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「竹下村誌稿」を読む 72 榛原郡 8

(東深谷の秋葉社/旧金谷町の秋葉社・秋葉灯籠37/一昨日撮影)

畑中にあった東深谷の秋葉社は、明らかに、灯籠の上に掛けられた鞘堂であった。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

さて、本郡古代の事跡は、史籍備わらざれば、これを知るに由なく、治府の所在さえ、何れにありしか詳らかならずといえども、掛川志に、

遠江風土記、蓁原小府を載す。小府の跡、今詳らかならず。湯日の下、谷口村の間に大なる古墳多し。また同村に式内敬満神社、大楠神社もあれば、小府は必ず谷口、初倉の間にありしなるべし。小府は郡司の長官大領の住する所なり。郡司は上古、国造の後裔、或るは、その国の古家を以って補せられ、大領は一郡の大家なり。墳の大なるを以って、古えを想像すべし。

とあり。また榛原小地誌に、

初倉村字谷口、及び天王下に至る数町の間、数百の古墳丘の如く連続したるも、今は、十中八九までは堀開して耕地となれり。墳中出る所の品物数百個、皆な千有余年を経たるものにあらざるはなし。曲珠、管珠、鏡、金環、刀剣、鍔、馬具、陶器、数十種ありといえども、未だ人骨の出しことなし。ただ器物を置き並べたる中央に、方一尺位の土色の藍鼠色に変じたるものあり。周囲に積むに石垣を以ってし、蓋に盤石を以ってす。大きさ、数百人の力を合するに非ざれば、運搬し能わざるもの多し。

と云えるのみならず、同村色尾、高根森にて、大正四年、山林開墾の際、大なる古墳を発見し、人骨、鏡、刀剣、曲玉、馬具、金環、土器など、石棺内より発掘せしことあるを見るも、この谷口、色尾辺は古代権威ある部族の聚落をなしたる遺跡たるを推想し能うべし。

郡志、驛家(うまや)の条にも、

この初倉は郡内随一の古墳存在地にして、何様、古代官庁などの設置せられたるべき由緒ある遺跡なるを窺わしむるに足る。

と書きたり。しかも、續紀、宝亀二年(771)の条に、

遠江国榛原郡、主帳無位、赤染長濵、私物を以って窮民廿人已上を養う。爵二級を賜う。
※ 主帳(しゅちょう)- 律令制で、諸国の郡または軍団に置かれ、文書の起草・受理をつかさどった職。

の記事あり。主帳は即ち小府に奉職する刀筆の官吏なるを以って見るも、この初倉は榛原小府の所在地なりしことを推知せしむるに似たり。されど、文和風土記、志太郡下江留村八幡社の条に、蓁原小府あり、廃後社と為す、と見えたり、記して後考を俟(ま)つ。


読書:「危機 軍鶏侍」 野口卓 著
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「竹下村誌稿」を読む 71 榛原郡 7

(切山の秋葉灯籠/旧金谷町の秋葉社・秋葉灯籠36/昨日撮影)

切山の秋葉灯籠は見つけるのに苦労した。切山さゆり館への角を通りすぎて、少し下った切山不動尊のすぐ先にあった。小山のような土台に、ここも、以前は秋葉社があったのだろうと思った。

南部公民館の課題に悪戦苦闘している。仏教用語と漢文が含まれていて、漢文はともかく、仏教用語は一から勉強しなければ解読にならない。幸いまだ3ヶ月あるから何とかしなければならない。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

本郡は東西両京の中間に位し、東海道鉄道は、郡中最も緊縮せる、恰(あたか)も蜂腰の如き所を横断し、近時藤枝より相良に通ずる海岸に、軽便鉄道成り、行通(交通)に便ぜり。また本郡の四至を掛川志に註し、遠江風土記を引き、
※ 四至(しいし、しし)- 耕作地・所有地・寺域などの四方の境界。

蓁原郡、西、太田輪を限り、東、大猪川を限り、南、相良浦を限り、北、早猪山を限る。この早猪山は川根の奥にあるべけれど、今詳(つまび)らかならず。太田輪川は菊川の古名なるべし。志戸呂の西、菊川の上流を行田川と呼ぶ。太田、行田、音相近し。今もこの川を以って西の限りとす。

と云えり。されど太田輪川は菊川の古名には非ざるべく、今磐田郡に属する太田川のことなるべし。この太田川の上流を、森川及び原野谷川の二流とす。この原野谷川の水源、小笠郡原泉村大和田と称する村落あり。この川はこの村落より発する川なれば、大和田川とも呼べり。本郡はこの大和田と分水嶺を以って西境を限りたれば、或るは、風土記に所謂(いわゆる)太田輪川は、この川を指したるものなるやも、知るべからず。果たして然らば、この大和田は太田輪の転訛せしものならん。
※ 転訛(てんか)- 語の本来の発音がなまって変わること。

また菊川の上流を行田川と訓みたるは、従い難し。この菊川の上流は、行田川には非ざるべく、安田川なるべし。これ、その水源が、安田という村落より起りたる名なるべければなり。(この安田は盛衰記の安田太郎の出身地なりとも云う)思うに、行の字は唐音にて行(あん)と読みたる読例も少なからざれば、或るは、行の字を仮用して、行(あん)田川とは書き倣(ならわ)したるものならん。例えば、行宮(あんぐう)、行在所(あんざいしょ)、行脚(あんぎゃ)、行燈(あんどん)などの如し。要するに、この行田は「ぎょうだ」に非ずして、寧ろ行田(あんだ)と訓むを以って、妥当なりと信ずるなり。
※ 仮用(かよう)- 仮に別のものを用いること。
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「竹下村誌稿」を読む 70 榛原郡 6

(三富園の秋葉灯籠/旧金谷町の秋葉社・秋葉灯籠35/本日撮影)

旧金谷町の秋葉社・秋葉灯籠を、お昼に6ヶ所、写真に収めて来た。三富園の秋葉灯籠は牧之原の国立茶試の南の集落にある。横に古い秋葉灯籠も置かれていた。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

今井信郎、榛原小地誌に、
※ 今井信郎(いまいのぶお)- 元京都見廻組。坂本龍馬暗殺に関わったと自供。後、初倉村へ帰農し、初倉村の村議及び村長を務める。

本郡は地勢の区画に随い、南北二部に大別し得べし。大常、地蔵峠の山脈は自然南北の境界線をなし、以北は山岳重畳し、奔湍渓間を瀉下し、所謂(いわゆる)川根地方にして、以南は布引原西方に隆起して、東南に傾斜し岐(わか)れて、無数の谿沢をなし、余勢突出して御前崎の岬角(こうかく)となり、暗礁海中二里余に碁布す。
※ 大常(だいじょう)- 常法。いつも使う手段・方法。
※ 重畳(ちょうじょう)- 幾重にも重なること。
※ 奔湍(ほんたん)- 早瀬。急流。
※ 瀉下(しゃか)- 水などを激しくそそぎくだすこと。
※ 碁布(ごふ)- 碁石を並べたように、物が点々と並び置かれている こと。点在。


大凡(おおよそ)人民の風俗は北部の人民は体格長大ならず、談話遅く質僕にして、自己の生所を恋い、親戚朋友を思慕する情、甚だ深し。而して、南部の人民、殊に魚漁に従事するものは、体格長大、筋骨逞しく、言語噪大にして、顧慮なきに似たれども、日常衣食住の供給を欠く如きに至らず。生処に恋着し、迷信の深きは北部と相似たり。その他一般の農民は長(た)け高からざるも、体格強健、世の進歩に従い、近来甚だ勤勉を加えたり。元来、地味膏腴ならざるも流水を利用し、土地を改良するに巧みなり。
※ 質僕(しつぼく)- 性格がすなおで律義なこと。純朴。素朴。
※ 地味膏腴(じみこうゆ)- 土地が肥えていること。


然れども、学理を応用するの勇気に乏しく、古態株守し、ただ節倹と忍耐に富み、概して貧民少なからざるも、人口の繁殖は極めて旺盛なり。(平均百分の二を増加す)商売は浮薄にして、黠智なるもの多く、富を装えども、鉄道開通以来、百貨集散の変動を来たし、自然、商業界、一大革命の秋(とき)に接近せり。
※ 古態(こたい)- 元の姿。昔のままの姿。
※ 株守(しゅしゅ)- いたずらに古い習慣を守って、時に応じた物事の処理ができないこと。(「待ちぼうけ」の逸話)
※ 節倹(せっけん)-出費を控えめにして質素にすること。
※ 黠智(かっち)- 悪がしこい知恵。悪知恵。
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「竹下村誌稿」を読む 69 榛原郡 5

(城山の秋葉社/旧金谷町の秋葉社・秋葉灯籠34/2月23日撮影)

城山の秋葉社は、旧国道一号線、諏訪原城登り口の手前(金谷寄り)右側にある。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

さて、本郡建置年代は明かならずと雖も、蓋し、国郡制定の当時より置かれたるものなるべし。始め郡を立つるに、人家五十戸を以って里となし、里毎に長(おさ)一人を置き、戸口を検校し、農桑課殖し、非違禁察し、戦役を催駈することを掌(つかど)らしむ。而して、里数によりて郡を三等に分かち、郡司を置かる。凡そ郡は、四十里を以って大郡となし、三十里以下四里以上を中郡となし、三里を小郡となす。この時の里は後に郷と改め、郷の下に里を置かれたれば、その里は即ち、後の村と云うに同じかるべし。
※ 検校(けんこう)- 調べ考えること。調査し考え合わせること。
※ 農桑(のうそう)- 農耕と養蚕。
※ 課殖(かしょく)- ふやすことを課すこと。
※ 非違(ひい)- 法に背くこと。非法。違法。
※ 禁察(きんさつ)- 糾明。不正などを問いただして事実を明らかにすること。
※ 催駈(かけもよおす)- 催促し寄集める。


大宝令成りて郡を五等に改む。

凡そ、郡、二十里以下十六里以上を以って大郡と為し、十二里以上を上郡と為し、八里以上を中郡と為し、四里以上を下郡と為し、二里以上を小郡と為す。


となせり。されど五十戸を以って里となせしことは、旧の如しと見えたり。万葉集に五十戸を佐登(さと)と読みたる例あるにて知らる。

榛原郡は、遠江国の東南に位し、北緯三十四度三十五分より三十五度二十二分に至り、東経百三十七度五十九分より百三十八度十八分に亘(わた)り、東西に狭く南北に長し。郡内一般、山岳丘陵瀰漫し、西は小笠、周智の二郡に隣り、北は信濃国伊奈郡を限り、赤石山系に属する峻岑に連なり、東は大井川を以って、駿河国安倍、志太二郡に堺し、南は遠州灘に対す。この沿岸、僅かに低地を見る。廣袤、東西四里十八町、南北二十一里十五町、面積四十方里。近世検地、四万六千五百石。官民有地、八万六千町。地價(地価)二百九十万(円)と称す。
※ 瀰漫(びまん)- 広がること。はびこること。
※ 峻岑(しゅんしん)- 峻峰。高くけわしい峰。
※ 廣袤(こうぼう)-(「広」は東西の,「袤」は南北の長さ)幅と長さ。広さ。面積。


明治二十二年町村制実施により七十八ヶ町村(元禄高帳百三十八村)を合せ、三町(金谷、相良、川崎)、十三村(御前崎、白羽、地頭方、管山、萩間、勝間田、坂部、吉田、初倉、五和、下川根、中川根、上川根)に分かち、人口九万二千(人)を有し、川崎に治す。
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「竹下村誌稿」を読む 68 榛原郡 4

(神尾の秋葉社/旧金谷町の秋葉社・秋葉灯籠33/2月23日撮影)

神尾の秋葉社は神尾の若宮神社前にある。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

以上考証したる処より、榛原なる地名の最も古きを知るべきなり。またその地名の起因について述ぶれば、万葉集に持統上皇の三河国へ行幸ありし時、供奉せし長忌寸奥麻呂の歌に、
※ 長忌寸奥麻呂(ながのいみきおきまろ)- 姓は忌寸。名は意吉麻呂とも書く。人麻呂・高市黒人などと同じ頃、宮廷に仕えた下級官吏であった。
   
   引馬野に におう榛原 入り乱れ 衣にほはせ 旅のしるしに

この引馬野は、即ち今の三方ヶ原を詠ぜしものなれど、榛原の地、また牧野原ありて、郡名郷名の拠る所、この歌に云えると同意義なるべく思わる。榛原の榛には古来両説あり。

賀茂真淵は榛を萩なりと云い、僧契沖及び橘千蔭はこれをハリの木なりと説き、何れがこれなるや明らかならずと雖も、按ずるに万葉集に榛原の二字連続せるもの、前記引馬野の歌の外、なお左の歌あるを見れば、萩説に従うを妥当なりと信ずるなり。

※ 橘千蔭(たちばなちかげ)- 加藤千蔭。江戸後期の歌人。江戸生。賀茂真淵に学ぶ。
   
   いざ子ども 大和へ早く 白菅の 真野の榛原 手折りて行かむ
   
   思う子の 衣摺らんに においこそ 島の榛原 秋立たずとも


此歌の意より見るも、榛原は秋に因(ちな)める植物の、繁茂したる原野なることは、首肯し得べきが如し。而して、この引馬野は奥麻呂の詠ありしより、遠州屈指の歌の名所となりて、中古、吟詠頗る多し。その内、榛原に関係ありと思わるゝものを掲ぐれば、

 続古今集 狩衣 乱れにけりな 梓弓 引馬の野辺の 萩の朝露  式子内親王

 夫木集  引馬野に 匂う秋萩 入り乱れ 啼くや牡鹿の 秋の白露 壬生の二位

※ 式子内親王(しきしないしんのう)- 平安時代末期の皇女、賀茂斎院である。新三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人。後白河天皇の第三皇女。
※ 夫木集(ふぼくしゅう)- 夫木和歌抄。鎌倉時代後期の私撰和歌集。藤原長清編。
※ 壬生の二位(みぶのにい)- 藤原家隆。鎌倉前期の歌人・公卿。壬生二品・坊城と称す。藤原俊成の門人で、藤原定家と並び称された。


この歌によれば、引馬野に匂う榛原云々とあるは、ハリの原にあらずして、萩の原なるべし。しかも引馬野は、古来萩の名所なれど、世の移り変わりて、今は坊間に鬻(ひさ)ぐ曳馬の萩、筆によりて昔を偲ぶに過ぎざるのみ。さすれば、榛原郡名の起因となりたる蓁原郷も、引馬野と同じく、萩の繁茂せる原野と云う意味にて、呼び倣わしたるものならん。即ち前に云う萩間は、この萩の生い繁れる原野の間にありしを以って、地名となりしものなるべし。
※ 坊間(ぼうかん)- 町の中。市中。また、世間。

と説かれたり。従うべきに似たり。されど、蓁原郷の地域に就いては、諸説錯出して、何れとも定め難きが如し。そは蓁原郷の項、参照を要す。
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「竹下村誌稿」を読む 67 榛原郡 3

(横岡の秋葉灯籠/旧金谷町の秋葉社・秋葉灯籠32/2月23日撮影)

上志戸呂の秋葉社は、岩崎観音堂の近く、向川公民館の裏にあると調べて行ったが、見つからなかった。近くの人に聞くと、潰れかかっていたので、御祓いをしてもらい、壊したという。時代が移って、秋葉信仰も消えてしまったのだろう。

横岡城下にあるという横岡の秋葉社も無くなって、土台の上に大型のロッカーのようなものがあった。開けてみると、中に社のようなものが収まっていた。それが秋葉社なのかどうかは判らないが、中に秋葉山の御札らしきものも入っていた。

横岡には秋葉灯籠が八幡神社の境内にある。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

郡誌に、この間の消息を叙して云う。
※ 消息(しょうそく)- 盛衰。

或るは、当時王族の別れて、この地方に占居して、各部曲を率いて、ここに主宰たりしやも知るべからず。されど、その早く、右京皇別、及び摂津皇別などに分岐し、なお丹波その他に同一の地名を存し、殊に君と云い、朝臣と云うより見れば、或るは彼の祖名・神名に拠れると同一の例にて、玉祖神の裔に玉祖連、天津久米命の後に久米直、葛城襲津彦の後に葛城朝臣、などあるが如く、その子孫の祖名を承けて、一家をなせしものの、牽殖繁衍して、漸次四方に分かれ、各部曲を率いて、地方に居を占めたる。その主長の名、土形、比木、榛原の地名に残りたるものならんと思わる。
※ 占居(せんきょ)- ある場所を占めていること。
※ 部曲(かきべ)- 律令制以前における豪族の私有民。それぞれ職業を持ち、蘇我部・大伴部のように主家の名を上に付けてよばれた。大化の改新後廃止。特に天武朝後は公民となった。
※ 主宰(しゅさい)- 人々の上に立って全体をまとめること。
※ 繁衍(はんえん)- 増え広がること。繁殖すること。


諸説によれば、榛原の地名は、榛原君なる貴族の、この地に居住せしより、遂に地名に残りたるものならんと、説きたるが如し。されどこは冠履転倒の説と謂うべし。何となれば、榛原なる地名は、榛原君の居住以前、既に存在せしものなるべく、これら貴族は、その土着したる地名を採りて氏となせしものならんと信ず。
※ 冠履転倒(かんりてんとう)- 物事の価値や人の地位などが上下逆になっていて、 秩序が落ち着いていないこと。

国史大辞典に、

公尸(きみかばね)の一種、旧は君と書きたり、天平宝字三年(759)十月、改めて公となす。諸国処々に在りて、その地に長官として治めし人を云えり。故を以って、歴代の諸皇子にして、諸国に宰たり者多くは、この姓を負い、氏は概してその住したる地名を称したり。古事記を按ずるに、同書中に散見せる君姓の者、三十九氏、皆地名を以って氏となす。

とありて明瞭なりとす。


読書:「ここで生きる 小料理のどか屋人情帖15」 倉阪鬼一郎 著
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「竹下村誌稿」を読む 66 榛原郡 2

(大代、森ノ谷の秋葉社/旧金谷町の秋葉社・秋葉灯籠31/2月18日撮影)

大代の久昌寺の境内にある秋葉社である。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

また榛原の字、古書蓁原に作る。古事記、日本紀、朝野群載、榛原と書し、姓氏録、榛原、蓁原両様に記し、続紀、続後紀、蓁原に作る。萬葉集、榛原(はりはら)と読み、和名抄、蓁原(波以波良、はいはら)と訓ずるを見れば、史に載する所、ほとんどその制なきに似たり。また元亨釈書、針原と書き、三河物語、蝿原に作る。これ皆傍証なりとす。
※ 朝野群載(ちょうやぐんさい)- 平安時代後期の詩文集。算博士の三善為康が当時の漢詩文,宣旨,公私の文書などを集めて分類したもの。
※ 元亨釈書(げんこうしゃくしょ)- 日本の歴史書。鎌倉時代に漢文体で記した日本初の仏教通史。著者は臨済宗の僧、虎関師錬。
※ 三河物語(れい)- 大久保忠教(彦左衛門)によって書かれた、徳川氏と大久保氏の歴史と功績を交えて、武士の生き方を子孫に残した家訓書である。


地名書に、

榛原は古書、多く蓁原(はりはら)に作る。正係図帳已後、公用、榛原に定めらる。和名抄、波以波良と註し、九郷に分かつ。しかしても、古訓は、波里波良とす。萬葉集の読例に徴すべし。

さてこの郡名の起源は、郡中広原あり。蓁原郷ありて、郡名に負わせしことは、何人も否定せざるべし。西郷南舟氏の説に、

遠記伝に、蓁原と号する所以は、蓋し蓁原郷に基ずく、と書きし。掛川志にも、榛原、或るは蓁原に作る。佐野郡の東、駿河国の西にありて、大井川を堺とす。この郡中広原あり。また蓁原郷あり。因りて郡の名とす、とあるを以って見れば、榛原の郡名は蓁原郷より起りしものゝ如し。さればこの蓁原郷は、往古何れの辺なりしかの問題に就きては、諸説錯出して、一定せざる如くなるも、種々方面より考究して、大要、今の萩間村付近ならんと推定するを妥当なりと信ず。

按ずるに、諸国郡名に関しては、その郡内一地方に存する郷名などより起りて、郡の名となりし例、世に頗る多し。武蔵国榛澤郡の郡名が、榛澤郷より起り、駿河国庵原郡の郡名が、蘆原郷より起り、遠江国佐野郡の郡名が、佐夜中山辺より起りしが如き、皆な好個の傍証たらずんばあらず。
※ 好個(こうこ)- ちょうどよいこと。適当なこと。

古事記、応神段に、これ大山守命は、土形君、幣岐君、榛原君などの祖なり、とあり。土形、幣岐、榛原などの地名は諸国に多くして、何れとも定め難けれど、本州城飼郡(今小笠郡)に土形郷(今土方)あり、比木村あり。榛原郡に蓁原郷あり。さればこれらの貴族は、城飼、蓁原両郡より出でしならんと、史学者間に説明せらる。
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「竹下村誌稿」を読む 65 榛原郡 1

(大代、中村・四分一・宮の上の秋葉社/旧金谷町の秋葉社・秋葉灯籠30/2月18日撮影)

大代の法昌院前の秋葉社は、「鎮守堂」呼ばれ、秋葉社が「白山名妙理大権現」と同居している。格子のはまった左側が秋葉社で、観音開きの右側が白山権現である。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。読み始めて2ヶ月経つが、今日から「榛原郡」の節に入る。

      第二節 榛 原 郡
按ずるに、延喜式に全国の郡名を載せて五百九十郡(和名抄五百九十二郡、明治二十二年自治制施行の際七百十六郡)とす。遠江国十三郡の内、榛原郡あり。記伝に、

郡は縣(あがた)なり。旧御上田より起れる名にして、諸国にある朝廷の御料地をさして、阿賀多と云うなり。故に大縣、小縣とある、即ちこれなり。かくて漢字を用ゆる世となりて、縣の字をあてたるが、やゝ後には、かの漢国に縣というに当たるほどの地を、すべて某の縣と云うことにはなりぬ。さて孝徳天皇の御代に至りて、天下悉く国を分かちたる時、縣と云いし地を、皆な郡と改められて、某国のその許富理(こふり)というなり。これ朝鮮国の方言に、郡、縣をこほると云うに起れるなり。

とあるを見れば、古代の郡は、後世の郡とはその趣を異にせるものゝ如し。白鳥博士、云う郡は朝鮮語にして、大城、大邑の義なりと。因ってこれを字書に徴するに、郡は群なり。人の群れ集る所なり、とあり。また地名辞書に、

郡はコホリと訓ず。国の属なる区画に命ずるに、コホリの語を以ってす。或るは、評、部、二字ともに郡に假用せしことあり。しかも公文、遂に郡に定まる。古代、評、部、の二字を郡に假用せしことは、続日本紀に、衣評督(エノコホリノカミ)衣君縣云々(中略)、萬葉集訓義弁証に、筑前国宗像部、この部はコホリと読むべしと云えり。また、郡はカハリ、クホリ、カホリ、コード、ヲリドなどの遺徴あり。(詞略)
※ 假用(かよう)- 仮に別のものを用いること。
※ 公文(くもん)- 律令制下における公文書の総称。
※ 遺徴(いちょう)- 後に残ったしるし。


とあり。衣評は薩摩の郡名にして、評督は郡の大領に当たる。而してこの評字を郡に假用せしことは、常陸風土記に石城評造と見え、皇大神宮儀式帳にも、難波の朝廷、天下に評を立て給う時、と見えたり。要するに郡は古代行政区画に命じたる一の名称に過ぎざりし。


読書:「息吹く魂 父子十手捕物日記16」 鈴木英治 著
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「竹下村誌稿」を読む 64 遠江国 21

(都町の秋葉社/旧金谷町の秋葉社・秋葉灯籠29/2月17日撮影)

「竹下村誌稿」の解読を続ける。

神社 延喜式に全国神社の数を挙げて、三千百三十二坐あり。その内、遠江に属するもの、六十二坐とす。式(延喜式)の内外を問わず、官、国幣社、県社を記すべし。
官幣中社 井伊谷宮(いいのやぐう)は宗良親王を祭る。引佐郡井伊谷村にあり。
国幣小社 小国神社は大己貴命を祭る。周智郡一宮村にあり。欽命(欽明)天皇十六年鎮坐にして、今を距てる千三百七十余年前なりと云う。
県社 五社神社は八齋主命外四坐を祭る。浜名郡浜松市にあり。
山住神社は大山住命を祭る。周智郡奥山村にあり。
秋葉神社は火之加具土神を祭る。同郡犬居村にあり。
淡海国玉神社は大国主命を祭る。磐田郡見附町にあり。
八名比女神社(見付天神)は矢奈比賣命を祭る。同郡同町にあり。
府八幡宮は足仲彦命外二坐を祭る。同郡中泉町にあり。
鎌田神明宮は豊受皇太神を祭る。同郡御厨村にあり。
八幡神社(事任八幡宮)は譽田別命外二坐を祭る。小笠郡東山口村にあり。

寺院 岩水寺は浜名郡赤佐村にあり。(法多山)尊永寺は磐田郡笠西村にあり。(大日山)金剛院は周智郡三倉村にあり。何れも真言宗にして、一千百年以前の草創に係る梵刹なり。国分寺址は磐田郡見附町にあり。今荒廃して、僅かに数個の礎石によりて、その跡を指点し得るに過ぎず。
方広寺は引佐郡奥山村にあり。臨済宗の本山にして、元中元年(1384)、無文禅師の開創なり。
応声院は小笠郡中内田村にあり。浄土宗にして治承元年(1177)、円光大師初開の道場なり。
可睡斎は周智郡久努西村にあり。境内に護国堂あり。大洞院は同郡森町にあり。天林寺は浜名郡引馬村にあり。何れも曹洞宗の大伽藍にして、五百年以前の建立なり。
妙日寺は磐田郡久努村にあり。法華宗にして日蓮上人父母の墳墓を存せり。
※ 梵刹(ぼんさつ)- 仏寺。寺院。

名邑 浜名郡に浜松、新居、舞阪、白須賀、笠井あり。引佐郡に気賀、金指あり。磐田郡に見附、袋井、中泉、二俣、掛塚あり。周智郡に森町あり。小笠郡に掛川、横須賀、堀之内あり。榛原郡に金谷、相良、川崎あり。

物産 木綿織、塗物、乾薑、納豆、畳表、繭、木材、木炭、椎茸、松茸、葛布、茶、和布、石炭、石油、蜜柑、鮒、鰻、米、麦、菜種、など最有名なり。
※ 乾薑(かんきょう)- ショウガの根茎を乾燥させたもの(漢方薬)。
※ 和布(にぎめ)- 柔らかな海草。ワカメの類。
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「竹下村誌稿」を読む 63 遠江国 20

(島の秋葉社/旧金谷町の秋葉社・秋葉灯籠28/2月17日撮影)

島の秋葉社は、放光神社境内にある。秋葉社の後ろに置かれた鉄さびの物は、秋葉灯籠の残骸だろうか。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

附記
山岳 秋葉山は国の中央に聳ゆる大山にして、巍然として雲表卓立し、その東北は赤石山系に属する層巒群峰、信濃に連なり。ほとんど人跡なし。京丸山は秋葉山の東に隣れる深山にして、大なる牡丹の花咲くを以って著名なり。雲萍雑誌に牡丹の記事あれど、この地に自生の牡丹なしと云えば、或るは石楠などの花には非ずやと云う。高天神は海岸に峙(そばだ)てる高山にして、有名な古戦場なり。山光海色一眸(いちぼう)に納め、風光の美を萃(あつ)め、北は信濃の連峰を仰ぎ、南は遠洋灘を望む。
※ 巍然(ぎぜん)- 山などが高くそびえたっているさま。
※ 雲表(うんぴょう)-雲の上。
※ 卓立(たくりつ)- 他にぬきんでて立っていること。
※ 層巒(そうらん)- 重なり連なっている山々。
※ 雲萍雑志(うんぴょうざっし)- 江戸後期の随筆。柳沢淇園著と伝えられるが未詳。


河川 天竜川は国中巨擘の大河にして、源を信州諏訪湖に発し、国の中央を南流し、掛塚に至り海に入る。流程五十五里、沿岸一帯奇勝あり。河口より上流約三十里の間、舟運の便あり。大井川は国の東端を流れ、駿河国と境をなして、駿河湾に入る(河川の条参照)。その他、太田川、都田川、気田川は、何れも長さ十五、六里ある河流なり。
※ 巨擘(きょはく)- おやゆび。同類の中で特にすぐれた人。(ここでは「屈指」の意。)

原野 三方ヶ原は国中第一の原野にして、天竜川の西にあり、南は海浜に亘(わた)りて浜名湖に連なり、即ち、古えの引馬野なり。牧野原は国の東部にあり、別名を布引原と云う。磐田原は国の中部にある小原野にして面積七千町と称す。

湖水 浜名湖は浜名郡にあり。国中第一の大湖にして、周囲二十四里と称す。古えは湖水一条の川となりて海に注ぎしが、明応年(1492~1501)海嘯のため陥(おちい)り、湖水互いに通ずるに至れり。よってその地を今切と云う。この地は景致雄大にして、東海の勝地を以って天下に鳴り、老松、長橋相連なりて白帆を隠顕し、涛音、松声と和し、長(とこ)しえに不断の楽を奏でしつゝあり。明治の詩人、小野湖山、かつてこの地の八景を撰びしことあり。浜名の長橋、その一なり。猪鼻湖も同郡にあり。周囲六里と号す。古えの猪鼻驛(いのはなうまや)はこの湖畔にありしと云う。
※ 海嘯(かいしょう)- 津波。明応七年(1498)東海道全域で大地震(明応の大地震)。津波により浜名湖が外海とつながる。
※ 景致(けいち)- 自然のありさまやおもむき。風趣。
※ 隠顕(いんけん)- みえたりかくれたりすること。みえがくれ。


瀑布 葛布滝は周智郡天方村にあり。鳴瀬滝は磐田郡竜山村にあり。何れも高さ十余丈、鞺鞳、地に震い、飛沫衣を襲い、盛夏なお膚に粟するを覚ゆ。
※ 鞺鞳(とうとう)- 波や水の流れが勢いよく音をたてるさま。
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