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コウノトリが巣立った!

(コウノトリ巣立ち)

鹿児島に2日間出張していて、夕方帰宅した。気になっていたのはコウノトリの巣立ちであった。さっそくライブ映像に繋いだら、「あれ!巣立っている!」

「7月31日14時16分ごろ、無事にコウノトリのひなが巣立ちました。」と記され、ライブ映像は終了となっていた。

3時間ほど前に巣立ったわけだ。野生のコウノトリが巣立つのは日本では実に43年ぶりである。43年前は自分はまだ高校生だった。5月20日にひなの誕生が確認されてから73日目であった。普通64日位で巣立つというから、10日ほどやきもきさせたことになる。何はともあれ、めでたい。

巣立つ何日も前から羽ばたく練習を重ね、巣の上で1メートルほど飛び上ったり、さらに前々日には3メートルも飛び上り、もうそのまま飛んでいけるのにと残念がらせたりしていた。また、巣の縁から下界を長い時間眺め、今にも飛び立ちそうに体重移動ししてみたり、はやぶさのような鳥影に周りをひやりとさせたり、長い10日間であった。


(コウノトリ巣立って最初の飛行)

夜、NHKのニュースで巣立ちの映像を流していた。巣立つときはあっけなくて、羽根を広げたかと思うとすっと飛び立った。巣立ったばかりの若い鳥は姿がスリムで羽根に汚れが無く真っ白で美しい。さっそく親鳥たちが待つ1キロメートルほど先の湿地へ舞い降りて、共に餌を啄ばんでいたという。

高校の先輩で卒業してから一貫してコウノトリにたずさわってきた人がいる。コウノトリの保護から始まり、絶滅後、各所動物園やロシアなどから、同種のコウノトリ譲り受けたり借りてきたりして、出来るだけ血が濃くならないように血統管理をしながら、数々の試行錯誤の末に繁殖に成功し、100羽以上に増やして野に放つまで、人生を掛けて取り組んできた人である。40年と一口に言うが、並大抵の時間ではない。しかし、終わりがけに大きなご褒美をもらって、これほど幸せな人生は無いのではなかろうか。

10日間、巣に日参して、巣立ちの瞬間に立ち会えた人は何人いたのだろう。取材陣に、毎日来ていると話していたおばあちゃんも、日射病になることもなく、無事巣立ちの日を迎えられて同慶の至りである。
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奥山半僧坊、方広寺の三重塔

(奥山半僧坊、方広寺の三重塔)

土曜日、浜松の宗安寺三重塔を拝観したあと、滝を見たいと思い、都田川にあるという「仙巌の滝」を求めて、都田川に沿って車を進めたが、結果見つからずに諦めた。そのかわり、もう一つの三重塔のある奥山半僧坊方広寺に行くことにした。奥山半僧坊には何度か行っているが、三重塔へ足を伸ばすことは少ない。
 
方広寺では300円の入山料を取られた。以前に来たときには無かったものである。あとで分かったことであるが、方広寺では屋根の葺き替えをひかえていて、その資金として入山料を取るようになったという。


(廃道になった旧参道を埋める五百羅漢)

谷に沿った道を登っていった。谷の両側には新旧入り混じって、たくさんの五百羅漢が据えられている。全山いたるところに並んでいて、羅漢像は500体をはるかに超えているだろう。

三重塔は本堂の反対側の山上を切り拓いて建てられていた。朱と白と薄緑に彩色されて鮮やかであった。彩色された塔もまた良い。

方広寺にはもともと寶暦年間(1751年~1761年)に落成した三重塔が建っていたが、明治初年に火災のため焼失した。その後、五代前の管長間宮英宗老師のころ、大阪でラシャ問屋を営んでいた山口某氏が寄付し、大正十二年に建立、落慶した。山口某氏は第一次世界大戦中の好景気で財をなしたが、英宗老師の忠告で好景気のうちに商売を手控え、停戦と共にあちこちで倒産者相つぐ中、独り難をまぬがれ、その後も社業は発展したと伝わる。そんな来歴から、この三重塔は“倒産よけの塔”として、全国の財界人のお参りが後を絶えないという。案内板などから得た情報である。

もともと塔は中での居住を考えずに、地震等には大変強い構造になっていて、倒れ難い建物である。ところが女房が三重塔の土台の石積みにひび割れを見つけた。三重塔が載っている土台に問題があるとすれば、塔の不倒神話は崩れる可能性がある。

三重塔を見てから本堂へ回った。本堂前の広場には幼稚園児の黄色い声が湧き上がっていた。本堂前の広場で、スイカ割りでもしたらしく、砕けたスイカを皆んなで分けて食べていた。山門に掲げられていた「赤門幼稚園様研修」の園児たちなのだろう。園児たちは座禅もしたのであろうか。入山料で、本堂、開山堂、半僧坊真殿なども見学できた。本堂に上げてもらうのは初めてであった。
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宗安寺の三重塔

(宗安寺三重塔)

土曜日、お昼近くなって、浜松に平成になって出来た三重塔を見てくることにした。カーナビに設定した場所は、浜松の姫街道近くの宗安寺というお寺であった。浜松市市野町、姫街道から北へ数百メートル進んで東名を潜った先にあった。きっと檀家に成功者が多いのだろう。真新しい木造の大きな本堂が出来ていた。

宗安寺三重塔も個人の寄進者があって建てられたものという。本堂に至る境内右側に建っていた。平成11年(1999)11月に落慶したと立看板があり、中に聖観世音菩薩が祀られているとも表示されていた。

三重塔には普通は何が祀られているのかと女房が聞いた。古くは仏舎利が祀られていた。今は仏舎利は仏舎利塔があるから、塔には何を祀るか決まっていないように思う。仏舎利とはお釈迦様の骨のことである。昔、塔が幾つも出来て、仏舎利の需要が増えると足らなくなるから、その大半は偽物だと考えていた。しかしそれは現代人の考えで、昔の人はそう考えていなかった。仏舎利は分けても一晩で増えて元に戻ると信じられていた。だから塔が幾つ出来ても足らなくなることはないのだ。

新しい本堂が白木も鮮やかなのに比べて、落慶してから6年しか経っていない三重塔が木肌にすでに古色を含んでいる。全体に黒っぽいのは、材料がヒノキではなくて、おそらくケヤキのような材料を使っているからなのだろう。

三重塔の周りには動物を刻んだ石造りのベンチが並んでいた。お年寄や子供たちがこの塔の周りのベンチで憩う姿が思い浮かぶ。三重塔が一基建つだけでお寺の品格が一段も二段も増すように見えるのは自分だけだろうか。

塔の隣に倉を改造したお店らしきものがあった。人影も無く、立ち寄らずに宗安寺をあとにした。帰宅してからネットで宗安寺を検索したところ、その倉のお店の情報が出ていた。宗安寺住職の奥さんが、古い蔵を利用して出した「甘味 蔵茶房 こ都」というお店だとあった。お腹も空いていたことだし、立ち寄ってみればよかったと思う。
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穴掘りムサシとコウノトリの巣立ち

(お腹を冷してくつろぐムサシ)

東海地方もようやく梅雨が明けた。当地、静岡もいよいよ猛暑の夏の到来である。

毛皮を着ていて夏に脱ぎたくても脱げない愛犬ムサシは夏を迎える前から、中国から届いて芝生に設置してある石のベンチ下の日陰に穴を掘っていた。穴は段々深くなり、お腹がすっぽり隠れるほどになった。雨が降ると水がたまっていやなのだが、金曜日の朝、出勤前に見るとその穴にお腹を埋めてくつろいでいる。お腹がひんやりと気持がいいのだろう。

穴は日々大きくなり、「そんなに掘ると崩れるよ」と女房の声が聞こえる。100kgほどある石のベンチは芝生上で組み立てたら、二度と動かせないように据わってしまった。しかし、足元を掘っていけばムサシの上に倒れてきそうである。

親ばか?の女房は夜、キッチン裏のムサシの寝床に風が通らないからと、夕方キッチンにクーラーを入れると、ドアの通気用のネットの前に扇風機を置いて、キッチンの冷気をムサシの寝床に送ってやっている。キッチンに人がいる間だけなのだが、ムサシは涼しいと感じているのであろうか。下の娘が夜やって来て、親ばか振りを大笑いした。

この暑さの中、12・5メートルの空中の巣塔の上で、逡巡している一羽のコウノトリがいる。日本で絶滅後、最後の生育地であった我が故郷の豊岡で、人工繁殖して野に放たれたつがいから、国内初めての雛が孵って2ヶ月たって、いよいよ巣立ちが秒読み段階に入り、成鳥と変わらない大きさになったひなに巣立ちを促すために、親鳥も餌を運ぶ回数もうんと減った。

羽根を広げてジャンプを何度も繰り返したり、もう巣立ちの準備は出来ているのだが、まだ飛び立てない。巣の縁から下を覗いたりして、羽根を広げて飛び出せばそのまま滑空できそうに思うのだが。その様子はネットでライブで流れていて、世紀の大スクープに立ち会える準備も整っている。もう予定した巣立ちの日からは一週間近く経っている。

この映像を見る団塊世代のお父さんたちは、なかなか自立出来ない自分の子供たちを重ね合わせているのであろうか。過保護と自立の問題は動物の世界にも及んでいる。

地元の新田小学校ではこの鳥を「ニッタン」と名付けて観察を続けている。「ニッタン、跳べ!跳ばなきゃ何も始まらない」
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冷蔵庫を買い替えた

(買い換えた冷蔵庫)

暑さを向かえて、冷蔵庫が壊れてしまった。一月も前の話である。冷凍庫が効きにくくなって冷凍されていたものが融け出し、水漏れがはじまった。もう10年以上使っているから寿命であろう。

家では耐久電化製品は島田のⅠ電気店から買うことに決めている。量販店から買うより割高にはなるが、街の電気屋さんだと故障したときでもしっかり直してくれる。ちょっとの故障で新品への買い替えを勧めたりしない。長持ちさせれば長い目で見て安上がりだと考えている。

Ⅰ電気さんは自分より一回り以上年齢が高い。後継ぎも居ないみたいで、体力もかなり衰えていると聞く。いつ仕事を止めてしまうか判らない。それが心配である。テレビの映りが悪いと言って、屋根に上るのはともかく、天井裏まで入って調べてくれる人はそうはいない。

一家を構えて、継続してお世話になっている人に、主治医、大工さん、植木屋さんなどがあるが、電気屋さんもその一人である。ところが、若い頃からはじめると長年お世話になる人は意外と年上の人になっている場合が多い。歳を取ってからそれらの人たちが先に仕事を終えられることを考えると、後継ぎがおればいいが、居ない場合、改めて新しい付き合いを始めるのは意外とつらいかもしれない。出来れば選ぶときに自分より若い人にしたいものである。

くだんの冷蔵庫は一と月ほど前の休みの日に来た。今までの冷蔵庫は左取っ手で、部屋の左隅に置くには勝手が逆だった。新しいものは右に取っ手が付いたものにした。製氷機も少しづつ氷を作って、出来たら自動的に下の受け皿に落とすタイプである。落ちるときカラカラ音がする。冷蔵庫が入った夜中にムサシが何度か吠えた。ムサシの寝床の近くに冷蔵庫があり、カラカラの音に反応したようだった。しかし、一晩で慣れて、その後は吠えることもなくなった。

当然古い冷蔵庫は持ち帰ってもらったが、リサイクル料と搬出料で7000円ほどかかった。本体価格は昔と比べれば安くなったが、時代の流れで余分な費用がかかる。どこに持ち込むのかと聞いてみると、袋井だか、磐田だか、意外と近いところにリサイクル工場があって、そこからまとめて集荷に来るらしい。

リサイクル料を取りながら、正しくリサイクルに出していなかった量販店があった。消費者としてリサイクル料を払う以上は、リサイクルされた結果報告を要請すべきである。リサイクル料の支払いは契約のはずだから、契約が履行されたことを確認する権利がある。リサイクル法にはそんな条文はないようだが、だとするならば法律の不備であろう。
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大法寺の三重塔「見返りの塔」

(大法寺の三重塔「見返りの塔」)

たった二日の長野の旅の話題を11日も続けてしまった。しかしそれも今日を最終回としたい。

案内地図によると、上田の近辺に四基の三重塔がある。残る一基は千曲川を渡った上田市の北西の青木村にある。「見返りの塔」と呼ばれる大法寺の三重塔で、四基の三重塔のうち最も古く国宝になっている。カーナビの指示は随分遠回りになっていたが、農道を出来るだけ真っ直ぐに突っ切って近道を進んだ。

大法寺本堂前に車を止めて、石段を登って本堂に至る。今まで訪れた三つのお寺と比べて、ずいぶん田舎のお寺であった。故郷のお寺に参るような懐かしさも感じる。本堂左手から一度道路へ下りて、三重塔のある観音堂へ進んだ。参道脇に様々なポーズや表情の五百羅漢が並んでいた。現在も製作中であるらしく、看板に20万円で羅漢一体が寄進出来ると記されていた。20万円が安いのか高いのか、ついつい頭で計算している。10日位で彫れるものなのだろうか。観音堂に上る石段の下で、農家の老人がわずかな野菜を売っていた。石段を登ったところで300円の拝観料を払った。


(「見返りの塔」を見返る)

観音堂の左側、庭に作られた斜面を登った先に大法寺の三重塔があった。その美しさに思わず振り返りたくなるから、「見返りの塔」と名付けられている。斜面を下りてきたグループが下ったところで振り返り、こんな風に振り返って名残を惜しむから「見返りの塔」と呼ぶんだろうと話していた。

大法寺の三重塔が美しいと言われる理由の一つに、初重が大きいことが上げられる。そのため、塔の坐りがよくなって、バランスの良い美しいシルエットをつくっている。初重を大きくするために、軒をささえる組物の手先を三層・二層が三手先を採用しているのに対して、初層だけ簡単な二手先にしている。このように、初層だけ手先を少なくして、初層を大きく造っている例としては、興福寺三重塔(奈良県)と那谷寺三重塔(石川県)に見るだけであるという。
広辞苑によると、「手先(てさき)」とは、建築の斗組(ますぐみ)で、最下の斗組から突出する斗組。組数によって二手先(ふたてさき)・三手先(みてさき)などという。

墨書によって、この三重塔は正慶二年(1333年)には二重の組物を造っていたことが分かっており、さらに建築にたずさわったのは大阪四天王寺大工四郎某ほか小番匠七人の作ということも判明している。1333年という年は、鎌倉の北条氏が新田義貞らの軍に滅ぼされて、鎌倉幕府が文字通り幕を閉じた年である。
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前山寺の「未完の三重塔」

(前山寺三重塔)

田んぼの広がる上田市街の南部、信州の鎌倉とよばれる「塩田平」には、安楽寺八角三重塔のほかにもう一基、古い三重塔がある。「未完の三重塔」と呼ばれる前山寺の三重塔である。安楽寺からは車で5分ほどで前山寺に着く。


(前山寺参道並木のケヤキ-太い方)

前山寺へは緩やかな坂道の参道を進む。参道の両側にケヤキやマツの巨木が何本か残っている。特にケヤキの巨木2本は「前山寺参道並木のケヤキ」と呼ばれ、上田市指定の天然記念物になっている。2年前の計測で、手前のものが、幹周囲7.02m、樹高21m、空洞が大きく口を空けている。少し先にあるもう1本は、幹周囲7.18m、樹高21m。2本とも大枝が落ちて、ケヤキ特有の箒を立てたような樹相は失われているが樹勢は良好である。樹齢は28年前指定されたときに350年とあるから、現在は380年ほどであろうか。

石段を登った真正面に三重塔があった。門で文化財保護協力費100円を箱に入れて境内に入る。本堂は左側にあって山側を向いていた。前山寺はかなり高台にあって、境内からは樹木で眺望は利かないが、登ってくる前の参道下の道路から塩田平が一望出来た。弘法大師が開基したと伝えられる古刹で、鎌倉時代の塩田北条氏の祈願寺であった。


(前山寺三重塔の二層三層)

前山寺の三重塔を遠目に見れば、繊細で各層が重なり調和の取れた、完成された美しさを持っている。ところが、近くに寄って見ると、二層と三層に縁(えん)と勾欄(こうらん)がない。縁に出るための窓も造られていない。元々省く意図だったかというと、縁をのせるための貫(ぬき)は準備されている。理由はわからないが、完成を断念させた事件があったのだろう。現代と違って、塔は10年20年という長い年月を掛けて造られることが多かった。その間にスポンサー側か、棟梁の側に継続できない何かが生じたのであろう。それにしても残した仕事はわずかな部分である。

元々塔は人が登るものではなく、二層、三層の窓、縁、勾欄は飾りである。余分な飾りがない分、塔の姿がすっきりして美しい姿を増しているいう学者もいる。その意味でこの三重塔は「未完成の完成塔」とも呼ばれている。室町時代末期に建てられたもので、国の重要文化財に指定されている。建築様式は「和様」に「禅宗様」をとり入れた方式だという。

休憩所に入って自販機で飲み物を買った。壁に三重塔の四季の写真が展示されていた。桜に囲まれた春、藤の花と共に立つ夏、紅葉に染まる秋、雪に埋まる冬の写真であった。この三重塔は周囲の四季折々の自然との調和が特徴といえるようだ。
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安楽寺の「八角三重塔」

(樹間に見上げる安楽寺の八角三重塔)

信濃国分寺から千曲川を渡って10キロほど西へ進んだ、塩田平の山際に別所温泉がある。安楽寺は別所温泉を通り抜けたすぐ先の山麓にあった。最も奥まった安楽寺は温泉街の喧騒も届くことなく、静寂の中に建っている。本堂右手で300円の拝観料を払う。「八角三重塔」への山道は、杉桧の立ち並ぶ中で舐めたように掃き清められて、歩くだけで清浄な気持になれる参道であった。登った先に異形の三重塔が見えてきた。九十九折れに登る参道には「お線香はお参りが済んだら必ず消すように」の看板が出ていた。無防備な塔に火災が一番こわいのだろう。

四角の塔の四方の角をそれぞれ落としていくと八角になる。そんな風に造れば八角塔は簡単のように見えるが、実際は大変複雑な構造になっているのだろうと思う。それぞれの階が傘を広げたようで面白い。


(安楽寺の八角三重塔-四重塔ではない)

塔の周りは墓地が取り囲んで、ここでは塔はまさに塔の語源である「お塔婆」の役割なんだと思った。案内板によれば、八角塔は奈良・京都などに記録として残っているが現存するものはない。現在、木造の八角三重塔は全国でここだけの貴重な建築である。そのため、長野県で最も早く「国宝」に指定された塔であるという。

周りの墓地へ少し上って写真を撮った。一見、四重塔のように見える。後から登ってきた数人の集団から、どうして四層なのに三重塔なのだと疑問が出た。一人詳しい男性が、一番下の部分は裳階(もこし)と言って、まあ三重塔がスカートをはいているようなものだと説明していた。なるほど、そう説明されれば理解しやすい。

案内板にも、「一見、四重塔に見えるが、昭和27年長野県最初の国宝として指定された折り、初重の屋根はひさしに相当する『裳階』であるという見解で、裳階付き八角三重塔として認定された」と記されていた。建立年代については鎌倉時代末期というのが定説になっている。

案内板にはさらに「建築様式は当時、中国宋代の先進技術であった唐様(禅宗様)を用い、扇垂木・弓形連子・詰組など、和様の塔とは違った重厚な佇まいを見せている」と記されていた。ここで「禅宗様」と言うのは中国宋代の先進技術が日本にもたらされたもので、「唐様」とも言われていることが判った。

ここでいう宋は1129年~1279年に臨安(現在の杭州)に都を置いた南宋のことを示す。この時代に栄西・道元を通じて日本に禅宗が伝わり、武士階級などに広く信奉されることとなった。したがって「禅宗様」は鎌倉時代の舶来最新技術と判断してよいのであろう。頭に入れておこう。
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信濃国分寺の三重塔

(信濃国分寺のハス)

雷滝を見たあとは塔を見に行こうと話した。長野県には五重塔は無いが、古い三重塔が何基もある。資料を見ると三重塔が最も集中してあるのが上田である。少し寄り道になるが、上田に足を延ばすことにした。

最初にカーナビを設定したのが信濃国分寺である。奈良時代、全国に出来た国分寺の一つ、信濃国分寺はその後300年の間に兵火や災害によって消滅してしまった。室町時代に至って、元の位置から200mほど北の段丘上に現在の国分寺が再建された。

信濃国分寺ではかつて毎月8日の縁日に市が立ち、地元では「八日堂」と呼ばれて親しまれてきた。今でも正月8日の縁日にはだるま市も催され賑わいをみせる。今の季節には国分寺裏の休耕田に植えられた蓮の花が開花して、カメラを持って訪れる人が何人もいた。今年蓮の花を見るのは、サッポロビール焼津工場ビオトープ園で大賀ハス(二千年蓮)を見て以来、2度目である。


(信濃国分寺の三重塔)

国指定重要文化財の信濃国分寺三重塔は参道左側に建っていた。前にヒノキ科の巨木があって、参道側からは三重塔の全容がよく見えない。この巨木は幹のねじれ具合などからビャクシンのようだ。

聖武天皇の勅願によって全国の国ごとに建てられた国分寺には当初、七重塔などの塔が建てられた。しかしすべてが失われ、その後再建されて、現在国分寺の塔として残っているのは、五重塔が備中国分寺、三重塔が越後国分寺、飛騨国分寺、豊前国分寺とここ信濃国分寺の五基ですべてである。その内、室町時代中期に建立したといわれるここの三重塔が最も古い。

信濃国分寺の三重塔はこの後回ることになる大法寺三重塔によく似ている。おそらく宮大工たちが、同じ東山道筋にそびえる天下の名塔、国宝の大法寺三重塔(鎌倉時代)を手本として造ったからだという。時代が違うから同じ宮大工が造った訳ではない。このように過去に造った塔が手本となって、次々に塔が造られ続け、現代まで営々と塔建築の技術が伝わっているのである。

この三重塔は、全体に「和様」という手法で統一されているため、ととのった感じをもつ塔だという。塔の様式に「和様」と「禅宗様」があるという。その二つの様式を併用している塔もあると聞く。塔見物を始めてまだ日が浅いから、「和様」だ「禅宗様」だといわれても判らない。今判っているのは「禅宗様」の方が屋根の反りがきついという点ぐらいであろうか。追々勉強して行こう。

信濃国分寺を後にして丘を下って、国分寺跡の方に回った。辺り一面の桑畑だったのを、開発の波に押されて、昭和38年から七回の発掘を重ね、全容が明らかにされた。敷地内には国分寺跡など注目されない時代に敷設された旧国鉄、現在のしなの鉄道が一本真ん中を過ぎっている。国分寺跡は現在は鉄道部分を除いて公園として残され、出土品などは敷地内に建てられた信濃国分寺資料館に納められている。ただし本日は休館日であった。
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裏見の滝、雷滝の轟音

(雷滝)

土曜日の夜、先ほどまでサッカーアジアカップを見ていた。準々決勝でオーストラリアに1対1、PK戦にまで縺れ込んで4対3で何とか勝った。明らかにずっと押していて、途中からはレッドカードでオーストラリアが1名少ない中で、引いて守るオーストラリアのゴールを破れなかった。レッドカードが出ていなければ、オーストラリアも点を取りに来ていただろうから、案外隙が出て得点できていたのではないか。レッドカードは貝の蓋を硬く閉じさせてしまった。

長野の旅の続きである。17日火曜日の朝、山田館を出て、松川渓谷を遡って滝を見に行った。滝の情報は宿でもらった。登っていく舗装道路でいきなり1匹の猿が車道の真ん中に座り込んでいた。きっと餌をもらった経験がある猿なのだろう。車を見ても逃げない。車の怖さを何とか教えないと、人、猿、お互いに不幸になる。

最初に「八(や)滝」、この滝は展望台からはるかに遠望するしかなく、落差の大きな壁を八段になって落ちているというが、遠すぎて木立にも隠れる部分もあり、迫力を感じることもなかった。

さらに車で5分で、道路端に「雷滝」の駐車場があり、「ごろごろ亭」という売店があった。朝一番で売店も開いておらず、車も無かった。しかしすでに渓谷から轟音が聞こえていて、期待させるものがあった。案内板によると、「雷滝」は秋川渓谷本流に出来た滝で、滝の裏側を通れるので別名「裏見の滝」とも呼ばれている。落差約30メートルとあった。


(雷滝と秋川渓谷)

谷に下る遊歩道を100mほど進むと、庇状になった岩の上から奔流が空中に飛び出し、遊歩道を越えて30m下の秋川渓谷に落ちていた。轟音が雷のように腹に響く。岩を少しくり抜いて作った遊歩道を滝のカーテンを横に見ながら進み、少し降りて雷滝を反対側からも眺めることが出来る。昨日までの雨を集めているからど迫力で、大自然の真っ只中に我々二人というのは圧倒されて怖いくらいであった。


(裏見の雷滝)

女房は、ナイヤガラ瀑布のすぐそばまで合羽を着て見に行った経験があるが、あの時は水煙で何も見えなかった。この滝の迫力はナイヤガラ以上だと話した。

駐車場まで上がってくると、車が2台入ってきた。滝はすぐかと聞かれた。100mほど下ったところ、滝の裏を通って向こう側までいけますよ、今日は水量が多くて迫力満点などと、語っていた。
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