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島田市の神社 2 竹下の大井神社

(竹下大井神社)

島田市の神社を巡る散歩の2回目は、11月24日の午後出掛けた。快晴で風がない散歩日和であった。目標は竹下の大井神社である。竹下の集落の一番上流、北の外れにあって、南端に近い我が家からはけっこう遠い。

散歩の目的はもう一つあった。「竹下村誌稿」の編者、渡辺陸平氏の御子孫が住まわれているお宅を探すことであった。

散歩の初めに、そのお宅を探した。話に聞いただけで、地図も持たないで、およその見当をつけて行ってみる。生垣に囲まれて、入口が道路に面しておらず、分り難いと聞いていたから、それらしい御宅に、道路から小道を入って、門前まで行ってみた。多分こゝだろうと、この日は見て帰るだけにした。「竹下村誌稿」をもう少し読み進めてから、改めて訪問してみたいと思った。


(新東名の島田金谷ⅠCの土手が塞ぐ)

竹下の大井神社は、新東名の島田金谷インターが側に出来て、その土手が南側をふさぐ形になって、竹下の集落とはさらに遠くなった感がする。境内で銀杏の木が色付いていた。

金谷町史によれば、
大井神社(竹下)
金谷町竹下12番地にあり、祭神は誉田別尊(ほんだわけのみこと)、弥都波能売神(みずはのめのかみ)の二柱で、例祭日は10月17日である。社伝によれば、延宝二年(1674)頃、当時の住民が横岡八幡神社から、竹下村の産土神として勧請したという。


境内の鳥居と浄水盤について、「竹下村誌稿」に、以下のように書かれている。

 一 浄水盤 一個
   明治初年、村内有志献納す。
 一 石花(華)表 一基(「石花表」は石鳥居のこと)
   大正四年、御即位記念として、氏子にて建立す。
   石質は三州御影にして、高さ十三尺余、柱径九寸。
   刻して曰く、為御大礼記念、大正四年十一月献納、氏子中。


何れも、文字が刻まれて、判読できなかったけれど、そういう文字が刻まれているのであろう。

なお、「竹下村誌稿」には鰐口について触れられている。

 一 金鼓(わにぐち)一個
   径一尺余、今常安寺庚申堂に掲げあり。
   銘に曰く、
    奉掛 大井大明神御宝前、享保九(1724)庚辰天九月九日、
    竹下村願成就、願主 金谷横町 柴田清兵衛

        
しかし、現在、その鰐口は常安寺庚申堂にも見当たらない。どこかに移されているのであろうか。竹下大井神社には、現在、鰐口の代りに大きな鈴が付けられていた。
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「竹下村誌稿」を読む 4 気象/総説

(散歩道で干される大根)

昨日、町内の八百屋さんに頼んであった渋柿が入ったとの連絡を受けて、購入して来た。みかん箱に、一箱で1900円で、数えたら45個あった。今朝さっそく干柿に加工した。これで合計で317個となった。11月も終るから、干柿の季節もそろそろお仕舞であろうか。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

      第六節 気  象
       一 総  説

気象は風、雨、陰、晴、寒、暖、乾、湿など、大気の物理的現象を総称するものにして、あるいは緯度の高低、地形の状態、海陸の関係などによりて、各地相等しからざる原因をなせり。

(しこう)して、本村は、西北に八高山、粟ヶ岳の山脈相連なり、東北は東海道の巨流、大井川迅流し、南方の一帯、牧之原の台地に向い、四時、気候の昇降甚だしからず。春は暖気早く催し、草木の発芽速にして、夏は炎熱の時といえども、毎朝大井川より、俗に出し風と称する清涼なる風を送りて、爽快を覚え、秋暑また久しきにわたらず。冬は温暖にして降霜を見ること、ほとんど罕(まれ)なり。実に人生の一楽土たるを失わず。
※ 迅流(じんりゅう)- 早く激しく流れること。
※ 四時(しじ)- 1年の四つの季節、春 夏秋冬の総称。四季。
※ 楽土(らくど)- 心配や苦労がなく楽しい生活ができる土地。楽園。


気圧は年平均七百六十一ミリメートル(1014.58ヘクトパスカル)にして、十一月、十二月、一月において高圧を示し、六月、七月、八月において低圧を示せり。風向は、気圧の配布により常に変化して定まらずといえども、大率(おおむね)、暖気は東南風多く、寒気は西北風多し。風速は冬気において最も強く、秋気において最も弱し。
※ ミリメートル - 気圧を水銀柱の高さで表した単位。一気圧は760ミリメートル。同じく、一気圧は1013.25ヘクトパスカルであるから。761ミリメートルは
     761×1013.25/760=1014.58ヘクトパスカル


雨量は、二月に少なくして、七月に多し。周年の総雨量二千五百ミリメートルにして、全国雨量平均千五百七十三ミリメートルに比し、やや過量なるを認む。雷鳴は夏気において屡々(しばしば)あれども、大約(おおむね)十数回に過ぎず。時に落雷することあり。降雪は極めて少なく、年中全くこれを見ざることあり。あるいは、一月頃より三月頃まで、一、二回を見ることあるも、積雪あること稀(まれ)なり。雹(ひょう)、霰(あられ)は、年中全くこれを見ざること多し。あるいは、一、二回、降雨に伴い、小豆大のものを降らすに過ぎず。
※ 周年(しゅうねん)- まる一年。

要するに寒暑ともに酷(こく)ならず。人生の健康に適し、諸植物、果実などの化育によろしと云うべし。もし、それ気候の観察を試みんには、観測の結果に俟(ま)たざるべからず。然れども、本村付近に気象観測所なければ、今は本村に最も近くして、較々(ほぼ)気象を同じくする島田町における、明治三十五年より同四十四年に至る、十年間観測の統計に則(のっ)とり、気温、降水量、及び天気類別の要略を、次項に表示すべし。
※ 化育(かいく)- 天地自然が万物をつくり育てること。
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島田市の神社 1 番生寺の大井神社

(番生寺の大井神社)

最近、歩いていない。足がどんどん細くなっていることに気付いている。人間足から衰えるというから、もっと足を鍛えて置かなければならない。そこで、島田市内の神社巡りを始めようと考えた。散歩に目標を絡ませる方法は、自分には得意な分野である。

その初日は、11月21日であった。快晴で気持のよいお天気だった。選んだのは、一番近くの神社、番生寺の大井神社である。お祭りの時は大代川を越えて、屋台の練りの声が聞こえてくる近さである。

10分とかからずに着いた。田舎の神社だから、おそらく特記するようなことはないだろう。だから、近くにあるプラスアルファを探すルールにした。

社殿前の案内板によれば、

大井神社(番生寺)
鎮座地 金谷町番生寺47番地
御祭神 誉田別尊(ほんだわけのみこと、応神天皇)
    弥都波能売神(みずはのめのかみ)
例祭日 10月17日
由緒  社伝によれば、寛文6年(1666)9月頃、住民産土神として誉田別尊、弥都波能売神を勧請奉斎し、本社を創立、宝暦12年(1762)9月社殿再建、明治12年9月に村社に列し、昭和21年5月25日宗教法人令による神社を設立し、同28年7月8日宗教法人法による神社を設立登記した。



(木製の神社札)

鳥居左手に秋葉灯籠がさや堂に入っている。そのさや堂に木板製の神社札が貼られていた。紙製のもの珍しくないが、板の神社札は初めて見た。昔はお遍路の納経札も板製で社に打ち付けていた。だから今でも、札所に御参りすることを「打つ」という。しかし、この神社札はそれほど古いものではない。


(番生寺の旧報徳社)


(「誠」字の鬼瓦)

神社左脇から、畑中の小道を100メートルほど行くと、報徳社の建物がある。今は公会堂に使われているが、かつては報徳思想を広める、村の拠点だったのだろう。屋根の瓦に「誠」「倹」「勤」の文字が見られ、玄関脇には「二宮先生誕生150年記念事業」の碑が立っていた。

報徳社の庭に石碑が立っていて、前から気になっていた。写真を撮ってきて解読してみた。元は漢文で書かれている。


(鷲山次作君墓表)

鷲山次作君墓表
君の名、次作。姓、鷲山。父、作蔵という。明治七年八月九日、五和村番生寺区の生まれる。二十七年徴じられ、輜重輸卒として第三師団に入る。この年、日清開釁。二十八年四月従軍して広島に至る。六月帰郷、功を以って金二十五円を賜る。十一月従軍記章を賜る。三十七年、日露開釁。三月六日動員令に接し、従軍して清国に入り、各地に転戦す。三十八年十月四日、開原兵站病院に於いて病死す。勲八等を叙され、白色桐葉章及び従軍記章を賜る。九日、村葬、法諡忠道義達居士という。余、嘗(かつ)て五和小学校においてこれを承る。君当時、ここに学び、淳良恪勤し、群兒に抜けでる。宜しく、この二大戦役に参加を牟(もと)めて、共に奏功に勤む。
  明治四十一年八月二十日
     陸軍歩兵少尉正八位  片岡要篆額
                河村多賀造撰並び書

※ 輜重(しちょう)- 軍隊の糧食・被服・武器・弾薬など、輸送すべき 軍需品の総称。
※ 輜重輸卒(しちょうゆそつ)- 旧日本陸軍で、輜重兵の監督のもとに輜重の 輸送に従事した兵卒。。
※ 開釁(かいきん)- 開戦。
※ 法諡(ほうし)- 戒名。
※ 淳良(じゅんりょう)- かざりけがなく善良なさま。
※ 恪勤(かくきん)- 職務に励むこと。まじめに勤めること。
※ 群児(ぐんじ)- 児童たち。たくさんの子供。
※ 奏功(そうこう)- 功績をあげること。


鷲山家といえば、番生寺では有名な旧家である。その所縁(ゆかり)の青年なのだろうか。まだ戦死が少ない時代の、戦中病死だった。碑に地衣がついて、大変読み難く、誤読もあるかもしれない。
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「竹下村誌稿」を読む 3 地勢

(散歩道で見つけた大実西条柿)

今年は渋柿が手に入りやすくなっているのに気付いていた。農家直売のまんさいかんに行くと、大きな渋柿が、次郎柿と肩を並べるように出ている。暇のある団塊の世代を中心に、干柿をつくるのが流行りになっていて、目ざとい農家が、干柿用に渋柿を新たに育て始めたようで、今年はそれが出回るようになったのだろう。散歩の途中でそんな渋柿の若い木を見つけた。細長く大きな渋柿で、大実西条柿という。干柿には作りやすいが、味がもっと濃いと良いのだが。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

      第四節 地  勢

本村の地勢は、すでに第一節において概述したるがごとく、東西に短く、南北に伸び、海抜七十八メートル、乃至八十四メートルの間にありて、西北より東南に向いて緩傾斜をなし、一望平衍にして丘陵高巒なく、土性膏膄にして、良田をもって満たせり。元禄十五年、本村名細帳にも、
※ 平衍(へいえん)- 平らで広いこと。
※ 高巒(こうらん)- 高い峰。
※ 土性(どせい)- 土地の性質。土壌の種類。砂土・赤土・黒土など。
※ 膏膄(こうゆ)- 土地がよく肥えていること。


当村に山林御座なく候に付、大代村、志戸呂村、横岡村、山へ前々より入会(いりあい)に、秣(まぐさ)、薪(たきぎ)刈り取り申し候。もっとも、山手、米御座なく候。大代村御林にて、一疋一人にて御札一枚、米壱斗弐升づゝ、十枚分三分の一御値段にて、上納仕り、秣、薪刈り取り候。東山村御林にて、一疋一人にて御札一枚、米一升づゝ、拾枚分、石代御値段にて上納仕り、秣刈り来たり申し候。
※ 一疋一人(いちひきひとり)- 馬一頭、人夫一人。

と見えたり。然れども、彊域を距(へだた)る一里余にして、八高山、粟ヶ岳の峻岑、北西に聳え、その山脈逶迤として、指呼の間に連り、東南に走りて牧野原の台地となり、本村の南方約一里を隔て、あたかも屏風を立つがごとし。東北は牛尾、横岡を挟みて、大井川に囲まれ、大代川は西南を流れ、また数十条の用水路、北より南に通じ、大井川より水を引きて、田方の灌漑に便ず。人家は皆、この田間に点在せり。下の図は実測したる現時の地勢を示せるものなり。(大正四年四月稿)(「下の図」は竹下村の略図であるが、ここでは載せてない)
※ 彊域(きょういき)- 土地の境目。境界。
※ 峻岑(しゅんしん)- 高い峰。
※ 逶迤(いい)- 斜めに行くさま。
※ 指呼(しこ)- 呼べば答えが返るほどの近い距離。
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「竹下村誌稿」を読む 2 位置境域・広袤面積

(散歩道のイソギク)

「竹下村誌稿」という本は、大正13年5月発行の竹下村の地誌である。往時、五和村内の竹下在住の、五和村の村長も勤められた渡辺陸平氏が、集められた大量の史料をもとに、編集発行せられたものである。細かい活字で320ページに及ぶ大著である。竹下村は自分が在住する竹下区とほぼ地域的に重なっている。現在でも300戸余の狭い地域で、これだけのボリュームの地誌があるとは、まったく信じられない。

しかし、発刊してから100年近く経ち、活字とは云え、旧漢字、旧かなづかい、句読点もなくて、現代の人にはとても読めないものになっている。そこで、この本を句読点を付け、新漢字、現代かなづかいに直し、現代の若い人でも読めるようにしたいと思って、この作業を始めた。

格調高い原文の味を損なわないように、意訳はせず、その分、注をたくさん付けて理解をしてもらおうと思っている。地元の人以外にはあまり興味のない内容かもしれないが、しばらくやってみる。中に竹下村には関係のない記述もかなりあるようで、そんな部分は飛ばして行こうと思っている。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

      第二節 位 置 境 域

本村は、静岡県榛原郡の中部に位し、東海道鉄道金谷駅を距(へだた)る北、二十五(2.7キロ)、浜松市を距る東、二十八(44.8キロ)、静岡市を距る西、二十哩(32キロ)にあり、西は志戸呂、横岡の両村に接し、東は牛尾村に隣し、南は島、番生寺の二村に境し、北は横岡新田に界す。今は、五和村中央のにして、経緯度の線、下のごとし。
   東経 138度6分    北緯 34度49分
※ 町(ちょう)- 尺貫法の距離の単位。1町は60間で、約109メートル。
※ 哩(まいる)- ヤードポンド法の距離の単位。1マイルは1760ヤードで、
約1.609キロメートル。


      第三節 広 袤 面 積

本村の広袤、東西五町四十五間、南北十町三十間あり。元禄五年(1692)の記録に、東西五町三十八間、南北七町八間と見え、また享保十五年(1730)、本村名細帳に、東西五町三十七間、南北十町二十間と記し、その伝うる所、符節を合するがごとくならず。けだし前者はその調査、粗にして、後者は密なるもののごとし。明治二十二年、町村制実施に当り、静岡県令第十九号により、他町村地内へ孕在せし、田一反三畝二十三歩を、金谷町に編入せし外、地盤に異動ありしことなし。而(しこう)して現今の面積は三十八町五反二畝十八歩にして、一方里の約四十分の一に当る。(大正四年三月稿)
※ 広袤(こうぼう)-(「広」は東西の、「袤」は南北の長さ)幅と長さ。広さ。面積。
※ 符節を合するが如し(ふせつをがっするがごとし)-割り符がぴったり合うように、二つのものがぴったり一致することのたとえ。
※ 方里(ほうり)- 縦横各1里の面積。1里四方。


読書:「父、永六輔を看取る」 永千絵 著
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「竹下村誌稿」を読む 1 概説/総説

(散歩道のヨメナの花)

今日より、「竹下村誌稿」という本を読む。今日はとりあえずその最初を読む。この本の紹介は明日にしよう。

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竹 下 村 誌 稿
     第一章 概  説
      第一節 総  説


竹下村は、静岡県遠江国榛原郡に在りて、ほとんど東京-京都の中央に位せる一なり。その地勢、概ね平坦にして、東西に短縮し、南北に開展し、後鋭前潤の観あり。
※ 開展(かいてん)- 開け広がること。
※ 後鋭前潤(こうえいぜんじゅん)- 後ろに鋭く、前に潤う。


しかして、本村創始年代は、得て知るべからざるも、甚だしき往昔にあらず。したがいて、治乱興亡などの史蹟、後世に伝われるもの滋多ならざるも、近古に至りて、人文発達の跡、その見るべきもの、尠少ならず。
※ 滋多(じた)- たくさん。
※ 近古(きんこ)- ちかい昔。
※ 尠少(せんしょう)- 非常に少ないこと。


闔村の住民は、一般に諄厚勤倹にして、各々家業に勉励し、風俗すこぶる樸直なり。気候また温和にして、諸種の農産物に適し、国利民福を増進するにおいては、近隣の村落に冠絶せりと称せらる。
※ 闔村(こうそん)- 全村。村中。
※ 諄厚(じゅんこう)- 丁寧で手厚く。
※ 勤倹(きんけん)- 仕事にはげみ、むだな出費を少なくすること。
※ 樸直(ぼくちょく)- かざりけがなく、正直であること。
※ 国利民福(こくりみんぷく)- 国の利益と人民の幸福のこと。
※ 冠絶(かんぜつ)- 群を抜いてすぐれていること。


明治二十三年、東海道鉄道、本村に接近して敷設し、金谷駅を置き、同三十五年、金谷駅より川根諸村に往来する川根街道(県道第三類)、村の東端を貫通せし以来、交通、運輸の便を得。しかも電信、電話ありて、通信によろしく、日を追い、年を経、人家益々稠密となり、里道あたかも蛛網のごとく、村内に縦横して、戸ごとに車馬の通せざるなく、また神社あり、寺院あり、県道に沿いて五和村役場、同小学校、同農会、同巡査駐在所、同銀行などありて、この沿道に殷盛なる街衢を見る。けだし、遠きにあらざるべし。
※ 稠密(ちゅうみつ)- 一つのところに多く集まっていること。
※ 蛛網(ちゅもう)- くもの巣。
※ 殷盛(いんせい)- 極めて盛んなこと。繁盛していること。
※ 街衢(がいく)- 人家などの立ち並ぶ 土地。町。ちまた。


ひとり惜しむらくは、商工業の見るべきものなく、江山の美をほしいままにするに足らざるを。然りといえども、西境を出づる百歩にして、東望すれば、蜿蜒として長蛇のごとき大井の河流は、面(おも)あたり、これを掬すべく、玲瓏たる八朶芙蓉は、遥かにこれを仰ぐべし。またもってその欠を補うに足らん。ここに古来の推移変遷の一端を叙し、現在の状況に鑑(かんが)み、その帰趣を知らんことを要す。
※ 江山(こうざん)- 河と山。山川。山水。
※ 蜿蜒(えんえん)- 蛇がうねりながら行くさま。
※ 掬す(きくす)- 両手で水などをすくいとる。
※ 玲瓏(れい)- 玉のように輝くさま。
※ 八朶(はちだ)- 八つの峰。富士山には山頂に8つの峰がある所から、「富士八朶」と呼ばれる。
※ 芙蓉(ふよう)- 富士山の雅称。
※ 帰趣(きしゅ)- 行き着くところ。
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桑原黙斎の「安倍記」 18

(竹下大井神社のイチョウの紅葉)

午前中、昨日購入の渋柿を加工した。23個あった。合計で272個となった。幾つ作れば納得なのか、自分でもわからない。

午後、一番暖かい時間に、一時間ほど散歩に出た。竹下大井神社まで行くと、このところの寒気に、境内のイチョウが黄色に色付いていた。

「安倍記」を今日で読み終える。「安倍記」には翻字されたものが付いていて、参考にさせて頂いたが、解読の間違いがいくつもあった。難しい漢語が使われていて、その言葉に行き当たれずに、間違ったものや、くずしの解読違いなど。それを見付けるのを楽しんでいる自分がいて、いやな性格だと思った。

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桑原黙斎の「安倍記」の解読を続ける。

右に折れ、左に折れて行き過ぎるに、川原に下りて、なお数十歩過ぎる山岸より、少し登れば、則ち平野村なり。村岡はこの里の向いに見えたり。村落を下り川原を過ぎ、或は山路にかゝり、とこう打ち過ぎ、半里計りして、横山村に至る。

こゝより蕨野への路筋、弁じ難ければ、丘の築き出でたり、山家に立ち寄りて、蕨野へは何れへ行き通うにや、と尋ねしに、主人外面に出て指揮して、こゝより川原へ下り、遥かに見えたる杉の村立たる処より、山路に登り給え、道あり、と教えければ、川原に下りぬ。
※ 村立つ(むらだつ)- 群立つ。一群になって立って いる。群生する。

右に川除けの普請所見得たり。川原四、五町許り下りて、かの教えの杉村に立ち入りて、二、三十間登り、横刈道に至る。向いを望めば、細道、山の半腹より崩れ落ちて路絶えぬ。如何にせんと思う処へ、先に山路を教えし里人来たり。

とこう迷い給う気の毒さに来りとて、先に立ち案内して、崩れに駆け上がり、砂利は一歩に一尺斗りも踏み下りけれど、ことともせず、終に欠所の口まで登りけるとぞ。向いの岸へひらりと一っ飛びに飛び越したり。誠に猿の木末を渡るに似たり。荷置き、立ち帰りて、足踏み、踏み度を拵えて、さらば登り給えと云う程こそあれ。四人一度に、かの足跡を力にて、難なく上に打ち揚りける。

山路の尾羽を打ち越して、左に廻り、右に折れて、蕨野村に抵(あた)る。去りて川原へ下り、山路にかゝり、半里許りして、油島村に至りぬ。さて大河内川の西側、井川に入りし時、休みし盧舎見ゆ。中沢村の下なり。この処、大河内川と中河内川との落合にて、この所より安倍川の号を唱うなるべし。川原を十町許り過ぎて、俵沢村に一宿し、
※ 盧舎(ろしゃ)- 小さな家。小屋。いおり。

廿八日、昨夜(よべ)より雨あり。これより、俵峰村へ行程一里、東の方の谷に登り、野田平村より僅か三丁斗りにして郷島村、この村落を出て、牛妻村へ出でしに、これよりは、国府まで河原を下り、道穏かにてあり。同村の行翁古跡を尋ね、下村、福田ヶ谷、井の宮村、府に出でける。
(おわり)
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桑原黙斎の「安倍記」 17

(散歩道のナンテンの実)

昨日に続いて赤い実だが、これはナンテンの実である。庭にもナンテンはあるが、実はほとんど小鳥に食べられてしまう。この実は溝の際の低い位置にあって、小鳥の被害を受けていない。

午前中、Sさんが見える。ブログで、竹下村誌稿の現代語訳にかかっていると書いていたのを読んで、「竹下村誌稿」の画像を納めたDVDを持って来て頂いた。復刻版の「竹下村誌稿」を図書館から借りて読み始めたのだが、いずれ返却しなければならない。DVDをパソコンで見たところ、復刻本よりよほどはっきりと読める。これは有難いものを頂いた。

Sさんは竹下の人だけあって、近辺のことに大変詳しい。しばらくお話をしたが、色々な情報も持って居られるようで、近辺のことで疑問があれば、聞いてみることにしようと思った。

午後、車の点検に行く。お店で、前の担当のYさんと久ぶりにあった。今は保険会社に席を移して、もっぱら車のディーラー廻りをしているとか。定年まで3年で、そろそろ定年後のことを考える時期になったと語る。お遍路にはぜひ行きたいと、本を差し上げたことを忘れてはいなかった。

渋柿23個、1200円で購入。

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桑原黙斎の「安倍記」の解読を続ける。

廿七日、主人を案内者に雇いて、川原に下り、数百歩下れば、左に黒き石ある川原あり。小川を渉り越えて山岸に移る。この谷川流れを黒沢川と呼ぶなり。この奥に石仏とて、山家六、七軒、則ち渡村の小里なり。檜山、から沢山、大嵐山など云う山々、川の東なれども、中平村に属すと云う。

この谷を左に見て峡(かい)しき山路を攀(よじ)て、五丁許り登り、平面なる所に炭焼きける所あり。こゝに憩う。先に渡りし黒沢川の奥山、左に見えたり。これより東へ、尾づるを過ぎ行きて、南の沢へ下り、また峨々たる坂に打ち登る。
※ 尾づる(おづる)- 山の尾が伸びているところを指す。
※ 峨々(がが)- 山などの険しくそびえ立つさま。


このわたり、桟道所々にあり。山崩れにて路なき所あり。如何せんと案じける内、八五(奴)杖にて足の踏み所を拵え、案内の者、崩れに跨りて、我らを繰り渡しに通しける。凡そ十間許り打ち越して、横刈路なり。

これを過ぎれば、火田(焼畑)を作る守舎の本に至る。この前に憩いて息継ぎける。この辺り、熊、猪、鹿、多き所とぞ。烟り吹きて火田を過ぎて、鹿垣を結いたる元に至れば、藤蔓以って割り木、結い付けたる梯子を登りて、垣のあなたへ飛び越しぬ。これよりは路次よろしとて、こゝにて案内は暇して帰りぬ。
※ 火田(かでん)- 朝鮮半島北部の山岳地帯で多く行われた焼き畑。
※ 守舎(もりや)- 小屋。焼畑の番小屋か?
※ 鹿垣(ししがき)- 枝のついた木や竹で作った垣。田畑に鹿や猪などの侵入を防ぐもの。
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桑原黙斎の「安倍記」 16

(散歩道のマムシグサの実)

まるで、赤いトウモロコシのような実は、マムシグサの実である。球根に毒があるというから要注意である。番生寺の大井神社の裏で見つけた。

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桑原黙斎の「安倍記」の解読を続ける。

廿六日朝、疾く起きて飯を炊き、食してありける内、案内者来たるまゝ、寺僧に暇(いとま)して立ち出で、三町ばかりも過ぎて左に入る。関の沢と云う所なり。里正(庄屋)の家に立ち寄りて、鍾乳石を申し請けて去り、また川原へ下り、南にて川を渉り、向いに登れば、川の西に入島村見ゆ。

川水深ければこの方へは越さずして、山を越し川を見下し、横刈道を過ぎて、沢辺に下り、略彴を渡りぬ。左の方、学河内と云う所、山家見えたり。さて、川原より小沢に入りて、峡(かい)しき岩坂あり。道とはさらに覚えざれども、案内先に立ちて導きければ、岩稜にすがり付き、一足登りては一息継ぎ、二足登りては滴る汗を押し拭い、千辛萬苦して、漸く上に押し上りけるに、糸筋の如くなる道あり。
※ 略彴(りゃくしゃく)- 丸木橋。

右手は大河内川の流れあり。左手はこと/\゛く聳え立ちたる連山なるに、或るは渓辺(けいへん)に下りて、桟道を越え、或るは数百丈の攀躋。この葉落ち敷く林の本は、山蛭(やまびる)てふ(という)虫の、過ぎ行く人の臭い知りて、かしらをもたげて足に吸い付き、何時しか草鞋の間に入りて、痒さ耐え難し。独り言(ひとりごと)して打ち過ぐるに、左に古き金堀穴、二つあり。
※ 桟道(さんどう)- 山のがけの中腹に棚のように張り出してつくった道。
※ 攀躋(はんせい)- 高い所によじのぼること。


行々下りに向いて、降りぬれば、左に社あり。山神の社、大杉あり。七囲(かか)え、雷火にて焼け、控(くう)と成るとかや。なお打ち過ぐる程に、白髭神社あり。こは当里、有東木村の産土神(うぶすながみ)なり。右に折れて谷川を渉れば、下流の岸に山葵(わさび)多くありき。これまで、梅ヶ島よりは、行程凡そ五里許りなり。案内はこゝより戻しける。

村落を出て、右、谷川に沿いて下りける。この谷川、巨巌石両岸に陣列して、飛泉砅砰皷怒して雷の震(しん)が如く、緑波沄々として下流す。また岩石を畳み敷きて、段々に石垣を構え、囲いの中に山葵夥しく作りたり。この際、凡そ二、三町許り、この里の名産なり。
※ 飛泉(ひせん)- 高い所から勢いよく落下する水。滝。
※ 砅砰(れいひょう)- 轟きわたるさま。
※ 皷怒(こど)- 太鼓のように激しいさま。
※ 緑波沄々(りょくはうんうん)- 青い波が渦巻いているさま。


渡村に出でたり。有東木よりは凡そ一里許りもあるか。一宿を投じける。(この間、写し落しがあるらしい)つぶら峰と答う。夜に入りて里正来たりて、断りありて、細々(こまごま)物語りありける。西側の村里を問えば、中平村、末高氏の屋敷跡あり。子孫は御旗本にて六百五拾石を知行すとかや。鎮守八幡森あり。その次を相渕村と云う。

読書:「樹海警察」 大倉崇裕 著
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桑原黙斎の「安倍記」 15

(散歩道のクチナシの実)

朝から快晴で無風、あまりに良い天気なので、午後少しだけ散歩した。大代川を越えて、番生寺のお宮まで歩いたが、途中で自然に呼ばれて、家へ帰った。歩くと腸内環境も良くなるようだ。

昼寝のあと、「竹下村誌稿」の現代文へ置き換える作業を少し進めた。統計表が漢数字で書かれている。そのまゝでは訳が分からないので、算用数字に直したが、良かったのかどうか。「安倍記」を読み終ったら、このブログで紹介しようと思う。

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桑原黙斎の「安倍記」の解読を続ける。

こゝを過ぎ、山の腰を廻り、峡(かい)しき下を過ぎて、川原を臨めば、水勢滀漯として、浅深測り難し。呆れてこゝに立ちける僕等、先立ちて川原に下り、水勢を窺うに、この程の連雨に水嵩増し、ことに大岩ども陣列して、波浪滔々、怯々として中々渉るべくも見えざりけるが、終に渡り口を見定めて、辛うじてことなく渉り、山上を仰げば、山家あり。
※ 滀漯(ちくとう)- 水が集る様子。
※ 怯々(きょうきょう)- びくびく尻込みすること。


いざ、兎も角もかの家に至れとて、各々この沢辺に入りて、丘に上りけるに、寺院と覚しくて、壱人の僧頭は月代(さかやき)のびて、栗のいがの如くなるが、商布たちつけ履いて、手洗いありけるまゝ、こゝに来たりぬ子細なき者にこそ、里正の元は病者有りぬと、途中にて聞き侍るに任せ、精舎(寺)を見かけ、これまで罷りにし。
※ 月代(さかやき)- 頭の剃ったところ。
※ 商布(しょうふ)- 奈良・平安時代、調・庸よう以外に、交易のために 織った布。ここでは特別の布ではないことを示すか。
※ たちつけ(裁ち着け)- 袴の一種。ひざから下の部分を脚絆のように仕立てたもの。旅行のときなどに用いる。


一宿をと乞いけるに、かの僧云う。一夜は許し申しべけれど、夜の物とても無し。無住同前の寺なれば、何も侍らず。宿りは叶わまじとありけるに、終日の嶮路に身体こゝに窮まりぬ。是非に一宿と宿りを乞いぬれば、漸くに肯(うべ)ないぬ。各々洗足して席に上り、湿衣など絞りて竹竿に掛け、あるは炉火に乾かして休(いこ)いける。

寺僧云う、米は一粒もなしとありけるが、幸い井河にて望月氏がこゝろ付けて、米少し携(たずさ)えたれば、これを炊きて食(たう)べける。宵の程、当里の古蹟など問いけるに、梅ヶ島村は国府よりは十三里許りと、種々物語り、炉背なあぶり、蓑などうち着て、一夜は明かしけれども、大破れの古寺、板戸もなき処などありて、すき間入る嵐に、肌(はだえ)こゞえて、夜中よりい寝もやらで明しぬ。
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