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「かさぶた日録」開始後、丸8年を達成!

(田貫湖からの富士山、息子が今日撮影してきた一枚を拝借、
今年は世界文化遺産の登録で話題を集めた。)

2006年1月1日、このブログ「かさぶた日録」は始まった。「かさぶた」の由来になった六十代にはあと半年となった、まだ50代の時であった。あれから、今日で丸8年になる。書き込み回数が実に2860回、文字数にして約250万字になるだろうか。2860回を8年で割ると357回となる。つまり、書かなかった日が、365日-357日=8日、つまり年に8日だけということを示している。

途中から、目標に置いていた七年も越えて、あと2年で10年、2年半で70代に突入し、「かさぶた日録」という標題がそぐわなくなる。その時、どうするのか。それはその時になって決めようと考えている。


(年越し蕎麦)

大晦日、女房が昨夜から風邪で熱が出て、夕方まで休んでいた。朝夕とムサシの散歩をして、帰郷している名古屋の娘(かなくんママ)と最低限の正月準備をした。夕方、熱が下がった女房も起きて来て、かなくん一家と年越し蕎麦を食べた。慌ただしく大晦日の一日も過ぎて行く。
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歳の暮に交通事故を目撃す

(大井川線の踏み切りを渡ると、のっぽの門松が道の両側に立っている。
どこが出したものかは不明だが、日限地蔵へ行く道である。)

最近はムサシの散歩は、午後3時半ごろから30~40分行くことにしている。今日、ムサシの散歩も戻り道に入って、国道1号線バイパス下の道を歩いていた。高架のバイパスからは車の音が絶えない。何となく、バイパスの壁を破って、車が落ちて来たらどうなるだろうと、シミュレーションしていた。その一方で、そんな偶然は有り得ないと、心では否定している。

ムサシの散歩も、ムサシはあちこち嗅いだり、おしっこを引っ掛けたり、すれ違う散歩の犬に反応したりと、なかなか忙しいのだが、こちらは案外閑なのである。

バイパスの下を潜って、少し上り坂になり、直ぐに見通しのよい丁字路に出る。後ろから軽のバンが来たので、ムサシのリードを短く持って、右へ避けて待つ。ムサシもこの頃は学習能力が出来て、車の通り過ぎるまで動きを止めるようになった。もっともいつ飛び出すか知れないので、リードで制御することを忘れない。

右から来た箱バンが左折のウィンカーを出して停まった。軽のバンは右折のウィンカーを出して停まった。その丁字路では、どちらも道幅が狭くて、2台がすれ違うのは無理のようであった。すれ違うには、軽のバンがバックして左へ寄せれば、左折した箱バンと何とかすれ違えられる。それしかないと思って見ていた。

ところが、箱バンは左折をやめて、丁字路をまっすぐに通り抜けようとした。一方、軽のバンは右折を左折に変えて、先に左折して、箱バンに道を譲ろうとした。2台の車が同じ方向に躊躇無く進んだために、まずいと思ったときには、ボコッという鈍い音がして、軽のバンは前側のバンパーを引っ掛けられ、剥ぎ取られて、1メートルほど下の畑に着地した。果樹が植わっていたが、それを避けるような着地であった。

さすがに箱バンは大きいだけに強くて、直ぐ先で停まった。幸いにも二人とも怪我はないようで、直ぐに車から出てきた。軽のバンはおばちゃんで、箱バンは青年だった。おばちゃんは剥がれたバンバーを拾って、どうしよう、困ったと、少し動揺している。青年はやってしまったというような顔である。

後は、警察、保険会社、モータースの仕事で、運転手同士の話し合いとなるであろう。まあ、目撃者としての自分は関係なさそうなので、ムサシの散歩に戻った。

この事故はお互いに譲ろうと思って動いた方向が、運悪く同じ方向になってしまった。ウィンカーを変えたのを、お互いに見落としたのであろうか。運転手同士のアイコンタクトはなかったのだろうか。歳の暮、気は急いても、交通事故には十分気をつけないといけない。

それにしても、今の交通事故は「ガチャン」ではなくて、「ボコッ」である。時代は変わっている。
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松木新左衛門始末聞書25 兄弟男五人(四男、五男、附藤三郎)

(散歩道のロウバイが一輪咲いていた)

今日はまーくん一家が家へ帰ったので、静かである。雪国では一日に何十センチも積る雪も、当地は影すらもなく、快晴である。ただ、三アルプスで水分を落した西風が冷たい。いつの間にか、残すところあと二日になっている。

松木新左衛門始末聞書の解読を続ける。「兄弟男五人の事」の項の続きである。最後にもう一度長男の話が出てくる。

四男は与左衛門、これらは我ら廿六才までつき合いし故、よく存ず。松木の同縁に依って、両替丁壱丁目へはひたと出入し由。中分より男は大なり。手跡は大橋流筆跡所持なり。いかにも昔人にして、勿躰有りし人なり。
※ ひたと(直と)- じかに。ぴったりと。
※ 勿躰(もったい、勿体)- 外見や態度の重々しさ。態度や風格。また、物の品位。


町御奉行、松浦与次郎様の与の字に障りて、次郎兵衛と申せし事も有り。先祖は友野又市、武田太郎信勝の御連にて、日向伝次郎と扇打ちの事、甲陽軍鑑に見えたり。兄弟五人のうち、四人は先達ちて死す。新斎、先途を見届けしはこの人ばかりなり。
※ 先途(せんど)- 行き着くところ。また、人の死。

五男は郷蔵、赤面の中男にて有りし由。柔和にして大発明人、学才有り。算筆に達し、金銀の取遣り温和に有りしという。俳諧は新左衛門には余程増りし由。將基、碁は強く、この三能を以って、上つ方の相手にばかり歩行(あるき)て、同輩、下輩をば相手にせず。また下戸の女は寄せ付けず。上戸の妾を数人抱えて、諸事を取り持ちす。玄関の取り次ぎまで、妾とも致せしよし。表向き手代に勤めさせ、家内の事は妾どもに取り計らわせたるよし。江戸に於いて死す。

(附り)
藤三郎、雁首銭三文持って酒屋へ行きて、居酒をする。片口を手に取りて、いざ酒をつげという。相応につげば、今少しつげという。またつげば、いま少しつげという。片口に一盃つがせ飲みし由。
※ 雁首銭(がんくびせん)- きせるの雁首を潰して、形を似せて、普通の銭に混ぜてつかう。いわば贋金みたいなもので、真鍮製。
※ 片口(かたくち)- 鉢で、取っ手がなく一方に注ぎ口の突き出ているもの。


宅にて飲むときは、壱升つげと云い、代銭半分か、三分一遣わして、これにてまけよと云いて、樽ともに内へ持ち行くとも。その樽を取りに行くをいやがりゆかずという。それゆえ、何方へ行きても、それ藤三郎が来たりというて、はずし隠れしとなり。

大岩村の博奕場へ行きて、無理にいいがけして、座中の金銭を悉くみな奪い取りてかえりしよし。これに依って殺されたりという。
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松木新左衛門始末聞書24 兄弟男五人(次男、三男)

(散歩道の南天、
我が家の南天は、鳥に食べられて、実が全く無い)

名古屋のかなくん一家が帰郷、そこへ掛川のまーくん一家が加わって、我が家の人口は一挙に3倍強に膨れ上った。また、忙しい年末年始に突入である。年賀状はその前に何とか済ませて投函した。

松木新左衛門始末聞書の解読を続ける。「兄弟男五人の事」の項の続きである。

次男は忠三郎と云って、兄弟一番の大男にして、大器量の由にて有りし処に、二十才にして乱心し、立ち直らず。庭の植え込みの脇に、牢屋を拵えて入れ置きし処に、神妙柔和にして昼夜読経のみにて居りし処に、不意に申す。
※ 器量(きりょう)- ある事をするのにふさわしい能力や人徳。

町内の衆中なつかしく、逢いたき人々これ有るに依って、暫く出牢させてくれと申したるを、打ち捨て置きたれば、ある夜、牢の桁より上を推し放して、屋根を投げ退け、そこより抜け出、壱間に九尺の牢を、弐、三尺脇へ引き摺り退けて、隣家の屋根屋孫右衛門の裏へ、引き戸口を明けて、ゆう/\と入り、台所へ上りたるを、家内の者見て恐怖して驚き入る。

その有様、大男の真白き顔、月代は山伏のごとく、髪は三、四寸はえて、麁服を着してひらへ帯して、上座に畏まりて、往事のみを咄すに、少しずつ違いたる事あれども、乱心とは見えざるよし。これは学者の所以(ゆえん)なるべしと、人々労(いたわ)り申したるよし。
※ 麁服(そふく)- 粗服。粗末な衣服。
※ 往事(おうじ)- 過ぎ去った昔のこと。


この事、新斎へ知らせたれば、自身早々に来て、大いに呵(しか)りければ、両手を突き頭をさげ誤り、至極憚(はばか)り入り候は、違う事なく見えたる由。新斎の申すに、随いて連れられて、神妙に帰りし由。牢は打ち破りたるに依って、その夜は土蔵へ入りし由。
※ 所以(ゆえん)- わけ。いわれ。理由。

この人は全躰、学文好きなる処へ、新斎、稠(きび)しく言い付けし故に、昼夜を分けず打ち込みし故、己と己が心を狂わせたり。角を直(ただ)すとて、牛を直すの諺なりとて、人々笑止に申せしよし。然るに、三年程経ち、惣領の事を聞き出して、大いに(感情が)溢れて、切り殺して埋みし事を、三四日、昼夜止む時なく呼わりしが、その跡は病気重りて、音もせず。間もなく死去したりと申せども、この死は人々不審を立て疑いしといい伝う。
※ 角を直(ただ)すとて、牛を直す - おそらく、「角を矯(たわ)めて牛を殺す」という諺を指しているのだろう。
※ 笑止(しょうし)- 気の毒に思うこと。また、そのさま。
※ 重り(おもり)- 病気が重くなる。


三男は新左衛門(始末、前に有り)、日向に於いて死す。
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松木新左衛門始末聞書23 兄弟男五人(長男)

(大代川と、住宅の向うは、大井川左岸(東岸)の「島田アルプス」/勝手に命名)

年賀状の宛名印刷をした。この2年は喪中で、年賀状は欠礼した。だから久し振りである。会社生活を終えてから年が経って、その関係の宛先が少しづつ減っていく。その分、その後発生したお付き合いで賀状を増やして行きたいと思っている。

松木新左衛門始末聞書の解読を続ける。新斎には5人の息子がいた。新左衛門の兄弟である。しかし、皆んな逆縁になって、新斎の死を見届けたのは4男一人であった。

     兄弟男五人の事
一 嫡男は新斎の兄、松木某の養子に成りたり。その兄というは、同苗同家にして、呉服町壱丁目の南側、東の方に住居して、醤油屋にて有りしが、その身は年来宣しかりしが、男子壱人あれども、老の事が至りて、幼弱にて新の用に立たず。
※ 同苗(どうみょう)- 同じ一族。同族。

依ってこの嫡男を養子に遣わす処に、大悪無道の人にて、商売を止めて博奕ばかりし、上手にて、負ける事なし。依って人々大いに憎しとなり。殊に径通にして、大酒大食大慾ににして、少しも施す事をせず。身上は持てども商売なく、人々不審して表向き済ます。無理ばかりいうて、人々嫌い、付き合いなし。あやにくに、勝れて大力のうえに器用にして、柔術、剣術に達して、誰人の手際にも行かず。
※ 剰(あまつさえ)- 別の物事や状況が、さらに加わるさま。多く、悪い事柄が重なるときに用いる。そのうえ。おまけに。
※ あやにくに(生憎に)- 都合悪く


持ち扱い兼ねて、すべきようなく、親兄弟言い合せて、ある時、早朝に瀬戸井川へ手水(ちょうず)を遣いに行きしを、人目を制して、身内ばかりにて、前後左右を警固し、新斎の差図に任せ、新左衛門そろそろと行きて、後より袈裟がけに打ち落して、前処に坑(あな)を掘り置き、引き摺り込んで埋め仕舞いしと承る。
※ 瀬戸(せど、背戸)- 家の後ろの方。裏手。
※ 井川(いかわ)- 用水を採る川。


この人は手習い、学文、大嫌いにて、人躰奸しく、悪しき事ばかり器用に精出し、習いしよし。殊に一度乱心したるを、上京して養生し、本復したるよし。かれこれ疵物ゆえ、嫡なれども伯父の跡取にくれんとしける。
※ 奸し(かだまし)- 心がねじけている。性質がすなおでない。

畢竟、この運命に依って、松木の一党、旧里、骨肉断絶に及びしと承る。享保年中なり。折りふし咄せし人も有りしが、宝暦、明和に至りては、噺す人もなし。依って新斎の兄名も知れず。この嫡男の名は藤三郎とか申すよしなれども、聢(しか)とせず。
※ 畢竟(ひっきょう)- つまるところ。結局。
※ 旧里(きゅうり)- ふるさと。郷里。故郷。


新斎の甥、幼弱と申すは、松木孫六と云って、日雇取りにまで零落したれども、元の家に居りし処に、貧窮して取続きかねて、鬢髪を剃除して、法華坊主と成りて、宝暦の頃、小鹿村に於いて死去す。
※ 鬢髪(びんぱつ)- 鬢の部分の髪。また、頭髪。
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松木新左衛門始末聞書22 正月門松、平服のこと

(Iさんの日光奥州街道歩け歩け道中記)

最初のお遍路で、一時、一緒に歩いたIさんから、「日光奥州街道歩け歩け道中記」が今日送られて来た。A4/20枚に小さい写真がびっしりと印刷されている。お遍路の時も、撮影ポイントが調査されていて、自分より何倍もたくさんの写真をデジカメに納めていたのを思い出す。Iさんは、「四国お遍路まんだら」を読んでいただいた方には、「鬼コーチ」といえば思い出してもらえるだろう。中味は、正月にゆっくり見せていただこう。大きな天眼鏡を用意して。

松木新左衛門始末聞書の解読を続ける。

     正月門松の事
一 松かざり、竹は壱尺弐寸廻り、高さ八、九間なるを、元三間ほど枝を払い、中弐間半ほど明けて建て、注連を弐間半ほど上にてかざり、松は高さ三、四尺なる小松を、下枝を払いて竹の元の木口へ突き裁ちて、竹へちょくと詰め付けしよし。これに依って七五三を高くかざり、惣錺りに劣りし小松を立てれば、その家断絶するというて、元文の頃まで両替町壱丁めにては、大いに嫌う。
今は末に成りて、知るものなし。



(家門、祇園守)

     平服の事
一 新左衛門、平生の服、紋は祇園守、替改は丸の内に小文字の山といふ字。黒羽二重ばかり、六、七拾日程も着て、襟垢付くか、かぎ裂きなど出来れば、新服着替えて、その古物は手代、召仕に与えて、洗濯色上して、また一廉の用に立て、費えとせず。
※ 祇園守(ぎおんもり)- 京都東山にある八坂神社のお守りをさす。

よって平日着物の汚れを厭わず。物着あらく、嗜(たしなみ)あしき様に見せたれども、汚れても跡にて召仕に譲ればにあらず、との心なり。帷子は近江晒(さらし)の潰れ浅黄ばかり着て、余布、外の色は一切着ず。
※ 弊(へい)- よくない習慣。
※ 帷子(かたびら)- 裏をつけない衣服の総称。ひとえもの。夏に着るひとえの着物。


七夕八朔も色に構わず、葬礼の供する時には、白の無紋を新たに仕立て着て行き、帰る時には、その衣類は寺へ奉納して、寺より衣装を改めて帰りしよし。
※ 八朔(はっさく)- 陰暦の八月朔日のこと。農家ではその年の新穀を日ごろ世話になっている人に贈って祝った。町家でもこの風を受けて互いに贈り物をし、祝賀の意を表した。

ある町、浅間へ花見に行くとて、新服を着替え、昼飯を喰い、宅を出、社中にて所々に遊山し、また山へ登りて、ここかしこと遊びしに、敷物なし。然るに羽二重の新しき着物を着ながらば、土の上へ安座して遊びしとなり。また昼飯を喰いて間もなく、餠など喰い、その上に赤飯の切飯三拾六、喰いし由。誘われて行かれし噺を承る。
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松木新左衛門始末聞書21 遊女を買う、薬礼に土蔵を建つ

(畑のブルーベリーの紅葉)

松木新左衛門始末聞書の解読を続ける。女郎買いの話しで、具体的な名前は記されていないが、駿府で遊郭というと二丁町と呼ばれていた。元々、駿府には96ヶ町あり、その内7ヶ町に遊郭があった。しかし江戸が開けると、その内5ヶ町の遊郭が江戸へ移り、駿府には2ヶ町が残った。それが二丁町の由来である。新左衛門もその二丁町に出入りしていたのであろう。ちなみに二丁町は先の大戦の、靜岡大空襲で焼失するまで残っていた。

     遊女を買う事
一 女郎買いに誘(いざな)えば行き、誘えざれば他をば誘う事なし。その訳は、咄しに傾城を買い遊ぶは、面白き事、至極なれども、帰りたき時に、そのまま帰さばよき物なり。別れは少しあわれの気味あり。快からざる所も有り。因って多分は遁れずと云いしよし。
※ 傾城(けいせい)- 遊女の別称。近世では特に太夫・天神など上級の遊女をさす。

これは美男にして大勇なり。色取面にして温和なり。されば女郎が惚れて、饗(もて)過ぎ、名残りをおしみて、帰し兼ねる故なりと見えたり。

※ 大勇(だいゆう)- 真の勇気。大事にあたって出す勇気。
※ 色取(いろどり)- 物事に変化を与え、面白みや興趣を増すこと。


     薬礼に土蔵を建て謝する事
一 町内ただの栄庵と云う本道相医師あり。先祖は佐々木左京太夫という武士にて有りし由。天正年中、徒士立て、打物を荷わせ、当町内乗り込み、暫く浪人を立て居る処に、後医師と成りて、家名を改めしよし。これは新左衛門、遠き親類にて、勿論別退にして新しくしたるよし。
※ 徒士(かち)- 江戸時代の武士の一身分。騎乗を許されない徒歩の軽格の武士をいう。
※ 打物(うちもの)- 刀剣・薙刀(なぎなた)などの、打ち合って戦うための武器。


然るに新斎、自然に少々不快に有りしに、少しむずかしく病い付いて、則ち栄庵療治して、本復したり。その謝礼として、御用の残木を以って、三間に五間の土蔵を一ヶ所、新たに立て、薬礼として、惣桧にして大坂瓦、壁は内外漆喰の一寸塗りなり。五十年程経て、家内を親類へ引き取る時、この土蔵は売り払う。買い取りしもの大利を得しなり。木道具は一つも朽腐なし。瓦は壱枚も砕けず。五十年程のうち、庇両処は修理に及びしが、蔵は少しも手を付けずとなり。
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松木新左衛門始末聞書20 夜番人寝入、賭け禄を禁ずる

(裏の畑のキンカンに、今年はびっしりと実がついた。
今年こそ時期を選んで収穫しようと思う。)

夜、「城崎温泉力餅」さんから電話があり、その中で、最近の当ブログが総合雑誌として閲覧していたのに、いつの間にか、専門誌に変貌してしまったという。面白い喩えだが、その通りである。

余りに意に沿わないことの多い、平成の世を離れて、江戸時代を散策するうちに、そこから逃れられなくなったと言えばよいのだろうか。このマイブームからはしばらく抜けられないだろうと思う。

今年春から始めて、既に8冊目に入っている。決してメジャーにならない、ローカルな古文書がターゲットで、本棚にはさらに20冊の様々な分野の古文書が出番を待っている。

ブログがこんなふうに変わってから、閲覧数がじりじりと増えて、最近では毎日300人以上の閲覧者がコンスタントに訪れている。年間にすれば延べ10万人という数字になる。江戸時代の話になって、おそらく誰も関心を示す人はいないだろうと思っていたから、意外な反応に自ら驚いている。

しかし、毎日これだけの古文書の解読をして、ブログに書き込むのは大変な作業で、世の中の外の事象にかまう余裕がないというのが本音で、「城崎温泉力餅」さんには申し訳ないが、しばらくはこんな形でブログを埋めることになるだろう。

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松木新左衛門始末聞書の解読を続ける。

     夜番人寝入りて詫びの事
一 町内の夜番所を、新左衛門玄関の向いに置きたるよし。番人寝入りて居る所へ、御同心衆廻り合わせ、散々に呵(しか)る。新左衛門飛び出て詫びたれども、一向聞き入れず。

かれこれするうち、新斎玄関へ出て、新左衛門御番所へ行きて申し開かれよ、さほどまでに御上を憚(はばか)り、その身を卑下して萬意を尽くすに、承引なくんば、とても埒は明きまじく、よしなき事に隙(ひま)せんより、早く御番所へ行けと言う。
※ 承引(しょういん)- 承知して引き受けること。承諾。

仰せの通りに仕るべしと、新斎を敬する慇懃の躰は、御同心衆より重く会釈したる事、甚だ見事にありしと、組頭河内屋長兵衛、これを見て咄せしとなり。跡は直ちに済みしとなり。


     賭け禄を禁ずる事
一 新左衛門、碁、將基は不器用なる分にて、中通りの上のよし。賭け禄の勝負は嫌いゆえ、たとい打つにも指すにも、福徳のたしにもならず、さすれば、国土の隙弊、一時、半時もあたら寄命の内、大事の気根、空しく滅さんより、何事もさし置いて、金儲け、危難などの用に立つる根気なり。それを滅すは無益なりというて、禁戒して後、見もせず。
※ 賭け禄(かけろく)- 金品をかけて勝負すること。
※ 隙弊(げきへい)- 隙に生じた害。
※ 寄命(きめい)- 現世に仮に寄せた命。
※ 禁戒(きんかい)- 禁じ戒めること。また、その事柄。いましめ。おきて。


哥牌(カルタ)も致し見て、直ちに呑み込み、人の意地を悪くするは、三廻りめの懸け引きなり。外に法立て、むずかしく拵えたらば、面白がるべし。余り浅くて面白からずというて、一両度して其後はなさず。賽の博奕(ばくえき)はかつて知らずと云いて見もせず。


江戸時代には珍しい合理性を持った新左衛門だから、運が左右するような賭け事を好まないだろう事は、容易に想像できる。
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松木新左衛門始末聞書19 町年寄を諍う、田植え唄、弟郷蔵の急死

(大代川みどり橋から、雪を頂く南アルプス前衛の山々、12/22撮影、
ムサシ!そんなにリードを引っ張るな!)

松木新左衛門始末聞書の解読を続ける。武士も刀を抜くことはめったに無い時代に、大店の主人同士、脇指を抜き合うことがあったという話。

     町年寄に成らんと威を諍う事
一 町年寄、八文字屋長兵衛潰れて以来、その跡いまだ町年寄仰せ付けられず、かれにて有るべし、これにて有るべしと評判する折りから、松木新左衛門、友野与左衛門、大黒屋孫左衛門は、丁頭の中にも抜群にして、大いに目立ちたる者ども故、羽ぶりをのして、町年寄の御目鏡(めがね)に預りたきと存じ居る所に、御奉行様、御代り御上着の御迎えとして、長沼村へ何れも参り居りて、御駕篭それへ見ゆると申す時、与左衛門、孫左衛門、御目見えの先を諍いて喧嘩に及び、双方脇差しを抜く時に、新左衛門推し隔て申す様、御上を憚(はばか)らず、不礼のふるまい、与左衛門そこ退(の)かれよといい、挟み箱棒を以って、孫左衛門に打ち懸りて、脇差を叩き落し、石に当て、刃引きにして、投げ捨てしよし。

※ 刃引き(やいばびき)- 刃を引きつぶして切れないようにしたもの。

とかくする内に御駕篭来たりければ、周章(あわて)ふためき、前後なく打ち込みに御目見え致したるよし。後この事御聞きに及ばれ、以来は御奉行御着に丁頭ども迎えに出る事、無用にすべしと相極りしは、この時の事と承る。慶安辰年、御奉行三宅太兵衛様、御着府の節の事なり。

この新左衛門というは、後の新斎なり。与左衛門というは、新左衛門の弟与左衛門のためには、養父なり。中にも孫左衛門、抜群の発明者なれども短慮のよし承る。

※ 発明(はつめい)- 賢いこと。また、そのさま。利発。

また平生不和にして、孫左衛門の草履取りの名をば与左衛門と付け、与左衛門の草履取の名をば孫左衛門と付けしよし。その内孫左衛門が申すには、孫左衛門が供の与左衛門と呼びしよし。これには与左衛門負けしとなり。三人いずれも狐を好んで飼しよし。

     田植え唄の事
一 新左衛門居宅、本通りへ向いたる横町は、弐拾間の惣格子、唐臼四十から並べて、米を舂(つ)きしなり。然るに田植え唄に、新左衛門殿は内にか、いやなあ、横町で格子たゝく、と今に唄う。この格子の事のよし。遠国はしらず、駿遠三、伊豆、相模、甲斐までも、これを唄う事、普(あまねき)しなれども、訳は何とも聞えず。


     弟郷蔵、急死の事
一 郷蔵こと、山城国吉野山の銀山を願いて、仰せ付けを蒙りて、大いに悦び帰宅して、居風呂に入りし処、何事なく桶の中にて脈上り、息絶えて死にしよし。婬酒に耽り、不快にて居りたる所のよし。この銀山に取かゝらず。大いなる金儲けなるべきに、不幸にして死せし事、寔(まこと)に残念なりと、人々申せしよし。

※ 婬酒(いんしゅ)- 飲酒にふけること。

この郷蔵の死は、新左衛門の死より先なり。死後に子供を駿府へ引き取りて、新左衛門の養子となす。
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松木新左衛門始末聞書18 旱魃新井を掘る、少将練り物発

(風呂にゆずを浮かべた)

今日は冬至、頂いたゆずの残りが少しあったので、お風呂に浮かべてみた。小振りで、存在感が少ないけれども、表面を擦ると油が出て、お湯に溶け込む。少ししぼるとぶくぶくと空気が出てきた。ゆずが浮ぶのは空気を含んでいるからである。風呂場がゆずの香りでいっぱいになった。

松木新左衛門始末聞書の解読を続ける。新左衛門は町のためにも、随分お金を使っている。今日の2話はそんな話。

     旱魃新井を掘って諸人に施す事
一 宝永年中にある冬、大いに旱魃して、何方の井戸にも水なし。阿部川も渇水して、井溝へ上する程の水もなし。大車に桶樽をのせて、安倍川へ水汲みに行きしに、後々は安部川も水少なに成り、奇麗なる水を汲まんとおもえば、壱里半も行かざれば、汲む事を得ず。

この時に新左衛門、隠居屋へ新たに井戸を掘りて、表囲いを打ち破り、口を明けて、諸人も水を汲ませしなり。この井戸は地祇形の石を以て、車の歯にて組み合わせたる如くに築立し物ゆえ、末代までも崩るゝという案心なし。

※ 地祇(ちぎ)- 地の神。「地祇形」とはどんな形か不明。
※ 案心-はっきりしないが、案ずる心、つまり心配の意味か。

今の風呂屋、吉川屋の井戸なり。近年の渇水にもこの井戸の水は八九尺余もこれ有りし由。夏になれば水深さ三間半余もあるなり。駿府壱番の井戸なり。

     少将練り物発の事
一 少将井社の祭礼練り物発端の節に、新左衛門出情して、取り持ち弟友野与左衛門と立合い、両人して御輿を神納したり。

※ 練り物(ねりもの)- 祭礼などのときに、町なかを練り歩く行列や山車(だし)など。おねり。

訳は、少将の御社は元御城内の御城代屋敷の内に有りしが、町口御加番屋敷、紺屋町より外廊へ引きたる跡の明屋敷へ、御移しなさるゝに付、雷電寺氏子の内を八丁少将社へ分散したり。然るにこの練り物を取り持ちて置くは、その跡にて雷電寺の祭礼に練り物を開発すべし。その時には分知の少将井さえ、斯くのごとし。況(いわん)や加茂稲荷においてをや、と云いて、心易く出来るべしとの底意にて、少将井の練り物の事をば、勇み進んで御輿を神納申したり。
※ 分知(ぶんち)- 江戸時代,大名・旗本が知行所を親族で分割相続すること。

初午の稲荷大明神の祭礼を、開輿すべきの新左衛門のもくろみ、一丁/\に御輿を拵えさせ置きて、七間町三丁目の御輿を、御宮前へ舁き込ませ、御迎え参りて御輿に移したり。それより次の町御輿へ移りたり。氏子町々をかように段々移したり。ひとえに移し廻りて、留り町にて御輿へ移したり。御宮へ舁き込みて安置したるべきなり。湯立と太刀の舞は、朝の中仕舞い然るべしと申せしよし。

九月廿一日、加茂大明神の祭礼は何方へなりとも広場へ御輿を舁き居きて、洛加茂の真似で、競馬宣しかるべしと申せしよし。

※ 洛加茂(らくかも)- 京の加茂。
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