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「甲陽軍鑑」を読む 16

(大晦日の西原からの富士山、手前に新東名高速が東へ向かう。)

大晦日、快晴、西風が強い。午前中、写真を撮りに、車で一回りした。

今年の、個人的な10大ニュースをブログより選ぶ。

二月    愛犬ムサシ逝く。享年16歳と10ヶ月。
二月    「竹下村誌稿」解読終わる。一年二ヶ月ほどかかった。
三月    金谷宿大学、成果発表会。
四月    沼津一泊旅行、孫たちと。
五月    平成から令和へ。確か沼津旅行中に新元号を聞く。
八月    「緑十字機決死の飛行」岡部英一氏講演会。公民館に紹介して実現。
九月    伊勢一泊旅行、法事。二見ヶ浦、内宮。
九月~十月 ラグビーワールドカップ日本大会。テレビ観戦。
十月    地区大井神社秋祭り。我が班が祭り当番。
十一月   「中遠の社寺を見る」見学会。「古文書に親しむ」講座主催。

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「甲陽軍鑑巻第十一下」の解読を続ける。「信長噂の事」の項の続き。

それがし(信玄)武篇は信州更級(さらしな)村上義清(よしきよ)と取り合い、弓矢の味に心付きてあり。その上、父信虎以来、弓矢功者の家老、足軽大将、または諸国のよき武士を集め、国々の弓矢形義を聞き、就中(なかんずく)、山本勘介と云う、弓矢知識のごとくなる武篇剛者(ごうしゃ)扶持(ふち)して、武士道の善悪を分け、勝利の武略仕様を、信玄よく定め候えば、以来信長、家康、合せて十三ヶ国の大将を両人寄せ、信玄は越中、飛騨の国端(はし)を添え、四ヶ国の人数をもって、遠、三、尾、濃の間において、合戦を遂げ、疑いなく勝利を得べく候。
※ 村上義清(むらかみよしきよ)➜ 戦国時代の武将。北信濃の戦国大名。信濃、葛尾城主で、武田晴信(信玄)の侵攻を二度撃退するなどの武勇で知られる。村上氏最後の当主。
※ 弓矢(ゆみや)➜ 武芸。いくさ。
※ 剛者(ごうしゃ)➜ 意志が強固で節をまげない人。また、強い人。
※ 扶持(ふち)➜ 俸禄を支給して臣下とすること。


かくありて、信玄煩(わずら)い募(つの)らずして、存命さえこれあらば、天下に籏を立てん事、疑い有るまじく候、と仰せられ、来年は遠州御発向の御備え、定めありといえども、織田信長よりは、いつもの如く書状の書付も。前々の如く御音信も。大形の小袖、その上、信玄公召し候をば、一重(ひとかさね)、蒔絵の箱に入れ、御頭巾綿帽子まで、美しき蒔絵の箱に入れ、進上申さるゝなり。よって件の如し。
※ 発向(はっこう)➜ 目的の場所へ向かって軍勢・使者などが出発すること。

(「信長噂の事」の項終り)

読書:「眠れない凶四郎(三) 耳袋秘帖」 風野真知雄 著
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「甲陽軍鑑」を読む 15

(散歩道の壁に這うツタの紅葉)

今夜も、孫四人、その母親二人が泊る。本年も残す所、後一日となる。朝から雨。

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「甲陽軍鑑巻第十一下」の解読を続ける。

(信長噂の事)
一 信玄公仰せらるゝ。某(それがし)、廿四、五の時分、山本勘介、雑談仕り候事、皆な首尾合うてあり。三河の国より、東の武士は、弓矢の敵、縦(たと)えば、物の上手の寄り合いの如くにして、面々、各々の意地(いじ)を立て候人、十人の中に九人あり。上方には意地を立てる武士、廿人の中に一人ばかりならで御座なく候と。
※ 首尾合う(しゅびあう)➜ つじつまが合う。
※ 意地(いじ)➜ 自分の考えを通そうと思う気持ち。強情な気持ち。


勘介申す如く、信長、駿河(今川)義元に勝ちてより、小身の時とは云いながら、三河、遠州、駿河の内へ取りかくる事、少しもなくて、その年廿(七)歳から、尾張、美濃を信長治むるに、尾州はその年中に大方従い、その年の暮れより美濃へと取り掛け、七年せめ戦い、七年目、丗三の時、美濃、尾張両国の守護と、信長なり候。近江に浅井(あざい)備前など、意地を立つる武士、五、六人もあるにつきては、江州にも七、八年かかり申すべく候。この浅井備前は、信長妹聟(むこ)なれども、意地を立て従わず候。伊勢の国に浅井備前ほどの者、四、五人もこれあらず。勢州にも五、六年手間を取り候わば、縦(たとい)、信長果報ありて、天下を知るとも、五十歳より内にて、都合はなるまじく候と、眼前に見えて候。
※ 知る(しる)➜ 支配する。治める。

三河の国松平が家の出来侍、家康十九歳の時より、本国三州を治むるに八年かゝり、漸々(ようよう)廿六歳にて治むるといえども、その上ながら、作手(つくで)、段嶺(だみね)、長篠三人は家康を嫌い、意地を立て候て、某(それがし)の下へ来たる。東の家風は、駿河氏真の心懸け無き故、今川家の侍ども無行義(ぶぎょうぎ)に成りたるといえども、三年に漸々(ようよう)信玄治め候。
※ 無行義(ぶぎょうぎ)➜ 行儀が悪いこと。また、そのさま。無作法。

信長武篇の誉れは、義元の大敵に勝ちたる故、美濃も治まり候といえども、義元遠慮あらば、二万の人数を持ちながら、五百、千の敵に勝利を失うことにてなく候えども、これは義元機づかいなき故、不慮の儀なり。信長強敵と云うは、美濃衆なり。これも義龍死して龍興代になり、この家老に意地を立つる武士、小牧源太、野木の次左衛門、両老(おきな)差し違えて死に候故、美濃治まり候。さなくば、美濃にも信長十年は手間をとるべく候。いずれに信長、武篇は美濃侍と戦い功者に罷り成り候。
※ 遠慮(えんりょ)➜ 遠い先々のことまで見通して、よく考えること。深慮。
※ 機づかい(きづかい)➜ 気遣い。よくないことが起こるおそれ。懸念。
※ 不慮(ふりょ)➜ 思いがけないこと。意外。不意。
※ 義龍、龍興(ぎりゅう、りゅうこう)➜ 斎藤道山の子、斎藤義龍と、孫、斎藤龍興。

(「信長噂の事」の項つづく)
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「甲陽軍鑑」を読む 14

(宮当番で、宮掃除)

朝、宮当番で、新年を迎える地区の大井八幡神社の掃除をした。玉砂利に落葉が目立ったが、竹箒を使って見違えるようにきれいになった。

今夜も、孫四人、その母親二人が泊る。

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「甲陽軍鑑巻第十一下」の解読を続ける。「北條氏政と和睦の事」の項の続き。

かくの如く候えば、信長、家康に加勢は必定なり。加勢のある証拠を取りて、その上信長と無事を破り、遠、三、尾、濃の内にて、信長、家康両人を相手にして、信玄合戦を仕り、勝利を得て後、信長居城国へ働き入り、一城一郡なりとも攻め取り、我が家の侍大将を、その城に差し置き、天下を持ちたると高慢する、信長が押えと名付け候わば、則時に死するとも、跡に思い置く事なく候とありて、
※ 無事(ぶじ)➜ 平和。いくさがないこと。
※ 高慢(こうまん)➜ 自分が優れていると思って、他をあなどること。


その後また信玄公、仰せらるは、昔、唐国には項羽、高祖の前後弓矢の名将際限なし。今は聞こゆる人もなく候。日本国にも、源義朝、同義平、平清盛、同重盛、前後に名将ありといえども、その次、頼朝、義経兄弟の事を申す。その後は(新田)義貞、(足利)尊氏と沙汰するなり。今は安藝の毛利元就、相州小田原北条氏康、越後長尾輝虎(上杉謙信)、尾州織田信長、海道に徳川家康、これ五人ほどの侍は、日本の事は申すに及ばず、大唐にも只今は有るまじく候。
※ 弓矢の名将(ゆみやのめいしょう)➜ いくさにすぐれた武将。
※ 際限なし(さいげんなし)➜ 切りがない。
※ 聞こゆる(きこゆる)➜ 評判の。名高い。有名な。
※ 沙汰(さた)➜ あれこれ言うこと。評判。うわさ。
※ 大唐(だいとう)➜ 中国の美称。


然れば長尾輝虎(上杉謙信)、十年以前、辛酉(永禄四年、一五六一)に信州河中嶋において大きく負け、三千余り討たれて後は、次第にこの方より押し詰め、この頃は信玄、馬出すに及ばず。高坂弾正、越後の内へ働き候といえども、さのみ危うからず候。北条氏康、当年十月こそ、他界なれ。去年巳の歳中、度々押し詰め、すでに小田原へ日帰りにする。足柄、深沢まで、信玄攻め取り、関東は氏康に(かす)められ候えば。その氏康を信玄掠め候。佐渡、庄内、加賀、越中、能登、関東までも、輝虎に押し付けらるゝに、その輝虎をも、右の分に申し付け候。
※ 掠める(かすめる)➜ すきをねらってすばやく盗む。

この上、信長、家康二人に、信玄勝ち候わば、西国までも弓箭に、心も(しる)事なく候。その意趣(いしゅ)は四国、九国は安芸の毛利に仕詰めらるゝ処に、信長都へ発向して、天下を持ちたる。阿波の三善を絶やし、中国の毛利をも、父元就死後とは申しながら、はや少しずつ掠むると沙汰有り。海道一番の家康を一つにして、信玄一万をもって勝利を得るならば、日本国中は沙汰に及ばぬ儀、当時は唐国にも、武田法性院信玄に並ぶ弓取り、全く有りまじく候と仰せられ候。
※ 著し(しるし)➜ はっきりわかる。明白である。
※ 意趣(いしゅ)➜ 理由。わけ。
※ 弓取り(ゆみとり)➜ 国持ちの武家。


遠州御発向の御備え定め、午(むま)の冬中に、高坂弾正所にて、七重(ななえ)に定まり書付けて、御目にかくるなり。よって件(くだん)の如し。
※ 七重(ななえ)➜ たくさんのものを重ねること。多くの重なり。

(「北條氏政と和睦の事」の項終り)

読書:「遺言状の願 口入屋用心棒28」 鈴木英治 著
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「甲陽軍鑑」を読む 13

(裏の畑にすずなりのデコポン)

夕方、磐田のOEさんから電話あり。一時退院されたと聞く。年明けにもう一度入院の用があるとか。お話に飢えていたように、次から次へと、現在調査中の戦国時代について、お話が止まらない。あとで思うに、ゆうに本一冊分のお話を聞いたような気がする。

夜、昨日に続いて、孫四人、その母親二人が泊る。先程まで大騒ぎであったが、今は静かに石油ストーブの燃焼音だけが聞こえる。

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「甲陽軍鑑巻第十一下」の解読を続ける。「北條氏政と和睦の事」の項の続き。

信玄公仰せらる。これらは若手の者、老功中、老、或いは十九、二十の者まで戦功を心がけたる、よき侍あまた抱え持ち候。小笠原与八郎、若しといえども、家康に劣らぬ。高天神も武篇(ぶへん)の家なれども、小身故、今川氏真、牢人せられてより、家康籏下(はたした)になり候。何時、信長と合戦あらば、家康を切り崩す事肝要なり。家康との合戦には、小笠原家中(かちゅう)、高天神衆、手に立つべく候間、来春は、遠州城東郡筋へ働き候て、小笠原が弓箭(きゅうせん)ぶりを、当家先衆、二の手衆に勘弁(かんべん)さすべく候間、家康衆の事は我が家の秋山伯耆守一両度も当たりて知る。三河の国、山家三方衆、この方へ帰伏なれば、大形(おおかた)、家康衆あてがいは知れて有り。
※ 老功(ろうこう)➜ 経験を積んでいて物事に熟練していること。
※ 小笠原与八郎(おがさわらよはちろう)➜ 小笠原信興は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。今川氏真に仕えるが、氏真牢人後、家康に属し、高天神城主となる。
※ 武篇(ぶへん)➜ 戦場で勇敢に敵と戦うこと。いくさの経験が豊富なこと。武勇をふるうこと。また、その者。
※ 手に立つ(てにたつ)➜ 手ごたえがある。相手とするに十分である。
※ 弓箭(きゅうせん)➜ 弓矢で戦うこと。戦い。
※ ぶり(振り、風)➜ 状態・動作の仕方・あり方を表す。
※ 勘弁(かんべん)➜ 十分に考えること。事の善悪・当否などをよく考え、わきまえること。


さ候えば、来春は高天神表へ働き、夏中(なつじゅう)三河へ働き、信長と家康間を取り切り、武略の備え定め評議して、信長には、先(ま)ず構わず候わば、あなたよりはいつまでも熟根(じゅくこん)のように仕るべく候か、家康に信長加勢いたさずば成るまじく候。子細は箕作の城主、竹邊源八(建部源八郎)を信長攻むる時も、家康衆なり。金崎表にて、信長敗軍の時も、家康の手柄なり。江北姉川合戦に、信長(まぐ)たる時にも、家康働きよろしき故、信長利運(りうん)になる。
※ 武略(ぶりゃく)➜ 戦(いくさ)のかけひき。軍事上の計略。
※ 熟根(じゅくこん)➜ 生まれ。素性。
※ 紛れる(まぐれる)➜ さまよう。
※ 利運(りうん)➜ よいめぐり合わせ。幸運。

(「北條氏政と和睦の事」の項つづく)

読書:「判じ物の主 口入屋用心棒27」 鈴木英治 著
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「甲陽軍鑑」を読む 12

(庭のビオラ)

年賀状を出し終えた。今年は早く処理できた。今夜は孫四人、その母親二人が泊る。

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「甲陽軍鑑巻第十一下」の解読を続ける。「北條氏政と和睦の事」の項の続き。

これを信長分別(ふんべつ)して、信玄と無事(ぶじ)をつくり、信濃出でて、美濃、尾張を取られざるため、それがし(信玄)機嫌をとり、この方信玄をば、生え替わりなき、老功(ろうこう)の敵に戦い、その手間を入れさせ、おのれは五畿内の治まり良き国どもをとりて、信玄が年の寄るを待ち候らわん。その間も三河、遠州、信玄の国に成らぬようにとて、家康と云う武道の強き侍に、内々勾張りを仕ると云う義を、美濃国の先方、信長に降参の侍どもより、誓紙(せいし)を以って申し越し候間、無二無三(むにむさん)に、上方(かみがた)信長と、一両年の間に、手切れをせんと仰せられ、小宰相を小田原へ指し越し給い、北條氏政と信玄公、御無事調い申候故、午(むま)の歳極月、舎弟、北條助五郎、北條四郎両人を、甲州郡内まで、則時差し越さるゝ。氏政望み叶い、よろこび限りなし。
※ 分別(ふんべつ)➜ 物事の善悪・損得などをよく考えること。
※ 無事(ぶじ)➜ 平和。いくさがないこと。
※ 老功(ろうこう)➜ 経験を積んでいて物事に熟練していること。
※ 勾張り(こうばり)➜ 家・柱などの傾くのを防ぐためにあてがう支え。つっかえ棒。
※ 誓紙(せいし)➜ 誓いの言葉を記した紙。起請文。
※ 無二無三(むにむさん)➜ わき目もふらずに物事を行うこと。がむしゃら。ひたすら。
※ 手切れ(てぎれ)➜ それまで続いていた関係・交渉などを終わりにすること。
※ 郡内(ぐんない)➜ 郡内地方。山梨県都留郡一帯を指す地域呼称。


さてまた、馬場美濃守、内藤修理、高坂弾正、山縣三郎兵衛申すは、さあらず、来年の御備え定め、春中いずこへ働きなさるべきと、申し候らえば、信玄公、上方(かみがた)侍衆、内通申上げる書付を取り出させ給い、御覧候らえば、遠州高天神の城主、小笠原被官(ひかん)ども、江州姉川合戦に抜き出たる。走り廻りいたし、信長、家康、ほめたる武士は、渡辺金太夫。林平六郎、吉原又兵衛、伊達の与兵衛、中山是非介(ぜひのすけ)、五人と書付にあり。
※ 内通(ないつう)➜ 味方の中にいて、こっそり敵に通じること。
※ 被官(ひかん)➜ 武家の家臣・奉行人など。被官衆。

(「北條氏政と和睦の事」の項つづく)
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「甲陽軍鑑」を読む 11

(散歩道のスイセン)

年賀状書き。遠方の分より半分ほど書上げ、郵便局へ投函した。

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「甲陽軍鑑巻第十一下」の解読を続ける。「北條氏政と和睦の事」の項の続き。

(さんぬる)六月廿八日に、江州姉川合戦にも、信長三万五千の人数、敵の浅井(あざい)備前守、三千に切り立てられ、十五町ほど逃げたるに、家康は五千の三河勢を以って、浅井備前が同勢、壱万五千の越前朝倉義景を切り崩し候故、備前も崩れ候時、信長立て直し、勝利を得たるは、悉皆(しっかい)徳川家康がわざなり。縦(たとい)信長、家康両人同前の働きなりというとも、信長は三万五千の人数、敵の浅井は三千なれば、強きを沙汰するに信長衆十一人して、敵浅井衆一人を攻むる。家康は五千なり。敵の朝倉義景は一万五千なり。家康被官(ひかん)一人にて、越前衆三人あてがいにして、しかも勝利を得る。信長は十一人にて敵一人に、十町あまり追われ候。家康なくては、立て直す事ならずして、姉河合戦、信長負けなるべきと、美濃、近江の侍ども、書き付けて越し候。
※ 悉皆(しっかい)➜ 残らず。すっかり。全部。
※ 被官(ひかん)➜ 中世、官吏の私的な使用人、武家の家臣・奉行人など。被官衆。
※ 姉河合戦(あねがわかっせん)➜戦国時代の元亀元年(一五七〇)、姉川流域で、織田信長・徳川家康の連合軍が浅井長政・朝倉義景の連合軍を破った戦い。姉川の戦い。


その上、信長我らと縁者組み仕り、信玄を馳走(ちそう)いたすと、皆偽(いつわ)りなり。家康にそくらをかい、加勢を仕るべく候間、信玄と取り合い候らへと、内談候て、この方へは、年中に定めて、七度の使いをくれ、その外、三度、四度、十度にあまりて、音信(いんしん)仕る子細は、上方信長攻め取る敵は、皆な、(は)え替わり故か、弓矢よわき故か、城一つ落城を見ては、近辺の城、五つ六つも明け候。東(あずま)武士は、二度三度競り合いに遅れを取り、或いは大合戦に負けたりとも、弱げなくて、せめては五年、六年もその所へ働き、毛作(けさく)を振り焼き働き仕らざれば、降参せず候。東武士は大方強敵どもなり。
※ そくらをかう ➜ けしかける。おだてる。扇動する。
※ 生え替わり(はえかわり)➜ 前にあったものがなくなったあとに、新しいものが生えること。
※ 毛作(けさく)➜ 稲や麦など、田畑からの収穫物。作毛。

(「北條氏政と和睦の事」の項つづく)

読書:「ドナルド・キーンの東京日記」 ドナルドキーン 著
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「甲陽軍鑑」を読む 10

(散歩道のアロエの花)

年賀状書き。去年は喪中が多かったが、今年はなぜか少ない。喜ばしいことだが、早速10枚ほど追加購入して来た。

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「甲陽軍鑑巻第十一下」の解読を続ける。「北條氏政と和睦の事」の項の続き。

信玄公仰せらるゝは各(おのおの)異見(意見)もっともなれど、三年(前)、辰の年。板坂法印、我が脈を取り、大事の煩(わずら)い有るべしと申すごとく、次第に気力衰え、心地よき事まれなり。か様にこれあらば、信玄在世、十年有るまじく候。然れば、人は一代、名は末代なり。勿論北條家を押し潰すこと、手間取る儀有るまじく候子細は、去年小田原へ押し詰め、焼き払い、その上、三増(みませ)合戦に勝ち、数ヶ所の城を攻め取るに、殊更(ことさら)、氏康他界なれば、少しも滞ること有るまじく候えども、さありて、仕置旁(かたがた)に来年中かゝりて、人数の詮索(せんさく)、そこ/\見つくろい候間に、煩(わずら)い悪(あ)しくなるに付いては、健(すく)やかなる内に、遠州、三河、美濃、尾張へ発向して、存命の間に、天下をとつて、都に籏を立て、仏法王法神道、諸侍の作法を定め、政ごとを正しく執り行わんとの、信玄のぞみこれなり。
※ 先(さき)➜ 前(さき)。
※ 三増合戦(みませがっせん)➜ 三増峠の戦い。永禄十二年に武田信玄と北条氏により行われた合戦。
※ 詮索(せんさく)➜ 細かい点まで調べ求めること。
※ 発向(はっこう)➜ 目的地に向かって出発すること。特に、軍を出動させること。


然れば、小田原押えを置かず。氏政人質を取り、人数を少しも出させ候わば、甲州勢も三万余りならん。この勢いを以って都を心懸け、三河、遠州へ打ち出し、家康をさえ押し失い候わば、都までの間に、恐らくは信玄が手に起(た)つもの、壱人も有りまじく候。子細は、信長、江州箕作(みのつくり)の城を攻め落したる故、公方を都へ直(なお)しまいらする。箕作は、家康内の松平伊豆守と云う者、手柄をして、攻め落す。信長、金崎より北近江、浅井(あざい)備前守に機遣い、退き口(のきぐち)、みだりに岐阜へ味方を捨て帰る時、家康若狭の国へ働き、同勢の信長に捨てられ、三川勢、五千の人数をもって、少しも怪我無く引き取る。家康籏本、内藤四郎左衛門というもの、三手の矢をもって、跡をしたう若狭侍、よき武士を六人射殺したると聞きてあり。
※ 箕作の城(みのつくりのしろ)➜ 滋賀県東近江市、箕作山の山上に築かれた六角氏の城館。
※ 退き口(のきぐち)➜ 陣地をすてて退却しようとする時。退却の際。
※ 三手の矢(みてのや)➜ 一対の矢を一手という。よってここでは六本の矢。

(「北條氏政と和睦の事」の項つづく)
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「甲陽軍鑑」を読む 9

(散歩道のイソギク/昨日撮影)

イソギクの名が示す通り、千葉県犬吠崎から静岡県の御前崎に至る海岸の崖地に生育する多年草。育てやすいので、近所の路傍や庭などにも植えられている。花は晩秋に咲くというから、もう終わりに近いのであろう。

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「甲陽軍鑑巻第十一下」の解読を続ける。

(北條氏政と和睦の事)
一 同年午十月、関東の小田原、北条氏康、病死成され候に付いて、子息氏政公、その歳、丗三歳なれども、父氏康に離れ給い、霜月初めより、小宰相殿につき、種々頼み、信玄公へ侘言(わびごと)まし/\て、無事にとある儀なり。武田の家老衆、老若ともに申し上るは、小田原を押し(ひし)、北條家を御一徧(いちへん)あそばし、氏政の領分、大国どもを御手に入れられ、只今御手前の国と合わせ候らえば、十ヶ国に及び候間、氏政と御無事は必ず相止(や)められ、当冬より小田原表へ御出陣候わば、御手間をとらるゝ分にても、来未(ひつじ)の正月中に、御隙(ひま)を明けらるべく候。
※ 侘言(わびごと)➜ 詫言。自分の過失などをわびること。あやまること。また、そのことば。わび。謝罪。
※ まします ➜ 「てある」「ている」の意の尊敬語。…ていらっしゃる。
※ 拉ぐ(ひしぐ)➜ 押しつけてつぶす。
※ 一徧(いちへん)➜ 一遍。ずっとひとわたり。。
※ 無事(ぶじ)➜ 平穏であること。平和であること。


北条家持ち分、城々の仕置き、または、多賀谷、宇都宮、安房、この侍衆は、氏康に仕詰められ、前々より当方へ御音信(いんしん)申され候間、異義なく、御籏下(はたした)に罷り成られ申すべく候。佐竹は御書、日付と名書(なかき)のあらそい故、只今御不通なれども、北條家を押し破りなされ候わば、これも相違は有るまじく候。縦(たとい)異議申され候とも、三年の内に御従え有るべく候。佐竹は以来のごとく思し召し、小田原領分、近辺の御仕置、未の三月中旬には、越後謙信領分、東上野まで御手に入り申すべく候。輝虎もその上からは、信玄公へ、たてはつき申すまじく候。只今さえ、高坂弾正、六、七千の人数をもって、越後の内へ五里、十里ずつ働き候らえども、さのみ危うき事これ無く候。小田原へ御働き急ぎ給えと何(いず)れも諫(いさ)め申し上る。
※ 仕置き(しおき)➜ 処置すること。
※ 音信(いんしん)➜ 便り。通信。おんしん。
※ たてをつく(盾をつく)➜ 反抗する。逆らう。

(「北條氏政と和睦の事」の項つづく)

読書:「兜割りの影 口入屋用心棒26」 鈴木英治 著
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「甲陽軍鑑」を読む 8

(散歩道のピラカンサ)

午後、散歩の途中に見つけた。和名、トキワサンザシ。赤い実を、これ以上は着けられないほど沢山、着けている。西アジアを原産とするバラ科の植物。日本へは明治時代に導入されたという。

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「甲陽軍鑑巻第十一下」の解読を続ける。

(関甚五兵衛の事)
一 上野(こうずけ)、小幡尾張を、上総(かずさ)守に成され候。駿州今川家の老(おとな)、朝比奈兵衛大夫(ひょうえのたいふ)を駿河守に成され候なり。駿州先方(さきかた)、岡部忠兵衛に、土屋名字をゆるし、土屋備前に成さる。土屋右衛門尉弟、惣蔵、その年十五歳になるを、備前養子と定めあり。また籏本、足軽大将本郷八郎左衛門、駿河興津にて討死のあと、足軽七十五人、城伊庵に廿人、小幡又兵衛十人、関甚五兵衛十人。この甚五兵衛は尾州牢人(ろうにん)なるが、その年、足軽大将に仰せ付けらる。子細は駿河先方(さきかた)、庵原(いはら)と云う侍大将に、頼もしき様子のゆえなり。
※ 牢人(ろうにん)➜ 主人を失い俸禄のなくなった武士。「浪人」とも書く。
※ 頼もしい(たのもしい)➜ 期待できて楽しみである。


庵原、大剛強の兵(つわもの)、余り過ぎ候て、後、(関甚五兵衛を)奏者(そうしゃ)に頼み候。土屋右衛門、庵原本領御朱印、おそく取りてくるゝとて、土屋殿に存分申すべしと有る事、信玄公御耳に立ち、庵原を改易と仰せ付けられ候処に、関甚五兵衛送り候儀を聞し召され、信玄公仰せらるゝは、これなど法度(はっと)申し付ける処に、甚五兵衛、身を捨て、かくの如くなるは、武道に命抛(なげう)ち、働きの段、何の道にても誉れなり、忝(かたじけな)あてがいについては、信玄公御用に立つ事、疑い有るまじきとて、足軽十人、関甚五兵衛に預け下され候。庵原殿に甚五兵衛、頼もしき様子は、前巳(み)の年(永禄十二年、一五六九)なり。かくありて、信玄公仰せ出され、この後また少しの法度をそむく儕(ともがら)あらば、妻子まで御成敗なり。逆心同意と御触れ廻し給うなり。
※ 剛強(ごうきょう)➜ たけく強いこと。 勇猛なこと。
※ 奏者(そうしゃ)➜ 武家で、取り次ぎをする役。また、その人。
※ 本領(ほんりょう)➜ 特に中世、幕府や有力大名によって根本私領として公式に領有権を認められた土地。鎌倉時代には将軍から新給された御恩地と区別された。
※ 御朱印(ごしゅいん)➜ 戦国時代以後、将軍や武将が所領安堵などの際に発行した公文書で、花押の代わりに朱印を押した。
※ あてがい(宛行)➜ 禄物や所領を与えること。また、その禄物や所領。
※ 逆心(ぎゃくしん)➜ 主君に背く心。謀反の心。

(「関甚五兵衛の事」の項終り)

読書:「守り刀の声 口入屋用心棒25」 鈴木英治 著
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「甲陽軍鑑」を読む 7

(今夜はブリの照り焼き)

女房が京都へバス旅行に出かけて、朝起きると息子がお風呂のサッシの戸車を代えるから手伝えという。珍しいことがあるものである。戸を外し、壊れた戸車を確認、息子と二人で買って来て、取り替えた。前から動きが悪くて苦労していたサッシ戸が、片手で簡単に開け閉め出来るようになった。

夜は、写真のブリの照り焼きを作ったが、女房は夕食を済ませて帰ってきた。ブリの照り焼きには、色どりに、ごぼう、スナックエンドウ、シイタケを合わせた。

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「甲陽軍鑑巻第十一下」の解読を続ける。「氏政、信玄、三島にて対陣の事」の項の続き。

重ねて長坂長閑よりの状に、家康子息は信長の聟(むこ)と約束あり。信長惣領城介殿は信玄公、御聟とあれば、御縁者(えんじゃ)中を、山縣破り申され、無分別故、同人衆には係(かか)られ申すまじくと申す処に、土屋右衛門尉をもって、馬場美濃、内藤、真田、その外侍大将、山縣がことを、如在(じょさい)なき通り申し上げ候えば、信玄公、殊の外、御悦喜(えつき)なされ、四郎、典厩を初め、一門の内にも、家老にも、海道一番と自慢する家康と、相手かけの合戦、是非に及ばぬ仕様なりと、御褒美ゆえ、和田加介も、辻弥兵衛も、大事なくして、江尻の城代に、山縣三郎兵衛、仰せ付けられ、各(おのおの)組衆、駿河、信濃、甲州にも、能き衆、山縣同心に成られ候。
※ 家康子息 ➜ 家康の長男、信康のこと。永禄一〇年、信長の娘の徳姫と結婚。
※ 信長惣領城介(のぶながそうりょうじょうのすけ)➜ 織田信忠。信玄六女松姫と婚約が成立したという。
※ 如在なし(じょさいなし)➜ 気がきいていて、抜かりがない。
※ 悦喜(えつき)➜ 非常に喜ぶこと。
※ 是非に及ばず(ぜひにおよばず)➜ 当否や善悪をあれこれ論じるまでもなく、そうするしかない。どうしようもない。やむを得ない。
※ 仕様(しよう)➜ 物事を行なう方法。行動の手段。
※ 同心(どうしん)➜ 近世初期、武家で侍大将などの下に服属した兵卒。


結句、三河、この度降参の山家三方衆まで、山縣寄騎(よりき)に仰せ付けらるは、嶋田河原にて、家康と山縣と喧𠵅(けんか)に仕り、家康に塩付けたる故、山縣三郎兵衛を、以来家康方への御先させなさるべしとて、かくの如く、さありて、霜月中旬に、御馬入れられ候。家康の人質松平源三郎、甲州下山より、雪を踏み分け、山通り、三河へかけ落ちるにより、明くる未(ひつじ)の年より、家康と信玄公、遠州、三州、二ヶ国を争い、弓矢はじまるなり。よって件(くだん)の如し。
※ 結句(けっく)➜ かえって。むしろ。反対に。
※ 寄騎(よりき)➜ 戦国時代に、侍大将・足軽大将に付属する騎士。同心。
※ 松平源三郎 ➜ 松平康俊。徳川家康の異父弟。家康の命により今川氏真の人質として駿河国に赴く。武田信玄の駿河侵攻を受けて甲斐国に送られた。
※ 弓矢(ゆみや)➜ 戦争。いくさ。

(「氏政、信玄、三島にて対陣の事」の項終り)
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