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東海パルプ地名発電所跡

(東海パルプ地名発電所跡)

今夜は長崎駅前のホテルクオーレに宿泊している。今日は午後半日、龍馬のゆかりの地を歩いた。

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日曜日、日本一短いトンネルを見た後、地名発電所跡を見に行こうと、写真に撮った地名駅前のウォーキングコースの地図をデジカメに拡大してみた。「ミニ発電所」と標示があるのが、てっきりそれだと勘違いして、車で行こうと思った。歩いて行くコースを車でたどるのはなかなか難しく、地名茶工場の先で道が判らなくなった。

近くの農家へ聞きに言った女房が、鼻をつままれたような顔をして戻り、「ミニ発電所」は小さなもので見るほどのものではないと言われた。地名発電所跡なら別のところだと教えてもらってきた。言われて勘違いしていたことに気付いた。

今地図を見直すと、地名発電所跡は欄外に写真で説明され、②と番号を振り、地図上ではその番号で記されていた。地図上に「地名発電所跡」と表示をしておいてくれれば間違うことはなかった。変に省略して地図をわかりにくくしていると思った。


(ミニ発電所)

せっかく教えてもらったから、先に「ミニ発電所」を見た。細い谷川が勢い良く落ちているところに小さな小屋があって、小さな水力発電機が設置してあるらしい。一日置きくらいに清掃当番が決めてあって、維持管理が大変なようで、今は稼動していないようだ。ウォーキングコースの途中にあるから、目標物として記されていただけで、確かにわざわざ見に来るほどのものではなかった。

地名発電所跡の建物は、草だらけの地名グラウンドのそばにあった。小さな小学校の体育館ほどの建物で、レンガを積んだ壁に木造の屋根で葺かれて、屋根は骨組みが残っているだけであった。

案内板によると、明治43年、東海パルプの自家発電用に建設され、昭和6年、笹間渡発電所完成により一度発電を中止し、昭和27年、再開されたが、昭和36年、中部電力川口発電所が完成して役割を完全に終えた。現在グラウンドになっている所が、発電後の水を大井川に戻す水路になっていたようだ。今は取水口も埋まって、ここへ落としてきた水も他へ回されたのであろう。かつて発電をするほどの水が流れていた面影は全くない。

建物は傷みがひどく、放置すればレンガの壁が倒れるのも時間の問題と思われた。稼動当時の周囲の状態が残っているならば、保存する価値があるかもしれないが、すでに流れがなくなり、発電機などの機械類も運び出されて、空っぽの建物だけでは、文化遺産として遺すのは難しい。保存には数千万円の費用を要するというから、町をはじめ、どこでもそれだけの予算をつけるのは無理なのだろう。


(地名発電所の丸窓)

ドイツ人の設計技師によるルネッサンス様式で、丸窓が並んでいるあたり面白い建物ではあるが、せいぜい我々の記憶にとどめておくことにしよう。
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日本一短いトンネル

(大井川鉄道地名駅)

今夜は嬉野温泉の旅館高砂に泊まっている。この出張の旅の話はまた後日として、昨日防災訓練のあと、女房と見に行った大井川鉄道地名(じな)駅周辺のことを書く。

土曜日の静岡新聞に旧地名発電所跡のレンガ造りの建物が解体されるとの囲み記事が出ていた。解体までにぜひとも見ておきたいと思った。

10時半頃に息子に留守番させて、車で地名駅を目指した。駅まで行けば、その案内看板があると記事にあった。大井川鉄道のほとんどの駅は無人駅で、駅舎はレトロといえば格好いいが、昔のままの木造の駅舎である。地名駅に入ると駅のプラットフォームから100メートルほど先に、日本一短いとされるトンネルが見えた。


(日本一短いトンネル)

駅前から周辺を散策するウォーキングコースがある。こんなに暑い時でなければ歩くのだが、今日のところはトンネルのそばまで見に行くだけにした。トンネルの長さはわずかに11メートル、県道からも見えていたから、昔はトンネルとして造られたものが、上にかぶさる土が無くなって、コンクリートで固めた部分だけが残ったのだろうと、根拠もなしに考えていた。

すぐ脇に立てられた案内板には驚くようなことが書かれていた。大井川鉄道が開通する前の大正14年から昭和13年まで、藤枝の滝沢から島田の伊久美中平を経由して、川根本町の地名まで、物資を運ぶためのロープウェイが運行されていて、「川根索道」と呼ばれていた。この索道では、川根方面へ、米、衣料、雑貨、セメント、食料品などが運搬され、藤枝方面には、茶、しいたけ、木材などが運搬された。

明治になって大井川を上り下りする舟運が開かれたことは知っていたが、大井川舟運は難所もあって、下りは良くても上るのが大変だったと思う。大井川に道は無く、大井川鉄道も無い時代だから、川根索道が活躍したのだと思う。

今地図を見てみると、滝沢は地名から南東へ直線距離で10kmほどある。その間を高い山ではないが、山をいくつも越る。そこに索道を通してしまった。昔の人は壮大なことを考え、実行したものである。今も山を辿れば必ず索道の跡で、コンクリートの基礎が残っているに違いないと思う。現代にそれを辿ってみた人はいるのだろうか。

話は横道に逸れたが、日本一短いトンネルの話である。川根索道が地名で大井川鉄道と交差する地点で、索道から荷が落ちて、下の大井川鉄道を直撃することが無いように、保安上のトンネルとして造られたのが、この日本一短いトンネルであった。

昭和13年には川根索道が廃止され、それ以後は役割を失った。今では沿線の不思議な風物として、SLなどとセットで写真に撮られたりしている。


(日本一短いトンネルを電車が潜る)

見学しているうちに地名駅に電車が入り、日本一短いトンネルを抜けていった。
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防災訓練で浄水装置を使った

(防災訓練の浄水装置)

今朝、8時より区の防災訓練で、近くの小学校に行った。今年は班の防災委員で、浄水装置の担当であった。8時から準備をするというので、5分前に着くように出かけたが、会場の小学校に着くと、すでに浄水装置のセッティングは終っていた。区の防災委員で浄水装置担当の人がセッティングを終えてしまっていた。

それはルール違反だろうと思った。そもそも訓練なんだから、決めた時間に準備を0からスタートして、係りになった複数の人に曲がりなりにもセッティングがやってみてもらわなければ意味がない。抜かりなく実施するために、担当の長が早く出てきて、すべて準備をしてしまったのは勇み足であると思う。

もう一つ、当初、小学校のプールの水を浄水装置を使って飲める水にして、みんなに飲んでもらう計画であった。ところが、ホースが短くて届かないから、小学校の水道水を使うことになったという。汚い水が本当にきれいになって飲める水になるという、訓練体験にはならなかった。準備しなければならないことが間違っていると思った。

区の担当は計画通りに訓練が出来るかどうかのチェックを事前にしておくのが役割で、当日は手を出さないで、少しまごついても集まった人たちで準備の体験をさせるべきであったと思う。前年だったか、放水訓練で可動ポンプがなかなか起動できなくて、うち一台は最後まで放水出来ず、訓練参加者の前で引っ込みがつかなかったことがあった。そんな事も頭の隅にあったのだろう。

すべてボランティアだから、そんなにシビアな事を言っても仕方がないと思うが、同様のことは各地の防災会場でも起っていることであろう。防災訓練を進める上で、行政は現場での指導者にしっかりノウハウを教えるようにしなければ、訓練が無為、無駄になってしまう。

ともあれ、水道水を使った浄水訓練は、浄化した水を皆んなに飲んでもらって終った。ポンプが手漕ぎで電気は使わないからけっこう疲れる。交代でレバーを前後に漕いだ。活性炭でろ過して、塩素消毒が出来るようになっていて、事前に水質を検査する試薬もあるというが、その部分は事前に行われていて、チェックを自分たちの目でしたわけではない。もの珍しさで飲んでくれたが、水はいつまでもぬるくて、決して美味しい水ではなかったが、飲んだ区民がお腹を壊さなければ良いがと思った。

今年の防災訓練は、浄水装置の訓練の他に、可動ポンプによる放水訓練、各班が持参したテントを張る訓練が行われた。暑くなる前の10時には訓練を終えた。
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民主党代表選、小沢氏出馬に思う

(ムサシと散歩の夕空、すでに秋の気配が見える)

民主党の代表選に小沢元幹事長が菅現代表の対抗馬として立候補することになった。民主党にとって大切な「民意」が無視されて、立ってはいけない人が立候補する事になった。

鳩山元首相が小沢支持を明らかにしたが、支持の理由に自分を首相にしてくれたのは小沢氏だから、その恩返しだと語ったとか。こういう場合に、本人が思っていても、または世間にそう思われていても、自分の口からは決してそのような発言はしないものである。ちょっと考えれば、一国の総理大臣になる人を決めるのに、支持理由を「恩返し」と言っているのである。そんな理由で総理を選ぶのは国民を愚弄することになる。そんなことすら判断できないなら、口さがない人たちから、総理大臣の時に言われたように、ハトではなくてアホウドリだと言われても、反論は出来ないだろう。

民主党の大きな勘違いが、立ってはならない小沢氏を立候補させてしまった。鳩山政権は一年足らずで国民にノーと言われて退陣しなければならなかった。その原因は、鳩山・小沢両氏が政治資金の対応を誤って大きな不信感を持たれたことと、鳩山政権の普天間問題に代表されるような迷走ぶりに国民が呆れてしまったことである。

菅政権に代って瞬間的に支持率が戻ったように見えた。その後、支持率が転がり落ちて、参院選で大敗する。その原因が何であったのか、まだ民主党内でしっかり総括できていないと思う。今回、小沢氏を支持する民主党員は、敗因は菅代表が消費税増税に触れたからだと考え、すでに鳩山・小沢両氏のみそぎは終っているように勘違いしている。

国民が参院選で民主党にノーと言ったのは、少なくともなったばかりの菅政権ではなくて、鳩山政権に代表される民主党の政権運営に対してノーと言ったのである。それをまだ舌の根も乾かないうちに、小沢氏を代表選挙に担ぎ出してどうするのであろう。

不幸にも小沢政権が出来てしまったら、協力者に対する露骨な利益誘導が行われるであろう。ちなみに静岡県の民主党県連は参議院選で小沢氏と真っ向から対立し、全国でも有名になったが、今回もいち早く菅支持を打ち出した。このまま小沢政権が出来れば、静岡県は冷や飯を食わされることは明らかである。それを露骨に実施するのが、小沢という政治家である。そんな恐怖感が民主党員の多くを小沢支持に回らせる。

負けたら菅陣営には明日がなくなると思うべきである。思い切って党を割って、他の党との連立で政権を考えるべきだと思う。田中-竹下-金丸-小沢と続いた、金権政治の系譜はそろそろ終わりにすべきである。
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御時服拝領願上の結果

(昨日の夕方、東の空に出ていた放射線状の雲)

昨日の書き込みで、紀州家に先例の通り御時服の拝領を願った結果、どうなったのか。海野家の文書には続きがある。願い書は糀町の紀州藩江戸上屋敷に届けられ、東海道御通行の際、岡部宿の本陣で拝領を受けた。以下へ書き下した文で記す。

右の願い書、江戸糀(こうじ)町御屋敷へ差し上げ置き候のところ、文化十五年戊寅三月、岡部宿、御本陣仁藤清左衛門方、御旅館の節、御用人由比楠左衛門様、曽根孫太夫様、御両人御出、玄関より二間(ま)目御席、曽根孫太夫様御時服熨斗目御持参にて下さる
※ 熨斗目 - 練貫(ねりぬき)の平織り地。また、これで仕立てた腰替わりの小袖。腰のあたりに多くは筋や格子を織り出したもので、江戸時代、武士が礼装の大紋や麻裃(あさがみしも)の下に着用した。

         御書付曰く
一 時服一            海野弥兵衛
 代々
御目見に罷り出で候儀につき、格別の品を以って之を下さる

右につき風呂敷懐中に致し、罷り上り候いて都合宜しく、御礼には御用人、由比楠左衛門様、曽根孫太夫様まで上る、外に落合雅樂助様、御用人に付参る、翌十七日玄関にて御挨拶有り、願い書差し上げ、十五年目に御時服拝領なり、外衣服へ御紋は染付け着用致すべし、但し、上になるとも、下になるとも、手前の紋服着用致すべし、御紋付重ね着致し候いては、御紋手前の紋に相成り候ゆえ、御紋重ね着は相成り申さず由、曽根孫太夫様、海野兵左衛門様、御両人より申し渡され候なり

※ 外衣服 - 拝領の熨斗目の上に着る衣服、大紋や麻裃。

この文書を読んでみると、拝領の熨斗目には徳川家の葵の御紋が付いていることが分かる。同時にその上に着る大紋や麻裃にも葵の御紋を付けることが許される。但し重ね着するときは、下に隠れてしまうので、拝領の熨斗目は重ね着のときは着てはならないと釘をさされる。ともあれ、葵の御紋が付いているならば、願い書を出しても頂きたい気持は分かる。徳川家から拝領したものであることが一目で分かるのだから、大変有難い御時服である。海野弥兵衛さんは、早速、お礼の挨拶をしながら、礼状を渡す。

一筆啓上仕り候、春暖御座候えども、大守様ますます御機嫌よく遊ばしなされ御着き、恐悦至極に存じ奉り候、はたまた貴君様いよいよ御勇勝遊ばされ御下着、珍重奉り候、誠にもって御通行のみぎりは相変らず御目見仰せ付けなされ、その上御時服拝領仰せ付けなされ、冥加至極、有難き仕合せ、致し奉り候。これにより御着き、恐悦御礼かたがた愚札を捧げ候、恐惶謹言
  三月吉日                     海野弥兵衛 信能
    由比楠左衛門様
    曽根孫太夫様
    落合雅樂助様

※ 愚札 - 自分の手紙をへりくだっていう語。

御用人からの返書には、この礼状が紀州藩の藩主に披露されると書かれている。

     御返書下され候、覚え
御状披見致し候、先ずもっていよいよ御堅勝御入りなされ、珎重の御事にござ候、拙者ども無異にこの表に到着いたし候につき。御状の趣、忝くいたし候、かつ紀伊殿旅中において時服遣され候につき御礼の儀は披露に及ぶべく候、よって御報せかくの如く候、恐惶謹言
  三月廿八日
                     落合雅樂助  紀智  花押
                     曽根孫太夫  長永  花押
                     由比楠左衛門 定前  花押
                   海野弥兵衛様


一連の文書を読んでいくと、御時服拝領がどのような経緯で行われ、どういう意味を持っているのかが分かる。地方で葵ブランドの衣服を着ていることがどんな意味を持つのか、水戸黄門の印籠を例に出すまでもない。なお、途中で出てくる海野兵左衛門は、一族から紀州候に付き随って家来になっている者である。
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井川村海野家の古文書

(駿河古文書会会員 赤嶋禊氏)

靜岡の古文書解読基礎講座に出かけた。今日は第七回で残すところ今日を含めて3回である。残り3回は講師が変わって、駿河古文書会会員の赤嶋禊氏である。講師を務めるのは本日が初めてだと話されて、講義が始まった。

この3回で扱う古文書はすべて井川ダムの底に沈んだ集落の郷士であった海野家から出た文書である。海野家の古文書の総数は3000件とも云われている。かつて宮本先生(民俗学者の宮本常一氏だと思う)が調査に見えて、何冊かの本にまとめられたが、その時も取り上げられなかったたくさんの解読を待っている古文書があるという。駿河古文書会でも毎年必ず未読の古文書が取り上げられて解読されている。

田舎の旧家でたくさんの古文書が見つかることが多い。どうして古文書が大切に保管されていたのであろうか。講師の話では旧家の権利関係が、支配者が変わるたびに尋ねられて、説明をし、認めてもらう必要がある。どんな新支配者でも地方の権利関係は過去の支配者が決めていたことを踏襲するのが通常で、そのためには過去の文書が大変物を言った。だから古文書が大変大切に保管された。手紙や提出した文書も必ず控えがとられていた。海野家にも同じ手紙の書き損じまでも何通も残されているという。

今日の古文書も紀州家に出した口上書の控えである。書き下したものを示す。

   恐れながら口上書を以って願い上げ奉り候
神君駿府、御在城の時、私先祖弥兵衛儀、御奉公仕り候由緒を以って同苗兵左衛門、治部左衛門、五郎三郎、御当家へ召し出され、紀州御入国の後、先祖弥兵衛儀、御機嫌伺いのため、罷り上り候節、御目見仰せ付けさせられ、御料理下し置かれ、その節御時服並び忍冬酒など拝領仕り候由、元禄年中高野山に於いて、南龍院様御石塔拝し奉り候、その節清浜院様へ御目見仰せ付けられ、御時服拝領仕り候、元禄年中高林院様御代までは、御祝儀の度々御よく拝見仰せ付けられ、御時服拝領仕り候由に御座候、右御代々様の御時服拝領仕り誠に以って有難き仕合せに存じ奉り候、しかるところ右御時服年歴過ぎ去り候儀にて古く相成り候につき、私儀今般出府仕り御願い申上げ奉り候は、御代々様御先例の通り御時服拝領仰せ付けさせられ、成し下され候様、願い奉り候、願いの通り御聞き済まし成し下され候は、有難き仕合せに存じ奉り候、これにより恐れながら口上書を以って、この段、願い上げ奉り候、以上
 文化元年子二月       駿河国安倍郡井川郷上田村  海野弥兵衛
紀州様 御用人中様

※ 同苗 - 同じ一族。同族。
※ 時服 - 四季の時候に合わせて着る衣服。
※ 忍冬酒 - スイカズラの葉や茎を用いてつくる薬酒。
※ 南龍院 - 徳川頼宣、徳川家康の十男、紀州徳川家の祖となる。
※ 清浜院 - 徳川光貞、紀州藩第2代藩主である。8代将軍吉宗の父。
※ 高林院 - 徳川綱教、紀州藩第3代藩主である。8代将軍吉宗の兄。
※ 年歴 - 来歴。

御三家の一つ、紀州藩から御時服を拝領したということが、名誉であるとともに、海野家の地位を示す上で大変貴重なことであった。だから類似した文書も必ず残されて、来歴を説明するときにそれらの文書が物をいうことになる。
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中国企業は財務とマーケッティングでもつ

(大代川の土手にタカサゴユリが繁茂している)

中国の企業で最も力を持っている部門は財務部門とマーケッティング部門だという。市場調査をしてマーケットが何を求めているかを把握する部門がマーケッティング部門である。企業はどこにマーケットがあるかを知り、金を集めてその事業に投入できれば、どんな事業でも成功間違いなしという考え方である。

販売のために長い時間を掛けて信用を得るとか、必要なものを試行錯誤を重ねて開発するとか、物づくりのノウハウを積み重ねて、日々改善し、どこにも負けない生産性を確立するなど、日本企業が戦後営々と続けてきた企業の最重要課題と思っていたことは、中国の企業人に言わせれば、すべて金で買って来ればよい問題である。

悔しいけれども、中国の企業はその考え方で急速に力を伸ばしてきた。彼らには安い賃金で雇える人民が無尽蔵にいる。そういう労働者がそのまま消費者になって、膨大な市場になる。そこに商品を流せば、少なくとも日本よりも人口比にして10倍以上の消費者がいるから、右肩上がりにどこまでも成長出来て、中国企業には莫大なお金が集まってくる。50年、100年掛かって培ってきた、日本の企業ごと丸ごと飲み込んでしまうほどのお金である。

中国の台頭を見るとき、何かフェアではないという感じを持つ。それは何なのだろう。よく考えてみると、自由主義国家間で行われている自由貿易の中に、社会主義国家である中国が加わって、自由貿易のいいとこ取りをしているのではないかという違和感である。自由貿易に加わりたいなら社会主義国家から自由主義国家に変わるべきだとおもう。GDPが世界第2位に躍り出ようとする国が、為替の自由化をかたくなに拒んでいて、安い商品を雪崩のように輸出している。戦後日本は経済復興した頃から、為替の自由化を迫られ、円は4倍以上に上がった。円が上がる度に、日本の企業は血の滲む思いをして、それに対応してきた。報道の自由、結社の自由‥‥、自由主義社会が持っているあらゆる自由が社会主義国家の中国ではことごとく制限されている。そういう国と同じ土俵で戦っていて勝てるわけがない。

40年前、入社するとき、営業企画の仕事といわれ、自分ではマーケッティングのような仕事が出来ると思って入社した。ところが一貫して所属したのは、経理、財務といった部門であった。中国では企業の一方の柱である、財務に絡んでいたが、会社に大きな資金需要もなく、財務が表に立って活躍する場面はほとんどなかった。もう一方のマーケッティングの仕事は会社では最後まで存在しなかった。限られた客との密着度が高く、その中での仕事であったため、そんな部門は必要とされていなかった。しかし、今から考えてみると、マーケッティングの仕事は重要なものであったと思う。今、思い返して、楽な仕事に流されて、自ら望んでもチャレンジしなかったことが、会社人生の中で思いの残る点である。
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開業医A先生の愚痴

(穂を出した稲-ムサシの散歩道で)

行き付けの開業医のA先生は話好きで有名である。気に入った患者には次の患者を待たしていても、いつまでも話していると聞く。自分もその一人であるようで、今日も血圧を測ってもらって、ずいぶん低い数値に、夏場は血圧は下がると、そのメカニズムを話してくれた。そのあと30分近くお話(ストレートに言えば愚痴)を聞いてきた。

自分の今までの仕事も承知していてか、よく聞くのは開業医の経営に関わる話である。団塊の世代の先生は、医院を新築した時のローンがまだあと7年も残っていて、そこまで仕事を続けなければならないという。途中まで聞いて、あと7年残っているんでしょうと先回りすると、怪訝な顔で何で知ってる?と聞く。その話を聞くのは3度目だから。

医院の外梁が腐って、今にも落ちそうになっており、つっかい棒がしてあった。まだ築20年そこそこで、雨水が入って腐ってきた。大手住宅会社に頼んだら奇抜なデザインになってしまった。イヤだというのに、これが目印になって良いのだと押し切られた。奇抜なデザインは構造的に無理があって、雨仕舞いがしっかり出来なくて、腐ってきたのだろう。最初から欠陥建物だったのだと嘆く。他にもあちこち手を入れなければならなかった。

前にお遍路に1ヶ月も行って来たと話したとき、そんなに時間が取れていいなあと、ため息混じりにうらやんでいた。それを思い出したのか、A先生は開業医なんかになるのではなかったという。開業医になって何もいいことが無かった。何も楽しいことがなく働いてきて、この歳になってまだ借金を残して、働き続けねばならない。借金が終った頃にぽっくり逝ってしまったら、何のための人生だったのかと思うだろう。

開業医は高収入があるようにみえても、次々に新しい医療器械を備えなければならないし、レントゲンの設備など、何枚撮ってもペイできるものではない。検査機器類などは開業医が共同で設備して、共用するようにしたらどうなんですか、などと言ってみるが、実現することではないし、気休めにもならない。こんなことなら、勤務医でおればよかったという。借金に負われることも無いし、経営に気を使うこともない。

何も楽しいことが無かったとは、悲しい話である。患者のために一生懸命働いて、それが生きがいだったのではないのかと思ったが、口には出せなかった。確かに長期休みを取ることもならず、相手にするのは病人ばかり。こんな愚痴も言ってみたくなるのであろう。

先ほど看護師さんがカルテを持ってきた。次の患者が来たのだろう。再び看護師さんが来て2通目のカルテを置いた。先生、次の患者さんが待っているみたいだからと話を切り上げて、まだ話足りなそうなA先生を残して立った。
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今野敏著「夕暴雨 東京湾臨海署安積班」を読む

(今野敏著「夕暴雨 東京湾臨海署安積班」)

前に警察小説というジャンルの本を読む話を書いた。昨日から今日の二日で、今野敏著「夕暴雨 東京湾臨海署安積班」という本を読んだ。警察内部の組織間の縄張り意識、競争と確執など、そのやり取りが面白くて一気に読んだ。

安積班の活躍するシリーズは、現在テレビでも毎週1時間ドラマで放映しているが、本も何冊か読んだ。何冊も読んでくると幾つか気になるところが出てくる。

「夕暴雨」はビッグサイトで催されるコミックコンベンションという同人誌のイベントに爆破予告がネット上に書き込まれる。予告だけで終ってしまうイタズラが大部分である中で、この情報には信憑性があると判断したネットおたくの須田刑事の勘を重要視して、安積班が動き出す。警備担当の警備課を動かして警備するも、参加者が二日で50万人のイベントで出来ることは知れている。終了間近になって、男子トイレで小爆発が起きて、5人の男性が怪我をする。安積班の捜査が始まる。

読んでいて最大の気になった点は、刑事部、警備部合同の捜査本部が立ち上がり、その最初に刑事部長と警備部長が訓示を垂れて、両部長は姿を消したと書いていながら、次の場面で始まった捜査会議で両部長が会議に参加している。これは作家本人も気付いていない間違いだと思う。売れっ子作家でそんな間違いはあるのであろうが、編集者が気付かなければおかしい点であった。

二つ目は、爆弾に当るものが、カセットコンロに使う小型のガスボンベで、それを電熱器の上に置いてスイッチを入れると、少し時間が掛かるが爆発するという簡単なものだという。鍋を囲んでいるときに爆発するならとにかく、それをトイレの個室に入れて爆発させ、個室の外にいる5人の男性に怪我をさせるほどの威力があるのかどうか。内一人は大腿骨骨折の大怪我であるという。そういう実験結果でもあるのだろうか。警察なら爆破実験をやりそうなもので、実験の結果に基いているのだろうか。その前に、トイレの個室に電源があるのかどうか。ウォシュレットタイプのトイレならあるのか。清掃用の電源であればそこまでコードで引かねばならない。その辺りが書き込まれていないから、絵空事に聞こえる。

最も重要な5人のトイレでの行動を聞き取っている場面が何度もある。通常なら自分の行動の中で爆発がいつあったのか。分単位で正確に聞き取るべきものを、聞き取りの中で時間軸が欠如している。通常最初の聞くだろうと思うことが見逃されている。このトイレでの行動が犯人の決め手になるのだが、安積班の聞き取りがそこへ来るといい加減になって、解決に遠回りしてしまっている。筋立てのために、捜査が不自然になると、読者はすぐにおかしいと感じてしまう。

気になる点は幾つかあるが、十分楽しめたから目くじらを立てることはないのであろう。
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「外桜田一件風聞書 別紙聞書」を解読

(1日大地を焼いて沈む夕陽-それでも夕風はやや凌ぎやすい)

昨日の書き込みに続いて、別紙聞書を解読する。事件を目撃していた人も決して少なくなかった。目撃者からかなり詳細な聞き取りが行われている。警察やマスコミの無い時代、誰がどのように聞き取りを行ったのか、疑問になるが、幕府の目付や奉行、与力、目明しなどが聞き回ったのであろう。

別紙聞書
一 始め御先供へ切り入り候いて、御駕籠へ取掛り候いては、壱人御駕籠訴のつもりにて側へ寄せ、端筒を打ち、それを相図に両側より切り込み候いて、六尺手負いに相成るを、あとの陸尺逃げ去り、御駕籠脇先へ気を取られおり候ところ、俄に御駕籠の際にて、右次第故かくの如くにも御側手薄と申すこと、御駕籠の左右より突入れ、その内しめた/\と申す声を相図に、引揚げ申し候ことに承り候

※ 駕籠訴 - 幕府の重職にある人や大名などの駕籠が通行するのを待ち受けて直訴すること。
※ 端筒(たんづつ)- 短筒。銃身のみじかい鉄砲。短銃。
※ 六尺、陸尺 - 輿(こし)や駕籠を担ぐ人足。駕籠舁(かごかき)。

行列は40人余り、その先頭に一人が近付き、刀を抜く。先頭が騒ぎになり、先頭へ駆けつけるものや、行列全体が先頭の騒ぎに一瞬気を取られた隙を狙って、駕籠に近付いた者がいきなり短銃を放った。目撃者は駕籠訴だろうかと思った。短銃を合図に両側から駕籠を目掛けて切り込んだ。実際には最初の一発が井伊掃部頭を貫き、ほぼ即死状態だったという。そうでなければ、掃部頭は居合いの腕には覚えがあったから、駕籠から出て戦ったはずである。「しめた/\」という勝ち名乗りは「しとめた」と言ったのではないのかと思う。

一 辰ノ口これ有り候首を、井伊様より直ぐ請け取りに三十人ほど相越し、御徒目付、御小人目付検使に参りおり候うちに付、立戻り伺い候ところ、家来の首に相違これ無くば、差し戻り相渡し申すべき義に付き、請取人へ御渡し相成り候由
※ 検使 - 江戸時代、殺傷・変死の現場に出向いて調べること。また、その役人。

江戸時代、大名が首を掻かれるという事はあってはならないことで、即、お取潰しになる由々しい事態であった。だから、井伊掃部頭は怪我をしたとして押し通すしかなかった。だから首も掃部頭の首とは言えないわけである。

一 遠藤様辻番に罷り在り候首持参の仁、元薩州家来に付、御同所へ御尋ね相成り、前、足軽にて暇差し遣り候者の由、然る所、皮の下げ物に鑓印その外薬などこれ有り候趣、右首は容易ならぬ首と承り申し候
増山様御門前にて切腹弐人、いずれも二十五、六才の人にて、馬場先御門より血刀を提げ、壱人は白の向う鉢巻にて、左の肩先より脇へ掛け切り割れこれ有り候えども、少しも痿(ひる)む気色なく、血刀の先へ首を貫き、右の肩にかけ、惣身血に染まりし壱人は、白繻襷にて眉目より左の眼を掛け切り割られ居り、その外所々疵所これ有り、血流れ居り候えども、少しも弱り候様子もなく、優々歩行、完尓と談笑参り、最早この辺にていゝ加減に始むべしと申して、増山様御門前にてどつさりすわり、腹一文字に切り、咽を刹一えぐりいたし、大小の血刀を前に置き伏し死に候よし、右は林家の足軽、通り合わせ見参り候由

※ 鑓印 - 戦陣や外出時、槍の印付鐶につける家紋を入れた皮製の印。
※ 眉目(びもく) - まゆと目。
※ 完尓(莞爾・かんじ)- にっこりとほほえむさま。

この記述を見ていると、切入った者たちに好意的に書かれているように思える。安政の大獄を起した井伊掃部頭は、江戸幕府250年でこれほど乱暴な老中、大老は居なかった。それだけに民衆の間には好意的なものがあったのであろう。もしかすると、それを書き記した幕府役人にもいたかもしれない。
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