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宗祇終焉記3 文亀二年正月 越後

(黒田代官屋敷の紅梅)

今日は語呂合わせの「富士山の日」である。午後、県中央図書館で、その記念イベントの歴史講演会があり、出席した。「参拝曼荼羅にみる中世の富士山信仰」という演題で、元興寺文化財研究所の大高康正氏の講演であった。元々地味な研究課題が、世界遺産に指定されて、急に脚光を浴びて、話を頼まれるようになったのだろう。この話題で講演会を盛り上げるのは難しいようであった。

「宗祇終焉記」の解読に戻ろう。昨日、「宗祇終焉記」を読み終えた。

「宗祇終焉記」は、ネットで探せば解読されたものを、いくつか見ることが出来る。ならば、このブログの解読は、屋上屋を重ねる、無駄な労力と思われるかもしれないが、古文書解読の訓練とは別に、誤読の吟味という価値を見付けている。ネット上の解読にはとんでもない間違いが放置されていることがある。それを見つけるのも楽しみの一つである。

さて、宗祇終焉記の解読に戻ろう。

元日には、宗祇夢想の発句にて連歌あり、

   年や今朝 明けのいがきの 一夜松
※ いがき(斎垣)- 神社など、神聖な場所に巡らした垣。瑞垣。玉垣。

この一座の次に、

   この春を 八十にぞ添えて 十とせてふ 道のためしや 又も初めん
※ てふ(ちょう) - 「という」の意。

と賀し侍りしかえし、

   いにしえの ためしも遠き 八十(やそじ)だに 過ぐるは辛き 老の恨みを

明けて80歳になる宗祇を賀して、宗長がまだこれから10年も頑張ってもらわねばならないと言うに、80歳にもなると、身体が言う事をきかなくて、辛いことばかりだと答える。そんな師弟の会話が歌の形ですらすらと出て来る。

同じき九日、旅宿にして、一折り、つこうまつり(仕り)し発句に、

   青柳も としにまさきの かつらかな    宗祇
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