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決めたルールを守れたか

(典型的な讃岐の風景)

春編に続いて秋編でもルールを決めて出発した。それは次の6項目である。
 1.全ルートを徒歩にて、歩き遍路で行く。
 2.お遍路としてのしきたりは極力守る。
 3.すべてに感謝し、腹を立てないこと。
 4.物事にこだわらないで、成り行きに任せる自然体で居よう。
 5.毎日の去来する思いをブログに書く。
 6.毎日一人、自分の身辺で亡くなった人を思い浮かべる。

1の歩き遍路は徹底できたと思う。高知駅に着いてから八十八番大窪寺でコミュニティバスに乗るまで、車の付いた物には一切乗ることがなかった。宿もほとんどルート上に予約し、歩いて宿まで達した。

2のお遍路のしきたりはほぼ守れた。ただし、時々手洗いを忘れてしまったり、輪袈裟や数珠を出し忘れたり、橋の上で金剛杖を突いてしまったり、無意識な間違いはあった。

3の感謝や腹を立てないことは、出来る限りありがとうの言葉を出してきたし、腹の立つこともほとんどなかった。腹の立ちそうなときは、観点を変えるように心がけ、概ね成功した。例えば朝食は7時半からと最初にことわられて、これは早く出発するチャンスだと考え、インスタントラーメンを買っておき、早朝に作って食べて、6時半には歩き始めた。コインランドリーが400円と聞いて、今日は洗濯を止めてゆっくりしようと思い直した。幸い今日は平坦道で汗を掻いていないから、一日着替えをしなくても問題ないと考えた。そんな場合は本当に数えるほどで、概ね立腹するような場面には出くわさなかった。

4の成り行きまかせの自然体が自分にはけっこう難しかった。どうしても自分で間違いなく管理しようとしてしまう。それで、付則として地元の人のアドバイスには極力従おうというルールを決めた。歩いていると色々な人が良かれと思ってアドバイスをしてくれる。出来るだけ旧遍路道を通ろうと考えているのに、新しく出来た近道を教える人がけっこうあった。トンネルを行った方が近いという人もあった。意に染まなくても出来るだけ従った。そして地元の人のアドバイスでほとんど問題なく進めた。

5のブログは毎日書き込んだ。眠さを我慢して書いた。そのとき頭に去来することのみ書いたので、内容にはあまり自信がない。

6の亡くなった人のことを思い浮かべるということは、やってみると無理だと分かった。毎日歩くこと、ルートを見誤らないこと、食べ物のこと、足の具合、今夜の泊まりなど、ごくごく生きるための単純なことで頭が一杯で、それ以外のことは考える余裕が無かった。2回書いて断念した。

以上、総括すると8割はルールを守って歩けたと思う。
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四国の山河や海に感謝

(トイレ付の小さな休憩所に助けられる)

昨日まで、毎日30kmも歩いていたことが信じられないような平穏な朝を迎えた。もう9時をまわっている。お遍路の間なら10km近く歩いている時間である。夜は栗の入った赤飯で完歩を祝ってくれた。家では「結願」ではなく「完歩」ある。お寺の話はあえて書かずに来たから、自分の遍路に宗教色が見えないのかもしれない。

とにかく一ヶ月の間、何事もなく無事に結願を迎えられたのは多くの方やもののお陰である。まずは歩く場所を提供してくれた四国の山河や海に感謝である。途中からブログ掲載の写真はほとんどが四国の美しい風景になっていた。「おはようございます」「こんにちは」と挨拶すれば、「ごくろうさまです」「がんばって」と励まして下さった、遍路道ですれ違った市居の人々に感謝である。励ましの一言で進める一歩一歩にどれだけ力を与えられたことか。

多くの接待所で心からの接待をしていただいた方。路上でみかんやお菓子をお接待だと手渡して下さった多くの方。歩き遍路の身になって一日の疲れを少しでも取るべく心を尽くし、朝には新たな気持で一日のお遍路に送り出して頂いた宿の女将さんたち。皆さんのお接待の気持にどれだけ励まされたことか。大きな感謝のメッセージを送りたい。

休憩所やお寺や宿で出会った多くの歩き遍路の皆さん。御互いに雰囲気に同じ志を感じて、すぐに旧知の仲のように情報交換や遍路に出た動機、身の上話まで語り合っていた。一度出会って二度三度と顔を合わす方もおれば、一度だけで二度と出会うことの無い人も多かった。すでに先にお遍路を終えている方、今もまだどの辺りであろうか、お遍路中の人たちも少なくない。歩き遍路の皆さんの存在が一人歩きのお遍路でどれだけ励みになったことか。感謝、感謝である。

途中で何人かのお遍路さんや宿の方に自分のブログのことを話した。以前から見ていただいている人々に加えて、さらに多くの方に読まれているという気持が、お遍路とその記録を記すためにどれだけ励みになったことであろう。中でも、書き込みを頂いた、「nobusan」「Sida」「sora to umi」「saida」「あきさん」「豊文堂の主人」「風と波」「くろ」「O氏」「casumi」「神戸の人」の皆さん、書き込みを頂きながら遍路中のため十分にご返事が書けなくて失礼しました。書き込みは必ず読ませていただいて、遍路を続けるパワーになりました。有難うございました。

白衣、金剛杖、笠にはどれだけ助けられたことであろう。その3点セットを見るだけで、四国の人々はすべてを理解し配慮をしていただける。足に力が無くなって来た午後、金剛杖がどれだけ歩く力を補ってくれたか。笠は雨対策だけでなく、日除け、風除けにもなる。それらのものにも感謝したい。

同行二人と書きながら、お大師さんを感じて歩いたかといえば、ほとんどは念頭になかった。しかし一ヶ月間大きなトラブルもなく、ほぼ予定通りに結願を迎えられたのはやはりお大師さんのお陰と言うべきなのだろう。
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感動の結願!ながらたんたんと

(結願の大窪寺)

お遍路28日目、11月28日(土)歩数24,247歩-距離12.3km。

今日のコースは、あづまや旅館-5.5km-おへんろ交流サロン-5.6km-女体山(標高763m)-1.2km-第88番大窪寺(結願)、のコースである。

結願の朝、宿のおばちゃんに見送られて出発する。最後の日になって言うのは何だが、足の疲労はかなり厳しいところまで来ていて、3、4日前の少々の登りは苦としない自信がややぐら付いていた。女体山763メートルを回避して車道を行く方法もある。時間も足へのダメージもはるかに少ない。

前山ダムのダム湖のほとりのおへんろ交流サロンまで、5.5km、旧遍路道にも入ったが、すべて舗装道路であった。交流サロンで歩き遍路だけに頂ける「遍路大使任命書」を貰った。第1144号となっている。これが今まで発行した総数なのだろうか。大窪寺までのコースを詳しく教えていただいた。もちろん女体山越えのコースである。太郎兵衛館まで林道を行ったほうが楽だと、横から指摘してくれた人もいた。そう言われるとかえって最も厳しい遍路道を選びたがる、そんな心理を知っていてかどうか。

それで、もっとも厳しい道を選んだ。その道は太郎兵衛館まで0.8kmの標識の後、急速な登りがあり、峠まで出たと思うと、林道との合流地点まで一気に下った。この登り下りが余分なことは明らかだった。林道を行けばすんなりと太郎兵衛館に来れたのであろう。地元の人の意見に素直に従うべきであった。

そこからの登りはよく整備されてそれほど厳しい登りではなかった。最後に岩場の登りがあったが、宿のおばさんがそこだけは金剛杖をどこかに仕舞って登るように言っていた。どこへ仕舞うのか言わないところがいい。如意棒では無いから仕舞うところもない。幸い突いたままでも登ることは出来た。

山頂からの景色は素晴らしい。高松方面を市街地はもとより瀬戸内海まで一望に見渡せる。宿のおばちゃんも遍路サロンでも、期待を持たせる話がいっぱいであった。しかし、山頂は霧に覆われて視界0、早い話が雲の中。最後にお大師さんはちょっと細工されたようだ。これでは、その景色を見るために、ここへ再び登って来なければならなくなった。

女体山山頂で一休みしていると、昨日、あちこちで会った埼玉から来ていた青年が追いついて来た。昨日「お父さん、足が達者ですね」と声を掛けられてびっくりした。そんな呼ばれ方をされたことは初めてであったから。「絶景が見えないねぇ」という話から、しばらく話した。昨日は交流サロンの外の休憩所で野宿をしたという。寒くなって先に出発する段になって、これも何かのご縁だからと、最後の一枚になった名刺を渡し、名刺に記載したブログ「かさぶた日録」のことを話した。この肩書きのない名刺、10数枚持っていたがすべて配ってしまった。

ルンルンの一下りで大窪寺に着いた。山門で写真を撮ってもらい、大窪寺を打った後、結願の証明書(2000円)を頂いた。終ったという安堵感以外に、結願したという感動は何も無かった。そこでばったり愛知から来ている男性に逢った。かの男性とは帰りのコミニュティーバスでも一緒に長尾へ下りた。彼は高速バスで高野山へ行くと話していた。

琴電、長尾駅に向かっていると、あと50mのところで駅員が呼んでいる。電車が出るらしい。駆け足で改札を抜けて乗り込むとすぐに発車した。お四国に最後の好意をいただいたと思った。一部始終を見ていた高校生に色々聞かれた。テニス部の生徒で今度靜岡に試合に行く。30kmは練習のランニングで走っている。もっとも荷物は無しであるが。いろんなことを聞きたがったが、電車が込んできたので話を止めた。JRに乗り換えて四国とはしばしの別れとした。
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結願直前、歩き遍路のご夫婦に出会う


(夜明けの屋島)


(屋島から展望する八栗山)

お遍路27日目、11月27日(金)歩数47,949歩-距離26.5km。

今日のコースは、ビジネスホテルサンシャイン高松-7.6km-第84番屋島寺(標高284m)-5.4km-第85番八栗寺(標高230m)-6.5km-第86番志度寺-7km-第87番長尾寺-あづまや旅館、のコースである。

結願を明日に備えて、今日のコースの屋島寺と八栗寺はそれぞれ200m以上の山登りである。ビジネスホテルの朝食は断って、カップラーメンと鉄火巻きを買い、朝食を部屋で済ませて、6時40分にビジネスホテルを出る。屋島は台形の特異な山である。標高280mといえども、どこから登っても急な坂を上ることになる。高松の街の方からはジグザグに登る道が整備されて、朝の一汗をかいた散歩の人たちが三々五々降りてくる。向こうは下りで荷物が無いから、「あと、20分、がんばって」などと声を掛けてくる。大汗をかいて山頂の屋島寺に着いた。そこで先着のご夫婦に初めて出会った。

屋島からの下山は東側へ急降下の道で、国分寺のえびすや旅館で同宿だった逆打ちの男性が、一段の段が大男の股に合わせたように高くて登るのに往生したと話していた道である。きつい段であったが、少し表現がオーバーだと思った。きつい下りだけに距離も短かった。途中にお遍路さん休憩所があって、美味しそうなみかんがあった。一つ一つが磨いてあって輝いている。二つ目をいただいていると、ご夫婦が下ってきた。旦那さんの方にみかんが美味しそうですよと声を掛けたが、奥さんが先に下って行ったので、その方を指し示して下って行かれた。屋島から橋を渡って八栗の町を横切っていく間に、ご夫婦とは何度か後先になった。

八栗寺への登りに入って、ケーブルカー駅の先にお遍路さん休憩所「仁庵」があった。トイレを借りたくて寄ったら、お茶とお菓子の接待をいただいた。熟年夫婦の奥さんの趣味で、接待所を新築して3年前からはじめたという。遅い出勤だといわれながら、髭の旦那もやってきてお話をした。お茶を3杯もお変わりして、かのご夫婦も立ち寄ったので失礼した。趣味だとはいえ、ここまでやってしまうのは何ともすごい。旦那も奥さんの趣味だからといいながら付き合っている大らかさもすごい。掛川のS氏はここでも二日前に名前を残していた。この後、今夜の宿泊のあづまや旅館にもS氏の泊まった形跡があった。


(380円の讃岐うどん)

志度寺の途中で、ようやく讃岐うどんを食べた、製麺所で出しているうどん屋で、二玉分のざるうどんが380円だった。讃岐うどんの特徴がようやく少し理解できた気がした。志度寺を打ち終えて出ようとしたところで、再びかのご夫婦とあった。少し言葉を交わして、今夜の泊まりを聞くとあづまや旅館だという。同じ宿だと話して分かれた。

宿の夕食にかのご夫婦、Yさん夫婦と少し話した。一番から初めて今日で54日目、出発したのは10月の初めだったという。遍路道にこだわって歩いて、とんでもない山道に迷い込んだこともあった。荷物が二人とも10何キロかあって、重すぎるのだろうという。出会った人たちは皆先へ行ってしまった。靴は登山靴、荷物は必要品だけで減らせられない。少し思い込みが強そうに思われるが、そういうお遍路もそれはそれでよいかもしれない。どんなに日にちがかかろうとも、心配する奥さんも一緒なのだから、気にすることは何も無い。

明日はいよいよ結願。宿のお上さんが「明日は女体山を越えていく道になります」とそれ以外に道は無いようにいう。そして詳しい地図を戴いた。山名は艶めかしいが、標高445mの大窪寺に登るに、標高774mの山を越えて行かねばならない。景色がすばらしいが、岩登りで金剛杖が邪魔になるところもあるとおどかす。大丈夫、落ちて怪我をした人はあるけれど、別の世界に行った人はいないから。
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遍路最後の山中に半日居る

(夜が明ける、国分寺町の朝)

お遍路26日目、11月26日(木)歩数53,535歩-距離30.7km。

今日のコースは、えびすや旅館-6.4km-第81番白峯寺(標高280m)-6.2km-第82番根香寺(標高365m)-11.9km-第83番一宮寺-6.2km-ビジネスホテルサンシャイン高松、のコースである。

朝、6時の朝食に、5時45分に朝食のコールがあった。早く出かけて距離を稼げという、女将さんのメッセージである。6時20分には女将さんに背中を押されるように宿を出た。さっそく背後の山に標高380mまで登り一汗かく。今まで登った山からすれば遍路道が優しく造ってある。

そして、その高さの山の中をいくつもアップダウンを繰り返しながら10km以上、半日巡って白峯寺と根香寺を打った。。最高標高は440m、最低標高は280mである。遍路道は巾はゆったりとして平坦な部分は一昨日の雨でぬかるんでいて歩きにくいことこの上ない。一本、車の道も通っていて、それを行けば楽だったことを後で知った。昨日の逆打ちの男性がその道を勧めたから行く気になったのであった。

根香寺から下山した鬼無という集落は盆栽を業としている農家が多く、外国人の団体さんが盆栽を見に来ていて、誰かが気付いたのであろう、「お遍路さん!」と言ったのかどうか、。道路に出て来てカメラやビデオを向けだした。そっけなく通り過ぎるのも国際親善に悪いと思い、少し立ち止まってOKの手が挙がるまで、カメラの被写体になってやる。

下山したらうどん屋があるという女将さんの言葉に探しながら歩いたが、見逃してしまった。一宮寺のそばにうどん屋があると案内書にあったが、一宮寺を打ったあと行ってみたが、どこかへ移転すると標示されていた。

一宮寺を打ち終えて、宿はそこから6.2kmの市街地のビジネスホテルに予約を入れた。明日の歩く距離がそれで27kmほどに減る。今日はうどんには縁がないと諦めて、コンビニでパンと牛乳を買って食べながら歩いた。普通なら格好が悪いと思うことが、お遍路の扮装をすると出来てしまう。これも一種の変身であり、かくれみのである。

文字通り山野を巡って、一日30km歩くことを続けてきた。江戸時代にはどこへ行くにも足で歩くしかなく、まさに歩くことが旅であった。西行も芭蕉も、宮本武蔵も机龍之介も皆んな諸国を巡った。旅芸人や虚無僧や無宿人、伊勢講の人々など、街道には多くの歩く旅をする人たちがいた。歩き遍路をやってみて、一日30kmを歩き続けることがどういうことか、身を持って知った。これからは時代小説でも水戸黄門のテレビでも旅をする人を見る目が変ったと思う。どう変ったのか、おいおい書き込むときもあるだろう。

きょうの頑張りで、明日27km、明後日15kmでお昼頃には八十八番大窪寺に到着できる見込みが付いた。

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五ヶ寺を打ち、第80番に達する

(丸亀市から見る讃岐富士、多分)

お遍路25日目、11月25日(水)歩数44,700歩-距離27.5km。

今日のコースは、山本屋本館-3.7km-第76番金倉寺-3.9km-第77番道隆寺-7.2km-第78番郷照寺-5.9km-第79番高照院天皇寺-6.6km-第80番国分寺-0.2km-えびすや旅館、のコースである。

昨夜の雨も出発時間には止んだ。午後は晴れて暖かくなった。丸亀市の街中で、このところ放せなかったジャンバーを脱いだ。

今日のお寺は3kmから7kmというちょうど良い間隔にあって、ほとんど平地のこともあり、大変歩きやすいはずであった。宿で一緒だった区切り打ちで前日から歩き始めたという男性が一足先を行く。お寺に着くと入れ替わりに出かけるというペースが続いた。金倉寺、道隆寺、郷照寺と打って来た。

郷照寺の納経所で紹介してもらった宇多津のうどん屋の中で、お遍路の道沿いにあった長楽といううどん屋に入った。製麺所がうどんをゆでて食べさせるところで、なるほどこれが讃岐うどんの食べさせ方かと思った。注文は大か小か量を聞かれるだけで、どんぶりにゆでた麺が入れられてくる。あとは客が好きなように刻みネギ、卵、掻き揚げ、てんぷらなどをトッピングして汁は好みで熱いものか冷たいもの、頼めば生醤油をかけてもらって食べることも出来る。宿の女将さんは家庭で醤油だけで食べることもあると話していた。一日うどんを食べないと、次の日には久しぶりだと話すほどうどんを食べている。

高照院天皇寺の直前に、「八十場の水」という番外霊場があり、この季節にトコロテンを商っていた。とにかく歩き詰めの足を休ませたくて立ち寄り、黒ミツのかかったトコロテンを食べた。熱くなった身体には美味かった。次の札所まで5分と聞いて歩き始めたところに、先に行っていたはずの区切り打ちの男性が追いついてきた。うどんを2度も食べた。今、そこでコーヒーを飲んできたという。うどんの一度はお接待だったという。

自分に続いてかの男性も神社に入った。白峰神社はかつてはその札所と一体だったのだろう。神社に参拝している男性を後に、左側の天皇寺に入る。納経所前にザックを降ろし、先にお参りしてくると、納経所の女性に断り、本堂と大師堂に向うと、何と神社の参道を横切った反対側にあった。打ち終えたが、かの男性の姿が見えない。どうしたのだろうと疑問に思いながら、国分寺への遍路道をかなり進んだところ、向こうからかの男性がやってきた。職場から電話があったりして気を取られて、天皇寺を素通りしてしまった。途中で気付いて引返すところだという。居なくなった理由が判明した。ずるをして電車で追いつくと話す。

今夜の宿、国分寺前のえびすや旅館には4時に着いた。荷を置いて国分寺の参拝を終え、風呂に入っているところへ、かの男性はやってきた。今夜の泊まりは4人、他に浜松の若い女性、姫路の逆打ちの男性が同宿だった。姫路の男性は67歳、今回4回目のお遍路で、ほとんど晩秋から冬に行っていると話す。かなりの健脚のようだ。一時期、前後になって動いていた掛川のSさんは、雲辺寺の手前の民宿岡田で自分より二日前に泊まったことを宿帳で確認したが、えびすや旅館にも二日前に泊まっていることが判った。逆打ちの男性が途中でそれらしい男性と会って話したというが、明日には結願になるようで、一番の霊山寺へ戻ると話していたと聞いた。

数少ない歩き遍路の中に、色々な情報が驚くほど縦横に流れている。つかの間のお遍路の小さな社会が出来ては消え、また出来る。不思議な世界である。歩き遍路相互、宿、納経所、そしてたくさん出版されている遍路記録などがその社会のコミニュケーションの手段になる。こんなブログもそんな一手段になるのだろう。
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善通寺に向って六ヶ寺を打つ

(墨絵のような景色-本山寺五重塔遠望)

お遍路24日目、11月24日(火)歩数44,723歩-距離24km。

今日のコースは、若松屋別館-4.5km-第70番本山寺-11.3km-第71番弥谷寺-3.1km-第72番曼荼羅寺-0.6km-第73番出釈迦寺-2.8km-第74番甲山寺-1.6km-第75番善通寺-0.1km-山本屋本館、のコースである。

今日は観音寺のそばの旅館を出発して、6つの札所を一気に打った。

朝一番に、財田川沿いに4km歩いて本山寺を打った。途中行く手の景色が背景の山と手前の里の風景の間に低い朝もやがかかって、里の風景がシルエットに見え、墨絵の風景を見るようであった。その中に本山寺の五重塔が最上層をみせて、風景にアクセントをつけていた。宿の女将さんが川沿いの道は景色が最高だと話していたが、この風景を差して言ったのではあるまい。

本山寺では、民宿岡田で同宿だった千葉のKさんと出会った。昨日の話ではじぶんよりも足を伸ばして、本山寺の門前に宿を取ると話していた。聞けば着いたのが5時ぎりぎりになって、お参りは今朝にしたという。次の弥谷寺まで11キロあるから、一駅ほど鉄道に乗って稼ごうと思うと話して、先へ出発して行った。

国道11号線を4kmほど歩いて、旧街道に入った。旧町名で高瀬町に入ると貯水池だらけであった。右や左に次々と池が現われる。この池とお椀を伏せたような山、これこそ讃岐の風景である。池がたくさんありすぎて、田圃が片隅で小さくなっているように見えた。空はまだ明るい雲に覆われて、雨はしばらくは大丈夫のようであった。

弥谷寺は本堂に至るまでに階段をいくつ登っただろう。けっこう山の上のほうにあった。ここでも千葉のKさんに出会った。電車を下りてから迷って時間をロスしてしまったという。結局、このあとの行く先々のお寺でKさんと顔を合わせた。

甲山寺ではKさんは宿も自分と同じ善通寺門前の山本屋本館を予約した。Kさんは甲山寺を先に出たが、間違えて戻ってくる間に、自分が一足先に善通寺に着いた。ザックを宿に預けて善通寺を打つ。雨が降り出してきたが本降りにはならずにお参りが出来た。

Kさんは荷物を預けて、一駅先の金比羅さんに行くといって出かけた。宿の女将は、今から行っても暗くなるからと、よっぼど止めさせようと思ったらしかったが、石段が700段あるというに留めた。Kさんは飄々としながら思ったことをどんどんやってしまう不思議な人である。7時近くに戻ってきて、暗くなってさすがに奥の院へは行けなかったと話していた。

夕食時にあと何日で結願になるかという話題で、宿の女将さんは3日で終わるという。それだと27日に結願になる。2日早くなる計算だ。あとお寺の数で13ヶ寺。もう雨の降る日はなさそうであった。自分としては、今のところ28日のお昼頃に88番大窪寺に到着の腹積もりである。残すところあと4日である。
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第三ラウンド、雲辺寺越え香川県へ

(雲辺寺から見えた雲海)

お遍路23日目、11月23日(月)歩数47,696歩-距離24km。

今日のコースは、民宿岡田-5km-第66番雲辺寺(標高910m)-9.4km-第67番大興寺-8.7km-第68番神恵院-第69番観音寺-0.9km-若松屋別館、のコースである。

民宿岡田のことはまた別に書くと思う。今朝は6時半に岡田を出発した。外は霧、岡田の主人はこの霧は明るくなれば晴れるよという。天気予報では快晴である。

いきなり厳しい登りである。身体が覚めやらない時間にひとしおつらい。しかしこれに耐えなければ涅槃の道場、香川県に入れない。尾根に出るまでの辛抱である。疲れの限界にある足が悲鳴を上げている。尾根に出るまで1時間半ほどかかった。尾根の車の道も傾斜がある。2km行く間に250m高度を稼ぐのだから。尾根に登ったところで、同宿だった唯一50代の男性が追いついてきた。以後、彼とはお寺に着く度に会い、彼は大喜多うどんで時間調整して高速バスで同県の自宅へ帰って行った。

雲辺寺には何と2時間半近く掛かった。宿の主人が2時間半かかれば誰でも行けると話した、その時間ぎりぎりだった。止まるとそれまでポトポト汗が落ちて眼鏡まで見づらくするほどだった汗が急に冷えて寒くなってきた。ゆっくり休めずに下山せざるを得なかった。標高近くの高度をこっきり下る下山路がまたつらかった。ひざががくがくして、おっかなびっくりで、いつものペースでは下山出来なかった。下山してから大興寺までが4km以上あり、休憩所がなくて休むことも出来ずに重い足を進めた。お昼になったので公民館前の石仏が集められたところで、宿お接待のおむすびをいただいた。

大興寺をゆっくり打っている間に、足が復活した。このあと観音寺への8.7kmは野原を歩いて行くようで楽しい歩きだった。途中、宿の主人お勧めの大喜多うどんでうどんをいただいて、さらに元気良く観音寺に向った。観音寺に近づいて道を間違えてしまった。昨夜、岡田の主人が間違えないようにくれた地図中に、橋をわたって右方向へ行ったりする人がいると注意書きがあった。まさにその人になったようだ。観音寺への看板の距離が1.7kmから2.2kmに増えていて気がついた。聞く人もいないが多分こちらだと、左へ折れて元へ戻った。

観音寺は、第68番神恵院と第69番観音寺が同じ境内にあって納経所でも一緒に記帳してくれる。こんな札所はここだけである。少し戸惑ったが、そのうち仕組みが判った。

今日はお接待が久しぶりに多かった。宿で山の中で食事場所が無いからとおにぎりのお接待があった。雲辺寺から下山したところで収穫中の農家からみかんを二つ、うどん屋では歩き遍路さんへとみかんを一つ、さらに観音寺への途中で若い女性が「お遍路さん!」と追いかけてきて、お饅頭を二ついただいた。いよいよ弘法大師のお膝元の讃岐である。
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第二ラウンド、30km踏破

(県境の境目トンネル-抜けた先は徳島県)

お遍路22日目、11月22日(日)歩数50,633歩-距離30km。

今日のコースは、松屋旅館-16.9km-第65番三角寺(標高480m)-13.1km-民宿岡田、のコースである。

今日も前半は国道11号線の旧街道をたどっていく。国道11号線を横切ることはあっても、国道を歩くところはなかった。出掛けに宿の女将さんが三角寺までのコースを教えてくれた。昼食が買えるコンビニは一ヶ所しかないから、見落とさないこと。これは役に立った。四国中央市三島(伊予三島)の町では、地図のコースは標識も取れている所もあって判り難いから、広い道をまっすぐに進んで、発電所の鉄塔を目指して行けばいいという。鉄塔を目指せとは随分大雑把な説明で、今まで標識を頼りにして間違うことはなかったから、標識を探して行くことにした。結果、けっこうしっかりあり、地元の人も教えてくれて間違いなく行けた。

余り気にしていなかったが、標高480mはけっこうな高さの山である。登り口の休憩舎で少し休んで、車の道を行く。大きく回りこんで一向に高度を稼がない。しかし山道に入ってからはしっかりと登った。車道に出ると程なく三角寺であった。

朝早く旧街道を歩いているとき、表に座っていたおばあちゃんが、「早いねぇ、今日最初のお遍路さんだよ」と話していた。歩き遍路の人には下りも通して、一人も会わなかった。

三角寺から車道をくねくねと下って行く。傾斜が足を進めるにちょうどいいあんばいで、スピードが上がるが、長く続けると足にダメージが来そうでセーブした。番外の椿堂でトイレを借りている時にポツリと来た。合羽を着て国道192号線を約2時間、雨に打たれながら歩いた。境目トンネルを抜けると愛媛県とお別れであった。出たところが香川県かと思いきや、徳島県三好市(旧池田町)であった。香川県には明日雲辺寺を越えて入ることになる。今夜の宿の民宿岡田は徳島県である。

今日の午後雨が降って明日の快晴が約束された。明日は小春日和であったかいらしい。雲辺寺を越すには最良の日である。もう残りに厳しいところはない。お寺の間も何十キロもかかることはないし、宿もたくさんあって困ることはない。そして、そろそろゴールが見えてきた。ざっとシミュレーションしてみると、結願は11月29日になりそうである。頑張ればもう一日くらい縮まるかもしれないが、その程度である。いずれにしてもあと一週間。今まで歩くのに懸命で、周りをゆっくり見る余裕がなかった。気付いてみれば、いま紅葉の真っ盛りになっている。涅槃の道場の香川県での一週間、少し余裕を持って楽しんで歩きたいと思う。
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第一ラウンド、33km踏破

(朝早く旅館を出る)

お遍路21日目、11月21日(土)歩数52,897歩-距離32.9km。

今日のコースは、ビジネス旅館小松-4.6km-第64番前神寺-28.3km-松屋旅館、のコースである。

明るくなりかけの午前6時半には歩き始めた。今日一日、国道11号に沿った旧街道を行くのがお遍路道である。朝は疲れが極限にある足もしばし軽快である。1時間足らずで前神寺に着いた。

小松旅館宿泊の人々の動向を記しておこう。朝食時の話で、若い女性は第一番を出発してから34日目になるという。ずっと一人で歩いてきたというからすごい。今日は宿に荷を置いて、自分たちが下山してきた道をピストンで横峰寺へ登ると話す。話を聞くに、もう気持は結願後の高野山へ思いがとんでいる。自分はこれしかないと、正しい順番に回ってきたが、回り方は色々で、必ずしも順番に打たなくても良いもののようだ。髭の爺さんも横峰山の近くで下山時にすれ違ったのを思い出した。

八王子の男性は、昨夕に自分は打って来た63番を、今朝済ませて、64番で追いついてきた。その後自分は先へ行ってしまったので、どこまで歩いたのだろう。とても明後日の雲辺寺は無理だと話していたから、手前で宿を決めたのかも知れない。自転車の人は64番で追いついてきて、先に挨拶して進んで行った。今日、第65番の三角寺は打って、その先どこまで行ったのだろう。とにかくも、64番前神寺を出てからは、お遍路さんに誰も会わない孤独な遍路になった。

歩きながら考えが色々と巡る。明日、三角寺(標高480m)を過ぎて、民宿岡田へは、土居の松屋旅館からでは30kmあって、今日よりも大変になると感じていた。しかも明日の午後は降水確率70%で、雨は覚悟しなければならない。何とかあと3kmでも5kmでも先へ進みたいと思い、今夜の宿も予約していなかった。

旧街道が一時国道11号線に合流するところがあり、後ろから来たおじさんが、「三角寺は遠いよ」と声を掛けてきた。「国道をまっすぐ行くほうがかなり近い」と、誘惑するような言葉を残して行った。国道の方が早いだろうことは判っていたが、この言葉に気持が崩れた。地元の言葉には従おうという決め事にも合致する。

西条市から新居浜市に入った。このまま国道を進んでうどんでも食べ、頑張って一歩でも先へ歩を進めておこう。しかし、うどん屋はどこもまだ準備中だった。コンビにでパンと牛乳を買って食べながら歩いた。5km足を伸ばせばユースホステルがあるが、そこまで行く自信はなかった。2.5km先の宿なら行けそうに思い、道端にザックを下ろし、電話をしてみたが、宿泊はやめたとの話だった。仕方なく、最初の思い通りに松屋旅館に予約を入れた。

新居浜の街中で旧街道に戻って歩いた。あと14km歩けばいいとなった途端に、足が動かなくなった。足が重くて象の足になったようである。多分に気持の問題である。あと何キロ歩けば歩みを終える。風呂に入って気持いいだろうなどと、足をけしかけた。そのうち足が復活した。よくも悪くも気持一つでどうにでもなるのが人間の身体だというのが、お遍路の結果得られた教訓である。


(皇帝ひまわり)

木のように大きくなるダリアは道中でいくつも見たが、宿にあとわずかのところで、木のように大きくなって咲いているひまわりを見た。皇帝ひまわりというと教えてもらった。
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