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「竹下村誌稿」を読む 46 遠江国 3

(清水町の秋葉社/旧金谷町の秋葉社・秋葉灯籠10/1月25日撮影)

今朝、やや寒さもゆるみ、金谷菊川方面の神社巡りに出掛けた。4時間ほど歩いたが、その話はまた後日。

夕方5時、NHKラジオ第一(静岡)で、静岡県に多い名前という話で、西の鈴木、東の望月という話題で、望月の方で歴史講座のS氏が出演された。話したいことはたくさんあったはずだが、短い時間で他の話題になって、消化不良だったのではないかと思った。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

また大日本史(巻二百九十二)に、
※ 大日本史(だいにほんし)- 歴史書。1657年水戸藩主徳川光圀の命により着手、1906年(明治39)完成。三九七巻。神武天皇から後小松天皇までの歴史を、漢文の紀伝体で編述。

遠江国上古(延喜式)曰、素賀國、遠淡海國、久努國。(旧事本紀)而石田、太田、土方、榛原等地隷焉。(日本書記、古事記)大祖御宇置素賀國、以美志印命為造。成務帝建久努國、印旛足尼為造。(旧事本紀)国有大湖因名遠淡海、蓋対近淡海。(古事記、万葉大意)大化改新停三国造、定為今名(日本書記、續日本紀、和名抄)

遠江国、上古(延喜式)曰く、素賀国遠淡海国久努国。(旧事本紀)而(しこう)して、石田、太田、土方、榛原等の地、ここに隷(れい)す。(日本書記、古事記)大祖御宇、素賀国に置く。美志印命(みしいぬのみこと)を以って、と為す。成務帝、久努国を建て、印旛足尼(いんばのすくね)を造と為す。(旧事本紀)国に大湖有り。因って、遠淡海と名付く。蓋し、近淡海と対(つい)とす。(古事記、万葉大意)大化改新、三国造(くにのみやつこ)を停(とど)む。定めて、今の名と為す。(日本書記、續日本紀、和名抄)

※ 素賀国(すがこく)- 現・掛川市大須賀周辺。
※ 遠淡海国(とおつおうみこく)- 現・静岡県西部、遠州平野一帯。
※ 久努国(くどこく)- 現・静岡県磐田市・袋井市周辺。
※ 大祖御宇(たいそぎょう)- 大昔の初代の御代。
※ 造(みやつこ)- 古代の姓(かばね)の一つ。地方的君主の尊称などといわれる。古くは,国造や職業的部民の統率者である伴造がみずから称したものであろう。
※ 成務帝(せいむてい)- 成務天皇(第13代天皇)日本全国の数多くの国造を任命したと伝わる。


とありて、湖水によりて国号の起りしと云うことは、なお美濃、尾張の曠野に基づき、三河、駿河の巨川によりて号(なづ)けたると同例なるべければ、何人も異存なかるべき筈なり。
※ 曠野(こうや)- 広々とした野。ひろの。

然れども、その起因となりし湖水につき、古来二説あり。一は磐田海説にして、一は浜名湖説なり。遠江史蹟瑣談に遠江国の起因は浜名湖あるによれりと云い、遠記傳には、

所以號遠江國者、上古國之墺區、有淡海、去皇都遙遠、故號遠津阿不美、淡海則磐田海也(淡海國玉神社在磐田郡)

遠江国と号す所以(ゆえん)は、上古、国の墺区淡海あり。皇都を去る遙か遠く、故に遠津阿不美(とおつあふみ)と号す。淡海、則ち、磐田海なり。(淡海国玉神社、磐田郡にあり。)

※ 墺区(まほらま)- まほら。まほろば。すばらしい場所。
※ 淡海(あわうみ)- 湖。湖水。おうみ。潮海(しおうみ)に対していう。
※ 淡海国玉神社(おうみくにたまじんじゃ)-静岡県磐田市見付2451にある神社。社格は旧県社。遠江国総社。


として、磐田海(即ち、今の浦の旧湖)説を主張し、見付中泉辺りの口碑にも、今の浦によれる由、云い伝えたり。


読書:「浪人半九郎 父子十手捕物日記15」 鈴木英治 著
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「竹下村誌稿」を読む 45 遠江国 2

(古横町の秋葉社/旧金谷町の秋葉社・秋葉灯籠9/昨日撮影)

古横町の秋葉社は、「古横町秋葉神社とお火の舞」として、しまだ市民遺産に登録されている。制定の概略によると、

旧金谷町の各町内にある秋葉神社において12月15日に行われる「お火の舞」では、住民が宿場町に根付いた金谷町独自の火坊の信仰「おんひらひら〜」と合唱します。各町内で参加者が減るなか、古横町は現在も町内全戸の住民で行っております。
※「おんひらひら〜」- 秋葉権現の御真言「おん ひらひら けん ひらけんのう そわか」のこと。

金谷の各町内に秋葉社が置かれているのは、かつて、こういうお祭りが行われていたからだと、納得した。

午後、歴史講座のS氏宅に、報徳社の建物のミニチュアを借りにうかがう。S氏も、自分に輪を掛けた話好きで、2時間近く話し込んでしまった。興味あるお話をたくさん聞けて、特別講義を受けたような気分である。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

地理志料に、
※ 地理志料(ちりしりょう)- 日本地理志料。村岡良弼 著。明治35年出版。

按上古國郡之大小、統轄之制不可得詳、神武紀有莵狭國、吉備國、筑紫國、浪速國、有河内國草香邑、倭國磯城邑、莵田縣穿邑、当時大之謂久爾、小之謂阿賀多、謂牟羅、後隨大小之差、譯而等此、國郡郷里之制定矣。

上古を按ずるに、国郡の大小、統轄の制、詳(くわ)しきを得べからず。神武紀、莵狭(宇佐)国、吉備国、筑紫国、浪速国あり。河内国草香邑、倭国磯城邑、莵田(宇多)縣穿邑あり。当時、大、これを久爾(くに)と謂(い)う。小、これを阿賀多(あがた)と謂い、牟羅(むら)と謂う。後、大小の差に随いて、訳(わけ)てこれを等(はか)り、国、郡、郷、里の制を定む。


要するに上古は地、郷、郡、州をも、なお国(くに)と訓みたれば、国は全く土地分界の汎称たるに過ぎざりき。
※ 汎称(はんしょう)- 同類のものを一まとめにしていうこと。総称。

本国初め、遠淡海(とほつあふみ)と称し、後、遠江と改む。遠江を止保多不美(とほたふみ)と訓ずるは、遠淡海の約言なり。旧事記に遠淡海と書し、万葉集、等保都安布美(とほつあふみ)、また等倍多保美(とヘたほみ)と記し、和名抄、止保多阿不三(とほたあふみ)に作る。何れも遠淡海の義とす。

按ずるに、近江国大湖(琵琶湖)あり。淡海国と云う。この国もまた大湖(浜名湖)あり。淡海国と云いしを、帝都を隔つること遠ければ、遠淡海(とほつあふみ)と称し、近きを近淡海(ちかつあふみ)と称せしものならん。古記事に、近江を淡海とも近淡とも書せしに対すれば、弁解を要せざるべし。遠江風土記逸文に、

遠江始、青遠淡海、此國有大江、自帝都遥遠、故改名遠江。

遠江は始め、遠淡海と称す。この国、大江(大きな入江)あり。帝都より遥か遠く、故に改め、遠江と名づく。


とあり。けだし、和銅中、国郡二字の制により、遠淡海を遠江に改め、近江に対せしめしなり。諸国風土記の録、申すも、この時にありしと云う。
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「竹下村誌稿」を読む 44 遠江国 1

(泉町の秋葉社/旧金谷町の秋葉社・秋葉灯籠8/1月25日撮影)

今日より第三章沿革、その第一節は遠江国である。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

     第三章 沿  革
本村の沿革を稿するに当り、先ず村と系属的関係を有する国、郡、郷、庄を叙せんとす。然れども、古代に於ける地方のことたる、素より載藉のこれを詳らかにするものなく、或はその名を伝えて、その事蹟堙滅して討(たずね)ぬべからざるものあり。故にその村と関係する所の大要を述ぶるに止め、特に第一節乃至四節を設け、以って本村の沿革と倶に、この章をなす所以なり。
※ 載藉(たいせき)-(地方のことを)載せている書。
※ 堙滅(いんめつ)- うずもれて跡形もなくなること。


      第一節 遠 江 国
国という名は、すでに神代に見えたり。大宝の分国制に全国を五畿七道とし、すべて五十八国三島なりしが、天平宝字(てんぴょうほうじ)元年(757)に六十六国三島となり、天長元年(824)多褹島(種子島)を大隅国に隷(れい)せしより、延喜式の国名は六十六国二島となる。その内、遠江国あり。自後(以後)数百年の久しき国界の大に変易せしものなし。明治二年、北海道を置き、同廿一年、畿内八道八十五国となる。
※ 延喜式(えんぎしき)- 平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)で、三代格式の一つである。
※ 変易(へんえき)- 変わること。また、変えること。


按ずるに、伊呂波字類抄に、国「クニ」、州、邦、縣、同じとあり。国は「クム」とも「クモ」とも、単に「ク」とも云い、区域の限りある義なるべし。久爾都知(くにつち)の考に久爾(くに)と云う名は限りの意なり。東国にを久祢(くね)と云うにて知るべし。また万葉集に天皇(すめらぎ)の敷座(しきます)国とあり。また東雅に、
※ 伊呂波字類抄(いろはじるいしょう)- 平安時代の国語辞書。橘忠兼撰。3巻本として1180年ごろ成立。
※ 垣(くね)- (主に、関東で、くねという)垣根。生け垣。
※ 東雅(とうが)- 語源書。新井白石著。享保2年(1717)に成立。


古事記に国土の字をクニツチと云いしを、書記には、州、国、の字を用いて、クニツチと読めり。故に国とは、なお土と云う義なるべし。

とあり。上古は地方の区域の大小によりその名を異にし、国と云い縣と云い邑と云いしものゝごとし。
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「竹下村誌稿」を読む 43 用水 7

(扇町の秋葉社/旧金谷町の秋葉社・秋葉灯籠7/1月25日撮影)

今日は寒さも少しだけゆるんだ。午前中、T氏へ古文書のお礼の葉書を出す。早速、その古文書も含めて、来年度の教材の準備にかかる。30数枚分、半年弱程の教材を決めた。早速、解読にかかろうと思う。静岡のS氏より、大日本報徳社の建物のミニュチアを借りて来たとの話。近日中に借りにうかがう予定である。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。今日で、「第二章 河川」の解読を終える。明日から、「第三章 沿革」の解読に入る。

さて、用水堰入れの困難なることは、延享四年(1747)明細帳に、

用水場所壱ヶ所  大井川より取り請けし申候。
但し、用水堀場の儀、出水の度ごとに堰入れ所、大分相違仕り候。井場組合の義は横岡村、横岡新田、志戸呂村は半役、番生寺村、当村ともに、高千三百石余の立会いにて、井場仕り候。堰道具は川倉木、並び、杭木、縄、明き俵粗朶、所々にて買い立て申し候。井場世話役の義は、右組合相談にて、前々より二人立て置き申し候。もっとも、給米六俵に相定め置き申し候。人足の義は高掛りにて差し出し申し候。年々百姓費えの入用相掛り、難儀仕り候。然る所に、雨天出水の節は、堰、道具流失仕り、その上、石間砂土の浅地に御座候に付、一日水入らず候えば、作毛枯れ、入用掛り申すのみならず、御田地日損仕り、百姓困窮仕り候。

※ 明き俵(あきだわら)- 空き俵。米の入っていない俵。
※ 藤(ふじ)- ここでは、藤つる。
※ 粗朶(そだ)- 切り取った木の枝。
※ 給米(きゅうまい)- 江戸時代、給与として支給される米。


とあるごとく、古今を通じて、その揆を一にす。されど従前は、多額の費用を要せざりしを以って、宝暦、安永の頃までは、村内の組割りとなし来たりし慣例ありしも、輓近、費用の多額となりしにより、何れの時代よりか、高割りと改めしものなり。組割り当時の割当てを閲(み)れば、
※ 揆を一にす(きをいつにす)- 同じやり方をする。
※ 輓近(ばんきん)- ちかごろ。最近。


安永九子年(1780)、年中用水入用、総割り覚え
一 銭七拾六貫四百三十七文          高当り   竹下分
   内 三拾貫文              春組集の下り
     金六両六百四文           用水拝借銭下り
   銭八貫八百三十三文           不足
     この割り 十組へ割り 但し一組分  八百八十三文ずつ
     子十一月廿日割り出す        井役人    (渡辺氏記録)


大凡(おおよそ)水利に関する費用は、用水堰入れ費用のみならず、大井川国役金あり。水防費あり。年々高割りにて賦課せられしが、明治維新に至り、皆な廃せらる。その負担金額は、次の名細帳に見えたる抄文にて、推知するを得べし。
※ 推知(すいち)- ある事実をもとに、おしはかって知ること。

延享四年名細帳 大井川国役金として、毎年金弐分永参拾文ずつ、大草太郎左衛門様御役所(中泉)へ上納仕り候。

明治元年名細帳 大井川通り水防高役金の儀、高百石に付、金壱両ずつの処、当辰年より金壱両を増し、高百石に付、金弐両ずつ、出金致すべき旨、島田御役所より御達しこれ有り候。
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「竹下村誌稿」を読む 42 用水 6

(中町の秋葉社/旧金谷町の秋葉社・秋葉灯籠6/一昨日撮影)

吉田の無店舗の古本屋、T氏から講座のテキストにと、10枚ほどの古文書を送って頂いた。外にも森町から出た古文書を入手したとかで、また見せてもらいに行かねばならない。T氏は、年の差、40歳を越すの若い知り合いである。古文書の世界に入って、上は90代から下は20代まで、実に広範囲な新しい知り合いが出来て、嬉しい限りである。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

また、享保二年(1717)三月、大井川の堤防修築を請いて、幕府に致せる書、左の如し。

    恐れながら書付をもって御願い申し上げ候御事
                  大草太郎左衛門様御代官所
                    遠江国榛原郡大井川水下村                                  横岡両村
                             竹下村
                             番生寺村
                             志戸呂村
                             島村
                             牛尾村
                             金谷町
                             川原町

※ 大草太郎左衛門(おおくさたろうざえもん)- 大草太郎左衛門政清(正徳3年~享保6年、中泉代官、島田代官を兼任)

右村上、横岡村前、大井川川除け、近年御普請御座なく、度々の満水にて、堤籠出し、圦樋(いりひ)とも、流失仕り、段々御田地へ欠き込み、危うく御座候に付、御代官様御見分の上、去る春少々ずつ、籠出し二ヶ所、堤三十間、当分の防御として、目論見の内、仕越し御普請仰せ付けられ、則ち、御順見様出来形御検分遊ばされ候御事。
※ 御普請(ごふしん)- 江戸時代、幕府や藩が施工した土木工事。とくに堤川除・用水・道橋等の普請において、周辺村落が費用を出して行った工事を自普請というのに対し、領主側が費用を負担して行った工事をいう。
※ 籠出し(かごだし)- 川の流れを変えたり、堤防崩れを防いだりするために、川に突き出して蛇籠を並べること。
※ 仕越し(しこし)- 仕掛り。
※ 御順見様(ごじゅんけんさま)- 巡見使。江戸時代,将軍の代替りに際して全国の施政・民情を査察するため派遣された幕府の上使。享保元年(前年)に巡見使が検分している。
※ 出来形(できがた)- 工事において工事が済んだ部分。


一 大井川、横岡村前へ一筋に片寄せ、川筋掘れ窪み申し候。前々は七丁余上、壱番出し元へ、圦樋これ有り、用水取り来たり申し候処、右、出し堤、圦樋流失に付、五ヶ年以来、七丁程下にて、川窪の所より、用水堰取り申し候。沈め枠、川倉、諸色、大分入用掛り、井堰仕り候えども、地高の所へ用水揚(あ)がりかね、年々旱損仕り、御田地仕付け(植え付け)荒れに罷り成り、百姓困窮仕り候。剰(あまつさ)え、去る申七月、満水(洪水)以後、猶々(なおなお)川筋付き寄り、悉(ことごと)く掘れ立ち、当年に至り、用水堰入れ申すべき様御座なく、当作仕付け前に差し掛り、難儀至極仕り候。横岡村より、水押し入り申し候わば、町、在八ヶ村高四千石余、川成り仕り、金谷町往還、水先に罷り成り申すことに御座候事。
※ 旱損(かんそん)- 日照りによる田畑の損害。
※ 水押し入る(みずおしいる)- 洪水で堤が破れ、水が流れ出る。
※ 川成り(かわなり)- 洪水などのために、田地が川原となって荒廃すること。
※ 水先(みずさき)- 水の流れて行く方向。


一 右御普請所の儀、春、水出で候ては、川堰成し難く御座候に付、御代官様へ御願い申し上げ候えば、御見分の上、渇水の節、川堰御仕立て成され候えども、御普請御座なき以前は、先だって、仰せ付けさせらる、出しの元、圦樋伏せ込み、用水取り申し候様に、願い上げ奉り候。御普請御延引遊ばされ候に付、ただに苗代水も御座なく、御田地荒れ地に罷り成り申し候。御慈悲、急ぎ御普請仰せ付けさせられ、当作仕付け候様に、恐れながら願い上げ奉り候御事。
※ 延引(えんいん)- 物事を先に延ばすこと。遅らせること。

右の条々御慈悲の御意、仰ぎ奉り候、以上。
   享保二年(1717)酉三月     右村々惣代
                      竹下村名主 八左衛門  ㊞
                      横岡村名主 與惣右衛門 ㊞
右両人、三月十四日、江戸へ出立、十九日江戸着。翌日より御奉行様方へ罷り出で、御訴詔相叶う。四月六日、江戸を罷り立ち、十日帰着致し候。(以上、八左衛門氏記録)


読書:「水を出る 軍鶏侍」 野口卓 著
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「竹下村誌稿」を読む 41 用水 5

(根岸の秋葉社/旧金谷町の秋葉社・秋葉灯籠5/昨日撮影)

いつもの通り道で見慣れた秋葉社だが、写真に収めたのは今回が初めてであった。その脇の畑を借りて、亡くなったWさんが農作業をしていたのを思い出す。今はもう遠い昔である。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

また、用水堰埭困難のため、宝永七年(1710)代官所に貸与金を請いたる口上書存す。即ち次のごとし。
※ 堰埭(えんたい)- 水位を一定に保つために堰き止めること。

       恐れながら口上書を以って申し上げ候

一 横岡村より揚げ候用水、上井村々、横岡村、竹下村、志戸呂村、番生寺(村)、高合せて千石余にて、用水揚げ申し候処に、当年別して本瀬悪しく、川筋深く罷り成り、(たけ)が立ち申さず、常の川倉にて堰立て申す義、成り難く、二階川倉仕出し、崎より用水揚げ申し候処に、川少し水増し申し候ても、本瀬にて御座候間、度々川倉押し流し、漸く堰立て申し候。その上、水に段々川倉入り立ち、日々井普請仕り候。

※ 長が立つ(たけがたつ)-(「長(たけ)」は身の丈)深さが、人が入って背が立つほど。
※ 川倉(かわくら)- 材木で作った牛枠の小型のもの。取水口に川倉を並べ、石・蛇篭などを置いたり、木を取り付けて、圦樋へ水を導く。この全体を井堰と呼ぶ。
※ 二階川倉(にかいかわくら)- 流れが背が立たないほど深いため、まず流れに沈め枠を沈め、その上に川倉を設置する。


右村々、小高に御座候に付、人別、家別、高掛りに仕り候えども、困窮の百姓続けかね申すに付、日雇い人足に仕り、弥(いよいよ)以って難儀仕り候。近年は井林に川倉木御座なく候に付、山中より買い下し、その外諸色買い立て、日雇金ともに、大分入用、方々にて借用申し候。今程は、用水入用金に手支え調えかね、難儀仕り候。御慈悲に金子三拾両御拝借、右村へ仰せ付けられ下され候様に願い奉り候。返上納の儀は、当暮れ、井揚げ人足御扶持方、下され候内を以って、急度差し上げ申すべく候御事。
※ 小高(こだか)- 石高が小さい。
※ 高掛り(たかかかり)- 高に応じて、(井普請の)負担をすること。
※ 井林(いばやし)- 井堰に使う材木を供給する林。(この井堰の近くに「居林」という地名有り。)


一 大井川より用水取り候村々も、井口悪しく御座候節、段々井場見立て、用水大高にて揚げ申し候処に、上井堰の儀、上一ヶ所に御座候て、外に用水揚げ候箇所御座なく候。村高千石余にて、別して入用大分掛り、難儀仕り候に付、御慈悲に御拝借、仰せ付けさせられ下され候様、大小の百姓願い奉り候御事。

右の趣、恐れながら御意仰ぎ奉り候、以上。
  宝永七年(1710)寅七月      横岡村庄屋  七郎左衛門 ㊞
                        同   次郎右衛門 ㊞
                        組頭  五郎右衛門 ㊞
                        同   與惣右衛門 ㊞
                        同    金右衛門 ㊞
                        同    外四人  ㊞
                     竹下村庄屋   八左衛門 ㊞
                        組頭   勘左衛門 ㊞
                        同    惣左衛門 ㊞
                        同    助左衛門 ㊞
                        同    五左衛門 ㊞
                        同    三右衛門 ㊞
                     志戸呂村庄屋  源右衛門 ㊞
                        組頭   彦右衛門 ㊞
                        同    文右衛門 ㊞
                        同    與惣太夫 ㊞
                        同    與五平  ㊞
                     番生寺村庄屋  藤左衛門 ㊞
                        組頭    清兵衛 ㊞
                        同    伊右衛門 ㊞
                        同    孫左衛門 ㊞
    御代官様
右の通り口上書差し上げ、御訴詔申し上げ候処、金弐拾両拝借、仰せ付けられ候。
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「竹下村誌稿」を読む 40 用水 4

(宮崎町の秋葉社/旧金谷町の秋葉社・秋葉灯籠4/今年1月2日撮影)

昨夜の冷え込みは尋常ではなくて、初めて二階の水洗が凍り、朝起きたら家人が水が出ないと騒いでいた。増築してから20年も経つが、一度も水道管が凍ることはなかったから、この寒さは異常といえる。さいわい、お昼前には氷も溶けたようで、水が出るようになった。

午後、金谷の街中にある秋葉社を六つほど写真に収めて来た。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

寛永二年(1625)、五ヶ村の庄屋、組頭は、連署して書を代官所に致し、大井川高瀬船上下のために、用水の堰埭困難なる事情を訴えて、これが通航の禁止を請いたり。その書、左の如し。
※ 高瀬船(たかせぶね)- 河川で使用する平底の小舟の一つ。
※ 堰埭(えんたい)- 水位を一定に保つために堰き止めること。


一 今度、両川根二十三ヶ村の者ども、相賀村、横岡村より上へ、高瀬舟運送、御願い申し上げ候由、驚き入り存じ奉り候。金谷町並び近村、高四千石余御座候田地へ、井水堰入れ候場所にて、これまで、天王沢と申す所に御座候。
※ 両川根(りょうかわね)- 中川根と下川根(川根)を指す。三川根というと、これに本川根が入る。

先年御用木出し候節、少々高瀬舟上下仕り候てさえ、川通り掘れ、井水せぎ入れの義、成りがたく、水乗りかね、右の田地悉(ことごと)く年々日損仕り、大勢の百姓困窮仕り候処に、今度高瀬舟上下仕り候わば、弥(いよいよ)川掘れ、井水取り候儀罷りならず、大分(だいぶ)の田地、荒地に罷り成り申すべくと、迷惑至極に存じ奉り候。
※ 日損(ひそん)- 日照りのために田畑が乾いて損害を受けること。

殊に拙者(せっしゃ)ども村々は、金谷町定助郷にて、上りは坂道、下りは大井川にて、上下ともに難所にて、御伝馬助(す)け役相勤め申す百姓どもにて御座候間、御慈悲を以って、高瀬船上下仕らず候様に、仰せ付けさせられ下さるべく候事。
※ 定助郷(じょうすけごう)- 江戸時代、宿駅の常備人馬が不足した際に、その補充を常時義務づけられた近隣の郷村。

右申し上げ候通り、高瀬船上下仕り候わば、船道に付、川掘れ井水取り候儀、罷りならず、大分の田地、荒地に相成り、御年貢並び御役など相勤め候儀成りがたく、大勢の百姓退転仕るべくと迷惑至極に存じ奉り候。右の場所より外、井水堰入れ候処御座なく候間、御慈悲の御意を以って仰(あお)ぎ奉り候、以上。
※ 退転(たいてん)- 落ちぶれて立ち退くこと。

   宝永二年(1705)酉二月     五ヶ村村々 庄屋  名 ㊞
                           組頭  名 ㊞
       御代官様
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「竹下村誌稿」を読む 39 用水 3

(下志戸呂の秋葉社/旧金谷町の秋葉社・秋葉灯籠3/昨年12月26日撮影)

今日も寒い。昼に風花が舞い、夜には車にうっすらと雪が積もっているという。

夕方、長兄から、30分以上の長電話。昨年の不幸で、気落ちしていたけれども、旅行も始めて、ようやく少しずつ元気を取り戻してきているようで、少し安心した。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

また、同(元禄)十二年(1699)十二月、島田代官所より、大井川通り、用水関係の町村に対し、井上げ人足扶持米を交付したる受領書、左の如し。

    一 米八拾四石九升             島田町
                          細島村
                          上青島村
                          下青島村
                          瀬戸新屋村
                          御請新田村
                          上新田村
                          相川村
                          上泉村
                          源助新田
                          善左衛門新田

    一 米三拾七石七升五合           横岡村
                          竹下村
                          番生寺村
                          志戸呂村
                          牛尾村
                          島村
                          金谷町
                          同 河原町
   合せて、米百弐拾壱石壱斗六升五合  斗り立て
   代金壱百四拾四両、永弐百四拾四文  但し、壱両に付八斗四升替え

右、当卯年、大井川通り村々、用水堰浚い、井上げ、高百石地役五十人の外、前々の如く御扶持米下され、慥(たしか)に請け取り申し候。村々銘々割符仕るべく候、以上。
  元禄十二卯年十二月            右村々
                          庄屋   名 ㊞
                          組頭   名 ㊞
    御代官様

※ 斗り立て(はかりだて)- 年貢米一俵を三斗五升とし、延米二升を加えて納入したこと。
※ 延米(のべまい)- 江戸時代、正租の付加税。年貢米の目減りをカバーするために付加されたもの。一俵三斗五升に対して、関東地方で二升の延米を加えた。出目米(でめまい)。
※ 割符(わりふ)- 後日の証拠となる文書や物。ここでは請取証。


即ち、この時、竹下村は六石壱斗六升五合を受けたり。


読書:「竹林精舎」 玄侑宗久 著
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「竹下村誌稿」を読む 38 用水 2

(番生寺の秋葉社/旧金谷町の秋葉社・秋葉灯籠2)

写真は昨年11月21日撮影。番生寺の秋葉社は番生寺の大井神社境内にある。

草津白根山が噴火。本白根山の方で、3000年振りの噴火だという。スキー場が近く、雪崩も発生、死者も出たようだ。白根山系では無警戒の山だったようだ。いつも自然災害は、人間の予測を越えて来る。

夜、金谷宿大学の教授会に出席する。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

その一例を挙ぐれば、元禄十一年(1698)十月用水堰入困難のため、代官所へ出せし書、左の如し。

      恐れながら書付をもって申し上げ候
一 当年、上井用水一円、揚げかね申すに付、天水を待ち、六月中までに植え付け申し候故、大分日枯れ仕り候。元来当村、土浅く砂地に御座候えば、水持ち悪しく、別して日損仕り候。その外、荒し置き候田地も御座候。御検分の節、河合仙右衛門様、委細御見分成され候通りに、御座候御事。

※ 天水(てんすい)- 空から降った水。雨水。
※ 日損(ひそん)- 旱損。ひでりの被害。


一 世間に勝れ、諸役など御座候間、田地耕作も成りかね、よって去る子年、困窮仕り候処に、当年、別して金谷助郷しげく、夏中は度々の満水に付、大代川、大井川筋へも限らず、昼夜罷り出で、その上、人別、家別、或は高掛り、日々井普請仕り候。かれこれ諸役などを以って、間日もなく相勤め、困窮致し候所に、当丑も夥(おびただ)しき日枯れ仕り候に付、当冬中の夫食並び麦種とも御座なく、迷惑仕り候事。
※ 満水(まんすい)- 水がいっぱいに満ちること。洪水。
※ 間日(まび)- ひまのある日。仕事と仕事の間の日。
※ 夫食(ふじき)- 江戸時代、農民の食糧のこと。
※ 迷惑(めいわく)- 困ること。(人のしたことで不快になったり困ったりする「迷惑」とは、少し意味合いが違う)


一 去年、麦作違(たが)い、秋毛は日損仕り、難儀に存じ奉り候所に、又々当年麦作散々違い申し候。か様に打ち続き、作毛悪しく、百姓渡世成りかね申し候。然る所、当立毛、大分日損仕り候に付、弥(いよいよ)以って、身命を送り申すべき様、御座なく候。殊更(ことさら)当村の儀は山林も御座なく、馬草、薪などまで御礼米を出し、その外、山畑御座なく候。かくの如く、何にても百姓勝手に罷り成り候事、御座なく、段々困窮仕り候処、当年の日損故、冬中の夫食も御座なく候間、来春は弥以って飢えに及び申すべくと、存じ奉り候所に罷り在り、御慈悲を以って、田地をも仕付け候様に、恐れながら願い奉り候御事。以上
※ 秋毛(しゅうもう)- 秋の作物。稲作のこと。
※ 作毛(さくもう)- 稲や麦など、田畑からの収穫物。
※ 渡世(とせい)- 社会の中で働きつつ生きていくこと。世渡り。なりわい。稼業。
※ 立毛(たちげ)- 田畑で生育中の農作物。主として稲についていう。
※ 身命(しんめい)- 身体と生命。自身のいのち。
※ 勝手(かって)- 暮らし向き。生計。
※ 仕付け(しつけ)- 作物を植え付けること。特に、田植え。


 元禄十一年寅十月       竹下村庄屋   八左衛門 ㊞
                   組頭   三右衛門 ㊞
                   同    勘左衛門 ㊞
                   同    忠右衛門 ㊞
                   同    喜平   ㊞
                   同    惣左衛門 ㊞
                   同    次郎馬  ㊞
    吉田弥市右衛門様


読書:「ほっこり宿 小料理のどか屋人情帖13」 倉阪鬼一郎 著
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「竹下村誌稿」を読む 37 用水 1

(竹下の秋葉社/旧金谷町の秋葉社・秋葉灯籠1)

これからしばらく、旧金谷町に残る秋葉社・秋葉灯籠の写真を集めてみようと思う。その第一に、まず竹下の秋葉社である。この1月14日に撮影したもの。

今夜は関東が大雪で、東京も車の立ち往生が多発して、大変なことになっているようだ。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。「大井川」の項は昨日で終り、今日からは「用水」の項に入る。

      第四節 用  水

本村は山河丘陵なく、平夷なる田園、これを充たせるを以って、水利に乏しく、村の西南端に大代川あるも、流水常に涸渇して、利用するを得ず。これに加えて、土地概ね砂礫を含有し、いわゆる掛け流し水なれば、灌漑用として多量の水量を要するを以って、これが供給を大井川に需(もと)めざるべからず。
※ 平夷(へいい)- 平らであること。複雑でないこと。

故に、本村創草の当時より、すでに付近の村落、横岡、横岡新田、志戸呂、番生寺と倶(とも)に、五ヶ村の組合を約し、横岡村地先に於いて、大井川の堤防に圦樋を設け、その川流を堰上げ、これを引きて用水となす。上井用水組合これなり。この圦樋の下に大小数十条の水路を設けて灌漑に便す。また隣村、牛尾、島及び金谷町、金谷河原の四ヶ町村組合も、大井川より用水を引く。これを下井用水組合と称す。
※ 創草(そうそう)- 草創とも。新しく物事を始めること。また、物事の始まり。
※ 圦樋(いりひ)- 水を引き入れたり出したりするために設けた水門の樋(とい)。樋口。
※ 堰上げ(せきあげ)- 堰を造って水位を上げること。


寛永二年(1625)検地奉行三宅帯刀(たてわき)、用水路を定むるに方(あた)り、上井、下井を合併して用水を引かしむ。上井用水路の内、字山井と称する水路は、延宝四年(1676)十二月中、代官所に請い、志戸呂に於いて開鑿(かいさく)せしものなり。当時長谷川藤兵衛代官たりしが、近傍管内に命じて、工事を幇(たす)けしめ、湯日、谷口以北、家山以南の町村に人夫を課し、忽ちその功を奏せしめたりと云う。
※ 検地奉行(けんちぶぎょう)- 江戸時代、勘定奉行支配に属する検地を統轄する役人。

明和七年(1770)に至り、下井用水は上井用水と全く分離して、牛尾地先に水門を設け、用水を引くこととなれり。本村の内、斉藤島と称する旧高三十六石の田地は、この下井用水路より支線を設けて、灌漑に充用すといえども、下井用水費の賦課を受けず。これは、下井用水の内、上井用水の供給を受くる田地ありて、費用の相殺をなす習慣あり。この上井用水組合に属する負担石高一千弐百国、下井用水組合負担石高弐千四百石と称す。

しかして用水の堰入費用年々多額を要し、民力に堪え難き場合あれば、或は領主に向いて補助を求め、或は幕府に対して保護を請(こ)いたる慣例あり。
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