goo

駿河土産 29 大坂落城の日の事

(畑のキンカンの花、今花盛り)

駿河土産の解読を続ける。

(40)大坂落城の日の事
一 大坂落城の朝、権現様には御持旗、御長柄などの義は、住吉辺りに立て並べ候様にと御下知遊ばされ、御自身様には茶色の御羽織に下くゝりの御袴を召させられ、住吉と城との間に有る、くぬ木林の内に山駕籠に召させられ御座遊ばされ、御茶を召し上がられ候とて、松平右衛門太夫に仰せられ候は、城方の者どもの心には、身どもは住吉に控え居りたると思うにて有るべし。もはや軍(いくさ)には勝ちたるものなれば、身を大事にしたるがよいぞと有る上意にて、御笑い遊ばされ候となり。
※ 長柄(ながえ)- 柄の長い武具。槍など。
※ 松平右衛門太夫-松平正綱。松平大河内備前家初代。家康の家臣。


その所へ安藤帯刀乗り来たりて、御前にて合戦の次第など申し上げ、御茶、弁当に付、居り候御坊主衆へ向い、身ども何ぞ一盃給りたしと申され候えば、坊主衆聞いて、御前の御茶碗より外にこれ無く候となり。帯刀聞かれ、御前の御茶椀にても、跡をすゝぎて置いたらば、よかりそうの事なりと申され候を、御聞け遊ばされ、坊主衆へ仰せられ候は、帯刀咽(のど)がかわくと云うに、早く飲ませぬぞ。か様の時節、上下のへだてが有るものか。空気(うつけ)めがとの上意にて、御叱り遊ばされ候となり。

帯刀退出致され候処、権現様、茶臼山の上へ御上り遊ばされ候節、谷間より鉄砲を打出し候ゆえ、御供中騒ぎ候に付、小従人衆三人、その所へかけ付け、鉄砲打ち出し候者を見候処、金笠をかぶりたる足軽一人、召し捕らえ、茶臼山へ引き来たる処、

本多上野介、その場に居合わせられ、その者に申され候は、おのれは誰の家来にて、只今の鉄砲をば何とて放し候ぞと尋ねられ候えば、私義は本多上野介足軽にて候。上様とは存じ申さず、敵と存じ候て、放ちかけ候と申し候を、上野介聞かれ、言い詫び同断、不届きなる奴めかな、と申され候を、

権現様聞けさせられ、小従人衆の方へ御向い遊ばされ、放してやれ、放せ/\との上意に付、追放に致され候時、上野介不届きなる奴の義に御座候間、成敗仕るべく存じ罷り在り候処、御意を以って御助け遊ばされ、冥加に相叶いたる奴にて候と申し上げられ候えば、我ら本道を差し置き、脇道より来たり、旗、長柄などもこれ無き故、敵かと思いたるも理(ことわ)りなり。あの足軽に科(とが)はなしとの上意にこれ有り候となり。

小十人衆は石丸庄兵衛、八木善四郎、田中市兵衛と申す三人とてこれ有り候となり。御直なる事の由、その節下々にも申し奉り候となり。
※ 御直(おじき)- 貴人が自分から直接に物事をすること。直接。おじきじき。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

駿河土産 28 秀忠軍法書付の事、夏の陣に秀忠先を急ぐ事、家康兵糧の事

(庭のニチニチソウ〈白〉)

午後から快晴になり、気温も30℃を越えただろうか。図書館に行くに、車のハンドルが熱くて触れないほどであった。と言っても、当地は風が通るから、他の地方と比べれば、ずいぶんとしのぎやすい方である。

駿河土産の解読を続ける。

(37)秀忠軍法の書付を出す事
一 大坂御陣の節、将軍様より御軍法の御書付遊ばされ、本多上野介を以って御覧に入れられ候に、権現様御意遊ばされ候は、将軍には成程この通りにて能く候。我ら事は年若き頃より、いつの軍(いくさ)にも、軍法の書付を出したる事はこれ無く、子細は軍法書付の通りに致して悪しき時分は、仕替える事もならず。また軍法の書付を背きて能き事あれども、それを背きては書き出したる法が立たぬるより、時の見合い次第にして、埒を明け来たる事なり、と仰せられ候となり。

(38)夏の陣に秀忠先を急ぐ事
一 大坂夏御陣の節、将軍様江戸御出陣に先だって、上杉、佐竹、伊達、松平上総介殿、右四人の大名衆、何れも人数多くにて押し登られ候に付、近藤勘右衛門を御使いにて、何れも道を急ぎ候様にとの上意に候えども、大軍ゆえ埒明き申さず候に付、箱根山を御越し遊ばされ候ては、段々と先勢を御追い越し成られ、御道中、殊の外、御急ぎ遊ばされ候に付、歩行にて御供の御番衆などはつづき兼ね、御膳の御料理に成り候鳥の毛をも、馬上にてむしり申すごとく、これ有り候となり。
※ 松平上総介(まつだいらかずさのすけ)-松平忠輝(ただてる)。安土桃山時代から江戸時代中期にかけての大名。家康の六男。生母・茶阿局。越後高田藩主。
※ 近藤勘右衛門 - 家康の旗本、近藤康用の五男。


これに依り、伏見へ早く御着き遊ばされ候処に、本多上野介には御道中御急ぎ候段、御もっともに存じ候に付、その段申し上げられ候へば、権現様御聞け遊ばされ、以ての外なる御機嫌にて仰せられ候は、将軍には何用にて左様に道中を急がれ、大身なる奥州大名どもを跡に立て、先駈けをば致され候や。それには及ばざる儀なるを、と上意にて、翌日もまた翌日も、御持病気の由、仰せられ御対面御座なく候となり。
※ 以ての外 - 思いもかけずはなはだしい。


(39)家康兵糧の事
一 権現様、京都を御発駕遊ばされ、大坂へ御取り懸り遊ばされ候節、何れも御供中には、腰兵粮ばかりにて事済ますべきなり。小荷駄には及ぶべからず。御台所方へ、白米三升、鰹節十、塩鯛一つと味噌を少し持参仕り候様にと仰せ渡され候に付、また大御所様の御功者立てを仰せ出され候。去年も大坂表に百日程は御懸り成られ候ものをと、さゝやき申し候となり。
※ 腰兵粮(こしびょうろう)- 当座の分として腰につけて携行する兵糧。
※ 小荷駄(こにだ)- 室町・戦国時代、兵糧・武具などを戦場に運ぶ騎馬隊。また、その荷や 馬。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

駿河土産 27 大猷院発明にて気の詰る事、佐竹義宣律儀の事

(大代川護岸工事も終り、川の水も澄んできた。)

駿河土産の解読を続ける。

(35)大猷院発明にて気の詰る事
一 大猷院様御代、天海大僧正申され候は、権現様、有為無常と御改め遊ばされ、台徳院様、御柔和に御座成られ候に付、右御両代には物も申し上げよく、御伽も致し安きごとく思われ候処、当将軍様には御発明にて、御理屈強く御座成られ候を以って、御伽致しながらも、気が詰ると申され候由。
※ 天海大僧正(てんかいだいそうじょう)- 江戸初期の天台宗の僧。徳川家康に重んじられ、政務にも参加。家康の死後、東照大権現を贈号、日光山に改葬し輪王寺を中興。江戸上野に東叡山寛永寺を創建。木活字版の大蔵経を刊行、天海版とよばれる。
※ 有為無常(ういむじょう)- あらゆる事象が絶えず変化していて、同じ状態に留まることがないということ。世は、とても移り変わりやすいものであるということ。
※ 当将軍 - 三代将軍家光。


(36)佐竹義宣律儀の事
一 権現様、駿府御城に御座遊ばされ候節、御伽の衆中、誰殿が殊の外なる律儀人にて候との咄しを御聞け遊ばされ、律義なる人と云うは希なるものなり。我らこの年に成り候えども、律義なる人とては、佐竹義宣より外には見たる事なしとの仰せに付、
※ 佐竹義宣(さたけよしのぶ)-安土桃山・江戸初期の武将。常陸国太田(茨城県常陸太田市)を拠点とした戦国大名佐竹義重の長男。天正十四年家督を継ぎ、豊臣政権下で五十四万5000石余を安堵される。関ケ原の戦で徳川側に加担しなかったため、出羽国久保田(秋田市)の地に転封。秋田藩二十万五千石余の基礎を築いた。

御伽の衆、何も得と合点仕らず候処に、永井右近、御前に居られ候が、義宣義を左様に御意遊ばされ候は如何様の子細を以っての思し召しに御座候や、と申し上げられ候えば、
※永井右近(ながいうこん)- 永井直勝(なおかつ)。戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、旗本、大名。上野小幡藩主、常陸笠間藩主、下総古河藩初代藩主。永井家宗家初代。

その方なども存ずるごとく、先年、大坂に於いて、石田治部と七人の大名どもと出入の義に付、治部大坂を立ち退く。我らを頼み、伏見へ参り候節、大坂よりの道中の儀は、義宣介抱してつれ上り、その後石田佐和山城へ蟄居の道中に於いて、大名ども云い合わせ、打ち果すべくとの風説に付、三河守に道中見送りを、我ら云い付けたるとの義を、義宣聞き及ばれ、治部を大名どもに討ち果させ候ては、その身一分相立たずと有りて、道中へ目付け、物聞きを付け置き、左右次第に馳せ出て、三河守と一つに成りて、治部を介抱致すべしと有りて、上下ともに軍立てにて待ち合わせ居られ候となれば、律儀人は実にこの仁に紛れなし。
※ 石田治部(いしだじぶ)- 石田三成(みつなり)。安土桃山時代の武将・大名。豊臣氏の家臣。豊臣政権の五奉行の一人。関ヶ原の戦いにおいて西軍側の総大将(主導者)。
※ 介抱(かいほう)- 助けてめんどうをみること。保護。後見。
※ 三河守(みかわのかみ)- 家康二男、結城秀康。
※ 一分(いちぶん)- 一身の面目。一人前の人間としての名誉。体面。


その後、関ヶ原一戦の砌も、何(いず)方へも附かずして、居られ候を以って、心底如在なきとは思いながらも、その通りには致し置き難きなり。我ら一味にて関ヶ原表へ出勢致させ、戦功もこれ有り候わば、先祖代々の領地の義なれば、水戸の義は相違え有るまじきに、残り多き事なり。心の律儀と云うは、誉めたる事にて、随分よき事なれども、律儀過ぎたるというに臨みては、一思案なくては叶わざる儀なり、と上意の由なり。
※ 如在なし(じょさいなし)- そつが無い。気がきいていて、抜かりがない。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

駿河土産 26 大坂冬陣事済、御悦参上の事、高麗橋見分の事

(さや隠元マヨ仕立炒飯)

昼、ご近所からたくさん頂いた、さやいんげんと残った御飯でチャーハンを作ろうと思った。茹でたさやいんげん、玉ねぎ、ハム、ちくわ、しょうが、早い話が冷蔵庫の中にたまたまあったものを細かく刻んで、オリーブオイルで炒め、ご飯を入れて、塩、醤油、マヨネーズで味を調え、固まった御飯を刻みながらしっかり炒めれば出来上がり。あとは彩りに紅しょうがをかける。卵の代わりに、卵が原料だからと、マヨネーズを使ってみたが、マヨネーズの酸味も感じられ、意外とすっきりと美味であった。

駿河土産の解読を続ける。

(33)大坂冬陣事済、御悦参上の事
一 大坂冬御陣、御扱いに成り、事済み候に付、御悦びとして、城中より織田有楽大野修理両人、茶臼山の御陣営へ最初に来たる。その以後七組の頭を初め、兼ねて御出入の面々は、御太刀、折紙をさし上げ、各(おのおの)御目見え申し上げる。
※ 扱い - 紛争・訴訟などの仲裁をすること。
※ 織田有楽(おだうらく)- 安土桃山・江戸初期の武将。信長の弟。名は長益。兄の死後、秀吉に仕え、大坂夏の陣の直前、京都に隠棲して風流を友とした。利休高弟七人の一。有楽流の祖とされる。織田有楽斎。
※ 大野修理 - 大野治長(おおのはるなが)。安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。豊臣氏の家臣。官位は従四位下修理大夫。大坂夏の陣では、秀頼とともに大坂城で自害した。
※ 折紙(おりがみ)- 奉書・鳥の子紙・檀紙などを横に二つに折ったもの。公式文書・進物用目録・鑑定書などに用いる。


中に織田雲生寺ばかりは粗相成る扇子弐本、台にのせ、雲生寺八方院土用坊と書く下げ札を付け、持参候となり。雲生寺夏陣の節は、親父有楽と一所に出られ候に付、組下の諸浪人どもの義は、大庭土佐と申す者支配仕り候となり。
※ 粗相(そそう)- 粗末なこと。粗略なこと。また、そのさま。
※ 大庭土佐(おおばとさ)- 安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。若江八人衆の一人。名は三左衛門。土佐守。


(34)高麗橋見分の事
一 大坂冬御陣の節、城方より下町筋を自焼致し候。則ち高麗橋をも焼き落したるとも申し、また左様にはこれ無くとも申す。評定一決仕らず候に付、小栗又一に見分致し参り候らへと仰せ付けられ候えば、罷り越し帰り候が、高麗橋筋はそのままにてこれ有り候と申し上げ候えば、御聞け遊ばされ、若し高麗橋をも焼き落し候においては、城中の奴原、悉く干し殺してくれんと思いつるに、との上意にて、何とて使い番の者は見届けざりしぞと仰せ有りければ、
※ 小栗又一 - 織豊から江戸時代前期の武将。家康に仕え、姉川の戦いで功をたてる。のち使番、大番頭、軍奉行をつとめる。つねに一番槍の功をたて、家康から又一の名をあたえられたという。
※ 干し殺す- 飢えさせて殺す。餓死させる。


又一何れも臆病者に候故、近くへ寄りて見候えば、鉄砲に当るべきかと存じ、近寄り見ざるに付いての事に候と申し上げる。又一、御前を立ち候跡にて、権現様御側衆へ上意遊ばされ候は、又一があの大口にては、同役どもと中の悪しきがもっともなりとて、御笑い遊ばされ候なり。
※ 大口(おおぐち)- おおげさなことをいうこと。偉そうにいうこと。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

駿河土産 25 出陣心懸けの事、政宗、義宣、景勝、陣中見舞の事

(庭のムラサキクンシラン)

駿河土産の解読を続ける。

(31)出陣心懸けの事
一 権現様上意に、武道を嗜(たしな)む侍は、戦場へ趣くからは、討ち死遂ぐべきとの心掛けなくては叶うべからず。白歯の者は歯の黄色にならぬ様にと心懸け、髪にも匂いをとむるがよしと有る。仰せを承り伝えられたる面々は、大坂両度の御陣の節、伽羅を少しずつも持参致され候えども、香炉これ無き故、五月七日にも髪に香を留どめ申されたる衆とては、御近習に一人もこれ無しとなり。

同じく上意に、小身の武士着料の具足を申し付け、威させ候時、胴、小手、その外を麁相に致させ候とも、甲(かぶと)には念を入れ候心得が能きと。子細は討ち死を遂げたる時、甲は首と一所に敵の手に渡るものなり。然るは、死後の為なりとの仰せにてこれ有り候となり。
※ 着料(ちゃくりょう)- 着用に供する物。着る物。衣服。
※ 威す(おどす)-鎧の札(さね)を糸または革でつづり合わせる。
※ 麁相(そそう)- 粗末なこと。粗略なこと。また、そのさま。


右の上意に付、上田主水入道宗古齋、物語り候は、侍は戦場に於いて討ち死をとげ、首に成りたる時の義を心懸けたるが能きなり。さるに依って、月代などの後ろ下りなるは、首に成りて後、詫び言づらに成りて見苦しき間、うしろ高に剃たるがよく、剃刀をも陣中へ持参いたし、明日は必ず一戦と知れたる前日には、月代を剃り、首を奇麗に致す心得、第一の由、宗古咄しの由なり。
※ 上田主水入道宗古齋 -上田重安(うえだしげやす)。織豊-江戸時代前期の武将、茶人。秀吉につかえ、関ケ原の戦いののち蜂須賀家政、ついで浅野幸長にまねかれる。号は宗箇,是斎。


(32)政宗、義宣、景勝、陣中見舞の事
一 大坂冬御陣の節、権現様住吉の御陣へ御機嫌伺いとして、伊達政宗、佐竹義宣上杉景勝、三人同道にて参られたる儀これ有り。
※ 佐竹義宣(さたけよしのぶ)- 安土桃山・江戸初期の武将。義重の長男。関ヶ原の戦いでは豊臣方に味方して出羽に減封。秋田藩二十万石の祖。
※ 上杉景勝(うえすぎかげかつ)- 安土桃山時代の武将。上杉謙信の養子。豊臣秀吉に仕え、会津若松百二十万石の領主、五大老の一人となった。関ヶ原の戦いで徳川家康に敗れ、出羽米沢三十万石に移封。


政宗は猩々緋の袖なし羽折に、白熊にて菊をとじ付け、朱鞘の脇差、白銀の打鮫、紅の腕ぬきなり。佐竹は常式の黒き羽織に、五本骨の扇を大きにして付けられたるまでなり。上杉は黒きとら織の羽織に、より金にて芦を縫ひ、白鷺を縫いに致し、赤き紐を付けて、着致され候となり。
※ 猩々緋(しょうじょうひ)- わずかに黒みを帯びた、あざやかな赤。
※ 白熊(はぐま)- 中国産のヤクの尾の白い毛。払子(ほっす)や、槍・旗などの飾りに用いる。
※ 打鮫(うちざめ)- 鮫皮のように粒を打ち出した、金・銀の薄板。刀剣の装飾に用いる。
※ 腕ぬき - 刀剣の柄頭や鍔につける革緒。手首に通し、手から離れないようにするためのもの。
※ 常式(じょうしき)- 平常。ふだん。常時。いつもどおり。
※ より金(撚り金)- 細く切った金箔を絹糸または綿糸に撚りつけたもの。金糸。


三人退出の跡にて、権現様仰せられ候は、景勝は律儀の人なるに、定て召仕う側の者の仕業にこそ、笑止なる事なり、との上意にて、御笑い遊ばされ候となり。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

駿河土産 24 家康、殉死を止むる事

(激しい雷雨の後の大代川)

大代川の工事も誘導路も撤去され、終了したようである。サッカーW杯も日本の敗退で興味のボルテージも一気に下がった。まだまだ、世界の壁は厚いとの感想である。

駿河土産の解読を続ける。

(30)家康、殉死を止むる事
松平薩摩守忠吉卿、尾州より江戸表へ参勤御逗留の内、御煩い出し、御病気御大切の由、諸医どもに申し候由上聞に達し、将軍様にも、薩摩守殿旅宅へ御成り遊ばされ候となり。
※ 松平薩摩守忠吉 - 江戸初期の武将。徳川家康の第四子で母は西郷局。東条松平家忠の養子となる。井伊直政の娘を娶り、関ケ原の戦いでは、舅の井伊直政と共に徳川隊の先鋒の大役を務めた。戦後は尾張清洲城を賜り、五十二万石を領して薩摩守と改めた。二十八歳で没す。
※ 大切(たいせつ)- 切迫するさま。緊急を要するさま。


然るに少々御快気に付、尾州へ御帰城あられ、養生然るべきとの儀にて、江戸表をば御発駕成られ、品川まで御出で候処、御病気差し重(おも)り、御養生御叶い成られず、御死去に付、増上寺に於いて御取り置きこれ有る節、御近習の侍、三人殉死を遂げ候由、権現様御聞けに達し候処に、その節、江戸御老中より差し留められずして、叶わざる義なり。

その上留めざるに於いては、上意を以って、急度御差し留め遊ばさるべき
儀なりとの仰せにて、以っての外、御機嫌悪しく、その節上意遊ばされ候は、この殉死と云う事は古来より有る事なれども、何の用にも立たざる義なり。それ程主人の義を大切に思うならば、弥(いよいよ)身を全うして、跡目の主人へも身命をなげうち、奉公致し、若し自然の義もこれ有る節、肝要の用に立て相果て申すべし、との心がけ有りてこそ、もっともの義なるを、何の用にもたゝぬ追腹(おいばら)を切って死ぬると云うは、犬死というものなり。畢竟は主人の空気(うつけ)ゆえに、左様の義成るぞと有る。

上意の趣、江戸表へも相聞こえ、これに依り、その後、越前中納言秀康卿、越前北之庄の城にて、死去あられ候段、江戸表へも相聞こえ、宿次を以って家中の侍どもの内に若し殉死を遂ぐへきと申す者これ有り候わば、堅く制禁すべき旨、越前家老中と有る奉書を成し下され候となり。
※ 越前中納言秀康 - 江戸初期の武将。徳川家康の次男。母は側室お万の方。羽柴秀吉の養子となり、のち下総の結城晴朝の養子となる。関ヶ原の戦いののち、松平姓に戻り、福井藩主として越前六十七万石を領した。

権現様には右上意の趣に思し召し入らせられ候に付、御在世の間、御厚恩に預り申されたる衆中、大身、小身へかけ数限りも御座なく候へども、駿府に於いて御他界遊ばされ候節、御供申さる人は一人も御座なく、台徳院様も右の上意を御守り遊ばされ候を以って、殉死の衆とては御座なく候となり。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

駿河土産 23 中山備前、水戸頼房をいさめる事(後)

(庭のデュランタ・タカラヅカ)

午後、久し振りに、まーくん、あっくん、えまちゃんの掛川の孫、三兄妹が来た。まーくん、あっくんが二人して幼稚園に行くようになって、来る回数がめっきり減っている。

駿河土産の解読を続ける。

御老中方、何れも御さし留め候えども、備前守承引なく帰宅の節、上屋敷へ立ち寄り候処に、頼房卿にも、今日備前守一人を御用として召させられ候段、御合点参らず候に付、御用相済み、備前守帰り候を御待ち御座候に付、早速召し出され候上にて、備前守御城にての次第を申し上げ、私義、公方様より何(いか)様の御科(とが)めに、仰せ付けらるべくも、計りがたく、先ず切腹と覚悟を相極め罷り在り候。この上ながら残念の儀、三ヶ条御座候。
※ 承引(しょういん)- 承知して引き受けること。承諾。

第一には、私才智御座なく候故、御前様御聞き納め遊ばされ、御行跡などを御改め遊ばさるごとくの御異見を申し叶え候儀を得仕らず候事。

二つには、御年若なる御前様に御座候えども、この備前守を御附け置きなられ候ては、御気遣いも御座なき儀と御安堵に思し召され候、権現様の御目がねを御相違になし奉り、今更申し訳けも御座なき仕合せに存じ奉り候。

三つには、とくより心附け申さざるにては御座なく候えども、彼是と見合わせ罷り在り候内に、延引仕る御不行跡の御相談相手と罷り成り候、不届きの奴原を成敗仕らずして、安穏にさし置き、私相果て候に於いては、いよいよ御行跡の障りに罷り成るべき候は、必定の事に候。
※ 奴原(やつばら)- 複数の人を卑しめていう語。やつら。

たとえ私儀切腹仕り、身命は終り候ても、魂はこの所に留り、御殿の内を離れ申すまじき間、願わくば、御行跡を御改め遊ばされ、御上の思し召しにも御叶い遊ばされ候ごとく、御座有りたき儀と存じ奉り候。私は今生の御暇乞(いとまごい)にて御座候えば、御盃を頂戴仰せ付けられ下され候え、と申し上げ、御小姓衆、御酒、御盃をと備前守申し候を、

頼房卿御聞きなられ、御納戸衆を御呼びあられ、日頃御用い成られたる、伊達拵えの御刀、脇指を、御衣類などまで、悉く取出し持参申し候様にとこれ有り、備前守見候所に於いて、御小姓衆へ残らず分け下され、その上にて、御脇差の御鍔元をくつろげられ、御小刀を以って御打ち成られ、向後の義は御行跡を御改め成られ候間、氣遣い仕るまじき旨、備前守へ仰せ聞けられ候となり。
※ くつろげる - かたくしまっているものなどをゆるやかにする。ゆるめる。

右備前守登城の節、御老中方へ、段々の存じ寄り申し達し、帰宅の由、上聞に達し候えば、公方様にも備前が左様の了簡ならば、水戸の行跡は直るにて有るべし。重畳の事なりとの上意にこれ有り候となり。
※ 重畳(ちょうじょう)- この上もなく満足なこと。大変喜ばしいこと。

右三人衆の儀を書き記し候事は、権現様御目がねを以って、御三家方の御後見として、御附人に仰せ付けられ候処に、御見立ての通り、三人ともに一器量ずつこれ有りたる衆中に候との証拠に、一ヶ条ずつ書き付け候なり。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

駿河土産 22 安藤帯刀、紀伊頼宜を叱る事、中山備前、水戸頼房をいさめる事(前)

(キュウリの初収穫)

駿河土産の解読を続ける。

(28)安藤帯刀、紀伊頼宜を叱る事
一 江戸表に於いて、ある時、尾張殿、紀伊国殿へ御見廻(みまい)の義これ有り、その節、頼宜卿には髪に御ゆい掛り御座候て、御出会いの儀、遅く候に付、義直卿、安藤帯刀へ仰せられ候は、別に用事とてもこれ無く候へども、この辺りを通り候に付、立ち寄り候。その方に逢い、御無事の由を聞き候上は、面談には及ばずと仰せられ御立ち成られ候を、今少し御待ち遊ばされ下され候様にと申し上げ、帯刀は頼宜卿の御側へ参り、尾張様には御待兼ね成られ候にや、御帰り成るべくと仰せられ候を、今少しと申し上げ候に付、御控え遊ばされ御座候。

只今御前様の御親方とては、尾張様ばかりにて御座候処に、あなた様などを御待たせ遊ばされ候様なる儀、御座有るものにて候や、と申し上げられ候えば、御心得成られ候とて、早々に御仕廻(しまい)あられ、御対顔相済み、尾張殿御帰り以後、頼宜卿には御髪を揃え候仁を御呼び出し、先程尾張殿御出の節、我らおそく出候とて、帯刀、殊の外叱りたる時、我など落涙せし体、定めて鏡に映りたるにて有るべし。
※ 親方(おやかた)- 兄。

その方は見候やと御尋ねに付、御意のごとく御落涙遊ばされ候。御顔色御映らせ候を見上げ申し候。もっとも尾張様の義とは申しながら、余りなる帯刀申し上げられ様に私式の者の心にも存じ候と申し上げ候えば、頼宜卿御聞き遊ばされ、その方など心には、定めて左様に推量すべきと思うに付いて尋ねたるぞ。先程、帯刀が我らへ云い聞けたるごとくの義を、誰これ有る、云う者とては外にはこれ無く、あの様なる事をも云い聞かせ兼ねまじき者と思し召され、我らへ御附け遊ばされ下されたる御心入れの程、有り難き仕合わせなりと、権現様の御事を思い出し、覚えず落涙せしと御申し聞けられ候となり。
※ 私式 - 私ごとき。


(29)中山備前、水戸頼房をいさめる事
>一 水戸頼房卿、御年若き頃、殊の外、男立てを成られ、かいらき鮫の掛りたる長か刀に、金鍔(つば)を御打ち、御衣服なども紅裏を御付け、その外、御不行跡なる儀どもこれ有り、江戸中上下の取沙汰に御逢い候に付、御附人の御家老、中山備前守、毎度色々御異見申し上げ候へども、御用いこれ無く候となり。

ある時、御老中方より備前守へ奉書を以って、御用の儀これ有り候間、明四つ時、登城候様にとこれ有るに付、備前守登城遊ばされ候処、御老中方申され候は、今日其元を召させられ候御用の品は、我々ども存ぜざる事に候。定めて後刻御前に於いて、御直の御用にてこれ有るべしとなり。

備前守申され候は、何れもに御存じなき御用の筋にて、私を御前に召させられ候ことこれ有るに付いては、我ら存じ当りたる義これ有り候。定めて水戸殿御行跡の儀を、御尋ね遊ばさるべしとの御事と奉察し奉り候。有体(ありてい)に申し上げ候えば、御主人の悪事を御訴え申すに当り候。また何事をも私は不存ぜず候と申し、或は悪しき義をも宜しき様に取りなし申し上げ候えば、御上を欺き奉り、後ろ闇らきと申す物にて候えば、私、御前へ罷り出候ての致し方、御座なく候に付、召させられ候との義に付、登城は仕り候えども、私は退出仕り候。御意に違(たが)い候私義に御座候えば、御機嫌損じ、御仕置きなどに仰せ付けられ候段は、覚悟仕り、罷り在り候となり。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

駿河土産 21 成瀬隼人を腰ぬけとののしる事

(畑のなすび成る、すでに一本収穫して頂いた。)

昨晩から恵みの雨。大代川にも水が戻った。水が切れたのは、工事のため、上流で水を止めていたと聞いた。とすれば、奥の調整ダムだったのだろう。

駿河土産の解読を続ける。

(27)成瀬隼人を腰ぬけとののしる事
一 大坂にて五月七日落城の節、城中の者どもと相見え、四、五百人ばかり、一所にかたまり居り候と、権現様茶臼山の上より御覧遊ばされ、幸いの事に候間、尾張殿、紀伊国殿へも御取り飼い遊ばさるべくとの上意にて、御両殿ともに早々御越し成られ候様にとの御事に候えども、少々御延引に付、御使い役衆を為召させられ、隼人の腰ぬけめに、右兵衛をはやくつれてうせおれといえ、との御口上を、取りも直さず、尾張衆何れも承り居る処にて、申し渡され候えば、隼人聞きも放さず、この隼人は終に腰をぬかしたる覚えばこれ無く候。左様に仰せられ候人こそ、武田信玄に御出合いあられ候節、腰をぬかしあられ候、と諸人の承るごとく、大音に申され候となり。
※ 取り飼う - 飼料を与える。ここでは相手が人であるから、「食料を与える」の意。
※ 隼人 -尾張藩、付け家老、成瀬隼人。
※ 右兵衛(うひょうえ) - 尾張藩主、徳川義直の十五、六才当時の官職、従四位右兵衛督。
※ つれてうせおれ -「失せる」は「来る」を卑しめていう語。連れて来やがれ。
※ 取りも直さず - そのまま。
※ 終に(ついに)-「終ぞ」と同じ。いまだかつて。
※ 武田信玄に御出合い - 三方ヶ原の戦いの敗北時を指す。
※ 大音(だいおん)- 大きな声。


御陣以後、隼人名古屋より駿府へ参上して、権現様御前へ罷り出申し上げられ候は、去る頃、大坂落城の日、義直公を茶臼山へ召し呼ばれ候節、少し御遅参候とて、御腹立ち遊ばされ、重ねて御使いを以って、隼人の腰ぬけめに早く御供仕り候様に、と仰せ下され候。

私儀はシラミ頭の節より、御心安く召し仕(つか)わられたる者の義に御座候えば、如何様に御口ぎたなく仰せられ候ても、その通りの事に御座候。御前様御口上の通りをそのままにて諸人承ると有る勘弁もなく、私へ申し聞け候ごとくなる者どもに、御使い番などと申す大切なる御役義を、仰せ付けられ指し置かれ候と有るは、然るべからず候。
※ 勘弁 - 物事のよしあしをよく考えること。

右兵衛様、今程御年若にも成られ御座候へば、尾張一家中にては、私儀を鑓柱の様に何れも存じ入り罷り在り候処に、隼人の腰ぬけめなどと有る御意を蒙り候ては、私義は重ねて口もきかれ申さず、諸人の存じ入りも違い候に付、その節恐れがましき御返答を申し上げ候間、定めて御聴けにも相達し申すべく候と、その段恐れ入り存じ奉り候、と申し上げられ候えば、権現様御聞け遊ばされ、それはその方が申す処、もっとも至極なりとの上意に御座候となり。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

駿河土産 20 今時の将の事、家康、御三家に家老職を付る事

(裏の畑のハッサクの枝に留まるムギワラトンボ)

午後、「古文書に親しむ」講座へ出席した、今年で7年目に入る。夕方のムサシの散歩では、大代川がとうとう干上がっているのを見た。梅雨時期にこんな大代川を見るのは珍しいことである。夜に入って久しぶりの雨になった。少しまとまった雨が欲しい所である。

駿河土産の解読を続ける。

(25)今時の将の事
一 権現様、ある時上意遊ばされ候は、今時人の頭をする者ども、軍法立てをして、床机に腰をかけ、采幣を以って人数をさし仕(つか)い、手をも汚さず、口の先の下知ばかりにて、軍(いくさ)に勝つるゝものと心得ては、大なる違いなり。一千の将たる者は、味方の諸人のぼんのくぼばかりを見て居て、合戦などに勝つるゝものにてなしと仰せられ候となり。
※ 采幣(さいはい)- 采配。紙の幣(しで)の一種。昔、戦場で大将が手に持ち、士卒を指揮するために振った道具。
※ ぼんのくぼ(盆の窪)- 後頭部から首すじにかけての中央のくぼんだ所。


(26)家康、御三家に家老職を付る事
一 権現様、駿府に御座遊ばされ候節、尾張殿、紀伊国殿、御両家へ御家老職の仁、一人づゝ御付けなさるべくとの思し召しにて、松平周防守永井右近、両人へ御内意これ有り候処に、右両人とも、たとえ御草履を取り候てなりとも、そのまま御旗本に御奉公申し上げたくとの願いに付、御免成られ候との取沙汰などもこれ有り候に付、その跡にては、人によりちと御上よりも仰せ付けられにくゝ、下にても御請け仕り難くこれ有るべきか、と諸人さゝやき合い候となり。
※ 松平周防守 - 松平康重。安土桃山時代から江戸時代前期の武将、大名。松井松平家第二代。
※ 永井右近 - 永井右近大夫直勝。戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、旗本、大名。上野小幡藩主、常陸笠間藩主、下総古河藩初代藩主。永井家宗家初代。


その折しも、ちと御持病なども御差し発り遊ばされ、御食事の御進みも御座なく、それ故、御鷹野にも成らさせられず候となり。時に安藤帯刀成瀬隼人正、両人打ち寄り、ひそかに相談致され候は、この間、大御所様には御両殿への御附け人の義を、殊の外、御苦労に思し召され候との御事に候。何をしても御奉公の事に候間、両人申し合わせ、御願い申し上ぐべくとの儀にて、私どもの様なる不調法者どもにても、苦しからず思し召され候わば、御意次第に、御両殿へ御奉公申し上ぐべきとこれ有り候えば、
※ 安藤帯刀(あんどうたてわき)- 安藤直次。織豊-江戸時代前期の武将。紀伊和歌山藩主になった頼宣の付家老として,遠江掛川藩主から紀伊田辺城主となった。
※ 成瀬隼人正(なるせはやとのかみ)- 成瀬正成。戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。犬山藩初代藩主で、成瀬氏は代々、尾張藩の付家老として仕えた。


権現様、殊の外御機嫌にて、両人の志、御満悦成られ、御両殿様へは御附け置き成られ候えども、只今までの通り、公儀の御用などをも、相替わらず仰せ付けらるべく候間、左様に相心得罷り在るべき旨、仰せ渡され、尾張殿へ成瀬隼人正、紀伊殿へ安藤帯刀を御附け遊ばされ候。その後、水戸殿へ中山備前守を御付け遊ばされ候となり。
※ 中山備前守 - 中山信吉(なかやまのぶよし)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。水戸藩附家老。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 前ページ