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ロンドンオリンピックが佳境に入る

(5月22日、瀬戸内海)

ロンドンオリンピックが始まって四日目になる。オリンピック観戦で寝不足が続いている。日本人の活躍を見ていると、期待されていて、期待通りの活躍が出来ない選手がいる中で、期待通りの成績を残すのは大変に立派だと思う。

サッカーは男女とも一試合を残して、予選リーグの突破を決めた。オリンピック前から始まっているが、男子2試合、女子2試合ともに、楽しくテレビ観戦した。しかし柔道は少しも面白くない。日本が負けたからというよりも、ボクシングかレスリングに見間違えそうな、柔道の試合とは随分かけ離れたところに行ってしまったと思う。今は技ではなくて力勝負の戦いになっている。

礼に始まり礼に終わる精神は忘れられ、帯を解けやすく結んで置いて、結び直す時間で休息をとろうとする選手までいる。そのためか、柔道着が帯から外れてだらしなく垂れていても、以前のようには審判は直せとは言わない。今は技ではなくて力勝負の戦いになっている。かける技よりも、返し技の方が決まりやすいから、返し技をねらって、技を掛けてくるのを待っていたりする。だから観客には大変に分かりにくい技が多い。

その柔道着も分厚く固く作って、年々つかみ難くしてきた。一応規則はあるらしいが、昔よりも明らかにつかみ難くなっている。つかめないから技を持っていても、掛けられない。結局、訳の分からない決まり手で勝負がついてしまう。背中は付いても技を掛けた結果でなければ、柔道の勝敗には影響しないはずなのに、観客は訳の分からないまま、蚊帳の外に置かれて、試合だけがこなされていく。

訳の分からない決まり手が増えたので、勝負の結果にビデオ判定を取り入れられた。畳に上がっている3人の審判よりも、下でビデオでチェックしている人の方が力を持っている。だから審判の判定が覆ることが頻発している。せめてビデオ判定は、審判が求めたときだけに限定するようにすべきである。判定が変わるたびに、試合に水を指されて試合が楽しくない。

力勝負なら、重量挙げの方が余程楽しい。体重の3倍もありそうなバーベルを上げ、顔を真っ赤に耐えながら、審判を横目で見る。バーベルを床に落としたときのほっとした顔。特に女性の試合は、化粧をしていない分、ハイビジョンテレビで、それらを赤裸々に映し出してしまう。オリンピック3度目で、年々力をつけてきた、三宅選手の銀メダルには頭が下がり、大いに祝福したい。

バトミントン、卓球、テニス、バレーボールなど、日本選手が出場する試合はすでに何試合か見た。いずれも予選であるが、ひょっとしてメダルに手が届くか、との期待を抱かせてくれる活躍である。

アーチェリー女子団体の銅メダル、水泳の男子400メートル個人メドレーの萩野選手の銅メダル、など、急成長した選手の活躍を見るのは楽しい。
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5月22日、北条から今治へ、遍照院と別宮大山祇神社

 
(遍照院山門の鬼瓦)

遍照院は、別名、厄除大師と言い、参拝客が多い。瀬戸内沿いの菊間は瓦製造で有名な町で、遍照院山門には仁王像の代りに菊間で製造された大きな鬼瓦が置かれていた。この鬼瓦も当然あ・うん一対の鬼瓦であった。どうも自分はご利益(りやく)を前面に出したお寺は苦手である。バスが来て参拝客がたくさん降りてきたので、トイレだけ借りてお寺を後にした。

青木地蔵の先、海辺の国道を歩く。日差しが強くなって、気温も上がってきた。前方を女性のお遍路さんが行く。足がなかなか速く、追い付けそうで追い付けなかった。空も瀬戸内海も青さを競うような素晴らしいお天気である。海辺にトイレを見つけて入っているうちに、青年お遍路に追い抜かれ、女性お遍路は視界から消えていた。星の浦海浜公園では余りの好天気に休憩所に横になって目を瞑った。10分も眠っただろうか。遍路中に寝てしまったのは初めてであった。それほど今日の天気は穏やかであった。

大西の町を通り抜けたところで、延命寺へ向かう右へ曲がる道を通り過ぎて、少し大回りをしてしまった。

延命寺から里道を遍路シールに導かれて右へ左へと進み大谷霊園を越えて今治の町へ入る。大谷公園の出口、街から見ると入口に、遍路休憩所があった。向かいの店の自販機で、清涼飲料を買って、休憩所で休んでいると、店からおばあさんが出て来て、宿は決まっているのか、皆んなここで泊って行くよと話しかけてくる。宿は南光坊のそばにとってあるから、と答えた。

今治の街に入って、南光坊を打つ前に、隣りの別宮大山祇神社に参拝した。別宮大山祇神社は大宝3年(703)、文武天皇の勅命により、瀬戸内海の大三島にある、大山祇神社の大山積大神をこの地に勧請し、別宮としたのに始まる。鎌倉時代の初めの正治年間には、大山祇神社の24あった僧坊のうち8坊が別宮に移され、別当寺・大積山光明寺を称した。

それに伴ない、四国八十八ヶ所の55番札所は大三島の大山祇神社から、参拝の便利な別宮大山祇神社(光明寺)が札所となった。8僧坊は天正年間、長曾我部軍により焼き払われ、後に南光坊だけが再建され、明治の神仏分離によって南光坊は独立し、55番札所も南光坊に移された。

別宮大山祇神社の社務所で御朱印を頼んだ。女性が受け付けて、奥へもって行き、見ていると墨を摺り、一文字一文字を楷書で書いて御朱印を押すまで、ゆっくりと時間を掛けてやってくれた。南光坊は観光バスが来て賑わっているが垣を隔てた別宮大山祇神社は人影もなく、静かな午後であった。
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5月22日、北条から今治へ、花へんろ一番札所「鎌大師」

(鎌大師ヘンロ小屋)

ロンドン五輪が始まって、観戦に忙しい。お遍路記録の整理やブログも中断したいところだが、アスリートたちの頑張りに負けないためにも、続けるべく頑張りたい。

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5月22日、北条の宿を出て、今治まで歩いた。前回は雨に降られて、途中で宿に逃げ込んだけれども、今回は快晴で、前回のリベンジが出来ると思った。前回は寄る気にもならなかった、番外の霊場も立寄ってみる予定だった。

同宿だった宿修行さんは、再就職の日程が迫ってきたから先を急ぐようで、一足先に出かけた。あちこち道草をする自分も続いて出発した。宿を出て北条の町で最初に探した霊場は養護院である。行過ぎて、立岩川まで出てしまい、尋ね戻って養護院を打った。養護院は別名「お杖大師」と呼ばれているが、寺内に紺地金襴の袋に入った杖があり、この杖を拝み、願い事をすれば、願いが叶うという。お遍路には関係の深いお寺である。

北条を出て、田圃の中に道を真っ直ぐに行くと、山の間を越す峠のふもとに、「鎌大師」がある。弘法大師がこの地に行脚のみぎり、悪疫が流行しているのを哀れんで、鎌で刻んだ大師像を与えたところ、疫病は平癒し流行も治まった。その大師像を本尊にこの地に堂を立て深く信仰されたという。

早坂暁脚本のNHKドラマ「花へんろ」の舞台となってから、地元ではドラマに因んで「花へんろ」の札所を制定した。その一番札所が鎌大師堂で、二番が昨日歩いた粟井にある粟井坂大師堂、三番札所が高縄寺、四番札所が先程打った杖大師(養護院)である。

この「鎌大師」には、「花へんろ一番札所から」等の著書で有名な手束妙絹尼が庵主をしており、多くのお参りがあった。高齢を理由に平成15年に引退され、そのあと若い意欲のある僧が入って、お遍路さんをたくさん呼ぶべく、活動していた。境内に立派なヘンロ小屋があるが、これも若い僧が運動して建てたという。しかし、なかなか生活していくほどの檀家も無く、地元のおばちゃんが言っていたように、花へんろ三番札所の高縄寺へ引き抜かれて行ってしまった。高縄寺は北条から東へ10キロほど入った山中にある。

鎌大師を過ぎて、鴻の坂(峠)を越えて、浅海(あさなみ)の集落に下る。途中の遍路道には、案内板によると、阿弥陀堂があり、昔はお遍路さんの接待所になっていた。また国道に合流する角に「原のおじのっさん」(お地蔵さん)があるが、そこはかつて原の番所があり、関所になっていたという。現在は海に沿って国道が通っていて、前回は雨に中、海岸沿いを歩いたが、往時は鎌大師から鴻の坂を越え、浅海に至る道が唯一の街道で遍路道だったようだ。(続く)
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5月19日、桃李庵へ向かった日

(於久万大師)

桃李庵で手打ち蕎麦が待っている日、歩く距離は13キロで、3時間も歩けば着いてしまう。だから、出来れば道草をしていきたいと思った。住吉神社までの遍路道は、勝手を知った道で、少しづつ下っていくから楽な歩きである。

住吉神社に参拝して、遍路道をたどると河合休憩所に至る。前回は同じコースながら車の道を通った。案内板によれば、ここ河合の集落には、往時15軒の遍路宿があり、一晩で300人もの泊り客があったという。ここへ泊ったお遍路さんは河合の宿に荷物を預けて、45番岩屋寺を打ち終わると、来た道を引き返して河合に帰る「打ちもどり」が行われたという。休憩所の近くには、かつては遍路宿ではなかったと思われる古い家がいくつが残っていた。

遍路道を登って車道へ出た。やがて峠御堂トンネル前から、再び遍路道になって、峠を越えて44番大寳寺に至る。その峠道を下ってきたおじさんお遍路二人組みがいた。後に「同行二人」さんとあだ名を付けたコンビで、今夜の桃李庵で同宿となる。車道の途中から下る遍路道がある、途中にトイレの付いた河合休憩所があると、遍路道の情報を伝えた。

峠を下って大寳寺を打った。納経所へ行くと、受付のおばさんは電話中であった。話を聞いていると、来年の3月の宿坊の予約である。その季節ではまだ雪が残っていると話している。檀家の人たちを住職が連れてきて、この宿坊に泊まろうというらしい。長電話で自分を先頭に数人のお遍路さんが並んだ。ようやく電話を終え、納経帳を受取り、電話をしながらでは失礼だから、と待たせた弁解をいう。そして書いたスピードがめちゃくちゃに速かった。一丁上がりとばかりに寄こして、もう次の納経帳に掛っている。後で見たところ、とても字とは言い難い筆跡で、もちろん読めたものではなかった。いくら待たせているとはいえ、これほど心の籠らない納経印は初めてであった。

三日後の青木地蔵のおじさんに聞いた話では、どこの納経所であったか、テレビを横目で見ながら、乱暴に納経印を打ち、納経帳をポイと投げて寄こした若い男性係員が居て、温厚そうな男性お遍路が怒ってしまった。中から住職が出て来て謝っていたが、本人は奥に引っ込んだまま出て来なかった。そばで見ていて、青木地蔵のおじさんは、お遍路にとって、納経帳は大切なもので、扱いには十分気をつけてもらいたいと、口を出したことがある。

納経帳を乱暴に扱うのは、お寺として八十八札所のシステムを自ら否定することになることを、慣れた係員はつい忘れてしまう。納経所を開ける前に、納経印作業留意マニュアルを復唱するくらいのことはするべきである。お寺は宗教施設であるが、納経所係員はサービス業であることを忘れてはならない。

久万の町に出て、於久万大師に寄った。小さなお堂ながら、屋根が銅板で葺かれた立派な造りであった。弘法大師がこの地を巡錫のとき、この地でおくまさんというおばあさんに手厚くもてなされた。お礼に何か願いがないかと聞くと、何も無いこの山中が後の世まで栄えることが望みだという。以後、この地が栄えるようになり、話を伝え聞いた人々は老女の名を取って、この地を久万(くま)と呼ぶようになった。地名由来のおくまさんを記念して、この地に大師堂(於久万大師)を築いたと伝わる。

「でんこ」という食堂で、軽くざるうどんを頂いた。食後のデザートに、久万高原で採れるトマトを使ったトマトソフトを頂いた。トマトの味がする何とも不思議なテイストであった。




(仰西渠)

桃李庵まで、国道33号線をあと3キロの仰西という地区に、仰西渠(こうさいきょ)と呼ばれる江戸時代の用水路が残っている。元禄年間に山之内彦左衛門(仰西は雅号?)が私財を投じて完成させた、農業用水路で「青の洞門」のように手彫りで造ったといわれる。川に降りる遊歩道を行くと、川の端に岩を掘り抜いた水路があり、水が流れていた。一分はトンネルにくり貫かれている。長さ57メートル、幅2.2メートル、深さ1.5メートルの水路は現在も当時の姿のまま利用されている。

こんな道草をしながら午後1時過ぎには、桃李庵に着いた。
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5月3日、前半最後の日、宇和島まで

(馬目木大師)

ロンドンオリンピック開会式前のサッカーの予選リーグで女子がカナダに2対1で勝ったのに続いて、男子がスペインに1対0で勝利した。歓喜、歓喜! 幸先よい日本チームのキックオフである。

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5月3日、小雨の降る中をてんやわんやの大畑旅館を出た。宇和島までの今日の行程は、真っ直ぐに行けば15キロほどしかなく、午前中早い内に着いてしまう。そこで昨日雨で断念した満願寺へ往復してくることにした。

満願寺は岩松から岩松川を遡って東へ3キロほど入った所にある。雨が降る境内は人気(ひとけ)がなくてひっそりとしていた。勤行を済ませ、納経印はもらえそうに無かったので、早々に後にした。

案内板に県指定の天然記念物「二重柿」があると記されていた。弘法大師が巡錫(じゅんしゃく)の途中、杖を立てられたものが根を下したと伝わり、柿の実の中に柿の実が、柿の種の中にも柿の種が出来る、変わった柿で、別名、「子持ち柿」と呼ばれている。子宝に恵まれるという縁起物として、干し柿の希望者が多いというが、今では柿の実はわずかしか実らないらしい。境内にあるはずの柿の木は見つけられなかった。

国道56号線まで戻る岩松川沿いの道は、雨混じりの風があり、菅笠を手で押えながら、大変歩き辛かった。そんな中を、先を行く男性を見かけた。傘を差し手ぶらだから、お仲間ではなく、地元の人だろうと思った。足はなかなか達者のようで、追い付けそうで追い付けない。自販機へ寄ったから、何か買うのかなと見ていると、お釣りの返却口を探り、何事も無かったように道に戻り歩き続けた。そんな風体には見えなかったのに、本人は当然の権利というように堂々として、見ている方がショックな光景であった。

国道に戻ってコンビニに入った。パンと牛乳を購入して、レジに持って行くと、若い女店員が勘定をしながら、何も聞かないのに、トンネルの手前に遍路小屋があって休憩が出来る、と案内してくれた。これは、コンビニのローカルマニュアルなのだろうか。いつか誰かに聞かれて、彼女なりに考えたお接待だと思いたい。いじわる爺さんは、コンビニで、時々マニュアルに無いことを聞いて、マニュアル崩しをすることがある。

松尾トンネルの手前、左手上に、壁にマンガが描かれた遍路小屋があった。この遍路小屋は周囲に壁があり、扉がついていて、宿泊も出来るようだ。遍路小屋の脇を抜けて標高220メートルの峠を越える遍路道があるが、今日はトンネルを歩いた。トンネルの先に、3年前には、トイレ付の休憩所があったはずだが、痕跡すら無くなっていた。

国道沿いのセルフのうどんで昼食をとり、宇和島の町に入った。国道から遍路シールに導かれ、遍路道をたどる。逆打ちのお遍路がすれ違いながら、タクシー会社の角を右手に行くようにと、この先の遍路道を教えてくれた。

目標にしていた馬目木大師の大師堂は、住宅地の中に身を縮めるようにしてあった。馬目木(まめき)はウバメガシのことで、マメの木ではない。案内板によると、弘法大師が開かれた九島鯨谷の願成寺(鯨大師)は、40番観自在寺の奥之院とされたが、離れ島で巡拝に不便であった。弘法大師は九島へ渡る渡し場に遥拝所を設け、これに札を掛けよと、馬目木(ウバメガシ)の枝を立てた。それが根付いて葉が茂るようになった。

現在もそのウバメガシが残っているというが、脇に立ったイチョウの木ばかりが目立って、見逃した。九島は宇和島港を出てすぐの島で、往時は馬目木大師の所まで海が入り込んでいたようだ。

最後に別格6番龍光院を打った。駅のそばで、宇和島城の山に対面する山の中腹にあった。天気はすっかり回復して日差しが強く、勤行の後、小さな木陰で休んだ。年配の夫婦や、二人の幼児を連れた若い夫婦がお参りに来るのを見ていた。世の中は、今日はゴールデンウィークの真ん中の祝日である。

龍光院は元和元年(1615)宇和島藩の初代藩主、伊達秀宗が、宇和島城の鬼門に当たるこの場所へ、鬼門の鎮めとして建立した。寛永8年(1631)九島の願成寺は巡拝に便利なようにと、先ほど通った馬目木大師の地に移され、元結掛願成寺と呼ばれ、観自在寺の奥の院とされていたが、明治になって龍光院に合祀され、大師堂だけが、馬目木大師として地元に残された。従って、現在は龍光院が観自在寺の奥の院である。
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高利な「作徳金」 - 駿河古文書会

(5月3日、ホテルクレメント宇和島の部屋に置かれた、
ミニSL「坊ちゃん列車」の模型)

日付が変わると、ロンドンオリンピック、女子サッカーの予選の第1戦、日本対カナダが始まる。テレビ観戦のため、今日のブログは少し手を抜く。

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7月20日の駿河古文書会ではもう1枚、解読した文書があった。借金証文であるが、幾つか気になる点があった。まずは、解読した文書を読み下し文で示そう。

        手形の事
一 石部村高辻の内、我等名分の田地、高合わせて、右三反四歩地の所、御水帳面に相違御座なく候、その坪付として、別紙書付相渡し申候、
※ 坪付 - 古代・中世、坪ごとに田畑の所在地や面積を示すこと。また、その帳簿。
右の田地、当御年貢納金に相詰り、来る子の三月限りに相定め、代新金弐両弐分に売り渡し、金子只今慥に請け取り、御上納仕り候ところ、実正に御座候、この田地に付、代人は申すに及ばずに、諸親類に至るまで、構い御座なく候、勿論、先質物などにも書入申さず候、然る上は右の金子、来三月に、新金弐両弐分相済まし申すべく候、もし滞り候わば、請人方より急度埒明け、相済まし申すべく候、たとえ如何様の儀出来致し候とも、少しもその割り懸け申すまじく候、もっとも、遠方の田地相渡し申すべく候、金子調い致さず、我等の田地売り申さず候などと、惣じて難題がましき儀、申すまじく候、為後日のため、よって件の如し
                       石部村
  享保四年亥十二月廿八日       賣主 作左衛門
       安西四町目         同村
         五郎右衛門殿       請人 八兵衛
                       廣野村
                         同断 清右衛門 ㊞

右作徳金の儀は月弐割の勘定をもって元金に相添え、相済まし申すべく候、但し十二月より三月まで、四ヶ月の積りに相定め申し候、以上
 
※ 作徳 - 自作農が、年貢米を納めた残りの得分。

単なる借金ではなくて、年貢の納金の金子の準備が遅れ、間に合わなくなったので、田地を担保に借金して、年貢を納める。4ヶ月後には返済する。返せないときは田地を引き渡すという約束をしている。請人が二人付いているが、保証人に近い役割である。

駿河古文書会で、話が出たのは、その利息の異常な高さである。ここでの利息は「作徳金」という名前で扱われているが、月2割、4ヶ月で8割という高額なものになっている。江戸時代といえども高すぎるではないかという発言もあったが、深く検討はされなかった。

自分なりに考えてみた。利息と言わずに「作徳金」というところに、ヒントがあると思う。年貢の割合が、例えば「五公五民」だったとすれば、収穫の50%を年貢として納め、残りの50%は農家に残る。これを「作徳」と呼ぶ。年貢のお金を田地を担保に貸すのだから、田地の「作徳」を貸主に寄越すことは、合理性があると思われていたのではないだろうか。それが「作徳金」と呼ぶ理由であり、50%の8割つまり収穫の40%を貸主に渡す約束の根拠なのだと思う。借金を返さずに、田地を引き渡せば、50%の「作徳」は払わなくても善いわけで、その代わり、翌年からの「作徳」は買主(貸主)の手に入ることになる。(「作徳」の一年のずれが気になるが)
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5月2日、雨の柏坂を越えた日

(暗い愛南町の内海)

ようやく孫たちに占拠されていた我が家は解放され(孫たちが帰った)、静かな日々が戻った。いよいよロンドンオリンピックが始まる。心がざわざわし始める。今日、イチローがヤンキースへ電撃トレードされた。

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5月2日、愛媛県愛南町の国道56号線を、八百坂を越えてひたすら歩いた。こんな雨の日は休憩がなかなか取れない。バス停の小さな待合所が貴重な休憩所となる。内海の暗い海を眺めながら、小降りになった柏の町に入った。

それより山手に入って柏坂を登ることになるが、その途中で、農家のおばさんからお接待で夏みかんを頂いた。山で食べて、皮は山に捨てれば自然に帰るからという。そう言われても、皆んながそうすれば山は汚れてしまう。もちろん皮は宿まで持ち帰る。そんなやり取りの後、行く道が正しいかどうか、急に不安になった。あたりに遍路シールも見当たらない。一度遍路シールのあるところまで引返し、得心が行ってから先に進んだ。

柏坂も2度目だと気持ちが楽である。最初の目標は柳水大師の休憩所であった。しかし、そろそろ休憩所だと思いながら、なかなかそこまで至らない。どうしても気持ちの方が先へ進んでしまうからだ。柳水大師の休憩所は雨に煙って薄暗かった。ゆっくり休憩を取り、あと一登りで稜線まで出れば、楽な尾根歩きが待っている。清水大師はその稜線よりわずかに下る寄り道である。

清水大師の案内板によれば、昔、娘巡礼が喉の渇きに意識を失い倒れていると、通りかかった弘法大師が揺り起こし、側らのシキミの木の根元を掘れと言い残して姿を消した。言われた通りに掘ると真清水が湧き出し、飲むと持病の労咳まで治ってしまった。その清水を「大師水」と呼び、お遍路さんの喉を潤してきた。現在は清水らしきものは見当たらず、小さな祠があるだけだった。昭和15年ごろには、年一度の祭礼に市が立ち、奉納相撲が催されたという。その説明が信じられないほど狭い空間であった。

集落まで下ってきたが、雨宿りできる休憩場所が見付からないまま、国道56号線を横切って、畑地の集落を歩いた。畑地小学校前に公民館があり、その軒下にベンチがあった。ベンチを借りて休憩する。そこへ、公民館の職員らしい女性がやって来た。昼時だから食事に自宅へ帰っていたのだろう。軒下を借りることの了解を取り、昼食用に買ってあったパンを食べ、側らの自販機で購入したコーヒーで流し込んだ。柏坂の山中で小降りだった雨は、ここへ来てまた雨脚を増していた。

この先、鴨田のヘンロ小屋の所から、峠道に入り、峠を越して番外の満願寺を打つ計画だったが、雨の中、1時間以上の回り道になる。満願寺は取りやめて、今日はそのまま、岩松の大畑旅館に入ることにした。
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「壱銭の賭にても」 - 古文書に親しむ

(4月28日、足摺岬、白山洞門、洞門部分は降りないと見えない)

夕方、「片雲」さんが家山からの帰りだと、立寄る。家は現在、3人の孫たちに占拠されている状態で、足の踏み場も無いので、外でしばらく話す。

「片雲」さんの愛犬、ランも一緒で車から出てくる。人懐っこい犬で、自分にもまとわりついてくる。庭のムサシは興奮して吠え続けたが、やがて疲れたのか静かになった。ランはいくら吠えられても反応しないからえらい。後で散歩のとき、ムサシは興奮の面持ちでランが動いた辺りをかぎ回っていた。

「片雲」さんは、東海自然歩道をランと一緒に歩いてみようと思い立ち、手始めに家山から大日寺まで歩いてきたらしい。一時たりともじっとしていない男である。車で行くとそこまで帰って来なくてはならない。ランを連れていると交通機関も制約されるから、その辺りが難しいところである。

サンチャゴへの巡礼は800キロほど、この秋に40日ほどの日程で挙行したいという。自転車にするか、歩くか、まだ決めかねているようだ。

知り合いからいただいたお遍路の記録、「退職したらお遍路に行こう」及び「70歳2巡目の歩きへんろ日記」の二冊を参考にとお借りする。同じ著者で、一冊は印刷屋で自費出版した本だが、二冊目は自分で製本したものであった。自分も2度目の記録は出版をどうするか迷っている。一冊目は勢いで作ってしまったが、考えてみれば、お遍路費用よりも出版費用の方が掛ってしまう。そういう意味で、この本は参考になるかもしれない。

ところで、自分の2回目のお遍路記録「四国お遍路まんだら 再び」は、執筆中で、半分ほど原稿が書き上がった。現在は足摺岬の先、月山神社辺りを執筆している。(この「執筆」という言葉がいたく気に入っている)猛暑が終る頃には書き上げることが出来そうである。

ただ、先ほども言った通り、出版の目処は立っていない。

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「古文書に親しむ」で解読した二つ目の文書である。賭け事の御法度の請書である。度々お目に掛る内容で、それほど珍しくなく、解読も難しくは無かった。ただ、解読後の意見交換で、問題になったのが、「壱銭の賭にても」の部分である。この文書には日付がない。ただ「壱銭」という通貨単位は明治になってからではないかとという意見があった。しかし、この文書はどう見ても江戸時代のものである。

江戸時代の通貨は金貨、銀貨、銭貨の3種類あって、金貨の単位は「両、分、朱」、銀貨の単位は「貫匁、匁、分、厘、毛」の5種類、銭貨の単位は「貫、文」である。通貨の単位として「銭」が正式に採用されるのは明治になってからであるが、どうやらそれ以前にも一銭、二銭という使われ方はあったようだ。その場合、一銭=一文の意味で使われたようだ。ここでの壱銭は通貨の最低単位としての壱文と同じ意味であり、この文書は江戸時代のものに間違いない。

差し上げ申す御請書の事
一 博奕、賭之諸勝負、並び宿などの儀、前々より
堅く御法度に旨、年々仰せ渡され承知
畏まり奉り候所、なお又この度厳しく御吟味
仰せ付けられ候に付、私ども組々小前末々まで、
残らず吟味仕り候所、壱銭の賭にても勝負
事など仕り候もの、一切御座なく候。なお又後日に
至るまで相互に吟味仕り御法度の旨、急度
相守り諸勝負事など一切致させ申すまじく候、
これにより私ども連印仕り、御請書一札差し出し申す所、
相違御座なく候、以上
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「お買い上げを仰せ出され」 - 古文書に親しむ

(花火の花が咲いている)

夏休みと連休で、名古屋のかなくん、掛川のまーくん、あっくんの孫3人が、我が家を占拠して、大変なことになっている。連夜、前庭では花火の花が咲いている。幸いにこの3日ほど過ごしやすい日が続いているのが救いである。

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土曜日に、「古文書に親しむ」講座があって出掛けた。贅沢禁止のお達しが他の講座でもあったが、ちょっと面白いので取り上げてみた。お馴染みの櫛や笄など贅沢品の所持を厳しく吟味するという内容であるが、そこに「この度御買い上げを仰せ出され」とあるのが初めて見る内容である。

この度、櫛、笄(こうがい)、その外小道具の類、所持いたし候義、厳しく御吟味、この度御買上げ仰せ出され、貴殿方仰せ付けられ、私どもへ申し聞かれ、承知仕り候、則ち村方銘々穿鑿(せんさく)仕り候えども、当村の者、金銀小道具相用い候もの、一切御座なく候、これにより御断り申上げ候、以上
(以下省略)

いくら使用禁止、所持禁止を言っても、ものを所持しておれば、ほとぼりが冷めるまでは箪笥の奥にしまっておいて、そのうちにまた出して来て使い始める。女性の着飾りたいという欲求は消えることはない。だからこの度は御役所で買い上げてくれるというのである。買い上げた上に、販売にセーブを掛ければ、贅沢品使用に歯止めが掛けられるというアイディアだったのか、あるいは買い上げると言って出させて、没収する手荒な処置を考えたのだろうか。

御役所と農民の間は、多くの部分、農民の代表である村役人の自治に任せて、御役所と村役人の間には、ある程度の信頼関係が保たれていた。だから、騙して没収というような手荒な真似はしなかったと思う。それならば、出入の商人などに実際に買い取らせたのであろうか。御役所から出されたお達しは、資料が出版されているから、調べてみようと思う。

この文書は御役所からのお達しに対して、村方銘々を調べた結果、「当村の者、金銀小道具相用い候もの、一切御座なく候」と、買い上げの申し入れを断っている。だから、実際に買い上げることは無かった。

講師も、買い上げるなどという文書は初めてで、解読した時は村方で買うことを禁じたものだと思っていたようである。しかし、解釈では御役所で買い上げるという意味で、それをお断りするということに繋がって、意味が通る。

もう一つ、気になるのは、この文面では御役所からのお達しには金銀の限定がないのに、金銀小道具について調べ、村に無いと言っている。ひょっとすると御役所からのお達しには金銀の限定がされていたのではないか。そうなると、このお達しは贅沢品の禁止だけではなくて、金銀の金属の供出が目的になってくる。このように詳しく見れば見るほど、謎の多い文書である。
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浦方文書 掟 - 駿河古文書会

(5月3日、宇和島城登城)

昨日に続いて、浦方文書の第二弾で、船中における「掟」の文書である。主として、幕府の年貢米である「御城米」について、船で搬送時の船乗りたちへの掟である。板子一枚下は地獄の船乗りたちは、誰からも監視されることが無い分、色々と不正も遣ったらしく、条目を読んでいると、それらの手口が見えてきて、興味深い。

江戸時代、安全な航海のために、積み過ぎを防ぐ目的で「船足改め」が行われた。喫水線のチェックを受けたものであるが、その目的は、安全だけではなくて、不正防止のためでもあったことが判る。

     掟
一 船中において、御城米無沙汰に仕りまじく候、万一、打米、沢手米、欠米などにこれを准(なぞらえ)、御米、少しにても隠し取り候わば、後日聞くというとも、穿鑿の上、船頭、水主の儀は申すに及ばず、品などより、諸親類まで罪科行わるべき事
 附たり 船中、火之用心堅く之を相守り、かつまた諸勝負仕るまじく候事
※ 無沙汰(ぶさた)- 注意をおこたること。不用意になること。なおざりにすること。ほうっておくこと。
※ 打米(うちまい)- 海難にあった廻米船が船足を軽くして安全を保つため、積んである米俵の一部を海中へ捨てること。また、その米俵。
※ 沢手米 - 江戸時代、輸送の途中で海水や雨水に濡れ損じた年貢米。ぬれごめ。
※ 欠米(かんまい)- 不足または損耗した米。


一 御城米、舟積みのみぎり、楫、柱、綱、碇、並び粮米、薪、諸道具などに至るまで、海中にて入るべき分、残らず積み立て、船足改めを請け候、以後何れの浦にても、私の荷物隠して、これを積むべからず、もし日和これ無く、永く逗留いたし、粮米不足の時は、何れの浦において相調え、その趣、所の者より證文これを取るべく、自然、粮米に偽り、これを准(なぞらえ)、商売の米、これを積むにおいては、急度曲事申し付くべく候事
※ 船足改め - 江戸時代、廻船の航海安全を期するため、船方が規定の船足以上に積荷をしないように、荷主またはその代表者が行なう船足の検査。
※ 自然 - 当然


一 難風に遭い、打米仕り候わで叶わざる時は、粮米残らずこれを捨て、その上にて御城米捨て申すべく候、若し穀類残り置くにおいては、これを召し上ぐべき事

一 沢手米これ在るは念を入れ、これを干すべし、附り、海中にて船具打ち捨て、不足においては、着船の湊にて相調うべき事

一 江戸湊において、御城米相渡さざる以前、粮米の余分、改めなくして、陸へ揚げ申すまじく候事

右の條々、慥に相守り申すべく候、若し相背く族これ在るは、訴人に出るべし、たとえ同類たりといふとも、その罪を許し、御褒美これを下さるべく、かつ又怨(あだ)をなさゞる様に仰せ付けらるべく候、自然、隠し置き、脇より相聞き候わば、船頭は勿論、水主、かしきに至るまで、悉く罪科行われるべきものなり
※ かしき - 飯をたくこと。また、その人・場所。

 寛文十三丑三月
前書の通り、仰せ出され候、御條目の趣、堅く相守るべく候、以上
寶永八年卯三月   大草太郎左衛門
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