押)


(花押について)
かくの如きの御判形なり。信玄公の聖判と云うより大なり。見事なり。

右の段々、天正十一年未の春、甲州乱の後、甲州より本国遠州へ帰る浪人の覚え書これ有り。敵味方和談で、甲州へ参る者もこれ有り。遠州に残る者もこれ有る故に、両方の取沙汰、皆々能く知る故に書き記すと云々。これを以ってこれを写すものなり。


武田勝頼の花押は、写真は高天神記に書き写されたもので、実際の花押は下の写真のように、美しく書かれている。


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遠州高天神記 巻の弐 12 高天神落城の事(一)

(水窪ダム)

息子の運転で北遠に出掛けた。最終目的地は水窪ダムであった。水窪ダムはロックフィルダムであった。周囲の山の尾根近くにはすでに紅葉が降りて来ていた。

   高天神落城の事
一 かくて高天神より再三合戦の次第、浜松へ注進申し上げれども、信長公の出馬これ無きに付、浜松より後詰めの沙汰もなく、援兵も来たらずと云えども、城中は少しも撓(たわ)まず、千騎が一騎に成るまでも、皆討死と思い切りて、日夜の境もなく防ぎけり。

この時、今一度強く責めるものならば、難なく攻め破るべしと見えけれども、如何に思いけん、甲州方より戦を止めて、駿河先方の内より、城中へ縁有る者を以って和談を入れ、当城を明け退くに於いては、城中者助命有るべく、また甲州へ志有る者には、先ず知増して甲州へ抱えるべしとなり。

与八郎も是非なき仕合せなり。これまでは働き候えども、御後詰めの御沙汰もなし。如何なる御思慮にて捨てさせ給うや。欠川天王山合戦より江州姉川合戦へ、南の観音城攻め、越前金ヶ崎、所々の御先を勤め、忠功他に異なり、これは皆人の知る処なり。今当城にても今日までは、御入国御奉公抽き申す処に、かように十里に足らざる所にて、捨てさせ給う事、御情もなき仕合せなり。

さらば一先ず城を明け退き、城中大勢の命を助け、その後ともかくも成るべしとて、返事には、当城持口に今川家より小身の侍ども多く、皆傍輩もて御座候えば、与八郎心ばかりにて計らい難き事に存じ候。この者どもに本領安堵の御判形下し置かれ候わば、諸侍の志をも承るべきにて候と申し達しければ、その儀もっとも安き事なりとて、則ち与八郎方より目禄出すべしと有りければ、与八郎一々目禄を指し出す故に、銘々に小身の侍まで御朱印下され有り、また御判形下さるも有る。

この証文頂戴して諸士へ渡し、与八郎皆々へ申す様、上様御入国より、各々も随分御忠孝、残らず御働き候えども、当五月初めより、当城かくの如く取り巻き、兵粮、玉薬まで、最早皆尽き果て、叶い難き旨、再三急を御注進申し上げれども、如何成る御思慮にや有りけん、浜松より十里ばかりの所にて、かく御見捨て成さる事、是非も無き事ともなり。然らば天下大いに乱れかかる浮世と成るとも、一度は天下の泰平たるべし。然る時は行く末幾度も闘い有りて究めるべし。我等を始め、皆々武運もこの城ばかりに極まりがたし。先ずこの城を開き大勢の士卒の命を助け、何も御志に御忠心を、幾度もなし給いて、武運の程をもようし、時の至るを待ち給え。

今、西の丸を乗っ取られ候えども、五十七日も怺えて闘い、今かかる躰にては、この城一日も怺えがたし。これまでの働きは、各々云う甲斐なしとは、世の嘲哢も有るまじ。この上は先ず城中大勢の命を助け、その後如何にも武運の程をも計るべきと存じ、かくの如くに候、と銘々委しく申し断りを立て、御判形を渡し、これよりは各々心次第に退き給えと申さるる。

城中各々皆もっともには候えども、今までの働きを水として、名を流し城を開くも口惜しき次第なり、と区々(まちまち)の詮義して、割れ割れに成りて一決せずといえども、与八郎云わるる処も、その道理あり、当りたる事なりとて、御判形を頂戴して、さてに暇乞いして、城門を開き思い思いに明け退くなり。妻子など、東西の知行取る在郷に置く故に、浜松へ行くも有り、また馬伏塚へ退くも在り、与八郎と一所に甲州へ行くも有り、さるに依って、これを西退東退と後まで申すなり。人々の耳たぶ知れぬものなりけり。

然して、勝頼城東郡御手に入れ、御仕置など御下知有りて、高天神の城には甲州入れ替わり、磅(旁、かたがた)渡し、それより遠州の城々御手配御定め有りて、七月廿八日甲州へ御馬入りなり。
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遠州高天神記 巻の弐 11 武田勝頼、高天神城攻めの事(五)

(掛川大東図書館前のコスモス畑)

「遠州高天神記」の解読を続ける。小笠原与八郎の守る高天神城も、信長、家康の援軍もなく、落城寸前へ追い込まれている。

与八郎驚き、手を取って感涙を流し、その段は御心安く思し召され候え。弓矢取り身のかように手負い、御忠を抽して給うは誰も本望の所なり。この旨、早々浜松ヘ言上仕るべし。御妻子御在所に候えば、この御事どもも、御心安く思し召せ。与八郎後見仕るべく候。委細申され暇乞いして、その日巳の刻に死す。行年二十八歳。丸尾和泉守嫡子なれども、一類故に本間五郎兵衛養子と成り、上様より御直の証文、御居へ判。元亀二年(1571)未三月十三日に頂戴して本望なりと云って終るなり。
※ 巳の刻 - 現在の午前10時ごろ。また、その前後の2時間。
※ 御居(おい)- 証文の末尾。「御居処(おいど)」は女性言葉で「お尻」のこと。


その弟、丸尾修理亮は同日午の刻に堂の尾にて、胸の真ん中打ち抜かれ、即時に死す。年二十六歳。兄弟同日に打ち死にして、西の丸大将これ無き故、斎藤宗林、その外、組付どもに助け来たると云う。
※ 午の刻 - 現在の昼12時ごろ。また、その前後2時間。

厳しく竹束亀の甲を押し立て、猪垣屏(べい)を破り切るにも、槍にも、構わず雅責めにして、えいえい声にて、大勢掛かる。堂の尾二重釣り屏を切って落し、多き敵を亡すと云えども、また跡より大軍込み入り、岡部治部、同次郎右衛門、朝比奈金兵衛と名乗り掛け/\込み入るを、城中よりも切って出、火花を散らし戦いたり。この時、敵味方ともに多く討死有り。
※ 竹束(たけたば)- 近世の軍陣用の楯の一。矢玉などを避けるため,竹を束ねて一抱えほどにしたもの。
※ 亀の甲(かめのこう)- 戦国時代に城攻めに用いた兵車で、外面を生の牛皮などで覆ったもの。
※ 雅責め(がぜめ)- 兵員の損傷を度外視した正面突破の攻め。


西の丸分内狭くして、大勢籠り防ぎ難き所故に、是非なくその日の内に甲州方へ乗っ取られ、井戸曲輪を撞(つ)きて防ぐと云えども、最早この城、怺(こらえ)難く相見えける。この手にて、今日百五十二人討死す。残る者ども皆手負い、半死半生者ばかりなり。

この与八郎、浜松へ注進す。西の丸の大将両人ともに討死。西丸も乗り破られ、本丸へ奮入。必死の覚悟に存じ切り、井戸曲輪にて仕切り、敵を支え、昼夜の差別もなく防戦候。城中皆疲れ果て、兵粮も玉薬ともに尽き、今五十三日の籠城危うく、必死の旨申し上げるなり。
※ 玉薬(たまぐすり)- 銃砲弾を発射するのに用いる火薬。だんやく。

この時、岡部治部一番に屏へ乗り、治部は城中より討ち取り、岡部忠次郎、鈴木弥次右衛門、勝れて働き有り。甲州方にも多く討死有るなり。
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遠州高天神記 巻の弐 10 武田勝頼、高天神城攻めの事(四)

(当地の残り少ない稲刈前の田)

「遠州高天神記」の解読を続ける。

勝頼も塩買坂より後は国安村に移らせ給い、よくよく城の様子を積らせ給い、西の丸の西の尾続き、また林の谷より竹束を付け、乗り入るべき旨、御下知を加へらるゝ。さてまた、林の谷西向いの山上より、城ヲ鉄砲尽くめにして、谷より込み入らんと下知し給う。この手は駿河衆の内に案内知る者多く有る故に、この手より強く攻め立てける。西の丸の大将は本間、丸尾、日夜油断なくこの手を大切に防ぎける。
※ 積る(つもる)- 推測する。おしはかる。
※ 竹束(たけたば)- 近世の戦場で用いた盾の一。丸竹を束にし、これを並べて矢や銃弾を防いだ。


勝頼も前には家康公、信長両旗にて、後巻き有るべきとて、塩買坂に控え、本陣を居(す)え給いけるが、後巻も有るまじき由、風聞を聞き給い、国安村へ移らせ、その後は中村の内、公文と云う所に大文字の大旗を立てられ、また用心にや、惣勢の本陣と遊軍の兵をば、毛森村の山上に陣取らせ給う。後巻きのためと云々。折々自身城外を廻り、下知を加え賜う。早々雅攻に致すべき旨、下知し給う。

然る上、敵も厳しく攻め掛ける中にも、西の丸を城の弱みの方と見籠り、攻め能き方と了簡して、強く攻める。この丸の内に堂の尾と云う所、乾の方へ出たる尾崎あり。上隘(せま)くして、城兵大勢出防ぐ事成り難く、犬戻り猿戻りの尾は、西の丸のの方なり。これも上隘し。捨て曲輪一つ有れども、大勢の続いて防ぐ事難成り難きなり。すべて西の丸は内隘くして、大勢籠りがたき所持悪き曲輪なり。殊に外の曲輪より横矢も加勢も成り悪き所なり。林ヶ谷よりは攻寄り能き場所なり。向いの林ヶ谷の嶺、或いは萩原山の峠より、大鉄砲打ちけり。大きに囲い悪き所なり。
※ 見籠り(みこもり)- 見て内心で思う。
※ 坤(ひつじさる)- 南西の方角。



(本間八郎三郎、丸尾修理亮兄弟戦死の跡)

然れども、本間、丸尾は兄弟なり。諸事念頃に申し合わせ、互いに身の辱(はじ)を顧て、一入(ひとしお)精を出す。組付にも随分老功者有りて、ともに粉骨を碎き、蒐引防ぐ処に、本間八郎三郎、諸人に抽して高櫓に上り、下知を加う所を、金真の腹巻、金の瓢箪の挿し、六月廿八日卯の刻、朝に輝き見えける処を、穴山梅雪の内、西嶋七郎左衛門と云う鉄砲の上手、林ヶ谷の向いの山の、蒸籠の上より、これを大将と見て狙い討ち込んで、思い邪なしに首の骨の少し脇を打ち抜かれ、大切の手なれば、これまでと思い、戸板に乗りて、与八郎前へ出で、吾は手負い果てるなり。浜松へよくよくこの旨、頼み入ると申す。
※ 金真(こがねざね)- 黄金札。黄金色の鎧の札。札(さね)は、鎧を構成する細長い小板。鉄または革製でうろこ状に連結して鎧を作る。
※ 蒸籠(せいろう)- 井楼(せいろう)。敵陣を偵察するために、木材を井桁(いげた)に組み立てた物見やぐら。
※ 大切の手(たいせつのて)- 切迫した、戦いで受けた傷。
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遠州高天神記 巻の弐 9 武田勝頼、高天神城攻めの事(三)

(高天神城井戸曲輪の井戸)

「遠州高天神記」の解読を続ける。

それより甲州方手痛く攻る事もなくして、少しの間は、毎日鉄砲にて遠攻して日を送るばかりなり。この時の合戦に、手分けして城兵を押え置き、大手池の段の堤を切り崩し、池の水を干す。

然れども城中には、能き掘り抜きの井戸、山上に有る。西の丸と御前曲輪の間、裏門口の上に有り、井戸曲輪と云々。殊にまた裏門口と云うは、北沢なり。西の丸と塔の尾と云う曲輪、の方ヘ長さ五十間余指し出し、屏風を立てたる如く、峙(そばだち)たる。尾崎上は狭く、四五間有る。この尾先と東は御前曲輪の下、両方の間に裏門有り。この間の沢より何程も水を城中へ上げる事自由なり。敵より障る事成らざる所、その上、敵より見ゆる事なし。
※ 乾(いぬい)- 北西の方角。

ある時、城より大手池の段にて馬十疋引き出し、湯洗いしたるを見て、敵より水は有まじ。白米を以って馬を湯洗いを見すると風聞す。武田向うの山上の陣所より、遥かにこれを見て、水詰りには成るまじく、この城を攻め破るべき方便、色々工夫して見分け在ると云々。
※ 白米を以って馬を湯洗い - 包囲した敵軍をあざむくために、水ではなく白米をもって馬を洗い、遠目に水の豊かさを見せかけた故事を踏まえている。

勝頼、使い番を以って触れ給いけるは、家康、信長を引き出し、両旗にて後巻きせんとする故に、この城の後詰めに早速出る事成らずと覚えたり。若し後詰めに出るならば、吾一身、覚悟を以って両旗を相手に合戦致さん事、望む所なり。併(ならぶ)を後なき内に、一日も早く、急に雅攻にして責め破るべき旨、陣所々々へ触れ渡す。
※ 雅攻(がこう)- 正攻。正面からの攻撃。

穴山梅雪は城の乾方、林ヶ谷の向うの山へ取り上り、駿河先方衆は西の丸の西、犬戻り猿戻りと云う所より仕り、先を付ける。さて南の大手は内藤修理、山形三郎兵衛なり。搦め手は信州先方衆、東は鳥も翔(かけ)り難き嶮岨なり。攻める方便はなし。ただ取り巻きける計い。
※ 穴山梅雪 - 穴山信君(のぶただ)。戦国時代の武将。甲斐武田氏の家臣で、御一門衆のひとり。信玄の姉を母とし、信玄の娘を妻とする。

さて一度に貝、鐘、太皷を打ち立て、を打ち、喊を咄と上げ、攻め立てる時は、高天神の山、動きわたって、たちまち天地崩るゝかと覚えて夥し。城中には事ともせず、持口々々を堅め、尾崎々々より降り下り、横矢に弓、鉄砲を打ち立て、射立て、払いければ、敵には手負い、死人多く有れども、城兵には手負いもなし。大手池の段へ敵、折々攻め寄せけれども、大手は嶮岨の池なり。深入れば釣屏を切り、材木、石を落しかけれども、事ともせず、西の丸の尾崎と三の丸の尾崎より、挟み打ちに、横矢に鉄砲を強く打ちければ、敵も攻めあぐむと見えたり。
※ 羅(ら)- 中国、朝鮮の体鳴楽器。盤が薄くて響きの長いもの。
※ 喊を咄と上げ(かんをどっとあげ)- 大勢で大声をどっと上げる。
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