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「美耶巨萬有提」の解読 13


「美耶巨萬有提」の8P

「美耶巨萬有提」の続き、7P14行目より。

四月三日、徒とめて驛を多つ。朝乃ほとハくもり多る可、巳時より
空者れぬ。瀬田乃長橋のも登(本)よ里、小舟尓能里て、石山寺
まう(詣)てぬ。名多ゝる石乃多ゝすまゐ(佇まい)なといふもさら也。楓乃
若葉に、月乃秋をこ登さらに(殊更に)(ちぎ)ま本しう、立可へり
石山寺尓みん登おもふ。月登紅葉は命那李け里。も登
乃小舟に能里(乗り)て漕(こぎ)いつれハ、粟津可原な登、はる可尓
見ゆ。膳所(ぜぜ)乃城乃佐ゝ波尓う津ろ(映ろ)ひて、志らつ登みえ多
るな登、け志起(景色)見過(すご)か多く(難く)、大津乃笠松多てる
(岸)以多り(至り)て、こゝより三井寺にまう(詣)つ。此寺も谷汲尓飛と(等)
志く、観世音乃扉飛ら起て、を可(拝)ましむるをり(折り)那里。
可くふ多(二た)所まて、世尓多ふと(尊)可る霊像をゝか(拝)みしハ、宿世
結縁なりや。都よ里まう(詣)徒る人盤別那可ら、志賀の山
越ならて、道もさ里あへ須(避り敢えず)小関越して乃時者可り、
京乃旅のやと里(宿り)に徒きぬ。明日四日より廿三日まて、物
せし事とも乃志けゝ連(繁けれ)ハ、こ登(異)もの尓志るしつ。
※ 巳時(みどき)➜午前十時ごろ。また、その前後の二時間。
※ 佇まい(たたずまい)➜立っているようす。また、そのもののかもし出す雰囲気。
※ 殊更に(ことさらに)➜ 特別に。わざわざ。
※ 契る(ちぎる)➜ 固く約束する。
※ 粟津ヶ原(あわづがはら)➜ 大津市の琵琶湖に臨む松原。 近江八景の一。
※ 膳所城(ぜぜじょう)➜ 大津市本丸町にあった城。
※ 宿世(すくせ)➜ 前世。
※ 避り敢えず(さりあえず)➜ さけることができない。
※ 小関(こぜき)➜ 逢坂の関より北方の山中にあった京都山科に至る道の、途中に設けられた関。逢坂関を大関とするのに対する称か。
※ 未乃時(ひつじのとき)➜ 午後二時の前後二時間。

【 読み下した文】

四月三日、つとめて驛(うまや)をたつ。朝のほどは曇りたるが、巳時より
空晴れぬ。瀬田の長橋の本より、小舟に乗りて、石山寺
に詣でぬ。名立たる石の佇まい(たたずまい)など、言うも更なり。楓の
若葉に、月の秋を殊更に(ちぎ)まほしゅう、立ち返り
石山寺に見んと思う。月と紅葉は命なりけり。もと
の小舟に乗りて漕(こぎ)出づれば、粟津ヶ原など、遥かに
見ゆ。膳所(ぜぜ)の城のさざ波に映ろひて、しらっとみえた
るなど、景色見過(すご)し難く、大津の笠松立てる
岸に至りて、こゝより三井寺に詣づ。この寺も谷汲に等
しく、観世音の扉開きて、拝ましむる折りなり。
かく二(ふた)所まで、世に尊かる霊像を拝みしは、宿世(すくせ)
結縁なりや。都より詣づる人は別ながら、志賀の山
越ならで、道も避り敢えず小関(こぜき)越して(ひつじ)乃時ばかり、
京の旅の宿りに着きぬ。明日四日より廿三日まで、物
せし事どもの繁ければ、異ものに記しつ。

(8Pの7行目まで、以下続く)

******************** 

岡部英一氏より電話あり。17日の午後の来宅を約す。

読書:「後添え 秋山久蔵御用控 11」 藤井邦夫 著

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コメント
 
 
 
追記 (岡部英一)
2022-01-07 16:58:44
別の出版物から、可散三ケ年之鬱憤候、(中略) 恐々謹言、の後の(中略)に入る文章は「なお、山県三郎兵衛尉申すべく候」であることが分かりました。奥平(道紋)は、山県三方衆の奥平定勝となっています。この文書は、武市通弘氏所蔵文書となっています。
 
 
 
(中略)部分 (岡部英一)
2022-01-07 18:20:31
当城主小笠原悃望候間、明日国中へ進陣、五日之内越天竜川 向浜松出馬、可散三ケ年之鬱憤候、猶山県三郎兵衛尉可申候、恐々謹言、 となります。
 
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